「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 利他的な義人と利己的な義人は何が違うか。 


 面白くて放映されるたびに何度も観た映画がある。
 1994年のアメリカ映画『パルプ・フィクション/Pulp Fiction』。クエンティン・タランティーノ監督作品がその一つだ。
 そのなかでサミュエル・L・ジャクソン扮する殺し屋ジュールスが仕事の前に暗唱するのが旧約聖書エゼキエル書25章17節で、こう書かれている。※1

私(神)は、彼らを激しく処罰し、大いに復讐する。
私が彼らに復讐するとき、彼らは私がエホバであることを知らなければならなく
なる


 前半は《神は悪人を処罰し、義人に代わって復讐する》ということで、後半は《悪人はそのとき、エホバという名を持つ神に処罰されたことを知る》、すなわち、(世の神々は無為無能だが)イスラエルの神エホバは違う、生きている神だ、悪人を必ず処罰すると宣告されている。
 この聖句を引用し、殺し屋ジュールは自分を神の仕置き人だと正当化していた。




 さて、ここで生じる当然の疑問は、悪い奴ほどよく眠る、金さえあればレバノンに行ける、もし神がいるのなら、正義と公正であるはずの神が悪人を放置しているのはなぜか?ということになる。

 その精神世界的な答えは過去記事とコメント欄に何度か書いたが、今回は旧約聖書の『ヨブ記』から、義しき人が不義の試練に敗北した話を見てみたい。


        ____________________


 ヨブは、いまから約3500年前、中東の地ウツに住んでいた、エホバの崇拝者。血筋はイスラエル人の親戚にあたり、東洋人のうちで最大の富豪であった。 
 ヨブは「高潔で、正しく、神を畏れ、悪から遠ざかっていた」と評され、900年ぐらい後に書かれたエゼキエル書の中でも、世界三大義人の一人としてノアとともに名が挙げられているほどの義人だった。※2

 そのヨブの忠実に関して、とにかく反エホバしか頭にない悪霊天使団の長であるサタンが、エホバ神に疑問を提出した。

 「ヨブは自分に利益があるから神に仕えているに過ぎず、自分が損をしたら面と向かって神をのろうはずだ

 つまりヨブの信仰心なんてご利益宗教に過ぎず、損をしたら神をのろうはずだ。そんな低俗な人間から崇拝されて喜んでいる神もたいしたことない、とサタンは遠回しに神を侮蔑した。※3

 神は、「では、ヨブの信仰心を試してみよ。ヨブから何でも取り去ってもよい。ただし命だけは取り去ってはならない」とサタンに命じた。

 神の許可を得たサタンは、試練の一弾目として、盗賊にヨブの全家畜を奪わせ、召使たちをみな殺しにさせ、嵐で息子と娘10人全員が死ぬようにした。
 ヨブは、とんでもない人災と天災に遭ったと思っただろうが、神への忠節心を失わず、神をのろったりしなかった。こうシンプルに記述されている。

 ヨブは罪を犯さず、神を非難しなかった。


 wiri3.jpg
  ウィリアム・ブレイク『サタンによるヨブの息子たちと娘達の破滅』(エッチング1825年)


        ____________________


 しかしサタンはくじけないで、こんな反論を神に言う。

ヨブは財産と子供を失っただけだから忠実を保ったが、自分自身に災いが起きれば、神をのろうはずだ

 サタンは《ヨブは他人の災いなら立派なことが言えてが、自分のことになれば義を行なえず、神をのろうはずだ》と主張し、今度はヨブ自身を攻撃対象にして、悪性の腫れ物を頭のてっぺんから足の裏にまで生じさせた。
 痛いのもつらいが、かゆいのは我慢しにくい。ヨブは土器の破片で全身をかきむしって苦しみ悶えた。だが、それでもなお、ヨブが神に忠実を保っているので、妻はひどい言葉を浴びせる。

こうなってもまだ神に忠誠を尽くそうとするの?  神をのろって死になさい

 一番の味方であるはずの妻からされる非難はきつい。「神をのろって」とは、まるでサタンが妻に言わせているようだが、ヨブの返答は優しかった。

あなたの語ることは、愚かな女の語るのと同じだ。
私たちは神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか


 まず、ヨブは「あなたは愚かだ」と言ったのではない。普段は愚かではないのに、このたびは愚かな(他の)女が話すのと同じだ、と妻の思いを気遣っている。
 そしてヨブは《人生とは良いことも悪いこともあるものだ。神はすべてを支配する神なのだから、人間はすべてを受け入れるべきだ》と言った。つまりヨブは、人生に悪がある理由は分からないものの、神がなさることはすべてを受け入れたいと言った。
 
 と、達観したようなことを妻には語ったが、じつはヨブはまったく罪を犯さなかったわけではない。その重要なところを『ヨブ記』の筆者はちゃんと押さえて、こう記述している。
 このようになっても、彼は言葉で・・・罪を犯すことをしなかった。

 一回目の試練で家族や財産を損失したときは、「ヨブは罪を犯さなかった」と記述されていたが、二回目にヨブ自身が災いに遭った時は、「言葉で罪を犯さなかった」とあるように、「言葉で」という語がわざわざ付け加えられている。
 ということは、ヨブは「言葉」では罪を犯さなかったが、《心の中》では罪を犯したのだ。さすがの義人ヨブも、自分が損失を被ったときは、心の中で、少しか、少し以上「神をのろった」のだ。サタンはうまくヨブの内面をえぐり出した。

 こうしてみると、悪魔サタンという、人間の心のひだの裏表を探り、その深層をあらわにする《狡賢い存在》を考え出した人間もなかなか賢い。


 wiri32.jpg 
  ウィリアム・ブレイク『腫れ物でヨブを撃つサタン』(エッチング1825年)


        ____________________


 さて、宗教心に関係なく、この世には「自分は義人だ」と思っている自負心の強い人がいる。義人であるのは良いことで、褒めるべきことだ。がしかし、義に過ぎると、義に外れていると思える他者を裁きたくなることがある。
 むろん問題点を正当に批判するのは別に悪くはない。しかしもし批判することで「自分は一般国民とは意識が違う」という優越感に浸って楽しんでいて、そのいやらしい上から目線の自己満足感に気づいてないなら、心の奥にはかなり独善と高慢が巣くっているかもしれない。
 そうなると、自分は義人であると思っていても、内実は自分の義を売り物にする偽善者になっている。『ヨブ記』は、全42章のうち、じつに39章も費やして、人間の自己義認は正しいかどうかの葛藤物語を延々と記述している。


 人間の信念は意外にもろい。
 人間に完ぺきなひとはいない。
 私たちがもっと謙虚になり、天を恨まず、地を恨まず、人を憎まず、なるべく義と親切を行なうよう努めていけば、サタンは死んだ、神は生きている、あなたは輝いて生きている、と言われるような人になるかもしれないし、そうなりたいものだ。


 




補足―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1:実際に使われたエゼキエル書の聖句はこの引用部分だけで、ほかの言葉は千葉真一の主演映画『ボディガード牙』(1976)がアメリカで公開されたときに付け加えられた序文が使われている。

※2:ヨブは、自分と家族も気づかずして神に罪を犯し、神をのろったかもしれないと考え、日を定めて定期的に神に犠牲を捧げたほど敬虔な人物だった。(ヨブ1:5)

※3:神が悪人を許している説明の一つに、サタンから《神の主権と人間の忠節』に関する論争があったからだとする教義「宇宙主権の論争」がある。これに対する反論は「ものみの塔の『宇宙主権の論争』の教理は非聖書的だ。」をどうぞ。(この記事はJW関係者にけっこう検索されています)
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COMMENT FORM

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バーソ様
おはよう御座います。

ヨブは自分が知らないことに関しては義人ではないようですね。
「盗賊にヨブの全家畜を奪わせ、召使たちをみな殺しにさせ、嵐で息子と娘10人全員が死ぬようにした。」

これはヨブが起こした悲劇なのですから責任を感じなければなりません。
自分にふりかかる悲劇よりも子供に起こる悲劇のほうが辛いはずです。

愛新覚羅

2020/02/15(土) |URL|aishinkakura [edit]

耳の痛い『お題』

なんとも耳の痛い『お題』ですねぇ。

人助けで犠牲になった英雄伝はもとより、
人間関係のいざこざなどでも、よく自分を見つめたものです。
ですが思考は、あくまでも思考に過ぎない。
思考による理想の自分と、本性には隔たりがあって、いざというとき、考えるより先に『体が動く』か否か。
この一点に尽きるような気がするわけです。

憎しみは、連鎖をくり返すと判っていても、
身内が殺されたら加害者を恨まずにはいられない。
とくに自らが“九死に一生”の場合など、
他者のことなんて考えられない。
故に『ふつうのオバちゃん』だと自覚していて……(笑)

“神”について……。
中東やヨーロッパの戦国物語から延々と現在でも、敵対する双方が『聖戦』などと主張し合う様は滑稽です。殺し屋ジュールスの思い込み正義に酷似していて……(^_^ ;)

神は『身勝手信仰』に利用されているだけ。
高度な意識体から観る地球人の大半は、
三次元…物質、固まり、収縮した意識体なんでしょうね。

2020/02/15(土) |URL|風子 [edit]

Re: タイトルなし

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)

 あ、なるほど、言われてみると、そういう見方がありますね。そう思うほうが自然のようです。
 確かに、まともな親なら、自分よりも子供のほうを気遣います。我が子を救うためには、周囲の制止を聞かずに火事場に飛び込んでいく母親の話を聞きます。猫の母親が子供たちを救うために飛び込んで全身やけど姿になった痛々しい動画を見たこともあります。
 しかし昨今のニュースでは我が子を虐待して死なす親もいます。若い両親に多いようで、これは男女が本当に互いに愛情を持って一緒になったのじゃないのだろうと思ってしまいますが。

 ヨブの場合は、子供10人が死んだのは、突然の「嵐」によるものでしたから、天災なら人間は諦めが付きやすいのかと思いました。これが盗賊に殺されたのなら、憎くて悔しくて怒りで復讐心に燃えるのでしょうが、天災なら仕方がないと思ったのじゃないでしょうか。

 その嵐が起きたのはサタンのせいで、ヨブのあずかり知らぬことでしたから、ヨブはまさか自分の忠実な信仰のせいで災いが起きたとは思いもしなかったはずです。この人間に降りかかる災いの原因を人間が知らないというのが、この『ヨブ記』のミソのようです。完璧な神が地球と人間を造ったのであれば、どうして地上に悪があるのか、それを人間は知らないのですね。

 しかしそれにしても、エホバ神がサタンのヨブの子供たちへの迫害を許したのもおかしな話ですね。殺された子供たちはいい迷惑です。

2020/02/15(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 耳の痛い『お題』

風子さん コメントありがとうございます^^)

 線路上を走るトロッコが制御不能になり、そのまま進むと作業員5人が確実に死ぬ。5人を救うためにポイント(分岐点)を切り替えると、1人の作業員が確実に死ぬ。では線路の分岐点に立つ自分はどう行動すべきか?という「トロッコ」問題の解が出ました。それは2本の線路に分岐するポイントレールを「中立」にすればトロッコが脱線して止まるというものです。

 この話で、その切り替え器を自分がレールの上に立って持っていなければいけないという設定なら、さて自分はどうするか? 
 これは自分の命が懸かる良心と正義感と愛の問題になりますが、「6人の作業員を救うために自分の命を失ってもいい」と言う人はごくわずかでしょうし、そのわずかな人も実際にその場にいたら、いよいよの瞬間にレールから離れる人がいそうです。
 むろんそのトロッコの上に愛する子供がいた場合には違う結論が出るでしょうが、子供じゃなく他人なら、大抵の人は自分の命のほうを大事にするでしょうし、そうしたとしても、それは別に人間として悪の行為ではないないとされるはずです。

 ところが聖書は「人間は神のために生きよ、神のためには命をも投げ出せ」と教えています(この「神」は他の言葉に置き換えられます)。例えば聖書巻末の書『黙示録』では「死に至るまで忠実であれ、そうすれば命の冠を与えよう」と約束されています。ですから私は以前は、基本的にはそのぐらいの覚悟を持つ信仰こそが崇高なことであり、人間として正しいと思いこんでいました(そういう信仰が聖戦なんていう排他的な狂信的行動をとらせるのでしょう)。

 ところがニールさんの本に「神は人間に仕えられることを望んでいない」とあるのを読んだとき、あーっ、まったくその通りだと納得し、目からウロコが落ちました。

 宗教の教える神の概念や神信仰はひどく歪んでいますね。そのために多くの人が無神論が正しいと思うようになっています。
 そうなった原因の一つに「高慢さ」があると思います。サタンとは高慢になって神に反逆した優秀な天使です。人間でも「義」に関心があるような優秀な人は、とかく自分を義とし、他人は邪悪だと見下げることが好きで、そんな優越感が不当に不必要に捏造までして他者を貶めることをさせ、結果として大勢の人に害悪を及ぼしてきたと思っています。

2020/02/15(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

今日は利己的な擬人です。

おひさしでーす、まだ生きております。

朝から敬虔なお話、身が清められます。

人間の信念は意外にもろい。
人間に完ぺきなひとはいない。
私たちがもっと謙虚になり、天を恨まず、地を恨まず、人を憎まず、なるべく義と親切を行なうよう努めていけば、サタンは死んだ、神は生きている、あなたは輝いて生きている、と言われるような人になるかもしれないし、そうなりたいものだ。

ほんとそう思います、が、神さんが説いている七つの大罪「傲慢、嫉妬、憤怒、暴食、色欲、怠惰、貪欲」これについてなんですが、果たしてこれが罪なのだろうかと・・

これが罪なら、おいらは天国行のダイヤモンド・プリンセス号の乗船切符は予約できない。

坊主が口にする、色即是空、空即是色と言う言葉がありますが、ちょいと置き換えてみますれば、義即ち利己的、利己的即ち義である、人間と言う動物の善と悪は表裏一体、おいらの中にはこの善と悪がたんまり詰まっておる。

なのでおいらは善と悪をミックスしたスムージーのようなもので、ただ、おいらがこの世で善人として認識されているのは、心の中に七つの大罪をしまい続けているだけ、で、最後に・そうなりたいものだ・と結んでいるところを見ると、バーソ師匠も案外おいらと同類なのかも。

誰かのために行った善行は、誰かのためには悪行。

この世で達観できなかった者同士、プリンセス・サターン号の切符を予約しておきましょうか・・

2020/02/15(土) |URL|ばく [edit]

Re: 今日は利己的な擬人です。

ばくさん コメントありがとうございます^^)

 あはは、擬人ですか。まあ、夢を食うばくが擬人化され、人間になったのでしょうから、その言葉は適切のようです。(笑)

> 七つの大罪「傲慢、嫉妬、憤怒、暴食、色欲、怠惰、貪欲」これについてなんですが、果たしてこれが罪なのだろうかと
 そう言われて考えました。確かに、どれもみな人間なら普通もあるような特質のようでもあり、基本的な欲望のようです。誰の心の内にもある小さな罪のようですが、度が過ぎると大罪になりかねない罪だということかでしょうか。キリストはこんなことを言っています。

「情欲を持って女を見る者は、すでに心のうちに罪を犯したのである」
 この言葉を読んだ真面目な若者が、こんなに厳しいのなら自分はクリスチャンになれないと言って悲観したという話がありますが、カトリック教会の場合はモラルに厳しくて、ある意味、自己で義を行なわなければ救われないと言っているようなところがありますね(それは難しいので「七つの秘跡」を受け、寄付をすることで救われよと教えているのですが)。

「万物はすべて空である」なんて達観できれば人間は罪を犯すことがないでしょうが、それでは、折角ある色の美しさを楽しめず、つまらない味気のない人生になります。
 地球上の色とりどりな万物を適切に楽しんで、ひとさまに迷惑だけは掛けないようにし、自分の好きな道を自由に生きていく―――これが私はいいように思っているのですが、ただ、自分の人生では、これもしたかった、あれもしたかったと、いろいろ心残りがありますね。

 ばくさんは思い切り自分の道を歩んで、いまは人も羨む豪華ツアー船に乗って悠々自適の人生。ただ、体のほうには問題があり、日々その痛みと戦いながら、「心の中には七つの大罪をしまい続け」て生きてきて、「この世で善人として認識されている」のなら、これは間違いなく義人の範疇に入りそうじゃないですか。
 
 私が「そうなりたいものだ」と結んだのは、自分では自分を義人だと言うことが恥ずかしくて出来ないので、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の最後の言葉「サウイフモノニワタシハナリタイ」を思い出して同じように書いただけで、ここに私の照れが表れているのですが、ばくさんはよく気づきましたね。

 しかしお互いに、そして誰でも、しっかりプリンセス・ヘヴン号に予約できていると思っていますよ。私は達観はしていませんが、楽観しているのです。(^^)

2020/02/15(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

激突!!縦と矛

>>義に過ぎると、義に外れていると思える他者を裁きたくなることがある。

義人は言いました。「神を信じなさい。神を信じぬものは最後の審判で・・・」

2020/02/15(土) |URL|miss.key [edit]

Re: 激突!!縦と矛

miss.keyさん コメントありがとうございます。

> >>義に過ぎると、義に外れていると思える他者を裁きたくなることがある。

義人は言いました。「神を信じなさい。神を信じぬものは最後の審判で・・・」


 miss.keyさん、またまたまた同じような趣旨のコメントですね。
 普通なら、これは記事にまあ同意したコメントかと思うところですが、miss.keyさんの場合は毎回ひととは違う異見を書いてくることもあり、また飽きずに宗教と信者と私バーソに非難コメントを書いてきたかと感じます。

 今回は、ちょっときついですね。盾の字が縦となっていますが、盾と矛の、なんと激突!!ですか。最大の偽善者めががががっ、と言われているようですよ。(笑)

2020/02/15(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

「自分は一般国民とは違う神に選ばれた特別な存在で、神に代わってイスラム教徒共に復讐して正義を為す」
義人(偽者)と聞けばどこかの大統領の信条を連想しますが、信仰は一歩間違えば人をとてつもなく傲慢な人間にします。
ナポレオンやヒトラーの覇業は一代と続かなかったのに、なぜ漢の劉邦や徳川家康の覇業は子々孫々までも続いたのか?
実は劉邦と家康の人生はとてもよく似ていて、天下を取るまで嫌と言うほど負けて、勝者から屈辱的な仕打ちも受けた。
対してナポレオンやヒトラーは一度も負けた事がなく、自分自身も選ばれた特別な天才だと考え周囲もそう思っていた。
この世に特別な人間など存在せず、誰もが僅かばかりの個性があるだけで人生で運が良かったかどうかだけの違いなのです。
だから彼らは人を用いるに大変辛抱強く、自分の意に添わなくてもその意見をよく聞いて排除せず、力を出せるようにした。
そうした謙虚な姿勢が代々に伝わっていって、漢王朝や徳川幕府は数百年の長きに渡って政権を維持できたのです。
神に都合のいい事ばかり祈って、不都合な事が起きたら悪魔のせいにする…そこに人としての成長の芽はありません。
本気で神を信じるなら、神を利用するのではなく神に仕えるべきです。天下を取ったからと言って決して驕ってなりません。
最近のアメリカ中西部のキリスト教福音派(プロテスタント)の目に余る傲慢ぶりをとても心配しています。

2020/02/15(土) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)

 人は、特に男は、偉くなりたい願望を持っています。偉くなりたいというのは突き詰めると、自分が神のようになって人民の上に立ちたいというものです。ナポレオンもヒトラーも国を思って立ち上がったのかもしれないですが、自らの野心ゆえだったと思えるほど権力をふるいました。この権力志向は天界に住む天使も同じで、その野心の塊りが悪魔サタンと呼ばれる存在です。
 キリスト教では、人は神から造られた、だから造られた者は造った者の意思下にあり、自分の命は神のために使うのが人の本分であるとされています。人間の考える神とは、絶対の権力を持つ霊界の独裁者なんですね。
 ただ、人間の独裁者と違うのは愛や公正や慈しみがあるとされ、それは自然界を見ればそうだと思えるのですが、ところがヨブのように苦しい災いが突然起きると、神や仏はないのか、神を信じるのは正しいことなのかという疑問が人間には生じてきます。

 高校生のときに「カノッサの屈辱」を習いました。神聖ローマ帝国皇帝がローマ教皇にひざまずいた事件ですが、世俗の皇帝は後に力を付けて神を後ろ盾にした教皇を追い払うことに成功する事件です。また「王権神授説」も学びました。王になった者は自分に権威付けをするために王権は神から任命されたのだとする考え方です。
 ちなみに私のいた教団では、本部の指導者である統治体は、天にいるイエスから聖霊によって特別に油注がれた(任命された)「霊的イスラエル」の全成員である144,000人(黙示録7:4)のなかの「残りの者」で構成されているとして、やはり一種の教会指導権神授説を唱えています。だから統治体の委員たちは、多くの信者から一種の準神様扱いされています。
 翻って日本を見ると歴代の天皇が連綿として国の最上位にいましたが、実際の政治支配は行なわず、次々と天下を取った世俗の将軍たち、信長も秀吉も家康もみな、その権威を奪おうとか無くそうとはしないできました。足利氏、徳川氏も征夷大将軍で、最後の征夷大将軍は徳川慶喜です。
 支配はしないが一定の権威は保持している。将軍も含め、人民はみなその権威を認めている。だから勢力争いはあってもカノッサの屈辱のような派手な事件は日本ではなかった。と思いますが、ところが鳥羽伏見の戦いでは、新政府軍が「錦の御旗」を掲げたら、それまで静観していた多くの藩が朝敵となることを恐れて新政府軍に加わり、また寝返った藩もあったりしたので、数では圧倒していた旧幕府軍が負けることになりました。
 それまでの天皇はほとんど居ても居ないが如しの状態だったでしょうが、それでも日本人の心の奥にはローマ教皇以上の崇高な存在であったようで、そういうことを考えると日本人の神信仰というのは結局は天皇家崇拝に表れているのかと思ったりします。

 しかし、なんやかんや言ってもトランプは有能な大統領ですね。公約を守り、アメリカファーストを押し通し、中国を関税攻撃で撃破し、自国の経済を発展させました。日韓両国の米軍駐留経費を5倍にせよと言ったことを思うと、ビスマルクが言ったように、一番の外交力は軍隊が強力であることのようです。トランプを見ると泣いて我儘を言い放題の地頭のように思えます。
 中国はウイルス問題で当分立ち直れないでしょう。歴史には思いもしない事がよく起きますね。

2020/02/16(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

クセになる265回のFワード

今回の記事はまるで若松さんの文章のような、硬質で敬虔なものを感じました。

20代前半の頃に映画オタクの友人ができ(今では疎遠になってしまいましたが)、彼の影響で映画の魅力に引き込まれていくことになり、その最初の足掛かりになった映画がタランティーノの「レザボアドッグス」「パルプフィクション」あるいはスタンリーキューブリックの作品などでした(シャロンテート事件を題材にした新作も素晴らしかったですね)。
本を読むことができなかったぼくは、映画から人生や感性を学んでいたのかもしれません。

ジュールスの読み上げるエゼキエル書25章17節は、旧約聖書そのままではなく、タランティーノが大ファンの千葉真一主演の映画からの引用という、そういうタランティーノのサンプリングユーモアセンスが、バーソさんに通じるものがありますね。

それと、ばくさんへの返答コメントにある、
>私は達観はしていませんが、楽観しているのです。(^^)
という部分に、バーソさんの変わらぬ人間賛歌を見る思いがします。

2020/02/16(日) |URL|友資 [edit]

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このコメントは管理人のみ閲覧できます

2020/02/16(日) || [edit]

Re: クセになる265回のFワード

友資 さん コメントありがとうございます^^)

 あの映画にはFワードがそんなに沢山あったのですか。やたら汚そうな言葉で罵っているとは思いましたが、あまり気にならなかったのは字幕を読むのに気を取られていたのかもしれません。(笑)
 昔、1970年代に『ダーティ・ハリー』という、ハリー・キャラハン刑事が犯人を問答無用で射殺する映画がありました。主人公のクリント・イーストウッドは無口な性格で、ちょっとアウトローそうにも見えるので、その役はぴったりでした。
 あるとき、拳銃を持って女を盾にする犯人をハリー刑事が一発で射殺すると、記者がマイクを向けて、そんなに気軽に人を殺して胸が痛まないのかとハリーに詰問します。ハリーは、おまえの家族が殺されてもそのセリフを言えるかと言い返すと、記者は黙ってしまいます。言葉遣いやそのやり方は別として、極悪犯は即、殺すという分かりやすい必殺仕置き人映画は好きなほうですね。(笑)

 死刑は野蛮だと『神との対話』の本は言っていて、もちろん正しい理想社会ではそうあるべきだと思いますが、現在のこの不完全な社会では死刑は野蛮であっても必要なことだと思っています。そうでないと新幹線で見ず知らずの人を殺して、無期懲役を言い渡されると、一生楽をして生活できると万歳をして喜ぶような馬鹿な人間が出てきます。自分や自分の子供や妻が無惨に殺されたら、近所の人がみな何十人も殺されても、それでもなお死刑反対だと言う人はいるのだろうか、いるとしたら感覚がおかしくないか、と思いますね。

「達観はしてないが、楽観はしている」というのは本当です。
 そう思う一つの理由は、人間は死んだら無になるわけではなく本質であるspiritは生き続けるはずだ、そう思うのは宗教的というより、合理的な推論であり、『神との対話』や私の信頼している精神世界の本もみなそう教えているのと、亡くなった父親がそう言っていたからもあります。父親は元真言宗の僧正で、奇跡を行なう力があり、死者の魂を見ることもできました。

 もう一つは、50年前、100年前の社会と今とを比べれば、「人種差別や男女差別や身分差別が良くない」と言われるようになった点だけ見ても確実に良くなってきています。良くなってない点があっても、さらに良くしていくのが人間の本能的な意思で、これからさらに良くなっていくだろうと思っています。いま悪いことが起きているのは、症状が表れて対処すべき箇所が分かってきたのだと考えることもできると思いますね。

 そういう意味では何も改革らしいことをしないで自分の安住の立場を維持することだけに関心があるような無為無策の政治屋ではなく、本当に心から日本を変革しようという気構えを持っている政治家を応援したいと思います。今の日本は景気は良くないものの平和で安定しているので、国民は安穏とし過ぎているように見えますが、明治維新の時のような風雲児が何人か現れて、この世界を改革してほしいものです。友資さんも頑張ってくださいよ。(^^)/

2020/02/16(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

[太字]鍵コメVAさん コメントありがとうございます^^)

 この世には正義感が弱い人もいるので、正義感があるのは良いことのように思えますが、ただ、おかしな正義感というのもありますね。それは倫理的にもっともらしい正論をアピールすることで人々から富と名誉を得ようとする自己愛思考であり、いわば自分が《良い子》になって得意になるための快感思考なんでしょう。

 良い子たちは、戦争はいけない、死刑はいけない、捕鯨はいけない、ヘイトはいけない、表現の不自由はいけない、人類にもっと平和と自由を!と声高に叫びます。それぞれは一応もっともな正論ですが、しかし裏で手を回して自分と主張が違う相手に嫌がらせをしたり、活動を妨害したり、一番許せないのは正義を標榜しているのに虚偽の情報を作って宣伝したり、嘘の情報を捏造してまでして拡散し、自分の好きじゃない相手また国を貶めようとすることです。時には暴力に訴えるなら、言っていることはハト派のようでも、やっていることはタカ派です。私は暴力団よりタチが悪いと思っています。なぜなら暴力団は堂々と悪そうな顔をしていますが、良い子を装っている人たちは正義感があるような顔をしているからです。

 私は、この前にある友資さん宛てのコメントでも書いたように、死刑反対論者ではないのです。何が何でも軍隊を嫌悪する戦争反対論者ではなく、究極的には聖書に「剣をすきの刃に、槍を刈り込みばさみに打ち変え(イザヤ2:4)」とあるように世界から軍備を全廃すべきだと思っていますが、しかしそれは理想であり、特に日本の現状を見ると周りは危ない国ばかりですから、緊急時には撃たれる前でも実弾を撃てる防衛のための軍隊は必要だと思っています。

「自衛軍は免疫だが、中国軍はウイルス」ですか。なるほど、あの国は無辜の人に平気で害を与えますからね。ウイグルやチベット、また香港では市民が大変な目に遭っているようですが、日本のメディアは報道していません。

「教義を学ぶと、人の心理として必然的に傲慢になる」というのは、私のいた教団でもそんなことがありました。教団は「一般のキリスト教団の教えと行動がいかに間違っているか」を繰り返し繰り返し教えるので、信者は、自分たちのレベルはたいしたことなくても自己満足をし、自分は「霊的パラダイス」にいて祝福を享受していると思っていました。

 聖書には「知識は人を思い上がらせる。愛は人を築き上げる」とあります。霊的な知識が増えると、確かに「根拠のない自信が出てきて」思い上がり、他者を見下げることになりやすいようです。私はすぐ一世紀のパリサイ人を思い出すのですが、イエスは彼らのことを「外面は白く塗っているが、内面は汚れている墓のようだ、偽善者よ、まむしの子孫よ」と言って強く非難しています。

 と言っている私もたいしたことがない人間なので、ひとから客観的に見たら、鼻持ちならぬ奴だと思われないかと危惧しますが、なので書くときは、なるべく自戒を込めながら、他者の誹謗記事にならないように書いていきたいと思っています。

2020/02/16(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

記事の内容とは、それてしまうのですが、、、

TVの地上波では、ほぼ放映されない『パルプ・フィクション』。

 まぁ、あの内容では放映は難しいのだけれど、、、

 でも、僕は大好きで、名画座やビデオで何回も見ていますが、映画好きの内妻は見たことが無いというので、レンタルDVDを見せたら、

 「わけがわからない」 と、言われました。

 時系列がおかしいから、理解できないらしい。

 「死んだハズの人が生き返っている」って、、、(笑)

2020/02/18(火) |URL|Anthony [edit]

Re: 記事の内容とは、それてしまうのですが、、、

Anthony さん コメントありがとうございます^^)

 確かに時系列がおかしいので、一回観ただけでは分からないでしょうね。でもまたそれがユニークで面白いのですがね。
 私も何度か見てやっとストーリーが分かりました。その何回観ても、というのはおおむね映画は最初から終わりまできちっと観ることは少なく、大抵は途中から細切れに見ることが多いので、その何度か観た合算でストーリーを理解するのに慣れているので、ようやく大体分かることが多いですね。

 この映画は内容は立派でも正義でも美学でも何でもないのですが、ただエゼキエル書の聖句を誇らしげに引用するのが私には面白いのと、理屈抜きに拳銃をぶっ放すのがアメリカ映画らしく明るいと感じます。昔の西部劇でもヒーローのカーボーイは理屈抜きに二丁拳銃で悪漢をやっつけていましたよ。マカロニウエスタンみたいに散々いたぶられて最後の最後にやっと相手をやっつける映画より、最初からバンッと文堂無用で悪人をやっつけるほうが気分いいですから。(笑)

2020/02/18(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2020/02/18(火) || [edit]

ヨブさんお気の毒

一神教らしい行き詰まり方ですね。
多神教は、お気楽です。
あっちの神様が試練を授けるなら、こっちの神様におすがりしよう。
難しく考えなくても、何とかなりそうでしょ。
どうせ、神様の考えることなんて、人間に分かるとは限らない。

2020/02/18(火) |URL|しのぶもじずり [edit]

Re: ヨブさんお気の毒

しのぶもじずり さん コメントありがとうございます^^)

 確かに一神教は、神への崇拝だけでなく、専心の献身も求められますから信者は大変です。多神教は気楽ですが、ただ「祟る神」という概念があって面白いものです。天満宮は菅原道真を祀る神社。大宰府に追われて死んだ人に恨まれたので相次ぐ凶事が起きたに違いない、と思って天皇以下みなが怖ろしがります。それより強い神がいろいろいるだろうにと思いますが、祟る神のほうが恐ろしいのはどういうわけでしょう。

 聖書の神エホバは出エジプト記20章で「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」と言って咎より恵みのほうが期間が長いと自慢していますが、しかし実際は恵みも咎(罰)も何もしていないように見えます、というか何もしてないはずです。
 恵みが千代も続けば信者の家系は見た安心安全安泰安穏安楽になるはずですが、おおむね宗教の信者は貧乏階級の人が多いことになっています。

 ただし死んでからは天国行きと地獄行きと待遇が違うとされていますが、死んだ後のことは人間には分からないので、それをいいことにして宗教組織は寄付を集めています。
 宗教心というのは麗しい一面があると思いますが、宗教組織になると神や仏よりも組織の存続が第一の関心になり、ドロドロしたものがあるように私は感じますね。

2020/02/19(水) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2020/02/19(水) || [edit]

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