「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 ゴーギャンの絵『我々は何者か』の問いとスピリチュアル的「解」。  

 ゴーギャンは少女性ロリコン 愛者のようだった。
 彼はタヒチや他の島で、13歳から14歳の少女を何人も愛人や妻にしている。
 ただし南洋の女性は早熟で、特に少女期は愛らしさがあるせいかもしれないが。

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 『マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)』現地妻テハーマナ(テフラ)13歳が死霊に怯えている。


 しかしゴーギャンは霊的な希求心が強かった。
 ゴーギャンには人生の意味について、子供の頃から考え続けた疑問があった。
 下の絵のタイトルがそうだ。

  『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
 1odkeus.jpg 

 この問いは、西暦2世紀のキリスト教的「主知主義」の一派であるグノーシス
の思想家テオドトスの言葉を要約したもので、正確にはこう書かれている。

「我々は何者であったのか、何になったのか。我々はどこにいたのか、どこに行
こうとしているのか。我々は何から解き放たれるのか。誕生とは何か、再生とは
何か」


 解釈は思想や視点によって変わってくる。
 今回は、ゴーギャンの問いの “スピリチュアル的な「解」”を考えました。



     ___________________________


①『我々は何者であったのか、どこにいたのか?』
 =人間は、宇宙の根源たる「神」の一部であった。神のもとにいた。

 はじめに「意識」があった。「意識」は創造者であり、であった。
 は「意識」なので、「自分は何者なのか」を独り静かに思い巡らした。
 しかしだけしか存在していない「絶対」的な領域では、真の自分を知ってい
ても体験することができない。

 すべてが素晴らしければ、素晴らしいということが体験できない。他に比較す
るものがなければ、自分は大きいのか小さいのか、明るいのか暗いのか、熱いの
か冷たいのか分からない。あるいは憎い恋しいとか、淋しい物悲しいとか、そう
した概念を知ってはいても、実感として知ることができない。

 そこで、体験をするために「相対」的な領域を作ることにした。
 以外に宇宙も世界も何もないので、は自分自身(エネルギー)を材料にし
て物質化し、自分の分身であり「の子」である人間を造った。※2
 そして「時間」と「場所」という概念を現実化し、宇宙とこの地球を造った。

 ksje1.jpg


②『我々は何になったのか?』
 =人間は神の分身として神の代理体験をし、幸福を味わう者になった。

 の子が人間として生まれたことは、非常に良いことだった。
 人間は、地球上で様々な人生体験を自由に選択し、様々な感情を味わえるよう
になった。美しい朝焼けを見ながら、草花を愛で、動物と触れ合い、恋人と語ら
い、子供の成長を楽しむ……。そんな一瞬一瞬の生命の歓びや、生きていること
の醍醐味、幸福感を自由に存分に楽しむようになった。

 と人間の関係は、総体と個別化、また大洋と波のしぶきのようなものなので、
人間が何かを体験し、何かを感じたら、根源たるも同じことをしたことになり、
そのようにしては自分がどういう者かを体験により知ることになった。


③『我々は何から解き放たれるのか?』
 =肉体が持つ制約から解き放たれる。

 人間には肉体を持つがゆえの制約や諸問題や苦しみや悩みがある。しかし肉体
が死んだら、そのような一切の問題から解き放たれる。
 そして人間の実体である意識体(魂)に戻り、深遠な真理のすべてを思い出し、
一切の不安や悩みや苦しみから解放される。


④『我々はどこに行こうとしているのか?』
 =肉体が死んだら、人間の本質である「魂」は根源の神のもとに戻る。

 そもそも「生命」とは生きているからこそ生命と言う。英語の「life/ライフ」
は「生命」という意味と「生活・人生」という永続的な意味がある。生命が死ぬ
ことはなく、意識であり生命である「魂」は永遠に続く。
 人間は元々の一部であり、肉体は地球で暮らすために一時的に身に着けたも
のに過ぎない。だから肉体を脱いだら、人間の実体である「魂」は大もとの魂で
あるのもとに戻り、と一つになる。※3


⑤『誕生とは何か、再生とは何か?』
 =死後、人には新しい誕生、もしくは再生が待ち受けている。

 人間の「魂」が大いなるのもとに戻ったら、人間は、次はどうするかを自分
の自由意思で決める。
 大抵の人間はまた地球に戻って、新しい生き方を選択し、新しいチャレンジを
することを選択するが、これを「生まれ変わり」とか「輪廻転生」と言う。※4


 どうして「魂」は、この問題多き地球に戻ることを選択するのか。
 地球は、陽と陰の二極性とその中間領域が多彩に体験できる特異な場である。
 人生には美しさがあり醜さがあり、清らかさがあり汚らわしさがあり、楽しさ
があり苦しさがあり、愛があり憎しみがあり、希望があり失意があり、その途中
段階のあらゆる組み合わせとバリエーションが無数にある。
 人間はそれらすべてを味わえるのだから、これ以上何を望めるだろうか。人間
として生きることはそれほどに大きな特権であり、素晴らしいことなのだ。※5

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 いま災害や病気で苦しんでいる方は本当にお気の毒です。以上の話は励ましや
慰めにはならず、何を言ってるんだと、むしろ不快になるかもしれません。
 でも困難を乗り越えて行くのも一つの立派で有意義な生き方だ、と自分を奮い
立たせる選択肢もあるのです。

 人生は何のためにあるのか、どう生きるべきか、死んだらどうなるか――――
その正解は人間にはなかなか分からないでしょう。

 しかしスピリチュアル的な認識を持てれば、少なくとも「人間は死んで無にな
るだけだ」「あくせく働いて何の意味があるか」「人生は腹立ちと後悔ばかり」
と思うよりは、だいぶ精神的にやすらかな人生を送れるはずと思うのですが。



補足
※1:すべての事象には原因がある。「もの」作りは「作ろう」という「意識」から始まる。
 宇宙は物理法則にのっとり、極めて秩序正しく成っている。国家の法律には必ず制定者がいるように、宇宙の法則にも必ず制定者がいる。宇宙と地球を見れば、それを統御している意識とエネルギーと生命と愛があることが分かる。したがって、その統御者また制定者は、もっとはるかに大きな意識とエネルギーと生命と愛の持ち主であろうと推論できる。その根源たるものを「創造者」とか「」と呼ぶ。
 一般の宗教が教える「神様」は、人間の専横な支配者のようで、人間が正しく礼拝をしないなら怒って「裁きの日」に罰を与えるとされているが、この宇宙の創造者である「」は無条件の愛であり、全然違うだ。なお、この「」は太文字で表示している。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※2:アインシュタインの公式 E=mc2にある通り、エネルギーは物質と同じである。
 人間を「神の子」と呼ぶ宗教は多い。聖書は、天使とアダムとイエスを「神の子」と呼び、イエスを信じる者たちも霊的な「神の子」であると言っている。古代ギリシア人は、主神ゼウスの子孫であると言っていた。日本の神道も人間を「神の子供」と言っている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※3:死後の世界のことを多くの宗教では「天国」と言っている。臨死体験でも、その至福の世界を垣間見る人が多くいて、学術的な実証論文が多く書かれている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※4:「生まれ変わり」については、幼児が誕生時の記憶を語る事例は少なくなく、医学的にもその描写は的確だそうだ。「輪廻転生」については、現生で悪事をしたら来世は下等賤民や動物や昆虫に生まれ変わると教える宗教もあるが、真のはそんな愛のないことはしない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※5:10月20日、ラグビー日本代表が誰にも負けないと確信できるほどの練習を積み、当時世界1位の強豪に勝ち、ベスト8に残り、ついに南ア戦で力尽きた。負けて泣いて、一生懸命やり切って、最後はさっぱりとした顔で終わった。
 しかしラグビー選手が走るたびにトライに成功し、あるいは他の球技で毎回ボールを打つたびにホールインワンになり、ホームランになるなら、そんなプレーを誰がしたいだろうか。
 朝の連続テレビ小説の主人公が波乱万丈どころか、一切問題が生じず、今日も明日も昨日と同じシーンが延々と続くなら、視聴者のみならず俳優自身がまず意欲をなくすだろう。
 来る日も来る日も無味乾燥な同じことの繰り返しで、抑揚も感動も興奮も感覚も何もなければ、平穏無事でいいかもしれないが、努力の結果の充実感と達成感は決して味わえない。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
☆話はおもにニール・ドナルド・ウォルシュ著『神との対話』と『聖書』を基にしています。

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論理的で説得力に満ちて

『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
この壮大で深淵な疑問について、よくぞ論理的にまとめられましたねぇ。
さすが、です❢

ゴーギャンはロリコンだったんですか。
殿方の好みというのは、極端ですよね。
20歳以上若い女性を好むかと思えば、
かなり年上の女性を好む人も……。
なんだか、それぞれの精神性が観えるような。(笑)

>スピリチュアル的な認識を持てれば……

同感です。
それも聖書の21世紀バージョンを思わせる『神対』を教義とすれば、
世界は大きく変わることでしょう。
まず世界の三大宗教と、それらの教会類は消滅し、
それぞれの心に揺るぎのない信仰心が定着。
少なくても経済至上主義や紛争、自然破壊などは生じなくなるはずです。

どっこい、経済界はもとより。イスラムの指導者や、ローマ法王などは
現行の教えを死守しようとするでしょうが(笑)

さすがのバーソさん。
とくに補足の※5は説得力に満ちて解りやすいです。
事故や災害、戦争などで悲惨な出来事に見舞われたとしても、
時の流れととともに、自らの成長に気づくと思います。

2019/10/26(土) |URL|風子 [edit]

バーソ様
おはよう御座います。

経験したことがないのでわからないのですが、肉体が無くなって魂だけになったらどうなのでしょうね。考えるだけで行動が出来ないのでしょうか。一見自由がありそうで不便な気もします。
でも肉体が滅んでくれたら癌細胞も確実に死んでくれますので再発とか転移の心配がなくなりそうです。
その前に命もないのですね。(笑)
何が何だかわからなくなってきました。

愛新覚羅

2019/10/26(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: 論理的で説得力に満ちて

風子さん コメントありがとうございます^^)

 私は若い頃は年上が好きで、今はかなり年下のほうがいいのですが、私の都合と意向を受け入れてくれる肝心のひとが見当たりません。当方の精神性に加えて加齢性が関係しているようです。(笑)

> それぞれの心に揺るぎのない信仰心が定着。
少なくても経済至上主義や紛争、自然破壊などは生じなくなるはずです。

 ほんとにそうですね。『神対』に書かれているようなスピリチュアル的な認識を持てば、本当に世界は変わると思いますね。
 私は『聖書』を神の言葉として長年学んできたのに、『神対』を読んだだけで目からボロボロっとウロコが落ち、教団を離れて良かった、人生最大の真理を知って良かったと思うようになりましたから。

 風子さんと知り合ってからもブログの方向性が少し変わり、精神世界がかなり増えました。最近の10本を見ても「大阪のドえらい言葉」以外は全部精神的あるいは形而上学的な内容を含んでいます。人間の考えというのはけっこう変わっていくのですね。
 人生とは“変化”の体験であると思います。そしてその変化は良い方向に行くのが本来です。過去から学んでいれば未来は確実に良くなるのですが、昨今の河川の氾濫による洪水を見ると、どうして国や県は治水工事のほうに金を使わないのか、くだらないアートとかエンターテインメントとか、単に文化と称するだけの、さして意味のないものに無駄金を使わないでほしいと思いますね。

2019/10/26(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)

「魂」とか「霊魂」というのは人が死んで幽霊や亡霊になったもので、不確かでボンヤリした実体のないものと考えがちですが、精神世界では違うのです。

 人間は本質あるいは実体が「魂」であり、「肉体」は生きているときに地球で暮らしやすいように一時的に身に着けているものに過ぎないのです。

 ですから肉体が死んだら本体の「魂」が残っているわけですが、かえって自由に活動できるようになります。時間や場所という制約を受けないので、どこにでも思うだけで瞬時に行けます。何か思うだけですぐ実現します。「魂」とは「意識」と「エネルギー」で成っている生命体ですから、肉体を持つ人間よりはるかにスーパーマンのようになれるのです。

 人間には「魂」は可視波長範囲が違うので目には見えませんが、見えないだけで、実体はあるのです。物質はエネルギーの姿を変えたものですが、エネルギーそのものは爆発したりしない限り目には見えないのと同じですね。モノはみな原子で成っており、その原子は99.99999999%が空間だそうですが、人間にはモノが実体として見えるというのも不思議なことです。

 病気は、人間が自分は「神の子」であると忘れた結果、起きるようになったようです。だから例えば「生長の家」という新興神道は、病気が無いと思えばなくなると教えています。
 何事も「意識」が作っているので、そう本当に思えば病気も治ることがあり、重いガン患者でも治った実例がけっこうあるのですが、ただ、人間はそんな馬鹿なと思ってしまうのですよね。「病は気から」と言われる通り、病気に打ち勝つ精神力が左右するようですよ。

2019/10/26(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

輪廻転生

3回にわたる深掘り。仏教にも言及されるところなんぞ、すごいです。
そこで、つい「輪廻転生」について、自分の思いを書きたくなりました。長文となりますが、お許しあれ。

 「輪廻転生」これはありそうにもないが、ありそうでもある。
 もし、あるとすれば、しかし今の日本人には生まれ変わりたくない。今日社会はあまりにも刺激的すぎ、喜怒哀楽は足せばゼロにになるのですが、それぞれのポテンシャルが高すぎて疲れます。人生を振り返って思うに、正直に申せば、心に残ったものは疲労感だけ、といったところ。

 生まれ変わるとすれば、ニューギニアの原始人になることをリクエストしたいです。
 ニューギニアの原始人の実態が1960年代に調査された食生態学者・西丸震哉氏の著「食生態学入門」に書かれています。
 …ニューギニアの原始…人…には味に関係ある単語がひとつもない。ないということは必要がないことであり、意味がないことでもある。この地はほんとうにきれいさっぱりなにもない社会で、…盗み、不信、およそ人間社会にはごく当たり前にあるもの、…邪悪なもの、全てが存在しない…今もって原始宗教といえるほどの芽もない…平和な地であった。…原始社会人がわれわれよりも野蛮であるかどうか、ニューギニアの原始…人…と生活を共にすることで知ることができた。かれらは生きている人間の尊厳性を大切にすることでは、文明社会人よりも上である。…文明社会人では人の心を傷つけることをなんとも思わず、平気でそれをくりかえすのは、この原始社会人と比較したとき、本質的に野蛮なのはどちらなのかを考えさせられる。…(引用ここまで)

 ニューギニアの原始社会では決して疲れることのない毎日が送れるでしょう。でも、彼の地もあれから半世紀経ち、けっこう文明化していて、安楽には暮らせなくなっている可能性が高いですが。

 人間以外に生まれ変わるとすれば、オランウータンがいいですね。ボルネオ島では「森の人」とか「森の哲学者」と呼ばれており、生息密度が極めて小さいですから単独生活しており、オス同士が争うことは全くないですから安穏としておられます。そして多夫多妻の婚姻形態が魅力的です。

 これ以外にも興味ある候補があります。小生はネズミ年。ネズミもけっこう楽しい人生を短く生きています。
 ネズミに関する面白いニュースを最近2つネットニュースでみました。こうしたニュースが大好きな小生です。お時間がありましたら、覗いてみてください。
 褒美よりも遊びたい? ネズミはかくれんぼ好き、独研究
 https://www.afpbb.com/articles/-/3244372
 ネズミが車の運転を習得、ストレス軽減効果も 米研究
 https://www.afpbb.com/articles/-/3251105

 こうした生まれ変わりのリクエストは<strong>神</strong>に無視されるでしょうが。“お前はまだ悟っていないから、また日本人に生まれ変われ!”とされるでしょうね。
 仏教でいう四苦「生・老・病・死」の「生の苦」です。通常「生れることは苦しい」とか「生きていくことは苦しい」とか解説されていますが、どうやら「苦」とは「思いどおりにはならない」という意味のようです。「何かに生まれ変わりたいと望んでも、その希望はかなわない。」そう解釈したほうが仏教は理解しやすいです。
 “俺はまた日本人に生まれ変わるのかぁ。たまらんわぁ”です。

2019/10/26(土) |URL|永築當果 [edit]

Re: 輪廻転生

永築當果さん コメントありがとうございます^^)

 輪廻転生というとヒンドゥ教や仏教の教えを思い出しますが、釈迦は「輪廻して六道に生まるること、車輪の始終なきが如し」と言っていますから、ハツカネズミが回し車の中をぐるぐる回っているようなものと考えられているのでしょうか。

 この場合の「生まれ変わり」とは因果応報の原理によるもので、悪いことをしたら下等動物に生まれ変わる、善いことをしたら富裕者や僧職者に生まれ変わるというものです。ですから不可触民なんて差別が肯定化されているのでしょう。専横な支配者には都合のいい教えのようです。

 ユダヤ教では西暦1世紀頃は、パリサイ人(俗から聖に分離されている者)とアムハーレツ(地の民)とに分類され、アムハーレツは神からも無視された無知蒙昧のやからとされていました。
 生まれ変わりを信じようと信じていまいと、人間は、まあ優越感を持ちたがる動物なんですね。そういうことを考えると、永築さんの願望はよく分かります。人間関係の醜いいざこざが嫌だ、妬みや憎しみなどのいやらしい欲望はうんざりだ、どこか素朴でいいから純粋な心を持つ人間として生きていきたい……。
 その場所がニューギニアですか。ゴーギャンの住んだタヒチも当時すでにけっこう西欧化していたようですから、ニューギニアの奥地は今でも自然な暮らしが残っているのでしょうかね。

 以前、記事にしたのですが、フランス映画の『美しき緑の星』がまさにそんな感じの星でした。長いですが、私は感動して涙が出ました。
・ブログは、https://barso.blog.fc2.com/blog-entry-214.html
・映画本編は、https://www.nicovideo.jp/watch/sm32424142

 争いがなく、平和で、食品公害もなく、長寿で、まったくの楽園ですが、ただパソコンはないし、ブログもないのがちょっと困ります。文明の利器があって、それでいて争いのない社会は無いのでしょうか。勝ち組とか負け組という区別がない自由主義国家はないのかと思いますが、しかし現状では共産国家は困ります。必ず役人が偉そうにし、不正がはびこり、人々が真面目に働かなくなり、何よりも個人の自由がなくなることは歴史が証明していますから。

 ネズミの話は面白いですね。ネズミも単に本能だけに従って生きているのではなく、彼らもまた生命を楽しんでいるようですね。人間はもっと人生を愉しまなくてはいけません。世界が真面目に働いたら楽に生きていける国になっていってほしいものです。それには政治の主義思想ではだめで、やはりスピリチュアル的に認識を持たないと難しいだろうと思います。

 生まれ変わりのときは自分の希望が通るようですよ。自分の好きな選択ができるそうで、あの世には真の「自由」があるのですね。

2019/10/26(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2019/10/26(土) || [edit]

「輪廻転生」(その2)

バーソさん、返コメ有り難うございます。
 輪廻転生は仏教では当たり前のことになっていますが、釈迦本人ははたしてそれを説いたかとなると、小生は大きな疑問も持っています。西北インドでは釈迦が登場するずっと前から輪廻転生の世界観があり、たぶん皆がそう思っていたことでしょう。仏教に先行して成立したジャイナ教は仏教と類似性が大きいものの、輪廻転生からの解脱を求める宗教である点が大きく異なっています。当時、解脱を説く類似宗教も幾つかあったようです。
 釈迦も当然にしてその道へ進んだようですが、解脱修行の道は単なる苦行であり、無意味なものと悟った(悪く言えば、逃げた)ようです。よって、輪廻転生に関しては語ることができなかったのではないか、と小生は思っています。
 でも、輪廻転生の世界観は、宗教で語られなくても累々として伝えられ、皆の心に根強く残っていた(今でも)のではないでしょうか。そして、釈迦が没した後、その弟子のまたその弟子たちによって釈迦が説いた仏典として輪廻転生が組み込まれ、仏教も成立した、といったところでしょう。
 釈迦が本当に説いた教えとは何か。「因果応報」についても、果たして釈迦は説いたのか。これも疑問です。今ある仏教各派の教えというものは、釈迦本人の教えとは随分と違ったものになっている、布教する僧侶がいかに信者を獲得するか、そのビジネスに都合のいいように恣意的に説いている、そんな気がしてなりません。

 フランス映画の『美しき緑の星』のブログ版を読ませていただきました。
 理想郷ですね。ぜひそういう世界になってほしい。でも、悲しいかな人間はますます貪欲になり、頭の天辺から足のつま先まで煩悩の塊と化しています。お釈迦様でもできなかった解脱修行を完遂し、煩悩を完全に絶たないことには無理なんじゃないでしょうか。

2019/10/26(土) |URL|永築當果 [edit]

Re: こんにちは

[太字]鍵コメさん コメントありがとうございます^^)

 以前、教団にいたときは、神がなぜ宇宙を造ったのか、地球と人間を造ったのか、その理由については、こんな聖句を学びました。
「神は愛だからです」ヨハネ第一4:8
「万物は神のご意思のゆえに創造され、存在している」黙示録4:11
「万物は御子(イエス)によって造られ、御子のために造られた」コロサイ1:16

 他のキリスト教文書を読んだらこう書いてありました。すなわち、神は愛である。愛は愛する対象を必要とする。その愛の対象が人間なのだ。おお、なるほど、と思ったものですが、それ以外にも、神の愛は自己完結型だから愛する対象がなくてもいいのだという説もあって、聖書の解釈というのはじつに面白いと思ったものです。

 当時は聖書にはまったく心酔していて、これが絶対の教えだと信じ込んでいたのですが、ニールさんの本を読んで激震を感じたのは、神の愛は無条件の愛であるということでした。無条件の愛は与えるだけで、何も要求しない。仕えてもらおうとはしない。他者が悪いことをしても裁いて罰を与えたりしない。無条件の愛の神は、ただただ赦すことしかしない。というより赦すなんてこともしない。なぜなら人間に善悪の規準を押し付けないし、それに違反した者を裁くなんてことはしないのだから、そもそも赦すも何もないのだと知って、目からウロコが落ちました。ジャン・バルジャンを許した司教の愛を思い出し、これが本当の愛なのだと腑に落ちたものです。

 それまでは人間は神のために生きるのが義務であり責務であり、そのためには自分の人生を犠牲にし、死をもいとわない忠節心を示さなければいけないと信じ込んでいました。だから神のために自分のやりたいことをやめるのは当然だと思っていたので、広告代理店を辞めて野外宣教活動に打ち込む神ファーストの生き方に進路を変更しました。
 そしていろいろ生活の苦労と会衆の世話の苦労もしたのですが、今から思えばそのようなことは神のご意思ではなかったのですね。教団の中では「エホバのご意思」という言葉が黄門様の印籠のようなもので、絶対の命令力と拘束力を持って信者を縛っていたのですが、いまはそういう制限から解放され、格段に自由になりました。「真理はあなたがたを自由にする」という聖句がありますが、まさにこの通りになりました。

「とはずがたり」は知らなかったです。特に雅な暮らしをしている人は生活の苦労がないので、できることは女遊びしかなく、だから複数の女性がその相手になり、男女関係が入り乱れたのでしょうか。
 つい最近まで女性は16歳で結婚できましたし、小学生の女の子が援助交際をしたという事例もありますから、そういうことは成人でないといけないと法律で決めるのは自然の理にかなっているのかと、よく考えると、何歳以上なら良いとか何歳以下なら悪いという厳正なる根拠は無さそうです。まあ、人間が知恵を絞って共通の倫理観というものを作り出し、それにしたがうことで社会の人間関係がスムーズに回っていくのかもしれませんが。

 予告編、観ました。ゴーギャンの映画はやはりゴーギャンに好意的に描いているようですね。「ロリコン」と書いて悪かったですかね。「のようだった」とぼかして書いたのですが。(笑)

2019/10/26(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 「輪廻転生」(その2)

永築當果さん コメントありがとうございます^^)

> 輪廻転生は仏教では当たり前のことになっていますが、釈迦本人ははたしてそれを説いたかとなると、小生は大きな疑問も持っています。・・・解脱修行の道は単なる苦行であり、無意味なものと悟った(悪く言えば、逃げた)ようです。よって、輪廻転生に関しては語ることができなかったのではないか、と小生は思っています。

 そうなんですか。私は仏教、特に釈迦の教えは調べたわけではないのでよく知りません。釈迦の言葉をところどころ間違って覚えているのかもしれません。
 ただ、ヒンドゥ教も仏教もインドの宗教ですが、その大元のチベットの山奥にあった宗教では、あるいはバビロンの近辺にあった原始形態の宗教では例外なくと言っていいほど輪廻転生を説いているようです。

 釈迦の説いた仏教の目的は、そのような生死や輪廻からの「解脱」なんでしょうか。つまりそういう教えについての誤った解釈が世間に流通していたので、そこからの脱却を教え、どうすれば苦のない人生を送れるかを説いたのではないですかね。
 それが日本にやってきて念仏だけひたすら唱えれば仏さまのご慈悲によって救われるという間口の広い安易な教えになりました。それは凡人にはなかなか悟りに至ることが難しいからでしょうが、南無阿弥陀仏と唱えれば、あるいは南無妙法蓮華経と唱えれば救われる。その回数が多いほど良いなんて言われていますが、私は今はその安易な方法でも救われた気持ちになれるのなら、それも御利益の一種かと思うようになりました。
 むろん自分がそんなことをしたいとは微塵も思いませんが、そうすることで良い気分になれ、しかもたいした金額のお布施を要求されないのであれば、決して推奨はしませんが、まあいいじゃないかと許容する気になっています。

 ともあれ、この社会には問題が多く、人間関係の苦労も多く、死後はどうなるかについては大抵の人は大きな不安感を抱えているのですから、念仏を唱えれば精神的に安らぎを得られるのなら、ひと様に迷惑を掛けないなら何を信じても結局はいいのかもしれないと極端なことを思っています。
 そういう意味では私はひとの宗教を非難する気にはなりません。非難するのはいつも宗教組織です。名前を付けるだけの戒名が何十万円とか、壺が百万円とか、純朴な信者を騙して高額な金を奪い取ろうとするその強欲を遺憾に思っています。

2019/10/26(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2019/10/28(月) || [edit]

「輪廻転生」(その3)

バーソさん、返コメ有り難うございます。
 釈迦が説いたことは「今をどう生きるか」という、それは思想というべきものではなかったと小生は想像しています。当の本人は、輪廻転生からの解脱は不可能と“悟った”に違いないと思われるからです。釈迦も凡人、親鸞も凡人、どっこいどっこいと考えたほうがいろいろと見えてくる、そんな気がします。ただ釈迦にはカリスマ性があった。なんせ王子という高貴な方ですから。
 釈迦の没後、その教えは口伝えでずっと行き、没後100年ぐらい経ったときにはすでに宗派分裂が始まり、没後500年ぐらい経ってやっと文字になり、そんな頃には数多くの宗派が誕生していたようです。
 その後に書き表された経典を含めて釈迦が創った経典は7千巻もあるとのこと。これは物理的に不可能な数です。後代の者が勝手に“お釈迦様はこう言われた”と捏造したものがほとんどと言えます。よって、釈迦本人の実際の教えはどれなのか、場合によっては1つもない?ということすら全く分からない。探しようがない。よって想像するしかないのです。
 今の仏教宗派は数えきれないほどあり、7千巻もの経典のうち、1つ2つ3つ(ときには関連する数十)をこれが釈迦の本髄とばかり持ち上げ、その経典だけに基づいて、それぞれがけっこう違った内容の教えを説いています。中には拠り所とする経典を持たない宗派も幾つかありますから、その昔の新宗派も経典なしで始まったものの、これでは都合が悪いから、こんな経典が見つかったとかいってごまかしたんでしょう、きっと。

 日本に今残っている宗派のほとんどは「輪廻転生」「自業自得」を説いているようなのですが、唯一(たぶん)これに触れないようにしているのが華厳宗(釈迦が説いたという華厳経を本髄とする宗派)と思われます。華厳宗は中国で大きく花開いたのですが、これは老荘思想と類似性があったからのようです。
 華厳経はインド哲学と中華思想を合体させたものといった感がし、小生にとってはとても興味深いです。日本における華厳宗もその流れを引いているようですし、面白いことに葬儀や法要というものを行なわない(葬儀を希望すれば他宗派を斡旋はする)宗派です。
 華厳経は現代人にもマッチするところがあり、豊かに繁栄しているなかで「今をどう生きるか」を考え、そして「真理」とは何かを模索する学問(哲学的遊び)をするからです。小生にぴったり!

 うちは親鸞が興した浄土真宗の門徒なのですが、3巻の経典しか持たず、南無阿弥陀仏と念仏を唱えりゃ救われる、これに特化しています。まだ小生はそこまで追い詰められたことはなく、一度も念仏を唱えたことがないですが、どうにもならない「苦」が重くのしかかり、それから逃げたくなったら唱えるかもしれませんけどね。
 なお、お布施などお寺への年間支出額は当家の場合、毎年あれこれで4万5千円、法要を営めばその都度1~2万円のお布施となりますし、近いうちに寺の屋根瓦の伏せ替えで10万円の寄付を求められるなど、けっこう払わされます。
 まして葬儀ともなると、その後100日法要までの10回ほどの行事で、4年前のおふくろの場合、合計50万円近くのお礼をしました。まさに浄土真宗も葬式仏教で食っている、といったところです。
 小生が死ぬときは、お気に入りの華厳宗の教えにのっとり、葬式なし、これでいくことに決めています。

2019/10/29(火) |URL|永築當果 [edit]

Re: 「輪廻転生」(その3)

永築當果さん コメントありがとうございます^^)

 おかげさまで仏教について知識が増えます。
 釈迦は、この世に苦が多いのは認めて、ではどうすれば苦を克服して生きられるかを教えていると言われますが、それにしても釈迦一人の教えからこれだけ多くの宗派が出来たのは影響力が凄かったからと言うか、教えの意味が分かりにくかったからだと言うか、特に日本では元々の教えからはかなり逸脱していることが宗派の数が多いことによってもうかがえます。
 しかしながら、ということは釈迦自身の教えがどうであれ、仏教を学ぶ人が要は自分自身の益になればいいのかもしれないとも思えます。山頂に登る道はいろいろあるように、人が精神的に救われる方法というのは唯一ではなく、いろいろあってもいいのかもしれません。あるいは、むろん精神的に救われているように当人は思っていても、本当は救われてない哀れな人であるとも言えるわけですが。

 華厳宗が唯一輪廻転生を説いてないのですか。ということは形而上学的な考え方というよりは、かなり科学的な思考を持っているのでしょうかね。
 
 ネットで検索したらこんな説明がありました。
https://true-buddhism.com/shuha/kegon/
(引用)
仏教では、
「芥子粒の中に 大千世界を入れて 広からず 狭からず」
と言われます。
芥子粒というのは、あんぱんにのっている小さな芥子の種です。

なぜ芥子の種ができたかというと、
芥子の花が咲いたからです。
なぜ芥子の花が咲いたのかというと、
芥子の芽が出てきたからです。
なぜ芥子の芽が出てきたかというと、
その芥子の種があったからです。
2代前の芥子も、3代前の芥子もあります。
この芥子の種にも、遠い過去からの歴史があったということです。
そのどの一本がかけても、目の前の芥子粒はありません。

同時に、芥子の種があるだけでは芽を出すことはできません。
太陽や土、空気など、色々な条件があって生えてきたのです。

こうしてみると、因果の道理にしたがって、
大宇宙が総動員して、この芥子の種ができたということです。
これを大宇宙が芥子の種におさまっていると言います。

このように芥子粒だけでなく、一つの事象それぞれの中に、他の一切の事象がおさまっているということが事々無礙法界です。
一切の事象は同じ因果の道理によって、お互いの相互関係によって成立していることを相即相入」といいます。
「相即」とは、すべての事象が同じ真理によって成立していること、
「相入」とは、すべての事象がお互いに関係し合って成立していることです。

これを「重々無尽」の因果とか「無尽縁起」ともいわれます。
この事々無礙法界の「相即相入」を、色々な面から教えられているのが華厳宗です。
(引用終わり)

 これを読んでいると、死んだら仏になり神様と同等扱いされ、その先祖に対する供養の仕方によって、子孫に恵み(あるいは呪い)が与えられるという日本の仏教の教えは、かなり異なった教えになっていることが分かりますが、それよりもこの芥子の種の例え話は原因結果論のことですから、創造者なる神が存在してこの世界が始まったとするスピリチュアルの教えとも似ているようです。

 『華厳経』の中に「一切の仏は一道より生死を出づ」
と説いてあり、どんな人でも、仏のさとりを得られる唯一の道があると説かれているそうで、「自力」で自己救済ができればそれに越したことは無いのですが、それは釈迦クラスでないと難しい。といって「他力」だと宗教教団や教祖が必要になってきて、これまたいろいろな副作用が付き物ですから、そういうことを思うと人間の最大の敵は「不安」だろうと思えます。不安があれば幸福感は味わえませんし、富裕であっても権力を持っても平安になれません。
 この不安というのは自分の心の持ちようですから、自分自身でどうにでもなりそうなのですが、しかしそれができないのが私たち人間の大昔から現代に続く最大のウイークポイントだなあと思います。

 私が死ぬときは一切の儀式なしに決めています。信じてない宗教のためにお金は使いたくありませんし、残った金はもっと有効活用してもらいたいと考えています。

 それにしても「今をどう生きるか」、これは非常に難しい問題ですね。

2019/10/29(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

スティーヴン・ホーキングは亡くなる数年前に「宇宙は神が創造した」と言う一般概念を論破しました。
ビッグバン理論には宇宙の出発点としての特異点0…全てのエネルギーが0であり、0であるから時間が存在せず、時間が存在しなければ空間も存在しない。場所のない場所…つまり無の地点?があったと考えられていました。
ところが彼が幾ら計算しても宇宙に遍満するエネルギーは0にならない。0でないなら空間も時間も存在する事になる。
それを解明したのがスーパーストリング理論で…宇宙は永遠に振動し続ける紐の様なものだと言う新しい概念でした。
紐を折り畳めば膨大な質量を持つ超ミクロの一点になり、紐を展開すれば現在ある様な広大な空間を持つ宇宙になる。
つまり宇宙は振動する紐状のエネルギーが絶え間ない膨張と収縮を繰り返す自然現象の賜物で、そこに神が介在する余地はないと。
従って現在我々が見ている宇宙も、やがては伸びたゴム紐が限界点を迎えて収縮する様に、宇宙の一点に向かって縮んでゆくのでしょう。
当たり前に起きている自然現象や自分自身の存在に何かの意味を持たせたい…宗教はそんな人間らしい感情から生まれたのかも知れません。

2019/10/29(火) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)

 スーパーストリング理論は面白いですね。よくこんなことを考えるものだと思います。
 量子論では粒子を点粒子として扱ってきたが、超弦理論では粒子を弦の振動として表す。超極小のひもが振動したり回転したりして粒子になっている。
 この説がもし正しいなら、時間、空間、物質、力のすべての成り立ちが一つの理論で説明できる。しかし現在のところ観測されていない10次元といった多数の次元を必要とする点で問題があり、証明は極めて難しく、いまだ物理学の定説になっておらず、今後実証されるかどうかも分からない仮説であるようです。

 創造者の概念を外して宇宙の仕組みを考えると、面白いですが、突拍子もない理論が生まれます。やはりどんな理論であれ、肝心な点は、宇宙を取りまとめている「意識」の存在を無視していることです。粒子であれ、弦であれ、それがどうして存在するようになったのか、どのようにして星になり、宇宙になり、地球になり、そこに意識と感情と理性と良心や倫理観さえも持つ生命体になったのか、その肝心なところがまったく解説されていません。
 宇宙は極めて巧妙に出来ています。人間の内部にあるDNAも極めて巧妙に出来ています。そこには偉大なる叡智が見られますが、その叡智はどのようにして出来てきたのか、なぜ出来たのか、その目的は何かを人間は知りたいと思っているのですが。

 超原理論は正しいとしても、情報伝達のポイントである「5W」すなわち「いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、なにを(What)、なぜ(Why)」が欠けており、もっぱら「どのように(How)」だけを追い求め、それに成功していないようです。むろん、学者たちのその意欲と努力は素晴らしいものですが。

> 当たり前に起きている自然現象や自分自身の存在に何かの意味を持たせたい…宗教はそんな人間らしい感情から生まれたのかも知れません。
 「当たり前に起きている」と思うこともできますし、「当たり前のように起きているのは誰か(原因)がそうしたから結果があるのだろう」と思うこともできます。「何か意味を持たせたい」と思うこともできますし、「意味があるからこうなっているはずだ」と思うこともできます。前提となる考え方が違うと、無神論の学説と有神論の信仰の違いになりそうです。

2019/10/30(水) |URL|☆バーソ☆ [edit]

「今をどう生きるか」

バーソさん、何度も返コメ有り難うございます。
華厳宗の勉強までさせて申しわけありません。先のコメントを投稿する前に、自分が勉強した華厳宗は部分的であり、あまり自信がなくて、ネット検索してみたら、バーソさんが検索されたものと同じサイトに出くわしました。でも、これ、正直言ってパッとしない内容でした。
でも、さすがのバーソさん、お気付きのように、華厳経の神髄は極めて科学的で、「自然科学を哲学する」とも言えるものでして、理系の研究者必読のもの、理系大学生の必須単位とすべきもの、と小生は思っています。
スピリチュアルの教えはどんなものなのか、小生はまだ勉強したことがないですが、華厳経は無限の時の流れを言っており、残念ながら創造者の出番はないです。

さて、「今をどう生きるか」。
これが大問題ですが、西北インドで仏教が花開いた時期と現代の日本は社会現象に類似性があるような気もします。その昔、幾つもの宗派がそれぞれの観点で「今をどう生きるか」を説いた。今の日本では何人もの新思想家が現れ、「今をどう生きるか」を盛んに説いています。小生が一番心を惹かれたのは小林正観。そして当店(薬屋)のお客様の心のケアに使えるのが「みやがわみちこ「なんでも仙人」」。これらは神頼みしなくても心が救わるれ感がします。
でも、「よし、小林正観さんのように自分も考え方を変えよう」という意欲的な人は少なく、ぐじぐじといつまでも不安を抱えっ放しという人がほとんど。日本人は自我意識が喪失しており、やっぱり何かにすがるという他力でないと救われないのでしょうねえ。

2019/10/30(水) |URL|永築當果 [edit]

Re: 「今をどう生きるか」

永築當果さん コメントありがとうございます^^)

 小林正観さんは「そ・わ・か」の人でしたかね。それなら読んだことがあるような気がしますが、すっかり忘れています。ミヤカワ ミチコさんは知らない人です。図書館で検索したら『こころの「超」整理法 メンタルヘルスに効く「論語」の教え』だけがあったので予約しました。

 それにしても世の中には「いかに生きるべきか」のハウツー本は沢山ありますね。猿でもわかるというようなタイトルが付いたのもあり、私も気軽に読めるその種の本はいろいろ読みましたが、いずれも自分には合わなかったです。どの本も言っていることはごもっともで、まったくその通りだと思うのですが、いざ自分が実行し続ける気になったかと言えば三日坊主で終わってしまいます。自分の気持ちに素直さと向上心が足りないのでしょう、心は同意しても実行には至らないことが多いですね。やはり自我意識が喪失しているのでしょうか。まあ、私は精神が弱いほうであることは確かです。

 しかし古代ギリシアにもペルシアにもインドにも中国にも、いつの時代も、そういう深遠な問いがあるということは、言い換えれば決定版がないわけで、ということは真理の唯一の解というものは無いのか、あるいはどの方法でも好きな解釈でいいのかもしれません。聖書は「真理はあなたがたを自由にする」と言っています。人間はとかく世間多数の意見に左右されがちですから、自分自身が精神的に他の人の考えから自由になれればそれでいいのかもしれません。

> 神頼みしなくても心が救わるれ感がします
 そうですか。それでいいように思いますね。神頼みというのは、科学的かつ合理的に解答が出ないので、だから神に頼ってしまうという、いわばちょっと“逃げ”の理論のような気がするところがあるせいでしょうかね。神頼みというのは、論理思考の人には受け入れがたいものがあるようです。
 しかしながらそういう意味では、論理的かつ合理思考で考えると究極の原因者たる神に至るのだ、とも私なんかは思うのですが。

2019/10/30(水) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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