「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 今昔物語の検非違使。清水の舞台からカッコよく滑空せり。 


「清水の舞台から飛び降りる」の慣用句はよく知られていますが、平安末期に書
かれた『今昔物語』に、そこから実際に飛び降りて滑空した男の話が出ています。

 心理学者の河合隼雄は、「今昔物語の内容は『昔は今』と読み替えたいほどで、
一つひとつの物語が超近代(ポストモダン)の知恵を含んでいる」と述べました。

 そこで、その男が決断飛行した昔話から、今に生きる知恵を得たいと思います。


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 参考絵:一鶯斎芳梅「清水の舞台から飛び降りる女」(安政後期 1857~1860頃)



『今昔物語集』巻十九の四十
「検非違使 忠明 清水にして敵にあひて命を存すること」


 今は昔、忠明とい検非違使(けびいし)ありけり。
 若男にてありける時、清水の橋殿にして、京童部(きょうわらわべ)といさかひをしけり。
 京童部、刀を抜きて、忠明を立てこめて殺さむとしければ、忠明も刀を抜きて、御堂の方ざまに逃ぐるに、御堂の東の端に、京童部あまた立ちて向かひければ、その傍にえ逃げずして、蔀(しとみ=板戸)のもとのありけるを取りて、脇に挟みて、前の谷に躍り落つるに、蔀のもとに風しぶかれて、谷底に鳥の居るやうに、やうやく落ち入りにければ、そこより逃げて去にけり。 
 京童部、谷を見下ろして、あさましがりてなむ立ち並みて見ける。

 忠明、京童部の刀を抜きて立ち向かひける時、御堂の方に向きて、
「観音、助けたまへ」
と申しければ、ひとへにこれその故なりとなむ思ひける。
 忠明が語りけるを聞き継ぎて、かく語り伝へたるとや。


《現代語訳》
 今となっては昔の話だが、忠明という検非違使(けびいし)がいた。
 若かりしとき、清水寺の橋殿で、都の不良青年らと喧嘩をした。
 不良らが、刀を抜いて忠明を取り囲んで殺そうとしたので、忠明も刀を抜いて清水寺の本堂のほうへ逃げたら、本堂の東の端に彼らが大勢立って忠明に向かってきたので、そちらのほうに逃げることができない。
 板を張った格子戸の下半分があったのを取って、脇に挟んで前の清水の谷へ飛び降りたところ、その板戸が下からの風にあおられ、谷底に鳥が降りるようにゆっくり落ちたので、忠明は逃げ去った。
 京の不良らは、谷を見下ろし、驚き呆れ、立ち並んで見た。

 忠明は、若者らが刀を抜いて立ち向かってきたとき、本堂のほうに向いて
「観音様、お助けください」
と願ったので、自分が助かったのは、ひとえにそのおかげだと思った。
 忠明がこう語ったのを聞いた人々が語り伝えているという。 


 この清水寺の舞台は崖に突き出て形になっていて、地上からは約13メートルの
高さがあり、4階建てのビルに相当する。


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 Wikipedia「清水寺本堂」(撮影:kakidai)


 元禄7(1694)年から、舞台飛下り禁止令が出された明治5(1872)年まで
の178年間に飛び降りた人は234人。崖下は今より樹が多く、土が軟らかかった
ために、命を取り留めた人は200人。生存率は85%もあった。

 飛び降りた理由は、親や子の病気回復や恋愛成就のための《願掛け》で、まだ
息があれば願いが叶うとか、死んでも成仏できるとされていた。

 検非違使とは警官と裁判官を兼ねた役人で、都の治安を司っていた忠明はその
ゆえに街の不良どもに命を狙われ、やむを得ず板戸を翼のようにして清水の舞台
ららダイブしたわけだが、その際、観音に願ったとして《観音信仰》が称揚され
ているのではないようだ。
 というのは、同じ出来事が書かれている『宇治拾遺物語』では、忠明が観音に
願った話はすっぽり省かれているからだ。

        ____________________


 さて、こういう場合、とりあえず神仏に祈っておいたほうが最善だろうか?

《信じたほうが得だとする意見》
哲学者のパスカルは「理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在
することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す」と
述べた。―――『パンセ』233節

《損はあっても元々だという意見》
浄土真宗の親鸞は「自分が念仏以外の修行によって成仏できるなら、念仏を選ん
だことを後悔するだろうが、自分は念仏以外のいかなる修行を以ってしても成仏
できず、地獄に堕ちることが確実な凡夫である。ゆえに念仏で地獄に落ちても後
悔しないだろう」と述べた。―――『歎異抄』第二条

《信じて生きるのは大きな損だとする意見》
生物学者のリチャード・ドーキンスは「神が実在する可能性がわずかながらある
としよう。そうだとしても、神が実在することに賭けて信仰し、捧げ物をし、神
のために戦い、神のために死ぬよりも、神が実在しないことに賭けたほうが充実
した一生を送ることができるだろう」と述べた。―――『神は妄想である』

 死後の世界については確たる証拠がなく、損をするか得をするかは確定されて
ない。ドーキンスの論議は、一生を賭けるほど熱心な信仰者の場合を言っており、
もし神がおらず、神の約束が真実でないなら、確かにかなりな損失になる。
(これは神を畏れ、かつ恐れ、聖書の約束に一生を懸けた私バーソの過去に当てはまります)


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 鈴木春信「清水舞台より飛ぶ女」(明和2年・1765年)



 以上、ご意見、みなごもっともだが、どれを受け入れたら最善だろうか。

 答えを考える前に、本当にが在るなら、どんな神かを考えたい。

 まず「善い行ないをすれば良い結果になり、悪い行ないをすれば悪い結果にな
る」という《因果応報》の教義は、「神仏を信じれば報いを得るが、信じなけれ
ば罰が来る」ということで、宗教的かつ願望的な《原因結果》論だ。
 だがそれは歴史上証明されてはおらず、その通りになったと素直な信者が思い
込んでいるだけか、もしくはその通りにならないのは自分の信仰が足りないせい
だ、と信者が自己弁明している場合のほうが圧倒的に多いはずだ。※1
 この教義は、宗教が、信者を教団に縛り付けるのに効果的なアメとムチであり、
自分たちの組織を存続させるために用いている捏造情報であることを認識したい。

 しかし物理的な《原因結果》論、すなわち地球上の事象を見て、その結果をも
たらした原因を推理するのは、名探偵がするような合理的な思考法だ。
 パスカルは「宇宙に比べれば無に等しく弱々しい人間は『考える葦』であるゆ
えに偉大だ。しかし(物質の)宇宙は何も知らない」と言って、人間の思考の特
異性だけを考えた。
 しかしそう考えるよりも、人間という結果が宇宙に在り、それが「考える葦」
であれば、人間よりも超巨大な宇宙を生み出した根本の原因は「もっとはるかに
考える何か」であり、それは人間よりグレートな叡智であり、高次元の意識であ
るはずだ、と推論するほうがもっと理知的な思考だろう。

 その宇宙の叡智たるサムシング・グレートが、宇宙から見れば超極小の惑星に
住むちっぽけな人間が何をするかを天から逐一見張っていて、何か違反をしたら
罰を与えるというような、了見の狭い、ちまちましたことをするだろうか。

 聖書によれば「神は地に住む者をバッタのように見ている」。(イザヤ4:22)
 人間が昆虫を見て、自分以外の者を崇拝するなとか、自分に仕えて死に至るま
で忠節を尽くせとか、おまえが悪さをしたら怖ろしい罰を与えようとは思わない
以上に、宇宙の創造者たるものはそんなことは微塵も思わないのだ。

 では、人間は安心して、自分が最善と思うことを何でも自由にしたらいい。※2

 なにか事あるときは忠明のように、まずは(懸命に逃げ回って)自分にできる
精一杯のことをし
、(板戸を利用して飛行翼にするなど)考え得る限りの方策を
講じ
たら、別に神仏の助けを利用しても利用しなくてもいい、とにかく清水の舞
台から飛び降りるように自分のしたいことを大胆素敵に実行するなら、しなかっ
たことによる後悔もなく、これからの人生はより面白くなるだろうと思います。





補足
※1:祈りの効果について
祈りや願いが滅多に実現しないのは、どうせ祈っても駄目だろうと心の深いところで思っているからで、人が本当に思っていることが現実化されているに過ぎない。イエスは信じる力について「カラシの種粒一つほどの信仰があれば、山をも動かせる」と述べた。(マタイ17:20)

※2:思想と行動の自由について
何をしてもいいが、ひとに迷惑が掛かることや尊厳を侮蔑するようなことは避けるべきだ。

●バーソの考えを支持する聖書の言葉
罪の報いは死である」(ローマ6:23)。
人はアダムの罪と自分の罪のゆえに死ぬとされている。ということは人は死によって無罪になったということだから、死後に神から罰が与えられることはない。永遠の地獄もない。だから信者も(不信者も)神の裁きなど恐れず、自由に生きて、あとは安心して死んだらいい。
神は愛である」(ヨハネ第一4:8)
もし自分の信じる神が最高の神なら、その神の愛は最高の愛、無条件の愛であるはずだ。そうであれば、人間に何も要求せず、すべてを赦し、人が死んだ後には至福の世界だけを、どんな人間にも用意しているはずだ。有神論者は精神的な安心感を得ている点で有利な立場にある。

●参考にした資料
・「パスカルの賭け」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%AB
%E3%83%AB%E3%81%AE%E8%B3%AD%E3%81%91
・「清水寺」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AF%BA
・「マナペディア」https://manapedia.jp/text/1811
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大阪市内にも清水寺がありまして、ちゃんと舞台もありますが規模はかなり小さいです。

 大阪市内唯一の天然の滝もあって、修行されている方もおられます。

2019/11/09(土) |URL|Anthony [edit]

信じる者は救われる

梯子を使って二階へ上がり、その梯子を蹴って外しておく。
下に降りようとすれば、死は免れたとしても骨折などのリスクが…。
人生において重大な決断をするときは、そんな心境でした。

“清水の舞台”から飛び降りる行為は、その何倍ものリスクですから、
私ならまず、向かってくる敵と戦います。
精一杯戦って死ぬもよし、重症になるのも運次第ということで。(笑)

さて、神(サムシング・グレート)を、どう捉えるか。
これについては『100歳の美しい脳』という本が示すように、
信仰心(お任せの心)が、アルツハイマー所見の脳を
正常に働かせていた事実を思い返します。

個人的には、信仰心……信じて仰ぐ対象を持つことは、
魂に刻印された記憶だろうと思っています。
“九死に一生”の瞬間、人は誰でも、無意識に、
『オーマイガット』と言いますし。(^_-)-☆

2019/11/09(土) |URL|風子 [edit]

バーソ様
おはよう御座います。

昔もぶっ飛んだ若者がいたのでしょうね。
道頓堀でダイブする若者のように。

飛び込むときに祈るかどうかですが、祈るのは一瞬のことなので時間的損失
はありません。
だとしたら助かるかどうかではなく、気持ちを落ち着かせるために祈る
ということはあるのではないかと思います。

愛新覚羅

2019/11/09(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: タイトルなし

Anthony さん コメントありがとうございます^^)

 清水寺はつい、しみずでらとか、せいすいじと呼んでしまいそうですが、舞台の話を思い出すと、ああ、そうだ、きよみずでらだったと思いそうです。

 大阪市内唯一の天然の滝もあるなら、確かに清水寺と名乗っても良さそうですね。
 Wikipediaによると同じ名前の寺は全国に多数あるそうですが、寺というのは同名が多いですね。探す場合は地名や住所を入れて検索しないと、違う寺に行き着いてしまいます。

 しかし寺に舞台があるというのも面白いですね。舞台で何か演技がされている寺はいまでも全国に多いのでしょうか。寺社の舞台は昔は一種のミュージアムで、地元の文化の発祥地だったのですかね。

2019/11/09(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 信じる者は救われる

風子さん コメントありがとうございます^^)

 骨折のリスクが在っても、それが面白いという勝負師や登山家や冒険家もいますが、普通の人が人生でする重大な決断は、その危険性と安全性の比重が問題ですね。
 伸るか反るかの運は天まかせなら、やはり神仏に祈っておいたほうがいいでしょうし、正否の確率を冷静かつ客観的に考えて、ここはイチかバチか自分の才知で勝負を懸ける『大番』のギューちゃんのようなシーンもありそうです。

 風子さんは戦って潔く散るほうですか。男らしいですね。(笑)
 私は負けることが分かっているなら、まあ、逃げるほうですね。腕力の喧嘩も口喧嘩もまるで弱いので、情けないほうです。

 以前いた教団では、姉妹たち(女性信者)は、いいことがあるとすぐ「エホバだ」、悪いことがあるとすぐ「サタンだ」と言う傾向が目立っていたので、一度演壇から、こんな話をしたことがあります。
「すぐエホバのお蔭だとか、悪魔のせいだと言うと、悪魔だって気を悪くするかもしれない。人間万事塞翁が馬の話があるように、物事は短いスパンで見たらいけない、短い目で見たら悪魔のせいのように見えても、長い目で見たらじつは神のおかげだと思えるかもしれないし、それにいちいち人間のする些細なことに神は関与しない」
 そう言ったら、びっくりした顔の人がいたのを覚えていますが、そんなことを言ったのは信仰が無かったわけではなく、目先のことに一喜一憂しないで、もっと長い目で信仰を持ったほうがいいという意図で、その話をしました。女性はとかく目先のことにとらわれがちでで、大騒ぎしますから。あ、風子さんは違うでしょうが。

 私は、利己的な信心は見苦しいですが、純粋な信仰心というのは麗しいものだと思っています。聖書も、信仰と希望と愛は素晴らしいものだと述べています。

2019/11/09(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)

 清水寺の舞台から飛び降りても生存率は8割以上あったので、それを知っていた忠明は、自分の命が助かる確率を咄嗟に考えて、飛び降りる決断をしたのではないでしょうか。

 彼の場合は用意周到で、板戸を翼代わりにして少し落下速度を落とす工夫をし、さらに霊験あらたかなと言われている観音様に祈ることまでしたのですから、手足の一本や二本折れても体を斬り刻まれるよりはダイブしたほうが良さそうだと判断したのでしょう。さすがに検非違使に任じられていただけのことがあり、肝が据わっています。

 しかし観音信仰がたいしてなくても、「気持ちを落ち着かせるために祈るということはあるのではないか」というのは確かにそうですね。
 祈りというのは、瞑想や深呼吸やマントラと同じで、神仏を心から信じてなくても、自分の気持ちを落ち着ける効果がありそうです。子供のときはそういうおまじないをよく唱えたものですが、その言葉はもう忘れてしまいました。

 先日、明治神宮に行きましたが、ちゃんと作法通り願いをしてきましたよ。明治神宮は明治天皇を祀っており、死んだ人間に願っても意味がないと内心では思っているのですが、やはりああいう場所に行くと気持ちがそうなりますし、お賽銭をあげて何か願うのが一応の礼儀のような気もします。

2019/11/09(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは

いやあ、面白い記事!
これ、ただで読んでいいんですか?(笑)

忠明さんの話、けっこう迫真的で実際にあったと思わせます。
昔にもチンピラがいたとは・・・・、今もしぶとく棲息していますが。
飛び降りの死亡率が15%もあったんですね。
ふとエベレストを思い出してしまいました。
エベレストでも過去に200人ほど亡くなっていて、死亡率は1%だそうです。
「飛び降りる美女」初めて目にしましたが鈴木春信だったんですね。
浮世絵なのに躍動感があり、艶めかしさも強く感じます。

「神が実在することに賭けて信仰し、捧げ物をし、神のために
戦い、神のために死ぬよりも、神が実在しないことに賭けたほうが
充実した一生を送ることができるだろう」
ドーキンスの神論は読んだことがありますがいいことを言ってます。
バーソさんが過去の体験(悔恨?)から今の心境に至った記事を何度か
読みました。
私、宗教的には無神論ですが、朝晩仏壇に手を合わせて願い事を
しています。私の願い(阪神の優勝…etc)は尽く叶えられませんが、
今度こそ今度こそ叶うと思ってしまうんです。(笑)

2019/11/09(土) |URL|エリアンダー [edit]

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2019/11/09(土) || [edit]

Re: こんにちは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)

> いやあ、面白い記事!
これ、ただで読んでいいんですか?(笑)

 あらら、エリアンダーさんはひとを軽く褒めるのがうまいですね。冒頭のこの二行の言葉で、令和元年の年末までは幸福感が持続しそうです。
 じつは、こんな話は大抵の人にはあまり面白くないのではないか、と書いてから思って不安だったのですが、救われた気持ちになりました。

 エベレストでは死亡率は1%なんですか。エベレスト登頂はそんなに冒険的なことでもないんですね。しかし三浦雄一郎さんは75歳で登頂成功。私なんか体力も気力も意欲も遠く及びません。
 
 私の過去の悔やみは、長い年月の間、もっぱら聖書と聖書関係の書物だけを熱心に読んでいたので、世間で話題になったテレビや映画や本や音楽や演劇関係のことに一切と言っていいぐらい縁がなかったことです。三浦和義のことも何のことやら知らなかったですから。ちょっと世捨て人のようだったので、旅行やリクリエーションやレジャーに縁がなかったのは別にかまわないのですが、そのような情緒面では多大な損失をし、これが惜しかったと思います。

 ただ、いい面もあって、神の存在に対する信仰は確実に増えました。そして「聖書」から「精神世界」への扉が開き、真の神(根源、一者、サムシング・グレート)について知ることができたのは最高の幸せでした。聖書の倫理観を叩きこまれたので、金儲けこそ第一だとするような精神や、ひとを押しのけてでも偉くなりたいというような野心も育たなかったのは、自分にとっては非常に良いことだったと思います。

 それにしても阪神ファンは立派です。強いのを応援するのは当たり前ですが、弱いのに応援する。これは判官贔屓と同じ思考のようで、日本人が持つ美点の一つの表れなんでしょうか。ただ、阪神の優勝を願うときは、はんしんはんしんと連呼して祈らないほうがいいでしょう。天でその声を聴いてる方は、なに? はんしん? はんしんとは、はんしんはんぎだな、そりゃ駄目だ、祈りは叶えてやれんと思うかもしれません。(笑)

 

2019/11/09(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2019/11/10(日) || [edit]

清水の舞台から飛び降りる人の心境

飛びたい(飛翔)と言うのは地に縛り付けられている人間の動物(本能)的な欲求だと思います。
神が天にいると考え、天国に行きたいと願い、空を飛ぶ英雄の神話を作るのもその欲求の表れです。
その根源的な欲求が人にあったからこそ飛行機が生まれたのであり、ロケットで宇宙まで行ける様になった。
実際に無重力で宙を舞った宇宙飛行士は、重力の鎖から解き放たれて自由になった幸福感を味わうそうです。
自分は自殺願望はないですが、ビルの屋上などの高い所から地上を覗くと不思議と跳び降りたい欲求に駆られます。
きっと地上に縛られている不自由なわが身を捨てて、宙を舞って完全な自由を獲得したいと本能が騒ぐのでしょう。
なので本当に自殺したい時はスカイツリーの天辺から宙にダイブして、数十秒間の完全なる自由を味わうつもりでいます(笑)

2019/11/10(日) |URL|sado jo [edit]

Re: 清水の舞台から飛び降りる人の心境

sado joさん コメントありがとうございます^^)

 飛びたいは動物の本能ですか。だったら進化論的に考えれば、動物にみな羽が生えてもよかったような気がしますが、私は子供の頃は飛んでいる夢をよく見ましたね。昔のエレベータでよく感じたような、上下移動の浮遊感が夢なのに実際にありました。

 人間の場合は神がいる天への憧れですか。「あなたの空を翔びたい」は高橋真梨子、「飛びます飛びます」は坂上二郎、「とんでもはっぷん歩いて10分」というのは昭和の流行語でしたが、誰が言ったのか。
 
 飛び降りると言えば 飛高層建築の火災で高所から飛び降りる人は、熱さに耐えられなくなってやむを得ず決断するのでしょうが、自ら命を絶つために飛び降りた人もいて、著名人では伊丹十三(映画監督)、田宮虎彦(作家)、沖雅也(俳優)、岡田有希子(アイドル歌手)、ポール牧(コメディアン)、牧伸二(ウクレレ漫談家)、藤圭子(歌手)、盧武鉉(韓国第16代大統領)などがいます。
 伊丹十三は生き方の美学を持っていたひとなので飛び降り自殺をするとは思えません。当時はS学会と揉めていたそうなので、その謎めいた関連が言われています。最近では牧伸二が多摩川で投身自殺。ひとを笑わせる商売のコメディアンがそんなことをすると意外で驚かされました。

 しかし投身自殺で最初に思い出すのは華厳の滝に飛び込んで遺書を残した一高生、藤村 操でしょう。私もブログにしたことがありますが、その文章はじつに見事でした。「ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ」。自分の同じ年代の頃を思い出しても、16歳の若さでこれだけのことを書ける人は滅多にいません。私も死ぬときは、と思いますが、こんな名文は書けないので、なるべく死神には我が家への訪問を遠慮してもらいたいものです。

 しかしスカイツリーから飛び降りるときは、下に人がいないのを確認し、落ちているときに真下に人がいるのを見かけたときは、手を大きく左か右に曲げて方向を変えてくださいよ。(笑)
 ちなみに、史上最も有名で美しい自殺写真はこれだそうです。
 https://note.mu/tamam010yuhei/n/n2f891483fc5c 

2019/11/10(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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