過去記事の広重の雨の絵について
>二種類の無数の線で描かれた雨は、
絵の中の要素をまったく壊してないのが凄い。
画面の半分以上を占める細い線は、
土砂降りの量感と動感を見事に表現している。
バーソさんの、雨描写に対する解析と文章力は、
見事なもので、よ~く記憶に残っています。
私ならせいぜい……。
“ザーザーと、当分は止みそうもない雨脚”…?(笑)
よくもまぁ、これだけの比較絵を探したものですね。
雨の世界観は画家によって様々ですが、
確かにどれも創意工夫をこらしていると思います。
ゴッホの雨は「雨の……」のタイトルがなければ
正に透明なカーテン。
モネは、雨の世界観をよく捉えていますが、
『雨の線が一本一本見えるはずがない』という
バーソさんの解説が的を得ているようで面白い。
強いて好みを言えばポール・セリュジエの
「にわか雨」は説得力がありますよね。
>出来ない出来ないと言って手をこまねいているのではなく、
出来る他のことをいろいろ考えて、それをやってみるのが……
批評は簡単ですが……。
さまざまな分野での創意工夫は日本人の真骨頂。
コロナ問題で検査機器をフランスに輸出して
感謝され、自国では使えなかったなんて
皮肉なこともありましたが。(^_^ ;)
西洋画は雨の描写で創意工夫をした。
雨を描いた名画は日本画にはありますが、西洋画にはないようです。
そのわけは、「日本画」は細い輪郭線で形を描いてから、その内外に色を着けていきますが、「西洋画」は基本的に輪郭線を描かず、色彩の違いや陰影によって形を描いていくのと、油彩で小さな透明の雨粒を描くのは技術的にも難しいせいがあるかもしれません。
それに西洋人は、季節の雨に情緒や風情を見出す日本人とは感性が違っていて、そもそも雨の絵を描く発想がなかったのではないでしょうか。
拙ブログでは以前、広重の『名所江戸百景・大はし あたけの夕立』の絵を模写したゴッホの絵は、広重にはるかに及んでないという記事を書きましたが、今回は雨を描いた西洋画を見て、その工夫を探ってみました。
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1.フィンセント・ファン・ゴッホ「雨のオーヴェルの風景」

ゴッホは晴天の風景を描いた後に、青い縦線を上端から下端に乱雑に入れたため、手前に極薄のカーテンがあり、風にそよいで、その一部が重なったのが青い縦ひだになっているように見える。上空に青い線を足してはいるが、黄色の麦畑や緑の森には雨は降ってない。さすがのゴッホも雨の描写では無念を感じたのではないか。
2.アンリ・ルソー「雨の朝」

背景の空だけに、緑と黒色の太い緩やかな曲線を交互に配列しているので、雨の絵には見えず、曇りの日に見える。右に黒傘の女性がいるので、かろうじて雨の絵と分かる。ただしこの絵は写実を狙っておらず、画法はシュールで、独自性がある。
3.クロード・モネ「雨天、エトルタ」

輪郭線がはっきりしないで全体にふわっとした淡い色調はモネのものだが、雨の角度は45度くらいなので風は強い。彼は、雨が強く降っているのだから視野がボケているのは当たり前だ、雨の線が一本一本見えるはずがない、と言っているようだ。
4.ベアトリーチェ・アレマーニャ「パリに来たライオン」の絵本より

雨は水であり、透明か白で描くのは正しい。雨の線を天から地面まで同じ太さで秩序正しく垂直に整列させ、縦線をメインにしたモザイク画のように構成している。
5.ポール・セリュジエ「にわか雨」

雨足を短い白線で断続的に描く点に独自性があり、瞬間を写真機で撮ったようだ。笠や背景に濃い色を使っているので、雨の白線が適度に見えてリアリティがある。
6.ギュスターヴ・カイユボット「パリの街角、雨」

雨は描かず、濡れた地面と傘で雨を描写している。空と舗道が明るく描き、たったいま雨が上がったのだが、人はまだ傘を差し続けていると言い訳しているようだ。
7.フレデリック・チャイルド・ハッサム「雨、人々」

この絵も濡れた地面と傘で雨の絵としている。全体がオレンジなので夕景かもしれないが、舗道は水面と化し、ものみな雨で濡れそぼっている感じがよく出ている。
8.ピエール=オーギュスト・ルノアール「雨傘」

にわか雨の直後なのか、それとも日傘の代わりに差しているのか。いずれにしても雨は主役じゃない、傘は脇役だとして、ルノワールは人物描写に力を入れている。
9.福田平八郎「雨」

参考に日本人の絵。雨を描かずに、傘も描かずに、ただ、濡れた瓦だけをシンプルに描いた。絵は鋭い視点とユニークさと大胆な構図が重要だと分かる一枚である。
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こうして西洋画の雨の描き方を見ていると、自動車のエコ性能では日本車のハイブリッドに敵わないと見た欧州車メーカーが、ガソリンエンジンよりもディーゼルエンジンのほうに傾注し、その排ガス処理で難儀した話を思い出しますが、西洋の雨の絵も客観的に見れば、彼らなりに工夫をしていることが分かります。
もし何かが出来なければ、出来ない出来ないと言って手をこまねいているのではなく、出来る他のことをいろいろ考えて、それをやってみるのがいいのでしょう。
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COMMENT FORM
バーソ様
おはよう御座います。
確かに苦労して雨を描いているようですね。
5、6、7、あたりは良く表現出来ている
のではないかと思います。
一流画家の絵を私ごときが評価するのもおかしいことですが。
西洋の画家に日本の絵の具や版画をやらせてみたらどんな表現
をするのか興味があります。
愛新覚羅
風子さん コメントありがとうございます^^)
おや、以前の文章まで覚えていただいていましたか。文章の達人に具体的に褒められるとうれしいですね。
じつはこれらの画像は、そのときに検索して集めたものですが、ちょっと料理の仕方が思いつかなかったので、ペンディングにしてあったものです。最近はちょっと神の話などの硬い話が続いたので、ちょっと気分を変えて絵画の話にしようかと思い、そのフォルダを見直しました。
西洋画には雨の絵が少ないというのは、他のブログでも扱っているのが幾つかありましたが、ただ画像を何枚か載せているだけで、詳しい説明はされていません。
そこで結論を《難しくても、それなりの工夫をすることはいいことだ》と落とし込むことにして、正攻法で絵画の雨の部分についての説明をすることにしたわけです。
ゴッホやモネについての風子さんの感想は、私が印象的に感じたところです。
風子さんの好みは 5.ポール・セリュジエ「にわか雨」ですか。なるほど、この絵がこの中では写真撮影のようで現代的な絵のように感じます。色遣いもラテン系で、はっきりしています。風子さんらしいと思いました。
> 批評は簡単ですが……。。
そうなんです。批評は簡単で、私の好きなゴッホさんには申し訳ない気持ちです。
しかし絵でもなんでもそうですが、批評家というのはわりあい楽な商売ですね。自分では出来ないくせに、他者の仕事や業績について好き勝手なことを言うのですから。
そして職業的な批評家はまだ的を射ていることもありますが、自称批評家は個人的な感覚や好みで、褒めるのならまだしも、歴史上最大の汚点だとか、死んだほうがいいとか言って自分の主観だけで辛辣にけなすのですから、まあ、いい気なものだなあと思います。
aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
好きな絵は5,6,7ですか。いずれも人が街を歩いている具象的な絵ですね。雨が降っていても、人は穏やかに歩いていて、情緒と風情を感じます。
画家は三人とも19世紀の半ばに生まれています。日本で言えば江戸末期から明治になる頃ですが、ヨーロッパの街並みがとてもきれいなのが目に付きます。
人々の心は現代ほど金儲け主義にまみれてはいない、古き良き時代だったのでしょうか。着ているものもきちんとしています。
がしかし画家は、きれいな風景で、きちんとした人を選んで描いたのでしょう。ルノアールは上流階級の婦人を描いています。
私の好みを言えば、独自性があるものが好きなので、2.アンリ・ルソー「雨の朝」が一番ですね。二番は 3.クロード・モネ「雨天、エトルタ」で、部屋に飾れば他の家具の邪魔にならず、穏やかな気分になりそうです。
ただ、最後の9.福田平八郎「雨」は面白いのですが、部屋の中に飾りたいとは思わないですね。と、描けもしないし買えもしないくせに勝手なことを言っていますが。(笑)
こんなためになる記事をタダで読んでいいのかと思いました。
(ちょっとだけ、ちょっとだけですが、お世辞が入ってしまいました(笑))
言われてみると確かに雨の情景描写はたくさんあっても雨そのものを
描いたものはほとんどないですね。
西洋絵画では虫や鳥がモチーフになることは少なかったですが、
雨もその範疇に入っていたのでしょうか。
虫の音は外国人にはほとんど聞き分けられないとか。
文化の違いで日本人は虫の音を言語脳(左脳)処理しますが
西洋人は音楽脳(右脳)で受けるらしい。
だからこそ浮世絵のカエル、鳥、昆虫、雨に初めて接した西洋画家
(モネ、ガレ)たちは新鮮な驚きを感じたのです。
広重は雨そのものも描いていて立ち上ってくる情感を感じさせます。
WIKIにあった雨の写真を見ると広重の目の確かさに驚かされます。
https://uploいad.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dc/Heavy_Rain_001.jpg/800px-Heavy_Rain_001.jpg
エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
おー、この言い方の誉め言葉は私には初めてですね。ただ、できれば、「ちょっとだけ」を繰り返して強調せず、「お世辞」という言葉も言わず、さらに欲を言えば、このような言葉はもう少し頻度が増えると有り難い限りです。(笑)
あー、いやいや、冗談はさておき、いつもいつも励ましていただいて、うれしいです。
> 西洋絵画では虫や鳥がモチーフになることは少なかった
あ、なるほど、そうでした。去年、ミュシャの美術展に行ったら、昆虫の絵柄のものも沢山あったので、アール・ヌーヴォーに関する何かの説明を読んだときにそのようなことが描かれていたことを思い出しました。
私は昆虫が苦手なので、虫をモチーフにした装飾品や美術品はあまり良いとは思わないのですが、印象派の多くは日本美術の影響を受け、モチーフの幅を広げたようですね。
ゴッホは「自分の仕事はみな多少日本画の影響を受けている」と弟に手紙で書き、モネは特に広重が好きだったそうですが、彼らは伝統的な絵に関する認識や自分の画風とはかなり違うゆえに浮世絵や屏風絵に憧れを感じたのでしょう。
和洋の感覚の違いは、右と左とどちらの脳で情報を処理するかで違うのですか。人の脳も自分の観念や思考の支配下・影響下にあるはずですから、それも長年の文化や伝統の違いによって、同じものを見ても感じ方や受け取り方が違ってきた、つまり右脳を使うか、左脳を使うかの違いを生んできたのでしょう。
私は明治大正昭和の中では、大正時代の絵画や建築物のデザインが一番好きですね。西洋と日本の感性がうまく融合して、独特の洒落た味わいを作っているように感じます。
雨の描写は浮世絵師の中では広重が卓越しています。広重の雨の絵を見ると、雨の線が地面に当たるところに注目すると、雨の縦線が遠近の異なった地点に落ちています。「大磯・虎ヶ雨」の絵が一番わかりやすいと思います。
http://www.tokaidou.jp/ukiyoe_images/9l.jpg
しかしこの1番目のゴッホ「雨のオーヴェルの風景」では、画面の上端から下端まで全面に線が引かれているので、雨のようには見えないようです。
新しい視点から雨と絵画を考えさせられる記事、読み応え・見応えたっぷりでした。
西洋には雨の絵画が少ない、
言われてみればそうかも!ってほど、見たことがありませんでした。日本よりもずっと降雨量が少ないから、馴染みもないし、あれこれ創造力を触発されるモノでもないのかもしれませんが。
絵画の技術・方法・絵具の種類が影響しているというのは初めて知りました。
広重のうまさは圧倒的ですが、西洋の画家たちの作品もそれぞれの趣があって、これはこれで素敵だなあと思います。
個人的に好きなのは、①ゴッホ・②ルソー・④アレマーニャ。とくにアレマーニャの絵は絵本に見事にぴったりの雰囲気が出ています。
>もし何かが出来なければ、出来ない出来ないと言って手をこまねいているのではなく、出来る他のことをいろいろ考えて、それをやってみるのがいいのでしょう。
どんなに有名な人でも、出来ないことをやりたいならば工夫を凝らしたんですよね。
それなら凡人の自分なら尚更工夫していけよー!って自分に喝を入れてもらえたようです。
よし、がんばろ!
バーソさん、こんにちは
日本人は壊れた器にも金継ぎなどを施し
そこに新しい美を見出したりと、どのようなものにも
美や面白みを見つけるのが得意だと感じますが、
そもそも西洋人は雨の景色に
あまり美を感じないのではないかと感じます。
西洋の美術家たちは、
日本的な侘び寂び渋みユーゲニズムなどにも関心があるようですが、
一般的に西洋人は優劣や善悪といった二元思考的で
かつデジタル思考的だと感じますし
べき論が比較的強いと感じます。
晴れの景色は雨の景色より
優であり価値があるという感じです。
彼らはある意味、アスペルガー的人種です。
ただ彼らは言語化が得意なので、
日本人が無意識的にやってることを言語化するのは
本家の日本人より上手だったりします。
技術力が高くないと、プリウスのような
ストロング・ハイブリッド車は作れませんが、
それほど技術力が高くなくても、
発電機をモーターとしても利用する
マイルド・ハイブリッド車は作れるようですね。
こちらはコストも低いですしトヨタ以外のメーカーにも
有望な技術だと思います。
完全な電気自動車は電池の性能が飛躍的に進歩しないと
今のところ、なかなか普及は難しいですし、
加速性能以外は、まだまだ内燃機関のほうに分があります。
そういえば、バーソさんはデザインと加速性能重視派でしたね。
私はデザインと快適性重視派です(笑)
馬場亜紀さん コメントありがとうございます^^)
私が面白いと思うのは、西洋画は、中世のダ・ヴィンチやボッティチェルリのように精密写実画が本来は得意なはずなのに、印象派が出てきてからは、筆のタッチがそのまま出ているような、あるいは絵の具をコテで盛っているような荒い描き方で、輪郭線など関係ないとしているような絵が多いことです。ルノアールやモネがそうですね。
石膏像のデッサン教室では、輪郭線などというものは物体にはない、線で描くな、面を捉えよと言われますが、藤田嗣治はその辺を突いて、細い面相筆で輪郭をうっすらと描き、身体を独特の乳白色で微妙な色彩に塗って成功しています。
しかし写実の考え方は西洋人のほうがリアリティに近いようです。浮世絵は輪郭線を描いたほうが版画で刷りやすかったこともあるのではないでしょうか。
亜紀さんが個人的に好きなのは、「①ゴッホ・②ルソー・④アレマーニャ。とくにアレマーニャの絵は絵本に見事にぴったりの雰囲気が出ています」か。これは絵本なので他の絵とは異質なのですが、描き方が面白いのであえて含めました。この絵はちょっとメルヘンの雰囲気があり、亜紀さん好みのような気がします。
私はこの記事を書く前は、西洋画は雨の描写が日本画に劣ると思っていましたが、実際に説明文を書いているうちに、いや、意外に工夫があるなと思えるようになりました。しかしそれも、彼らが浮世絵の雨線を見たので、彼らなりに考えたのであって、やはりいろいろ自分とは違う考え方に触れるのはいいことなんでしょう。まったく自分とは正反対の考えであっても毛嫌いしたりしないで、それはそれとして受け入れる心を持てたら主義思想の違いゆえの争いは減るでしょうが、自分と反対の意見を言われると怒る人が多いですね。
Vacancyさん コメントありがとうございます^^)
そうですね。西洋人が日本の侘び寂びや幽玄に関心があるのは、自分たちにはない感性を見て、憧れのような気持ちを感じるからでしょう。有色人種の芸術に拒否反応を示したり馬鹿にしたりしないところは、同じ芸術家だからでしょうか。しかし洋の東西という地域や環境が違うだけで、人間の感覚や感情も異なってくるのは面白いことですね。
彼らが二元思考的で、べき論が強いというのは、キリスト教的な一神論と聖書の倫理観の影響があるせいのように思います。西洋人の神は自然を造った創造者ですが、日本人の宗教観では「自然」が神なのですから、森羅万象という言葉がある通り、これはこうだとははっきりと言い切れない、非常に幅広い神概念や宗教感覚がありそうで、それが言語化しにくい原因の一つにもなっていそうです。
トヨタのハイブリッド・プリウスは今は4代目です。初代は1997年発売ですから、もう23年経っています。特許は無料公開されていますが、いまや西欧のメーカーは追いつけません。ルマン24時間レースも、あのポルシェがトヨタには敵わないとみて撤退しました。電気自動車の時代が来るまではトヨタは天下無敵でしょう。
ただ、VWが中国にかなり食い込んでいるので、今は強いように見えますが、米中の経済戦争や中国の香港弾圧により、世界の国々が中国を一歩引いた目で見るようになりました。中国の伸びも衰えそうです。ホンダは戦略が下手で、それがトヨタに遅れを取っている原因のように感じます。
ニッサンのe-POWERのような車も、高速道路ではエンジン直結もいいですが、ギアを2段にすることもできそうで、簡単にモーター駆動化が出来そうです。ただ、昨今は新型コロナのように予想もしないようなことが起きますから、これから自動車もどうなるやら。
私はスピード狂じゃないのですが、出足が悪く遅すぎる車が苦手です。たとえば信号が青になってもすぐに発進しない車(特に右折は5秒ぐらいしか時間が無い交差点があるので)、またウインカーを出すのが遅いような車も、ちょっといらつくほうですね。(笑)
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雨に限らず、西洋と東洋で自然現象の描写が大きく異なるのは宗教観の違いからきているのではないでしょうか?
東洋の山水画などをみますと、人が自然の中に(花鳥風月の一部として)溶け込んだ情景が見事に描かれています。
ところが西洋画にはそれがない…西洋の絵画描写では人間が中心か、人間の目線で見た自然風景が描写されています。
西洋では外にいる神(造物主)が天と地を創造し、人間を作ってそれらの支配者とした…と言う宗教観があります。
しかし、東洋には造物主たる外部神はなく、自然そのものが神であり、人間もまた自然の一部だと言う宗教観です。
歴史伝承でも、西洋ではノアの洪水(ユーフラテスの氾濫)や、ソドムとゴモラの滅亡(火山噴火と地震)の原因となった自然災害を神 の怒りによるものだ…と大げさに記述しています。
だが、東洋では黄河や揚子江の氾濫によって幾つもの街が消えているはずなのに詳しい録記すらない。どころか最近になって陝西省にあった古王国や四川省の古蜀国遺跡が発見され、壁面などの亀裂から大きな地震によって滅んだと推測されていますがそんな記録もない。
西洋も東洋も、王侯貴族が行った業績や戦争などの英雄談を華々しく歴史に記しますが、事…自然現象となるとまるで扱い方が違います。
東洋では例え災害が起きてもそれは自然の営みの一つ…だが西洋では自然現象や災害は抗う事のできない神の力となるのでしょうね。
sado joさん コメントありがとうございます^^)
joさんらしい精神心理的な分析です。そうですね。私も同感です。人間の文明文化や主義思想は、その土地の宗教観がかなり大きな影響を与えているように思います。西欧はユダヤ教とキリスト教が力を持ったせいで一神教(じつは聖書の教えが政治権力者にとって都合のいい教え)だったせいもありそうです。
一方、日本は多神教だと言われますが、それは厳密には違います。日本には八百万の神々がいると言われますが、日本人はそのような、多くは外国由来の神々を信仰していたというよりは、元々は自分を生み、生かしているものを尊崇の対象としていました。すなわち祖先と自然とを生命の発祥者すなわち神として崇めてきたのです。
日本人の多くが天皇に対する敬意が深いのも、祖先の血筋が神武天皇に遡り、天照大神、そして日本の国土を造ったイザナギイザナミの神々に遡るからでしょう。イギリスやオランダの王は、昔の領土の支配者には遡りますが、彼らの神話の神々にまでは遡らないので、天皇の場合はその血統を現代に至るまで長続きさせた(不思議な、あるいは神道の)フォースの強さがあると考える人もいます。
joさんの言い方を借りれば、そうしたことは「東洋には造物主たる外部神はなく、自然そのものが神であり、人間もまた自然の一部だと言う宗教観」でしょう。だから自然の大災害が起きても、それに怒るよりも受容して耐えるので、311のときに外国から称賛されたように人間の感情が悪化することによる暴動や奪略は起きなかったように思います。
ノアの時代の大洪水や死海近辺での出来事などは自然界の大災害ですが、それは人間が悪いことをしたゆえの神の怒りだろうと善悪の判断をするのが一神教の思考です。何事も全能の神が世界を支配していて、人間は無力だというのが聖書の教えですから、人間の意欲と努力による進歩や進化を否定し、いわば阻んでいるようにも思えます。
世界には唯一の神がいて人間は全面的に従うべきだという概念(宗教)は、人民は中国共産党や北朝鮮の最高支配者に従えという概念(思想)と似ていますね。
西洋の8枚の絵の中では、モネの絵が一番、雨の描写をうまく表現しているように感じました。というより、単純に個人的に「好み」なだけかもしれません。
それにしても、雨を避けられなさそうな場所で、風が強く、波打ち際の波も強めに打ち寄せている印象で、けっこうな量の雨が降っているように感じられるのですが、画材やキャンバスなどびしょびしょにならなかったのかな?などといらぬ心配をしてしまいました。
9枚目の日本人の絵は、発想のきらめきといいますか、どんな物事でも真正面からぶつかっていくだけが能ではないことを、諭してくれているかのような絵でもありますね。
それもそうです。この世が多面的な構造で成り立っていることを思えば、何か、どうしても出来ないことに直面したとき、それは別な角度からその出来事を見て、取り組んでみよと、いざなわれているサインなのかもしれませんね。
友資さん コメントありがとうございます^^)
この中ではモネが一番好きですか。私はモネの絵そのものはぼんやりした描き方があまり好きではなく、有名な睡蓮シリーズもそれほどいいとは思わないのですが、この中で部屋に飾るとしたらモネの絵がいいですね。壁に掛けてもルソーの絵よりも具象的要素が少ないので目の邪魔にならず、インテリアとうまく調和しそうです。音楽も激しい曲は気持ちを奮い立たせたいときはいいですが、普段は穏やかな曲のほうが心が鎮まります。
心が静かになるとは癒されるということですが、人間関係を考えてみると、会話が少ない寡黙の人と一緒にいると退屈したり会話を続けるために気を使って疲れますが、おしゃべりな面白い人と一緒にいると楽しいので、人間関係では癒しの意味はちょっと違うのでしょうかね。しかし夫婦のようにツーカーの仲だと黙っていても心は静かでしょうから、要は気持ちが通じているかどうかがポイントなのでしょう。
友資さんは絵を描くのが好きなんじゃないですか。言われてみると確かにモネの絵は写生環境が良くないようです。しかし広重などは現地に行かないで、人の話を聞いただけの想像で描いたと読んだことがあります。モネは実際に雨の日の風景を見て、それを頭の中に記憶し、あとは自分の画法とイマジネーションで描いたのではないかと思います。写実画ではない絵なので、記憶力より想像力が多いほうがうまく描けそうです。
ということで私たち人間も現実を直視して怒ったり嘆いているより、想像力を働かせて良いイメージを構築しているほうが気分は良くなりそうで、そういう人が増えれば集合意識の強さにより社会全体も精神状態が良くなりそうです。
なるほど、「この世が多面的な構造で成り立っている」と来ましたか。さすが友資さんならではの視点です。仕事でも病気でも何か問題のように思えることが起きても、それは障害物ではなく、かえって自分を成長させるためのツールかもしれません。というか、そう思ったほうが益になるのは間違いありません。
この絵は瓦だけのアップで描いているのがいいですね。邪魔な要素を排せば物事の本質がよりよく見えてくるということがありそうです。
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