「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 神がいない確率は、ほぼ100パーセントか。 


無神論者と軽々しく口にできるのは、日本ぐらいだろう。 無神論者となると、神の存在しないという説を語らなければならない。 中国人なら、だまっている。  ―――――― 星新一『きまぐれ遊歩道』


 SF作家の星新一は、無神論者は《神が存在しない》説の根拠を語らなければな
らないと書いています。

 生命の誕生は偶然であると現代科学で証明できるなら、「神は死んだ」どころ
か、そもそも「神などいない」ことになります。
 しかし科学的な根拠が弱いなら、有神論を古代妄想だと非難できなくなります。


 blackki.jpg
 

 そこで無神論は果たして正論なのか、を科学的な確率の視点で考えました。

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―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
無神論系のビッグバン理論と進化論は、《偶然》を基盤にしている。

❶最新宇宙論では、137億年前、時間も空間もない状態から、突如10の34乗分の
1㎝という極小宇宙が生まれ、急激に大膨張したという。ビッグバンの拡張率は
想像の域を超えており、1㎜点が一瞬に千億光年まで拡張したのと同等だそうだ。

❷突然に始まったプラズマの大爆発は、偶然に《何らかの力》が働いたことによ
り拡散スピードがうまく抑制され、その影響で宇宙の各所に粒子の吹き溜まりの
ような場所が出来、それが恒星や太陽や惑星が誕生する場となったとされている。

❸偶然のゆらぎで超高密度のエネルギーが点火され、この地球が存在する宇宙が
誕生する確率は2千億分の1。太陽系が誕生し、生命を繁栄させるのにちょうど
良い適切な惑星間の距離に、適切なサイズの地球が誕生する確率は3百兆分の1

さらに地球に水や炭素や窒素が発生し、無機物から単細胞生物が誕生する確率は
6千億分の1。それが水棲動物や爬虫類や哺乳類に進化する確率は数十億分の1
そして恐竜が絶滅し、原始人が誕生する確率は数千億分の1。その後、数十万年
の間に、人類が石器時代から産業革命までに知的進化できる確率は数十億分の1

●生命の存続には反対勢力がある。直径5~10㎞の隕石が地球に衝突すれば生物
は存続し難いが、衝突の確率は数百万年から1億年に一度。地球の誕生は38億年
前なので、38回から1万回程度は衝突し、生命は大量に絶滅死した可能性が高い。

上記の確率は全部実現しなければ今日の人類にならない。だから確率は足し算で
はなく、全部を掛け算する。合計はおそらく兆を超えて、京、垓という単位の数
字になる。つまり、無神論の科学的な確率は《限りなくゼロパーセント》なのだ。

生命が誕生する確率は「25mプールに、バラバラにした時計部品を投げ込んだら、
水流だけで組み上がる確率」と同じだそうだが、「それでも部品を何兆億回か投
げれば1個は完成する!」と、非常識な偶然をしつこく信じるのが進化論なのだ。


 soliu.jpg


――――――――――――――――――――――――――――――――――――
普通、ひとはどの程度の確率なら信じるか?

天気予報を見て、降雨確率がどのくらいなら傘を持って外出するだろうか。普通
は30%あたりで迷い、10%程度なら雨は降らないと見なし、傘は持たないだろう。

人は命が関係すると、もっと小さい確率を考える。交通事故死は年に約3千5百
件あるが、人口1億3千万で割ると確率は3万7千分の1。だから人は《万一》
を考えて任意保険に入る。宝くじの1等は千万枚あたり1本発行されるが、10枚
単位で買えば確率は百万分の1。欲があると《万一》は《百万一》になるようだ。

ひょっとしたら百万分の1ぐらいの確率が《あり得る》と《あり得ない》の境い
目かもしれないが、しかし確率が何百兆分の1であっても、「確率ゼロじゃなけ
れば、その可能性を信じる」と言う人は、《偶然教》の熱烈な崇拝者ではないか。


宇宙を見れば《知性ある何か》があると気付く。

(1)超銀河団はきれいな泡構造をしており、宇宙は、じつに秩序正しく出来ている。
(2)秩序正しいということは、ビッグバンの最初の点火は《偶然》ではなく、整然
と拡張させた《知的な原因》があったことになる。(3)そうなら、その《原因》は
超高温高密度なエネルギーであり、超高度な意識体であり、超高度な叡智でもあ
るはずで、それを「創造者」とか「全能者」とか「」と名付けてもいいはずだ。

E=mc2で知られるように 物質はエネルギーと等価である。宇宙のすべては異な
る振動波のエネルギーで出来ている。可視光線以外の電磁波は人の目に見えない。
宇宙の93%はダークエネルギーとダークマターから構成されているが、正体は明
らかになっていない。原子の99.999999%は何もない空間である。つまりこの世
界は、人が理解できず、見ることもできない事象のほうがはるかに多いのである。


 galiy.jpg


 生命が地球にたまたま偶然に誕生した可能性は限りなくゼロなので、無神論は
じつは根拠がないという推論でしたが、そうなら「はいる」とする有神論のほ
うが断然有利になると思いませんか。

 有神論には状況証拠と論理的根拠もあるのですが、それは別の機会にします。





補足―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「神」とはどんなものか?

 私は有神論者といっても、宗教組織が教えている、人間に倫理や従順や献身を
要求し、褒美または罰を与えるとされる神様(人格神)は信じていません。
 それで、「」とは、宇宙や生命の精妙なシステムを創造し、ずっと統御して
いる《知性ある大いなる力》と解釈し、今後は太字の「」で表すことにします。
むろん「クリエイター」とか「サムシング・グレート」と思ってもかまいません。


※宇宙の画像はNASAから借用しています。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――



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COMMENT FORM

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説得力に満ちて……

>生命が誕生する確率は「25mプールに
バラバラにした時計部品を投げ込んだら、
水流だけで組み上がる確率」と同じだそうだが、
「それでも部品を何兆億回か投げれば
1個は完成する!」と、非常識な偶然を
しつこく信じるのが進化論である。

(((ʘ ʘ;)))……解りやすい❢
さすがにバーソさん。説得力、絶大ですねぇ。

宗教組織が唱える“人格神”がなければ、
アインシュタインのように謙虚に、知的に、
「サムシング・グレート」を信じることができるでしょうに。
残念です(笑)

2019/09/21(土) |URL|風子 [edit]

バーソ様
おはよう御座います。

世の中には宝くじよりも低い確率のものが実在するのですね。
私は宝くじでさえ太平洋に針を1本落とし、1年後にそれを拾うようなものだと思っていました。
人が理解できず、見ることもできない事象が沢山あるのですね。ということは神が存在した方が都合がいいのでしょう。
むきになって神はいないということは馬鹿馬鹿しいです。

愛新覚羅

2019/09/21(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: 説得力に満ちて……

風子さん コメントありがとうございます^^)

 私が宝くじは買わないことにしている理由は3つあって、1つは幸運の神に頼るのは唯一神以外の神を崇拝する偶像崇拝の罪に当たるからで(教団から離れた今はそう思わなくなりましたが)、2つめは当たる確率は交通事故に遭う確率と同じだそうなので、そんなものを買うのはお金の無駄だと思っているのと、3つめは一攫千金の儚い夢を見るのは精神的貧乏人の証拠だと思っているからです。東京有楽町の信号角にある宝くじ売り場はよく当たるとかで、年末などには長い行列ができているのを見かけますが、まあ、いじましいなあと裕福ではない私は思います。

 確率はゼロと言われて信じる人はいません。確率は1億分の1と言われても信じる人はいないと思います。ところが進化論は、いろいろな偶然がすべて実現しないと現代人にまで進化しないわけで、その合計の確率たるや10のあとにゼロが何十つくやら分からない程なんですが、それでも確率はゼロじゃないので信じる人がいるのは面白いと思います。
 進化論はいわば《偶然の神》信仰で、それも盲信や狂信のたぐいじゃないかと思いますね。まあ、子供の頃から学校で進化論を教えられ、世間の常識になっているので、信じるのも、まあ無理も無いとは思いますが。

> 宗教組織が唱える“人格神”がなければ、
アインシュタインのように謙虚に、知的に、
「サムシング・グレート」を信じることができるでしょうに。
残念です(笑)

 ほんと、そうですね。宗教組織が、精神的な問題を解決すべきなのに、かえって元凶になっています。金で罪が消えるとされる中世の免罪符がよく知られていますが、宗教指導者が自分たちの組織の存続に都合のいいように教えているので、ずいぶん神の概念が歪められていますね。

2019/09/21(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)

 教授は合理的志向のようですから、宝くじなど買ったことがないのじゃないですか。宝くじを買う人は、1等に当たった人の話を聞くので、自分も当たると思うのでしょうか。

 以前、知り合いの男性が年末宝くじを買っても当選番号の発表を見ないので、奥さんが、なぜ見ないのか、おかしいと言うのですが、夫は夢を買っているのだから当選番号は見ないでもいいんだと反論していました。(笑)

> 人が理解できず、見ることもできない事象が沢山あるのですね。ということは神が存在した方が都合がいいのでしょう。
 そうですね。神が存在したと考えるほうが、生命の誕生など、いろいろなことがうまく説明できて都合がいいのです。
 確率的には《偶然の進化》はあり得ません。だから生物は徐々に進化したのではなく、《突然に変化した》とする突然変異論が出てきたのだと思いますが、有神論のほうは《意識とエネルギーと力が有る創造者がいる》と前提(定義)すると、地球や生命の存在と仕組みがうまく説明できるのですね。

 それでは安易すぎるといって嫌がるひとが多いのですが、仮説というのは、それで矛盾がなく、うまく説明できれば一応成立するのですね。あとは誰かが実験をして物理的に証明してくれれば、ノーベル賞受賞となります。
 ビッグバンやインフレーション理論、パラレルワールド、超弦理論など、天文学の理論は物理的には証明できないので、とんでもないと思えるような理論が多くて驚きます。

> むきになって神はいないということは馬鹿馬鹿しいです。
 あ、うれしいお言葉です。「神はいない」と思うのは思想の自由ですから別に構わないのですが、神を信じる人間を嘲笑する人がいるので、私もちょっとむきになっています。(笑)

2019/09/21(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2019/09/21(土) || [edit]

Re: こんにちは

鍵コメさん コメントありがとうございます^^)

 進化論は、有神論を叩き潰す最たる考えで、勝手に徐々に進化したとする説と、勝手に突然変異したとする説があります。
 どちらも、不思議にそうなってしまったので《自然の力は凄い》と考えるのですが、そもそもなぜ《自然の力》という不思議なものがあり、それが生物を誕生させ、進化させ、多様化させ、複雑化させたのかまでは考えません。

 こんな考え方がネットにありました。

 地球と生命の誕生などが誕生する確率は、
  1.「数学的」には、その確率はゼロではない。
  2.「物理学的」には、ゼロかもしれない。
  3.「論理的」にいうなら、現に地球上には生命が誕生しているので明らかにゼロではない。

 この3番目の考えが面白いです。現に地上に生命があるのだから、生命は進化するようになっているという前提で考えていて、だから、はじめに進化ありきなんですね。

 カトリック教会は進化論を受け入れていて、創造神が生物を誕生させ、進化させたと考えるようですが、インテリジェント・デザイン論は、創造神の代わりに《何か偉大な力》がそうさせたとしていて、これはアインシュタインの神概念と似ているように思います。

 世界には昆虫だけでも100万種も見つかっているそうですが、それにしてもなぜこれほど無数の種類の生物があるのか。「進化も神々の手すさびの一つなのかもしれない」と思うと、種類の多さをうまく説明できそうですね。

2019/09/21(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

SF作家や科学者は決して無神論者ではなく、普通の人々より神を信じていると思います。
ただ彼らが求める神は一般宗教の如く人格化された神ではなく、宇宙の法則そのものになります。
その点ではバーソさんに近い考え方で、神の表現方向は異なりますが立派な信仰者だと思います。
彼らは偶像では表現できない文章や数式を用いて神を表し、神の真理を人々に伝える善き伝道者です。
なぜならば、偶像崇拝の宗教では核爆発を悪魔の仕業だと忌み嫌いますが、彼らは生命を生かす存在だと説きます。
現に太陽は核爆発によって我々を生かしています…その力を兵器に悪用して人を殺したのは悪魔ではなく人間です。
核兵器を作る科学者は信仰心がないと言うのは間違いで、それを「神が与えたもうた勝利の力だ」と勝手にこじつけて、殺人の道具に使う人間(政治家)の方がよっぽどひどい無神論者です。
強いて言うならば、この世の不幸の元凶は神でも悪魔でもなく、欲に取り憑かれた人間自身なのです。

2019/09/21(土) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)

> SF作家や科学者・・・が求める神は一般宗教の如く人格化された神ではなく、宇宙の法則そのものになります。・・・彼らは偶像では表現できない文章や数式を用いて神を表し、神の真理を人々に伝える善き伝道者です。
 いいですね。joさんに同意します。「宇宙の法則」は地球の自然の循環システムを見るだけで分かる通り、生態系に対する「愛」が根底にあります。
 ただ、進化論学者は、窒素や炭素から、神なしに勝手に生物が出来たとしているわけで、その思考の根底には適者生存と弱肉強食を基盤とする考えが含まれており、それは人間同士の争いを肯定することにつながりかねないので、ちょっと問題のような気がします。

 では「神の真理」とは何か。これはやはり「愛」でしょう。人間が母なる地球を愛し、兄弟である人類を愛し、自分たちの子供と子孫を愛し、みんなが仲良く平和にやっていくようにすること。それが神の真理であり、人間の成すべき務めだと思います。それを無視し、ないがしろにするような者は、神の真理に遠いと思いますね。
 
 以前にも書きましたが、地上の人間が考えることやイメージできるものは、すでに天に(も宇宙にも)あるという考えがあります。太陽が核爆発なら、人間も核爆発を考えられるのは当然です。
 太陽光線の中には有害なものがありますが、オゾン層などでうまく守られています。だから核爆発も人間の知恵でコントロールできる技術がそのうち開発できると思いますが、おっしゃる通り、人間の野望と欲望により、核はいまは悪魔的な作品になっています。

 悪魔サタンは愚かしい人間の見事な創作物ですね。全能の人格神が愛と公正の神であるなら、なぜ地上に諸問題があるのかという疑問が生じますが、その矛盾を解決するのが悪魔サタンなんですね。悪魔がいれば人間社会が悪いのはすべて究極的には悪魔のせいに出来ますから、そういう意味でも悪魔がいたほうが宗教指導者と宗教組織には都合がいいのでしょう。

 しかし本当は悪魔など存在せず、人間の心が悪いのです。邪悪な心を持ちながら、それを正当化し、自分のみが正しいとする独善的な思考が世の中に問題を引き起こしています。盗みや不正をするいわゆる犯罪者も悪いですが、自らを義人と考えて他の人を蔑み、貧しい人から金を搾取するような人も悪いのです。
 神がいないかのように利己的に人生を歩むのではなく、もっと神の真理を学んでほしいものだと思います。

2019/09/21(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]


ヒトが語る神ってのはそのヒトの都合で語られる事が殆どの件。教義も然り。

2019/09/22(日) |URL|ゆう。 [edit]

Re: タイトルなし

ゆう。さん コメントありがとうございます^^)

> ヒトが語る神ってのはそのヒトの都合で語られる事が殆どの件。教義も然り。

 うむ、深いようで、正しいようで、よく分からない、というのが率直な感想です。
 もう少し日本語として丁寧に説明を加えるか、具体的に事例を出していただけると、返事がしやすいのですがね。まあ、あるいはそうも言えるかもしれませんね~、と答えるのが精々というところです。(^^ゞ

2019/09/22(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

神がいない確率は、ゼロか1かのどちらかでしょうね

 紀元前に自然発生した唯一神信仰と今日の唯一神存在の哲学的考証とは 、随分と違ったものになってきた感がしますね。最初の唯一神存在の哲学的考証はユダヤ教エッセネ派ではないでしょうか。バーソさんはご存じでしょうが、加藤隆著「一神教の誕生」の中にエッセネ派がたどり着いた結論は「神は人間が考え出した契約の概念などに拘束されないはずである。そして神は動かない。…しかし神が動く可能性は全くなくなってしまったのではない。最後にもう一つだけ可能性が残っているのである。それは神が勝手に動くということ。」であると彼の見解が述べられています。

 今回の貴兄のブログ記事の「補足」に『「神」とは、宇宙や生命の精妙なシステムを創造し、ずっと統御している《知性ある大いなる力》と解釈し…』とありますし、前回のどなたかへのコメントで『この神は、人間に信じてほしいとか仕えてもらいたいとは思っておらず、人間世界に関与しようとも思っておらず、善だとか悪だとかの判断もしません。すべて人間の自由意思にまかせています。そんな、まったく自由な神なんですね。』ともありますが、これは正しく哲学的思考から生まれ出たものでしょう。
 そして、アインシュタインは「科学的探究は、特殊な宗教的感情を引き起こしますが、これは愚かな狂信的感情とは全く違ったものです。」と言い、その特殊な宗教的感情に関連して「人は、永遠という神秘、生命という神秘、そして、この実在の驚くべき構造などの神秘について、深く思いを巡らせてみるとき、畏敬の念を覚えずにはいられないのです。」とも言っています。これは「唯一神という超自然的ではないところの、大自然や宇宙あるいはそれらの全ての仕組みを支配する法則性、つまり真理と同義語の神」つまり「汎神論の神」の信仰を彼は持っていたと言えましょう。

 こうしてみると、バーソさんの神の解釈はアインシュタインにかなり近いものと言え、小生の唯一神に対する捉え方とも随分と近いものになっている感がします。今後の有神論の論証に期待します。

 ところで、今回は確率論が展開されていますが、例えば「適切なサイズの地球が誕生する確率は3百兆分の1」とあり、たしかに「この“我が太陽系”が生まれるのに伴ってできる地球という惑星の発生確率は3百兆分の1」と言っていいでしょう。でも、この宇宙に銀河は億と有り、一つの銀河に恒星は億と有るのですから、高度な生命体を産むであろう地球様惑星の発生確率は宇宙全部を調べれば、限りなく「1」に近いということになります。
 また、「無機物から単細胞生物が誕生する確率は6千億分の1」とういうのもきっと確かなこと(小生にはもっと低い確率だと思われます)でしょう。でも、その誕生機会が6千億回あれば発生確率はやはり「1」に近いということになります。地球の億年単位の歴史からして、そう難しいことではないでしょう。
 でも、生命誕生は確率論では語れないほどに奇跡的で、そこには神秘性を感じずにはいられません。

 ついでながら最新宇宙論について。宇宙論は、膨張宇宙論(ビッグバン理論)と定常宇宙論(アインシュタインが当初主張)の2説があり、前者が圧倒的に優勢ですが、難点は宇宙マイクロ波背景放射の波長に矛盾点(膨張宇宙論者はこの点を頬かむりし、非科学的存在になり下がっています)を抱えていることです。そして、前者は唯一神信仰、後者は輪廻転生信仰とオーバーラップしますから、面白いです。当然に小生は後者の説を支持。もっとも輪廻転生信仰はないですが。

 そろそろ年末ジャンボ宝くじ。億という金額が当たっては人生が狂いますから、5千万円ぐらいが当たるジャンボミニをバラで10枚毎年買っています。でも、何度買ってもニアミスさえしない。確率100%で当たる末等300円のみ。しかし、買ってから抽選日までずっと夢を見ることができます。毎年、暮れには2700円ででっかい夢を買う。これも楽しいものです。
 うまく仕組まれている宝くじです。300円の換金のみに宝くじ売り場へ行くのは面倒だから、換金のついで宝くじをまた買う。こうして少なくとも年に1回は散財させられる。ちりも積もれば山となり、随分と公営ギャンブルに奉仕させられています。でも、決して当たらない。いかにも確率が悪すぎます。もうそろそろ末等300円を破り捨てて二度と宝くじ売り場へ足を運ばないようにしたほうがいいようですね。

2019/09/23(月) |URL|永築當果 [edit]

ちょいといい加減ですが

おひさしでーす

無神論者となると、神の存在しないという説を語らなければならない。
有神論者も又、神が存在するいう説を語らなければならない。

ま、どっちもどっち

神の存在を論するものとしては、聖書だとか仏典、コーランだとか、でもこれは神の存在を論するものと言うより、最初に神ありきで神の教えを記したものですよねぇ。

おいらはこの世に神様、仏様、アラーなどと言うものの存在は信じないけど、何故信じないのかと言われると返すべき言葉も思いつかない、と言うより、思っても見ないのである、まして唯物論とか無神論とかそんな知識も皆無で、でも何だろう教会に行けば十字を切るし、お寺に行けば手を合わせるし、時には神様助けてなどとも呟くし、こう書くとなんともまぁいい加減な爺かと思われますが、ほんと、いい加減なのです。

神様がいるか、いないか、信じるか、信じないか、それは人それぞれ、そのことに異を唱えるつもりは毛頭ありません、治験で使われる薬にプラセボと言うものがありますが、信じることで本当に聞いちゃうことだってあるのです。

未知の物の存在を証明しようとしなくても、個々の心の中で、信じるか、信じないかを選択すればいい事、こういう事って多数決では決められないし、それぞれの信念を尊重し合ってこその平和な社会。

だんだん話が訳分らなくなってきちゃいますので、この辺で・・

でもいいお題でした、本当はもっと神妙に考えてみましたが、なんせこんな性格ですので、ついついおちゃらけてしまい、失礼いたしました!!

2019/09/23(月) |URL|ばく [edit]

Re: 神がいない確率は、ゼロか1かのどちらかでしょうね

永築當果 さん コメントありがとうございます^^)

 いやあ、とても面白かったです。そして、よく考えていただいて、まことに有難い限りです。

 エッセネ派とは世俗を離れ、少数の者はクムランの洞窟に住み、禁欲を旨とする神秘主義的な少数グループです。魂の不滅とか運命論など、ユダヤ教の主流であるパリサイ派とは違った特殊な「神」観や教義や人生観を持っていたユダヤ教の異端です。
 しかし神が人間と「契約」をするというユダヤ教の概念も、じつにユニークで面白いですね。遊牧民は住所を常に変えているわけで、行く先々の土地の人々と契約をしないと共存して生きていくのが難しかったのでしょうか。
 中東社会では、商取引などでは、互いにふっかけ、値切り、熾烈な駆け引きがあるようですが、しかし一度決まった約束は簡単に覆したりはしなかったのでしょう。そういう意味では欧米の白人のほうが平気で二枚舌を使って外交をしたり、ひどいことをしています。

 アインシュタインの神は「法則性、つまり真理と同義語の神」ですが、それに顕著なる「意識」を加えると、私の信じる「神」に近くなると思います。
 なぜ「意識」を重要視するかといえば、例えば建築工事などは、必ず、こういうふうに作ろうという意図や計画、すなわち意識があって作業が始まるはずですし、地球上の生物には単なる生命だけでなく、意識や心や感情があるとしか思えないからです。
「意識ある結果は、必ず意識ある原因から生じる」と考えるのは合理的かつ科学的な推論でしょう。ですから生命が単細胞生物から突然変異などにより進化して複雑化して最終的に人類になった「進化」的な考えが正しいとしても、それは生物がたまたま偶然に天文学的確率をクリアして幸運にも向上してそうなったのではなく、宇宙を統御している或る「偉大な意識ある力」がそうさせたはずだと考えるわけです。

> この宇宙に銀河は億と有り、一つの銀河に恒星は億と有るのですから、高度な生命体を産むであろう地球様惑星の発生確率は宇宙全部を調べれば、限りなく「1」に近いということになります。
 この考えは要は、宇宙には銀河は無数にあるのだから、宇宙全体を考えれば生命誕生の確率は極度に小さくなるはずだ。地球と生命の確率がたとえ千億分の1だとしても、宇宙には千億以上の恒星や星団があることを考えれば、確率の可能性は極度に大きくなって発生確率は「1」になるはずだという論理でしょうか。

 話を分かりやすくするために、確率を小さくした例え話で考えます。
 宝くじが全部で1000枚発行され、1等が1枚あるとします。確率は1000分の1です。一人が10枚単位で買えば、確率は100分の1になります。これは分母が100で、分子が1です。
 この宝くじは日本だけでなく、世界100か国で発行されたとします。そうすると宝くじの確率は100倍になって「1」、つまり100分の100になりますか。
 確かに分母も100倍になるので100×100イコール10000になりますが、分子も1×100イコール100で100倍になり、つまりは「10000分の100」になるのですから、すなわち「100分の1」で同じ、じゃないですか。
 日本に住む日本人が買う宝くじの確率は100分の1で、外国に住むある人が買う宝くじの確率もやはり100分の1のはずです。どの国でも、総体的に見ても、「宝くじが当たる確率は100分の1」で、変わらないのじゃないですかね。
 プールに時計の部品を何兆億回か落したら1個はできるという例え話の確率は、プールの数を1000倍に増やした場合、他の999のプール場でも、そのプールでは、そして全体のプールでも見ても、確率はやはり同じ数字になるのではないですか。
 つまり生命の誕生の確率は、地球上の生命の話なんですが、この確率のパーセンテージは、そもそも宇宙全体で生じ得る生命の「科学的な可能性」の場合でも同じはずですから、地球上で確率が「千億分の1」なら、宇宙全体でも、分母と分子が銀河の数だけ掛け算で増えるだけで、同じ「千億分の1」という一定の確率則が働くはずです。

> 誕生機会が6千億回あれば発生確率はやはり「1」に近いということになります。
 あ、あ、いや、そうか。これは、「発生確率はやはり1」ではなく、「発生可能な事例は1ぐらいはある」という話ですか。上記の銀河が無数にあるからという話も、「発生の可能性の事例は一つぐらいはあるはずだ」という話でしたか。
 うーん、ですが、こんな話もありますよ。以前なにかで読んだのですが、生命発生の確率は、宇宙にある原子すべてを合わせた数より多い数の分母になるそうです。

 それにしても、「もうそろそろ末等300円を破り捨てて二度と宝くじ売り場へ足を運ばないようにしたほうがいいようですね」と思うその同じ論理思考で、「もうそろそろ偶然の確率を信じる進化論から足を洗ったほうがいい」ように思うのですがね。(笑)

 しかし宇宙論は面白いですね。知的好奇心とロマンをかきたてられます。
 旧約時代のダビデは夜、満天の星を見て、「わたしは、あなた(神)の指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」(詩編8:3,4)と感嘆していますが、現代の私たちも、これほど広大無辺の宇宙がなぜあるのか、そして宇宙に比べれば塵に等しい自分がなぜ地球上に生を受けて生きているのか、といったことを考えさせられますね。

2019/09/23(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: ちょいといい加減ですが

ばくさん コメントありがとうございます^^)

> 無神論者となると、神の存在しないという説を語らなければならない。
有神論者も又、神が存在するいう説を語らなければならない。
ま、どっちもどっち

 そうです。ある人が、自分は無神論が好きだというのであれば、思想の自由があるので、それはそれで一向にかまわないのですが、ただ無神論の方々は「有神論者は間違っている」「神を信じる奴は馬鹿だ」と頭から決め付けてくることが多いので、「それはおかしい、無神論を証明する明確な物的証拠もなく、確率的に考えれば無神論の証拠は『無限に近いゼロ』でしょう」と言いたくなるのですが、でも無神論のほうはその「無限に近いゼロの可能性」を絶対的に信じているわけですから、その根拠のない、揺るがぬ信仰はたいしたものだと思います。(笑)

 それに、有神論のほうが、より幸福に人生を生きられ、よりやすらかに人生を全うできると思えるので、信じるほうが益があると思っています。なにしろ死んでも魂は永遠だと思えるなら、死んだら自分の存在は宇宙から消滅するのだと思うより、だいぶ精神的に楽になれると思いますね。むろん、死んだらそれで終わりの人生で一向にかまわないと思う精神力の強い人は、それはそれでかまわないのですが。

> 薬にプラセボと言うものがありますが、信じることで本当に聞いちゃうことだってある
 自分は救われたと思っているだけでも、精神的には救われているのですから、信仰というのは偽薬のようでもあり、諸刃の剣的なようなところもありますね。もし、鰯の頭のようなものに何十万円とか何百万ものお布施や寄付金を払って信仰しているなら、その「救われた」という思いは空しい勘違いになりますが、ともあれ、ある種の精神的救いを与えてくれていると思われ、しかも清く正しく愛をもって生きることを教えていて、社会をよくすることに役立っている宗教団体なら、存在価値がないとは言い切れないようです。

> 教会に行けば十字を切るし、お寺に行けば手を合わせるし、時には神様助けてなどとも呟くし
 日本人は唯一神信仰ではないのが、ある意味で生き方を自由にしていますね。外国から見れば宗教的に無節操な国民ですが、なんでも受け入れ、吸収し、昇華させるという日本人の得意技が、宗教観にも表れています。そして神道は自然神を大事にして、「和」の考え方を基盤としているようなので、平和で寛容な国民性をつくるのにも寄与しており、宗教的に面白いと思いますし、日本人は恵まれているとも思います。

2019/09/23(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

ちょっとまて

>>>無神論者は《神が存在しない》説の根拠を語らなければならない

 ちょっと待て、悪魔の証明はご勘弁。逆にだよ、神様がいる証明をしておくれよ。まずそれからだ(笑

2019/09/23(月) |URL|miss.key [edit]

Re: ちょっとまて

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)

> ちょっと待て、逆にだよ、神様がいる証明をしておくれよ。まずそれからだ(笑
 ちょっとマテ。「悪魔の証明はご勘弁」ですか。
 しかし、いつだかも言いましたが、「証明」してほしいとは書いてないのですよ。そうではなく、「根拠」を語ってほしいと書いているのです。神がいない証明はできないですが、その根拠は語れるはずです。だって「神がいない」と思っているということは、そう思っている根拠や理由があるはずですから。
 ちなみに「マテ」は、miss.keyさんの口癖です。(笑)

 星新一が書いた「無神論者となると、神の存在しないという説を語らなければならない」のくだりの趣旨は、要は、無神論者は自分では確たる証拠が言えないのに、自分のことを「無神論者と軽々しく口にできるのは、日本ぐらいだろう」と言っているわけです。欧米では有神論のほうが主流ですから、無神論者は「神がいない」と思える根拠を論じなければ、論理的な思考を持ってない人間だと思われるからじゃないですか。パスポートでも宗教の項目に「無し」と書くと、外国の税関に怪しまれるという話がある通りです。

 それから、先回か先々回も書いたと思いますが、「神のことを論じるときに『様』を付けるのはやめてほしい。宗教が教えているような人格神を信じているのではないのだから」と今まで何度も申し上げているはずなんですが、毎回、miss.keyさんは、私が思う「神」とは違う「神様」のことを考え、その違う「神様」のことを否認していますよ。私も、その「様」が付く神は否定していることは、今回も最後の「補足」に書いてあるのですが。

 「まずそれからだ(笑」と言われたので、神が存在すると思える根拠を拙々と、否、切々と論じてもいいのですが、でもそういうことを信じないひとに対して、コメント欄ぐらいの文章量で説明しても、理解して納得してもらうのは到底無理ですし、時間と労力の無駄になります。私の能力では不可能ですし、たとえイエスでも無理だと思います。

 ゴーギャンと同じく、なぜ人は生まれてきたのか、人生の意味は何か、死んだらどうなるのか?というようなことを知りたいと思っている人には、私は神について知ってほしいと思っていますが、人には思想の自由、宗教の自由がありますからね、別にすべての人に無理に神を信じてほしいとは全然まったく微塵も思ってないのですよ。かえって強引な折伏は迷惑を掛けますから。

 あ、それにしては毎回毎回欠かさずコメントをいただいて有難いと思っています。miss.keyさんのコメントは面白いので、反対でも何でも、私は非常にうれしいですし、楽しみにしています。でも内容によっては、スルーでも無視でも何でも自由にしていただいていいですからね、本当に。無理しないでください。

 それに今回はビッグバン説と進化論による地球上の生命誕生の科学的な「確率」を論じただけですから、それ以外の話は、この記事とはテーマが離れた別の話題です。

 有神論の論証的な話は過去記事で何度か軽く扱ってきたものの、詳しく説明しようとすれば、かなりの時間と手間が掛かり、膨大な文章量になります。拙ブログはそこまでスピリチュアルなブログではなく、いろいろ雑多な駄洒落ブログですから、そういう硬めの話は、時間を見付けて、たまにはおいおい書いていきたいと思っています。
 ただ、矛盾が多く、科学的にあり得ない確率の「進化論」を、頭から信じきっている人が多いのは不思議に思っています。

2019/09/23(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

RE:RE:神がいない確率は、ゼロか1かのどちらかでしょうね。

真向勝負のような意見をコメントしましたが、「とても面白く、有り難い」との返コメをいただき、ほっとしております。有り難うございます。
ご指摘の確率の捉え方の件ですが、長文での解説をいただき、申し訳なく思っておりますが、少々追加説明させていただきます。

「宝くじが全部で1000枚発行され、1等が1枚あるとします。一人が10枚単位で買えば、確率は100分の1になります。世界100か国で発行されたとします。」
この場合、次のように考えたときは違う確率になります。
“当たった”と叫ぶのは各国の元首のみで、庶民が当たったときは黙っている。ある日、世界中で一斉に宝くじが発売になり、100人の元首全員も10枚買いました。さて、当選発表の日、全世界サミットで元首全員がとあるホテルに集まっており、それぞれが宝くじの番号を見ます。そして、100人の元首のうちの1人が“当たった”と叫び声をあげる。この場合の確率は「1」ですよね。
ということで、宇宙のどこかの地球型惑星で生命が誕生する確率は「1」になって不思議でない、ということになりましょう。

生命誕生の確率については、上記とはちょっと違う説明になりますが、具体的には次のように考えられます。
雷が落ちると、無機物から有機物が生ずることがあることが知られています。この確率はけっこう高いようです。次々と雷が落ちれば有機物も多くなり、そうなると次に雷が落ちると有機物同士が化学反応する確率も高まります。これ(雷が落ちる)が繰り返されればどんどん複雑な有機物ができていくというものです。
雷は雨が降る所であれば、往々にして発生します。地球上の各地で雷が落ち続けていると言っていいでしょう。これが億年単位で繰り返されれば、地球上で一斉にではなく、わずか一か所、どこかで生命誕生という確率はけっこう高まろうというものです。

無機物から有機物の発生、有機物を元にアミノ酸の生成、アミノ酸結合によるタンパク質の合成、それから幾つもの化学合成を経て生命誕生となるようなのですが、これは全くのランダム反応ではなく、窒素結合した有機物は例えばアミノ酸の形で安定しますから、アミノ酸が自然に多くなると言えますし、アミノ酸結合によるタンパク質の合成も、アミノ酸の相性で一定の安定した結合をしてタンパク質になる傾向を持っていますから、これもランダムではありません。
太古の地球上における化学反応というものは、高電圧なり強い紫外線やX線にさらされると、安定した有機物の切れるべき所が切れ、くっつくべき所がくっつく、という恒常性を有しているのが有機物の一般的特性ですから、だんだん高度な(生命体に存在する高分子化合物)有機物が合成されていくと考えられます。

進化論は、ダーウィンに端を発する自然淘汰説に突然変異をからませたもので、今や突然変異が強調されています。しかし、これでは説明が付かないことがあまりに多く、「用不用説」のほうが説明しやすく、小生はこちらを支持しています。「使うものは使うほどに発達し、やがてそれが固定される」というもので、その固定法が未解明なのですが、これは遺伝子(DNA配列)では語れない範疇のものです。
なお、どの生物も「進化」しているやに言われますが、遺伝子(DNA配列)を客観的に見てみると「退化」しているというのが実態です。「用不用説」からして「使わないものは退化し、やがて滅失する」のでして、ヒトもそうですが、原始的な哺乳類では働いている遺伝子(DNA配列)が大きく傷つき、ヒトではもはや機能を失っているものが随分と多いですからね。

「旧約時代のダビデは夜、満天の星を見て感嘆しています」とありますが、1か月前にそれに近い満天の夜空を見ました。御嶽山の中腹にある濁河温泉で泊まった夜、外へ出て夜空を眺めたのですが、街の明かりから随分と離れた場所でしたから、そりゃあ奇麗でした。アラビア辺りへ行って、月の砂漠ではなく新月の砂漠で一晩中夜空を眺めていたら、世界観、宇宙観も変わるんじゃないかと思います。海外旅行はもうたぶん行かないと思いますが、行くとすればアラビアの砂漠、そこしかない、と思ったところです。

2019/09/24(火) |URL|永築當果 [edit]

Re: RE:RE:神がいない確率は、ゼロか1かのどちらかでしょうね。

永築當果さん コメントありがとうございます^^)

 また長文のコメントで、ありがたく読ませていただきました。

 宝くじの確率の話。当たった元首は「1」ではないか? その通りです。その宝くじには必ず1等賞が入っているのですから、「1」の可能性が入っている宝くじであれば、1等に当たる人は必ず一人いるのは当然です。しかし、その宝くじの確率は100分の1で、変わりはないはずです。
 あるいは確率が1兆分の1でも、当たった人の観点でみれば、当たった人は確率「1」であることは当然のことですが、でもその確率は1兆分の1の幸運です。ですから、この宝くじの例えは、必ず1等が入っていることが前提になっている場合の確率の話ということですね。宇宙における生命の発生については必ず1つの事例はあるとは前提できません。ここが違う点ですね。

 ですが、ここで言いたいのは、確率の数字がゼロではなく、分母と分子で表される分数である限り、当たる可能性は一つはあるのではないか、ということのようですね。しかし宝くじなら必ず一つは当たるようになっているので、前提として1があるので、「1か、ゼロ」といってもいいでしょうが、生命誕生の場合は可能性が有るか無いか分からないのですから、「あり得ないほどゼロか、ゼロ」と言ったほうがいいのではないかと思うのですが、どうでしょう。

 だいぶ以前に、有機物が生じることはあり得ると実験室のビーカー内で確かめられました。そのニュースを聞いて少し動揺した有神論者もいたようですが、それはいろいろなものを混ぜて電気的なエネルギーをいろいろな方法で作用させた学者がいたから出来ただけのことで、神はそのような材料を用いてある種の有機物を創ったのだろうと推論することもできるわけです。ただしこれは複雑な生命体ではありません。

 同様のことは雷でもあるのでしょう。ですが、それが生命を持ち、意識を持ち、知恵を持ち、それが現代人でも作れないほどに英知があるものに自然に進化してくものだろうか?という点が、進化論を正しいとするか間違っているとするかの分かれ目なんでしょう。

 「用不用説」は「使うものは使うほどに発達し、やがてそれが固定される」としても、それは人間の習慣的な考え方を基盤としています。すなわち、そこには必ず意識と知恵が必ず伴っているはずです。
 なにかを放置しておいて何らかの意図や意識がなく、ひとりでに勝手に発達したり進化することはあり得ません。子供に教育を一切施さないで、子供の知恵が発達することはありません。狼に育てられた子供が10代で見付けられた事例がたまにありますが、賢いどころか、ガーガーうなるだけ。猿にも劣る知能しか持っていません。だから、いま親は子供を学校以外に有名塾にも通わせて、必死に知識を詰め込もうとしているのではないですか。

 砂漠に子供用の自転車を置いてあるのを見つけたら、どう思うでしょうか。古代の鉄やなにかの元素がうまいこと進化して出来た機械があると思うでしょうか。それともメーカーはどこか、なぜここにあるのかと思うでしょう。
 これを50年も放置しておけば鉄は錆び、ゴムもボロボロ、500年も経てば鉄や硫黄などの粉末になり、やがて地球の塵に戻ってしまいます。ものは単純化するほうが安定化する。これがエントロピーの法則です。

 ところが進化論の考え方は、自然界の法則とは真逆に物事が進行します。自然にまかせて放っておけば、勝手に都合よく発達し、進化していくのです。自然はそのような仕組みになっていると考えるのです。そんな仕組みになっているなら、そうならせた意識(意図)や知恵や力があるはずだと思うほうが素直なはずですが、そうは思わないのですね。そう思うと、それがサムシンググレートだよ、それが創造神なのだと言われてしまうからです。

 放置自転車にはやがて2サイクル単気筒エンジンが付き、4サイクルDOHCに変わり、V形2気筒や直列4気筒になり、2輪が4輪になり、全輪駆動になり、12気筒レーシングエンジンになり、そして突然に前輪が翼になり、プロペラという突飛なものが出来、一部が動く昇降舵に方向舵というものも出来、エンジンの駆動軸がプロペラにつながり、空を飛び始め、エンジンも星型になり、水冷式になり、時速500kmを超える速度を出すようになっている間に、車も進歩してハイブリッドになり、電気モーターカーになり、空のほうはホバリングができるヘリコプターも出来、ジェットエンジンも出来、ロケットエンジンも出来、成層圏を越えて月にも行けるようになり、イオンで飛ぶ飛行船も考えられ・・・と、そのように目覚ましく進歩発達していくことが、人為的な(あるいは自然界に働く)知恵や努力や工夫が一切なしに、本当に「偶然に、自然に」そうなっていくことが自然界の生物にはあり得るのでしょうか。

 自動車や飛行機の場合は人間の知恵により、20世紀の初頭にやっと試験飛行に成功したものですが、人類の誕生は何千万年も前とされているわけで、そんな前にすでに現代人とほとんど同じDNAがあったことを考えると、現代科学者でも作れないほど精緻巧妙なものが、単なる有機物程度のものから「使うものは使うほどに(自然に)発達し」ていくものだろうかと常識的に疑問に思うわけです。

 生命というのは単に生きているだけでなく、「自己増殖」という不思議なことを行ないます。自転車を買って置いておけば、2,30年経てば、もう1台良く似た形の子自転車が生まれ、それがまた孫自転車を次々に生み出すことがあるだろうかと思えば、進化論は「用不用説」であっても荒唐無稽な話だと思うのですが、しかし進化論を信じる人は、いや、あり得るのだと思いこんでいるわけで、ここは両者とも物証で証明できないので、やはり信じるか、信じないかの「信仰」の違いになるようです。創造論のほうは多少なりとも論理的に考えますが、進化論のほうは基盤が信仰のような気がしますね。

 数学的には確率はゼロではないので「あり得るはずだ」と考えるのが進化論者。ゼロではないが天文学的な数字なので「あり得ない」と考えるのが有神論者。どちらをとるかは信仰に依るので、両者は平行線を歩むのみのようですが、しかしそれにしても生命のルーツを考えるのは非常に面白いことだと思います。

2019/09/24(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

あり得ると有り得ない、その観念の違い

物凄い長文の再度の解説有り難うございます。
行きつくところは、バーソさんの次の捉え方。

数学的には確率はゼロではないので「あり得るはずだ」と考えるのが進化論者。ゼロではないが天文学的な数字なので「あり得ない」と考えるのが有神論者。

なるほど、です。
そこで小生と貴兄の探求がそれぞれの道に別れていくのですね。これも面白いことです。
小生も思うに「生命の神秘さは奇跡としか言いようがない」と結論づけられます。自然科学の辞書には「奇跡という言葉はない」にもかかわらず。
でも、そこには何か必然性があるのではないか、現在の人類の英知では解明されないものの、大自然の摂理、原理が必ず働いている、と思いたいという「信仰」が強いです。

以下、返コメに関して少々の反論。

人間の自由意志、意識といったものは強烈なものではありますが、猿にだってそれは少しはあり、どんどん遡っていくと単細胞生物にも意識はある、となりましょう。単細胞生物の走光性は単なる反射か意識か、このあたたりはおぼろげになりますが、意識と捉えたほうがいいように思えます。命あるもの全てが意識を持っている、と整理した方が、次なるステップへの思考がスムーズになると思っています。

自転車放置の例からエントロピーの法則の説明がありますが、エントロピーについては熱力学上の法則であって、エントロピーの概念は自然界の法則全般に適用できるものではありません。例えば海水として非常に安定したものであっても、塩水湖が干上がればガスと個体の2相に分かれ、岩塩ができるのです。
生命現象はこれと一緒で、負のエントロピー(正しい表現ではありませんが)とでもいうような逆行現象を起こすのです。

科学技術の目覚ましい発展というものは、たしかに客観的に見て驚愕させられるところです。でも、猿社会には科学技術はない、とは言えません。道具の使用を科学技術と捉えれば、猿だって道具を器用に使う種が複数存在しますから、そう言えます。太古の時代の人類は猿社会から半歩前進して単純な石器を作っただけであるから、その時点ではそう捉えるのが素直でしょう。それが延々と200万年も人類は進歩させることなく、つい最近まで“脳無し”で暮らしてきました。

石器を高度化させ始めたのは高々数万年からで約1万年前(新石器時代)からは猛スピードでそれを高度化させ、今日の石工職人に勝るとも劣らぬ匠の技を持つに至ります。驚異的な科学技術の進展はこのときに始まったと小生は捉えています。
問題は、その原動力はどこにあったか、です。これについては、自分なりにそれなりの仮説を打ち立てたところですが、何か自然環境的、人類社会構造的な要因(小生の説は後者)があるはずです。

そして、生物界全体の進化に関しては、自然環境的要因が強く働いていると考えざるを得ません。生きた化石と呼ばれる動植物がけっこうありますが、それは自然環境がどれほども変化しない場所で生息できたからでしょう。加えて、生物界全般を見れば単細胞生物が圧倒的に多く、これも生きた化石の範疇に入りましょうが、単細胞生物であっても1個体が環境変化に応じて2つも3つもの増殖法を使い分けるという器用な生物もおり、その多様性は計り知れないものです。

生物進化のエポックで特筆すべきは、一つに多細胞化、一つに雄雌の分離、この2つですが、この2つの事件も自然環境の激変がなせる技として推論できましょう。これについても自分なりに説を立てましたが、現在の進化論者は皆、目的論でそれを語っていますから、おかしな説明しかできておらず、始末におえません。

小生は「生物は無目的に生きている」のであって、唯一の例外は「目的を持たされることになった、ごく最近の人類だけ」と捉えています。
それは、いつからか。
人類が私有財産というものに目覚めたとき、というのが小生の主張で、それが、エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」で述べられているように、私有財産の重要性が高まったことによって人類に悲劇をもたらした、と総括できるのではないでしょうか。

以上、暇に任せて、あれこれ書いてしまいましたが、こうした考え方もあるということで、聞き流してください。

2019/09/25(水) |URL|永築當果 [edit]

Re: あり得ると有り得ない、その観念の違い

永築當果さん コメントありがとうございます^^)

 生物と無生物はミクロで見れば、みな原子で成っており、みな「動いて」います。しかしマクロで見たときに、動いているものが生物で、じっとしているように見えるのが無生物と分類されますが、何千年という長い時間の単位で見れば大きな岩が小さい砂になることもあれば、逆に「さざれ石」が「苔の蒸す」あいだに「巌となりて」ということもある、つまり「石灰質角礫岩」という岩も年月が経つと大きくなることがある(動いている)のだ、だから『君が代』の歌詞は間違ってはいないと何かで読みました。

 塩分が濃いので知られる死海は海抜マイナス430m。山から流れてきた川の水が湖に溜まる一方で、したがって湖水は干上がる一方なので、水分が蒸発して、塩分が濃くなったのであり、溶剤としての水がなければ、解けていた塩分は岩塩として固体に戻るだけのことで、エントロピーとは関係ないように思うのですが、どうなんでしょう。
 死海についていえば、湖岸にあった悪徳の町ソドムとゴモラを惜しんで振り返って見たロトの妻は、神罰で塩の柱になったと旧約聖書に記述されています。

 人間の意識については、脳や心臓にあるのではなく、人体の細胞一つ一つにあると言われています。日本人が1億3千万人集まって日本人全体の集合意識を表しているように、それらの一つ一つの細胞全体の集合意識が、個としてのその人の意識になっているのでしょう。
 私は植物にも岩にもそれなりの意識があると思っています。なぜなら創造者は自分を材料にして無生物や生物を造ったのであれば、被造物はみな創造者の意識や知恵や力もそれなりに受け継いでいるはずだからです。だからバクテリアでも人間の及ばない知恵を有していることは科学者により発見されています。

 雌雄の共同作業により新たな生命が誕生する。その仕組みもうまく出来ていますね。快楽を味わう行為がすなわち子孫を生み出す創造行為なんですから。

> 小生は「生物は無目的に生きている」のであって、唯一の例外は「目的を持たされることになった、ごく最近の人類だけ」と捉えています。
 なんとなく、そう思えますね。ですが有神論的に物事の根本から考えれば、無目的なものを叡智ある創造者が創るはずがないと思っています。賢い人間は意味のないものを作らないのと同じです。
 「私有財産というものに目覚めたとき」ですか。アメリカの先住民は土地について私有財産という概念がなかったので、だから簡単に白人に土地を奪われたとのだと読んだことがあります。アボリジニもそうだったと思います。
 だから人々が集まって住むようになり、「都市」ができたときに、人間同士の欲望による争いが増えてきたのではないかと思っています。
 バベルの塔事件は、当時だんだんと知恵が付いて思い上がった人々がシナルの平野に集まって、神に逆らって、高い塔を建てて名を揚げようとしたときに、神が怒って彼らの言葉を乱したので、バベル(混乱)という名で呼ばれるようになったと記述されています。

2019/09/25(水) |URL|☆バーソ☆ [edit]

ありがとうございます^^

他の記事ももちろんのこと、
バーソさんの創造論、有神論に関する洞察も、
毎度のことながら素晴らしいです。

あるときからぼくは、
生きものは「進化」しているのではなく、
そして「退化」しているのでもなく、
常に「その生きもの」と「外部条件やその他の生きものの特性」との相互依存の中で、
人知を超えた原理原則に従って(人間以外の生きものが誰からも教わらず、
子孫を残すための最善の行動を取るようにできてることなど)、
すべての森羅万象が常に「同時に創造されている」と、
そんなふうに感じるようになりました。
論理的でなくて申し訳ありません。

うちのカエルに昼間は葉っぱの色に擬態化し、
夜は闇夜に擬態化し、
捕虫活動を開始するものがいますが、
そういった生きものは生き残るためにそのように進化したというのではなく、
バーソさんが仰ってくださってるように、
創造されたときからそうだった。
そして絶滅していった種はその特性のままに絶滅していった。
という感触を禁じえないのです。

「交配」といった形での多少の「変化」のようなことはあると思うのですが。

で、人間だけがちょっと特殊で。
他の生命体にはない複雑な知性や複雑な欲求を享受してしまったがために、
人間だけが自分を殺したり我が子を殺害したり、
何かを信じたり、善と悪とを分別したりといった、
複雑なドラマを今なお創造し続けていますね。

2019/09/25(水) |URL|友資 [edit]

Re: ありがとうございます^^

友資さん コメントありがとうございます^^)

 いつも深く考えたコメントをありがとうございます。
 人間だけが本能で生きる動物とは違った特殊な存在であるように感じている。だから悪も善もある複雑なドラマを演じている、ですか。――――そうですね、聖書もそのように記述しています。

 聖書の創世記には、神は地球上に「種類に従って」植物を造り、「種類に従って」動物を造り、最後に「神の像に」人間を造った、と書かれています。これは紀元前1500年ぐらいの記述なのに、わざわざ「種類に従って」と何度も繰り返して書かれているところが、まるで進化論の出現を予期していたかのようです。

 神に形はないので、「神の像」とは神のイメージです。すなわち愛、公正、知恵、力などです。ですから人間だけが倫理観や良心を持ち、善悪の判断をします。
 創世期には、アダムがエデンの園で「善悪の知識の木の実」を取って食べたので、罰として死ぬようになったと書かれていますが、興味深いことに、このことにより人間だけが善悪を判断するようになったことが示唆されているのです。動物は本能で生きているだけであり、そんな倫理的なことはしないのですね。

 人間だけが持つ、そのような霊性については、新約聖書のほうでは使徒パウロが「内なる人」とか「霊の人」いう表現をし、霊的に学んで良い人格を身に着けた人を「新しい人」と呼んでいます。
 この対義語は「古い人」「物質の人」ですが、コリント第一2:14にはこう書かれています。「しかし、物質の[字義:魂の]人は神の霊の事柄を受け入れません。それはその人には愚かなことだからです」。

 このように、聖書は、神に反対する人には厳しいですが、しかし人は霊的に探求することで完全な「知」を得、地上でいろいろ悩んで楽しんで努力して生きることで物質的に完全な「体験」を得、そのようにして「霊の人」として完全な認識すなわち「悟り」に達するのでしょう。物質的な「知」だけでは完全な理解を得ることはできません。だから科学的な思考だけで、この世界のすべて、地球と生命の誕生などを理解することは難しいと思いますね。

 進化論については、「変化」はあると思います。私は大学時代に初めて野球をやったので4年間で右手が5㎝伸びました。若干の「進化」もあるだろうと思います。しかしウロコが羽毛になり、手が羽になることは物理的にあり得ません。爬虫類が鳥類になることは、突然変異でもあり得ないのです。魚類のエラが肺になることもあり得ないと思いますね。構造と仕組みが全然違うのですから。突然変異なんて考えは、進化論に都合のいい、魔法や奇跡のような怪しい考え以外のなにものでもないと思います。

 進化論が怪しいのであれば、創造論はずっと優位に立ちます。だって進化論に対抗する考えは創造論しかないのですから。ところが科学的な確率的に「ほとんどゼロ」の可能性を信じ、「結果には必ず原因がある」という非常に論理的な考えである創造論を悪く言う人は、論理的思考というものがどうなっているのだろうと思いますね。と、いつも有神論が悪く言われているので、少々強めに弁明しました。(笑)

2019/09/26(木) |URL|☆バーソ☆ [edit]

RE:RE:あり得ると有り得ない、その観念の違い

またまた長文の返コメ有り難うございます。
疑問点など、少々補足させていただきます。
<生物と無生物の違い>
生物の定義はウイキペディアによれば「生物が無生物から区別される特徴としては、自己増殖能力、エネルギー変換能力、恒常性(ホメオスタシス)維持能力、自己と外界との明確な隔離などが挙げられる。」と解説されていますが、これでいいでしょう。境界領域にあるウイルスなどは生物から進化(変異)した物とすれば整理がつきます。
別の表現をすれば「個体内でエネルギーが渦巻いている、つまり、途切れることなく化学反応が起きている」ということもできます。ただし、胞子や種子の形をとったときは一時的に休止する、という例外はありますが。
これが生物と無生物の違いと言っていいでしょうが、生物に例外なく付いてまわるのが「死」です。姿ある生物はやがて個体内でのエネルギー産生を止め、つまり死んでバラバラの有機物となり、細菌(紫外線などの場合もある)によって無機物に戻され、姿を消します。
無生物である岩が、砂になり、泥になり、やがてバラバラの無機化合物となって水に溶けてしまうのと見た目では同じですが、生物は、生物が生まれ育ち生き続ける段階では、これの逆をやるわけですから、「死」の面だけを捉えて、生物と無生物とは大差ないとするのはいかがなものかと思います。

<死海のたとえ>
おっしゃるとおりエントロピーとは無関係で、エントロピーは熱力学上の法則でしかなく、自然界の法則全般に適用できるものではありません。

<人間の意識については、脳や心臓にあるのではなく、人体の細胞一つ一つにある>
一つの細胞は、その細胞の中でエネルギーが渦巻いているのですから、それを意識と言っていいものと小生は思います。細胞の意識の集合として器官があり、器官の意識の集合として臓器がある、といったところでしょう。そして、臓器の意識の主張は、神経細胞が多ければ多いほど(あるいは神経伝達物質なりホルモンの分泌が多ければ多いほど)、それが個体全体に影響を与え、個体を動かすことにもなる、といったところでしょうか。

<植物にも岩にもそれなりの意識がある>
植物は動物のような神経細胞での意識伝達はなく、もっぱらホルモンでの意識伝達を行なっているようですが、動物と植物の意識の差はさほどないと思われます。
一方、無生物(例えば岩)の場合の意識というものは、たいていの岩は様々な無機化合物の大小の結晶が固化したものですから、それぞれの結晶の総和的意識があって、各結晶は単一無機化合物(複数のこともあり)の総和的意識があって、単一無機化合物一つ一つにも個々の意識がある、という捉え方になるのですが、その場合の意識の源泉はどこにあるのか、その意識を伝達する方法は何か。ここが現代科学では何も答えてくれないところですが、少なくとも「水」にはなにやら有りそうな感がする、というか何かあってほしいと願っているのが、小生の正直な気持ちです。

<賢い人間は意味のないものを作らない>
これは非常に難しい問題です。まず「賢い」人間なんてこの世にいるのか、ということ。また、「賢い」と「賢くない」とを区別する物差しがあるのか、ということ、そして「意味のないもの」と「意味のあるもの」を区分することができるのか、ということ。
小生思うに、人間が作りだした物で「本当に意味のあるもの」ははたしてあるのだろうか、なにもないんじゃないか、と、心寂しくなってしまいます。

<「都市」ができたときに、人間同士の欲望による争いが増えてきた>
小生も同感です。古代文明(都市が付き物)の発生とともに人類の大きな悲劇が始まり、今日に至ってもこれは止むことはない。
大学時代の友人にケツを叩かれ、今、「婚姻史 過去、現在、未来(仮)」と題して、論文を書こうかと重い腰をあげたのですが、実に平和であったろう古代日本社会においても「私有財産というものに目覚めたとき」から婚姻形態が微妙に変わりはじめ、それと同時に(当然の帰結ですが)女性の悲劇が始まりました。資料を紐解けば紐解くほど物悲しくなってきます。よって、遅々として論文づくりは進みません。もう年(71歳)だから、論文作成はあきらめようか、と思ったり。5分5分です。

(補足)
友資さんへの返コメで「ウロコが羽毛になり、手が羽に…、爬虫類が鳥類に…、魚類のエラが肺になることもあり得ない…」とありますが、発生学(受精卵から生体になるまでの変化を調べる学問)から、ほとんど全て説明がつきます。なお、魚類のエラは肺になるのではなく、ヒトの場合、エラは消失し、エラの筋肉が咀嚼筋や表情筋などに変化します。硬骨魚類は一時陸揚げされ、エラで空気呼吸するとともに消化管の一部から肺を作り、肺呼吸もしていたと考えられます。その後再び水中に戻り、肺は浮袋として残しています。軟骨魚類の場合は陸揚げされず、肺は持たなかったですから、浮袋はありません。面白いことに、軟骨魚類を陸揚げすると、だんだんエラで呼吸できるようになりますし、直接的実験ではありませんが、軟骨が硬骨に変化する(重力に逆らうための血圧上昇=流動電流の増加が引き金)と同時に硬骨内に造血巣(脊椎動物は硬骨の中で血液を作る)が生ずることが確かめられています。
(参考文献:「生物は重力が進化させた(西原克成)」)

2019/09/26(木) |URL|永築當果 [edit]

Re: RE:RE:あり得ると有り得ない、その観念の違い

永築當果さん コメントありがとうございます^^)

 生物と無生物の学術的な「定義」については、多少は承知しているつもりです。
 前回の返コメでは当該段落の最初に、「もの」はミクロに見た時には原子で成っておりという話をしてから、「マクロで見たときに」と断っているように、普通の人間の視点で見た場合に「見た目に、動く、動かない」の違いを言っているだけなんですよ。だから人間的な短期間の視点では動かないように見える「さざれ石」も「巌」となる国歌の話をしたのです。
 しかしミクロの目で見た場合は、どんな「もの」も原子で構成されており、その原子の素性はエネルギーであり、みな活動している。究極的にはみな原子で出来ており、みな同じものだと言っているだけのことです。
 F1レーシングカーと軽自動車と耕運機と戦車は、定義も形態も価格も使用法もそれぞれに違いますが、マクロな視点で見れば、「みなエンジンで動いている」と言っているのと同じことです。私の「意図」と話の「趣旨」を考えてみてください。

 意識はすべての「もの」みな持っていると考えますが、むろん確証があるわけではありません。ただ、その意識のレベルは「もの」により、それぞれ違っていると思っています。猿の意識と人間の意識はかなり違うでしょうし、一般の人間と釈迦やイエスの意識もだいぶ違っているのと同じことです。

 植物にも意識があるのはかなりの人が証言しています。モーツアルトを聞かせたら、きれいな花が咲いたとか、いい実が生ったとか言われています。水には人間の感情に反応する意識があるとして写真集が出ています。
 細胞は分裂を繰り返して増殖していきます。ということは細胞が生物の基本単位であると言え、したがって細胞の一つ一つに意識があるのは当然だと考えます。細胞に意識があるので、手指の怪我をした時には、皮膚の細胞に備わっている意識が自己修復作用をうまく働かせるのでしょう。

 「賢い人間は意味のないものを作らない」というのも、その一つ一つ言葉の定義までこだわって言われると、一切こんな会話は出来なくなりますよ。もっと一般的に考えてください。
 例えば頭がいい人は性能のいい新商品を作って、会社を有名企業にしていきます。当初のSONYやホンダがそうです。頭の悪い人は性能の劣る商品しか作れないので、会社を倒産させるかもしれない。その程度の話をしているのは分かるはずです。
 「用・不用説」にしても、《自然は賢い》ので《自然は意味のないものを作らない》はずであり、要は《人間の知恵の及ばないような巧妙なものを作る》という考えが基盤にあるのじゃないですかね。
 自然は意味のないものは作らないはずで、人間が意味がないと思えるのは、単に人間がよく理解してないだけだと思いますよ。急性虫垂炎だって、昔は盲腸という器官は意味がないので不用だから切ったほうがいいされていましたが、今は違ってきて、盲腸は免疫系の活性に役立っていると考えられているはずです。

 「ウロコが羽毛になり、手が羽に…、爬虫類が鳥類に…、魚類のエラが肺になることもあり得ない…」というのも、進化論を否定する学術的な話を、学者に対してしているのではないですよ。一般の人が一般の人に対して一般的な話をしているのです。
 乗り物に例えていうなら、車の前輪というパーツが飛行機の翼というパーツになることはあり得ず、ピストンエンジンがジェットエンジンになることはあり得ない。なぜなら構造と機能と使用目的が全然違うのだから、というような本誌ウ的なことを言っているだけのことです。
 前脚(手)が主翼になるなんてことを自然自身が勝手に考えたに違いな、なんて発想は荒唐無稽だとは思いませんか。そんなことが技術的に可能だし有用なことだと《自然界の知恵》が勝手に都合よく考えるのでしょうか。羽毛とウロコも、まったく発想と構造と用途が違うものでしょう。そういう話を簡単に述べただけのことです。その趣旨は分かると思うのですが。

 生物には「退化」や微妙な「変化」はあり得るでしょうが、全然違うものに突然に変異とか、あるいは「用・不用」という論理で、「種」が別の種に「進化」すると考えるのは道理や常識を外れていませんか。地上歩行から空中飛行に、突然あるいは徐々に変わるなんてことは、科学的にも常識的にも論理的にもあり得ないと思うのですがね。
 数学的にはゼロ点のあとにゼロが何百あっても、ゼロではないので可能性は無いわけでは無いかもしれないですが、それはあくまでも数字の上でする思考遊戯のようなものだろうと私は思っています。
 
 私は進化論は本質的におかしな考えだと思っているので、こまかな細胞のパーツやホルモンがどうしたという細部の話には関心がなく、それよりも、そもそも進化という現象が《科学的、論理的、道理的に》あり得るのかという話のほうが意味があると思っています。そのマクロの話なしにミクロの話をしても意味があるのかと思います。軽減税率の話でも店内か持ち帰りかで細かい点を議論するよりも、そもそも税金を一律に上げる消費税アップが最善なのかどうか、そもそも何のために使うのか、とマクロの話をするほうが重要だと思えるのと同様のことです。

 永築さんのように科学に詳しいと、一つ一つの言葉やその定義が気になるかもしれないですが、私は、記事を読んだら分かる通り、一般の人に一般の言葉を使って一般的な説明をしているにすぎません。ですが、細部に至らないほうが本質的な話が分かりやすく、そのほうが私の言いたいことや理屈は分かりやすいと思っています。

 進化論の話については以前も書きましたが、信じようと信じまいと、まったく自由だと思っています。
 ただ、この日本では、進化論は正しい、創造論はおかしいとあまりに盲目的に思いこんでいる人が多いので、学校ではそう教えられているかもしれないですが、それは科学的に証拠がまったく無い仮説にすぎず、論理的にはおかしいのだと言っているにすぎません。
 私は、誰が何を信じようと、それがひと様に実際に迷惑を掛けないなら、一向にかまわないのです。なんせ「考えはいろいろあるから面白い」と思っている人間ですから。


2019/09/26(木) |URL|☆バーソ☆ [edit]

考えはいろいろあるから面白い

バーソさんには、またまた長文の返コメをいただき感謝申し上げます。
なるほど、考えはいろいろある、合点しました。
小生の悪い癖で、何かを考えるときはいつも科学的に物事を捉え、論理展開して意見を押し付けてしまいがち。反省します。(といっても、ぶり返すこと往々でしょが)
今回、バーソさんと小生の考え方に、本質的に違いがあることがよく分かりました。

・「<ins>普通の人間の視点で見た場合に</ins>」
・F1レーシングカーと軽自動車と耕運機と戦車は、定義も形態も価格も使用法もそれぞれに違いますが、マクロな視点で見れば、「みなエンジンで動いている」
・進化論を否定する学術的な話を、学者に対してしているのではないですよ。一般の人が一般の人に対して一般的な話をしているのです。
・細部に至らないほうが本質的な話が分かりやすく、そのほうが私の言いたいことや理屈は分かりやすいと思っています。

といった捉え方や考え方、バーソ流の本質に迫る思考方法がよく分かりました。
バーソさんは謙遜しておられますが、過去記事からしてもけっこう科学的考察をなさっておられ、小生と近い思考法を採られておられるかと思っていたのですが、小生とは全く違った思考方法なんですね。

そうはいっても、気になるのは次の言葉
・「用・不要」という論理で、「種」が別の種に「進化」すると考えるのは道理や常識を外れていませんか。地上歩行から空中飛行に、突然あるいは徐々に変わるなんてことは、科学的にも常識的にも論理的にもあり得ないと思うのですがね。
・そもそも進化という現象が《科学的、論理的、道理的に》あり得るのかという話のほうが意味があると思っています。

進化論に関しては、小生は好奇心の塊でして、これを科学するという遊びに一時期没頭し、今もその余韻が残っており、興味を惹かれる課題です。
ところで、ノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑・京大名誉教授が2018年10月1日に記者会見で受賞の喜びを語られました。そのなかで次のようにおっしゃっておられます。

私…は、なにか知りたいという好奇心がある。それから、もう一つは簡単に信じない。
よくマスコミの人は、ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ、という話をされるけども、僕はいつもネイチャー、サイエンスに出ているものの9割は嘘で、10年経ったら残って1割だと言っていますし、大体そうだと思っています。

かように現代科学論文はいいかげんなものでして、正統進化論(ダーウィンが唱えたものに突然変異を加味した)とて間違いだらけです。進化の本質は何か、これを深く思考したとき、あるいは直観力を働かせた場合、“正統進化論はおかしい”というところへ到達するでしょう。小生は前者、バーソさんは後者、の方法によって“正統進化論はおかしい”と判断したように思えます。

もう一つご無礼をお許しください。
「賢い人間は意味のないものを作らない」に噛みついたこと。
小生は仏教という宗教は信じないものの、仏教思想が好きで、特に親鸞の思想に毒されてしまっていますから、ついそうなってしまって申し訳ありません。もっとも、親鸞という人間は嫌いです。なぜなら、浄土宗のままでいればいいものを分派して浄土真宗を立ち上げたからです。

1週間が経つのは早いもの。もう明日「バーソは自由に」の定期便が見られます。楽しみにしております。

2019/09/27(金) |URL|永築當果 [edit]

Re: 考えはいろいろあるから面白い

永築當果さん コメントありがとうございます^^)

 またまた丁寧な返信、ありがとうございました。お互いにかなり書くのに時間が掛かってますね。(笑)

地上歩行から空中飛行に、突然あるいは徐々に変わるなんてことは科学的にも常識的にも論理的にもあり得ないと思うのですが」について補足します。
 「突然に変わる」というのは、歩くための「前脚」が突然、飛ぶための「主翼」に変わるということですから、これは構造と使用形態だけを考えても常識的にあり得ないことで、もう奇跡か魔法の話のように思えます。
 なお、始祖鳥は爬虫類と鳥類の途中形態種だと学校で学びましたが、そうではないと何十年か前に発表されています。

 「徐々に変わる」というのは、何万年かの間に前脚がだんだんと翼に変わっていくという話で、それが事実なら、その途中段階は生存不可能なはずです。
 まだ空中を飛べもしないのに、ウロコは羽毛状のものになりかかっているので防御しにくくなっていて、骨は中空になりかかっているので脆くなっていて、足の指は翼になりかかっているので物を良くつかめない・・・というような中途半端な状態が何万年も続くのですから、途中段階の生物はとっくに絶滅しているはずです。
 これが人間のする画期的な新商品の製品化なら、いくら何十年間も製作して実験を繰り返しても、当初の企画通りの性能が出ず、正常作動も出来ず、テストしても失敗失敗の連続であれば、社長から開発中止の命令が出るのは間違いないでしょう。

 「用不用説」にしても、生涯の間に身につけた獲得形質が子孫に伝わるというのですが、その真偽は置いておいて、爬虫類がたまに前脚でジャンプしているうちに、その「跳ぶ」という特質が子孫に伝わっていくうちに空を「飛ぶ」ことができるようになり、長い年月の間には前脚が翼に変わっていったのだという論理ですから、これも奇跡や魔法レベルの話のような気がします。
https://twitter.com/i/status/1110665116792557570

 自然は、例えばDNAの造りを見ただけで、現代人でも造れないほど精妙に出来ているので、その絶妙な知恵に感嘆しない人はいません。自然にはかくのごとく偉大な叡智があるのですから、意味のないものを作るはずがないのです。自然が偶然に造ったのだとしても、不用なものを最初から造るはずがないと思います。

 これほどの知恵あるものが、ビッグバンという爆発から始まったとされる宇宙の中に偶然に自然発生したはずはなく、そうであれば偉大な智慧と力とエネルギーを持つものが造ったに違いないと推論でき、その根源たるものを創造者とか神と有神論者は呼んでいるわけですね。

 大体が、「進化」という言葉は文字を見ると、だんだん「変化して向上していく」というニュアンスがあるのですが、進化論学者がいう「進化」とは、例えば爬虫類が鳥類に「変身」するという「別種化」ですから、本当は「進化論」というより、「別種化論」そして「分化論」とでも言ったほうがいいような気がします。

 その「別の種」になる方法論の仮説として、徐々に変化していったという説と、突然に変化したという説と、生きやすい形質だけが残って向上していったという説などがあるように思います。

 しかし進化論が面白いという点はまったく同意です。昔、アメリカの黒人が自分の出自を探っていくストーリーの『ルーツ』という映画がありましたが、やはり誰しも、なぜ人間は存在しているのか、なぜ自分は生きているのか、どう生きたらいいのか、死んだらどうなるのか、などを知りたいのは当たり前のことですよね。

2019/09/27(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

お早うございます!

10月4日、今日は
聖フランチェスコの日ですので、
フランチェスコの言葉を、あれこれ
探していました。
「人は人の目によってしか神を見ない。
 罪びとよ、神の心で見ようと、信じようとしない、
 彼が(キリストが)神の真の子供であることを」

信仰心もそこまで行けば!
フランチェスコは好きですが、私には真似出来ません。

ゆうさんというかたのコメントを拝見して、
共感したところがありました。
「ヒトは自分の都合で神や教義を語る」
キリスト教のみに非ず、
全ての宗教に言えることかと思います。

個人の都合を抜け出して
則天去私の境地に至り、解脱するのが
私の一生の課題なのですが。
(言葉にすると安くなりますね)

我田引水になるようで申し訳ありません(-_-;)
小ブログのセコンド・タイトルとしています、
金子みすゞの、
「わたしは不思議でたまらない たれもいじらぬ夕顔が一人でパラリと開くのが」
彼女は浄土真宗信者でした。この詩は
ミクロからマクロの世界観に通じますし、
キリスト教と仏教を包含していると、
あらゆる宗教に共通していると、
あるいはヒトの作った宗教を超えていると、
サムシング・グレート、
クリエーターの存在を感じます。

いつもながらの興味深い主題に御礼申し上げます、
バーソさん。









2019/10/04(金) |URL|ミルティリおばさん [edit]

Re: お早うございます!

ミルティリおばさん コメントありがとうございます^^)

 Buongiorno!
 返信はイタリアのブログのほうに直接入れますね。(^^♪

2019/10/04(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2019/10/06(日) || [edit]

感想

神らしき何かが原因だと思う。しかし神も全知全能ではないので何かの不幸、事故によって音信不通となり人類は放置状態・・・これが私の結論です。

2019/12/31(火) |URL|昭和人 [edit]

Re: 感想

昭和人さん コメントありがとうございます^^)

 拙ブログにようこそ。宇宙の始まりや人間の存在について関心があるようで、大歓迎です。以下、コメントに対する私の感想を述べますね。

> 1.神らしき何かが原因だと思う。
 そうです。原因がないと結果は生じません。宇宙の原因は人智をはるかに超えており、「神らしき何か」であろうと思うのが自然な推論だと思います。それを宗教的な人格神とは違う「サムシンググレート」と称する人もいます。

> 2.しかし神も全知全能ではないので
 なぜ「全知全能ではない」と言い切れるのか、その根拠をぜひ論じてほしかったですね。それに、宇宙を創造した、人智の及ばない、神らしきグレートな存在があると認めながら、その神らしき存在はグレートではなく、不十分であるとするのははちょっと論理の整合性が弱い気もします。

> 3.何かの不幸、事故によって音信不通となり
 不幸と事故があったと言える根拠も示してほしかったです。しかし、それがあったと仮定しても、神らしき存在も事故には敵わないというのも気になります。
 人間なら不幸や事故があっても携帯電話一本で誰かと会話ができますが、神らしき存在はそのような意思疎通はできないと考えるのは、これもちょっと矛盾があるように思います。他にも、たとえば意思疎通ができないのではなく、意思疎通をする気がないという選択肢もありそうですから。

> 4.人類は放置状態・・・これが私の結論です。
 昭和人さんの論理展開を考えると、1番目はいいとしても、2番目と3番目の論理の根拠が示されてないので、4番目の結論に至るのは説得力が弱いと感じます。むろん、それは言葉数が少なく、説明をしてないせいが大きそうなので、できれば2,3番目の根拠を示してほしいと思います。時間の余裕が出来たら、もう少し長めのコメントをお待ちします。(^^ゞ

2019/12/31(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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