「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 『十戒』は、人間に対する神の信頼を示している。 


 コンビニのトイレに貼ってある白い紙が、気を使っています。
トイレをきれいに使ってくださってありがとうございます
 叱責調で「トイレを汚さないで使ってください」と書くより、表現がきれいで、
人間の善意に期待しているから少しは効果的だろう、と考えているのでしょう。

 歩道橋の側面に掲げられている標語が、気になります。
ゴミのポイ捨てはカッコ悪いぞ
 問題の本質は、自分の《カッコの良し悪し》ではなく、他者に《迷惑を掛ける
か掛けないか》の気遣いのはずだ。この訴求はコンセプトを間違えている。こう
いうアピールをするのは、人がますます自己中心的になっているせいか――――
と考えていたら、旧約聖書にあるモーセの『十戒』を思い出しました。


 tenco.jpg
 (1956年セシル・B・デミル監督パラマウント映画 “The Ten Commandments“ のモーセ)


 じつは『十戒』は、原語では《十の言葉》となっていて、《十の戒律》ではな
いのですが、それでは何なのでしょう?

.
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『十戒』は、《禁止事項》が断言的命令形で記されている。

 出エジプト記20章1~17節の要約ですが、「してはならない」のオンパレです。

《神に関すること》
 
一 あなたは、神(ヤハゥエ)以外のものを神としてはならない
 二 あなたは、崇拝に偶像を用いてはならない
 三 あなたは、神の名をみだりに唱えてはならない

《神と人に関すること》※
 四 安息日を覚えて聖なる日とせよ

《人に関すること》
 五 あなたは、父母を敬わなければらない
 六 あなたは、人を殺してはならない
 七 あなたは、姦淫をしてはならない
 八 あなたは、盗んではならない
 九 あなたは、偽証をしてはならない
 十 あなたは、隣人の財産を貪ってはならない


 ※:安息日は、1 人間が休息をして健康を維持するためと、2 神のことを思うためにあります。

 第十戒「隣人の財産を貪っ むさぼ てはならない」は、第八戒「盗んではならない」と
ダブっているようですが、第十戒のほうは《貪り》という《強欲》、つまり犯罪
に至る前段階の心の動機を問題にしています。罪は、隣人より欲しい、必要以上
に欲しいという《貪り》の気持ちから生じます。だから資産が何十億円あっても
まだ欲しがる人がいるのです。

 普通は犯罪行為を箇条書きに列挙するような律法が、《欲望》という心の問題
を扱っているのは非常に珍しいでしょう。これは『十戒』の締めくくりなのです。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
しかしヘブライ語の原文は、命令形ではなく、「戒律」ではない。

 ヘブライ語は完了形と未完了形しかなく、禁止命令の場合には、未完了形に否
定辞を添えて表現します。ですから「何々をしてはならない」は、「何々をしな
いだろう」「何々をするはずがない」と直訳できます。これが本来の意味です。

 したがって『十戒』の原意は、こうなります。

 一 あなたは、神以外のものを神としない
 二 あなたは、崇拝に偶像を用いない
 三 あなたは、神の名をみだりに唱えない
 四 安息日を覚えて聖なる日にする
 五 あなたは、父母を敬う
 六 あなたは、人を殺さない
 七 あなたは、姦淫をしない
 八 あなたは、盗みをしない
 九 あなたは、偽証をしない
 十 あなたは、隣人の財産を貪らない



 やたらに「あなたは」が出てきますが、日本語と違って主語が省略されないた
めか、あるいは人は訓戒や助言を自分自身には当てはめないせいでしょうか。

 国家の法律文なら一般論として「人は」「国民は」と書くか、複数形で「あな
たがたは」と書くようなところを、「あなたは」と言われているのは、神を愛す
「あなた」なら悪事はしないはずだ、と個人の心に語り掛けがされているのです。

 つまり神から愛され、神を愛している人間は盗みや殺人なんかするはずがない
と、神から人間に示された《信頼の言葉》が『十戒』なんですね。これはコンビ
ニのトイレの張り紙に似て、人間の善意に訴えているとも言えるかもしれません。


 kouka3.jpg
 紅海が分かれる奇跡によりエジプトを逃れるモーセ率いるイスラエルの映画シーン)


 というわけで、『十戒』は、神から人間への《愛の語り掛け》なのですね。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『神との対話』の本が『十戒』の本意について注解している。

 ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』P164-168から抜粋引用します。

 あなたがたは神への道をたどっていることを知るだろう。そして神を見いだしていることを知るだろう。なぜなら、次のようなしるし、兆し、変化があなたがたの中に起こるからである。

《第一戒と第二戒について》

 あなたがたは、心のすべて、精神のすべて、魂のすべてをあげて神を愛する。私のほかに神はない。あなたがたはもはや人間の愛も、成功も、金も、力も、いかなるシンボルも崇拝しない。あなたがたは、子供が玩具をわきへ押しやるように、それらを押しのける。それらに価値がないからではなく、あなたがたが成長して、それらを「卒業」したからだ。

《第六戒について》

 殺生を(理由もなく、意図的に)しないとき、あなたがたは神を見いだしたことを知る。どのような場合においても、他の命は奪えない(すべての生命は永遠である)。神聖で正当な理由がなければ、輪廻の一時期にある生命を壊しはせず、生命エネルギーの形態を変化させもしない。あらためて生命を尊敬するようになれば、植物、動物を含むあらゆる形の生命を敬愛し、最高の目的にかなっているときだけ、生命体に影響を及ぼすようになる。

 神の言葉は戒律でなく、約束だ。したがって、これは「言質げんち」である
 神は、神が創り出したものに対して命令をすることはない。神は神の子に語りかけるだけだ。それによって、あなたがたはわが家(注:神のもと)へ帰ろうとしていることを知るだろう。

        ※「言質」とは後の証拠となる約束の言葉の意。下線はバーソによります。


 自分には愛があり、まあ善人のほうで、神を知っていると思っている人はいる
でしょうが、本当にそうなら、その《兆し》や《変化》は普段の言動に表れるず
だと言われています。木はその結ぶ実によって良し悪しが分かるのです。

 しかしそれほど表れていなくても、駄目人間だとか偽善者だと落ち込む必要は
ないでしょう。失敗から学び、だんだんと向上していく努力も善いことですから。


 著者のニールに現れた神は「神の愛は無条件の愛である」と語りました。
 そうであれば、その愛は、人間を批判し、裁き、地獄で罰を与え、永遠に滅ぼ
すようなことは絶対にしないはずです。
 ならば人間は自分のやりたいことを選択して、その結果は自らが負えばいいの
です。むろん良心的に、ひとに迷惑が掛からないように、ですが。

 この《無条件の愛の神》を知ることができたのは、私の人生最大の収穫です。
 聖書の神エホバを信じ、人生の半分以上をそのために生きてきたつもりですが、
それもこの《真理》を知るに至るための、遠回りの道筋だったのかと思います。

 いま、こうして人生の絶妙を思うと、私は胸の熱さを覚えますね。




補足―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
●聖書の「神」はエホバ(ヤハゥエ)という名を持ち、人間と交流をする人格神ですが、しかしその
実体は神ではなく、天使と言われるような高次元の霊的存在です。ニール氏に自動書記という方法で
現れた神も、おそらくはハイヤーセルフという人間の魂の高次元の霊的存在であろうと考えられます。

●歴史を通じて権力者が人々を支配するために利用した最大のツールは、宗教とその思想です。聖書
の教えは、後の時代に、施政者らや宗教指導者に都合のいいように改竄されたと考えられます。だか
ら聖書の神は、独断専横的で、人間に崇拝と奉仕を要求し、従わない者には神罰を与えるのでしょう。

●私がいつも言っている「神」は、この聖書の人格神とは違います。しかし聖書本文はいじられてい
るとはいえ、本来の教えは探ることができるでしょうから、聖書を考えることには益があるはずです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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COMMENT FORM

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目からウロコの“神対”

>神の言葉は戒律でなく、約束だ。したがって、これは「言質」である。

これは『目からウロコ』の一節でしたよねぇ。
この《無条件の愛の神》を思うとき、イスラムの戒律を含め、
現存する教会組織に属する人々は何も思わないのか不思議です。

ってか、答えも既に書いていただいてます。(^_^ ;)

>●歴史を通じて権力者が人々を支配するために利用した最大のツールは、宗教とその思想です。聖書の教えは、後の時代に、施政者らや宗教指導者に都合のいいように改竄されたと考えられます。

聖なる言質が悪用され続けた歴史の長いこと。
施政者らや宗教指導者は未だに悔い改めません。
とはいえ『神対』は、全米120万部突破のロングベストセラー。
世界31ヵ国で翻訳され全世界で210万部突破!という現実が、
それこそ真の子羊たちの成長を物語っていて嬉しいですね。

2019/06/22(土) |URL|風子 [edit]

バーソ様
おはよう御座います。

コンビニのトイレの張り紙は確かに優しさを感じます。そして気をつけようと思いますね。
企業の社訓、社是なんかもこういうふうにしたら会社内が和むかも知れません。
しかし、法律は駄目でしょうね。悪事を働いても罰せられないような気になってしまいます。

愛新覚羅

2019/06/22(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: 目からウロコの“神対”

風子さん コメントありがとうございます^^)

 宗教というのは、おかしなと思える教えがけっこうあります。例えばイスラムの豚肉禁忌。豚は汚れているので、その肉を食べる人間も汚れていると彼らは考えています。なぜ汚れているのかは、コーランにそう書かれているからです。

 ユダヤ教はもっと厳しく、食べていい肉を探したほうがいいくらいで、大雑把に言えば草食動物の血液を完全に抜いた肉だけが許されています。魚類はエビ・カニ・タコ・イカ・ウナギなどが禁忌。ソースは混入物の選別が難しいので日本の醤油が多く輸入されているそうです。

 なぜいけないのかは経典が禁じているからですが、現代の学者はその学術的な根拠を考えます。当時は衛生面の環境が良くなく、不潔だとか病気になりやすかったという理由もありそうですが、異邦人とユダヤ人の暮らし方、すなわち契約の民のアイデンティティを維持するためというのが大きい理由だろうと考えられています。

 ということは厳密には正当な理由はないのですね。例えば、法的には神事ではないのに、神事だからと言って不合理な伝統を変えようとしない大相撲の業界に似ています。(もし国技なら総理大臣杯があるのは、国が特定の宗教をやるわけですから法律違反です。NHKが放送するのも問題になるはずです)

 人間は真理や真実より保守伝統のほうを大事にする傾向があるのでしょうか。そうなら自分たちの優位な立場を保持することを最重要視しているからでしょう。

2019/06/22(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)

 コンビニのトイレはきれいな所とそうでない所があり、そこの店主の意識が関係しているようですが、高速のSAやPAのトイレはきれいになりました。公園も昔に比べたら格段にきれいになりました。日本人全体のモラルが向上しているのかと思いますが、和式から洋式に変わったのも大きい原因のような気がします。

> 企業の社訓、社是なんかもこういうふうにしたら会社内が和むかも知れません。
 そうですね。社是はおおむね「何々すべし」という言い方が多いと思いますが、この『十戒』の原意のように「何々するだろう」と書かれると意外な新鮮さがあっていいかもしれません。しかしそれは精神レベルの高い社員がいる会社限定のような気もします。

> 法律は駄目でしょうね。悪事を働いても罰せられないような気になってしまいます。
 法律は優しくしたら、悪い人間がますます付け上がるでしょうね。フィリピンでは大統領が麻薬撲滅を目指し、警官による射殺を許可したら、ずいぶん治安が良くなったという報道があります。昔あったマックの熱いコーヒーで火傷して巨額な賠償金を払えとなった裁判事例では、それまで何度も同様の事例があって警告されていたのに、マックが改善しなかったので、その罰としてあんな巨額な金額になったそうです。これは極端な事例で、悪事とは言えないかもしれないですが、まあ人間は罰則が厳しいほうが規則を守るのは間違いないようです。

2019/06/22(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは

トイレの掲示で「一歩前へ」っていうのもありました。
CMで使われる「一歩前へ!」をマネたものですね。
ある女子大で教授が「わが校の生徒の半分はブスだ」と
言って大騒ぎになり教授が「わが校の半分はブスではない」と
言い換えて騒ぎが沈静したという話も聞いたことがあります。

十戒。ヘブライ語の原文だとかなり柔らかい表現と
なり、愛の語りかけになるという訳ですか。
十戒の全部を実行することは私には難しいです。
会津藩の子供向けの「什の掟」さえ守れないんですから。(笑)

十回、十階は「じゅっかい」とも「じっかい」と読みますね。
でも十戒は「じっかい」としか読みません、どうしてでしょうね。

2019/06/22(土) |URL|エリアンダー [edit]

Re: こんにちは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)

 トイレの掲示の「一歩前へ」は名句ですね。この言葉自体は平凡ですが、トイレの正面に貼られていると説得力があります。このひと言でずいぶん効果がありそうです。

 「十階で十界を思いながら十戒を十回述懐する」は、「述懐」以外は、みな「じっかい」と読むのが“規範的”だそうです。単に規範、つまりルールではなく、的が付くのですね。
「十」の音読みは「ジュウ」の他に「ジッ」もあり、訓読みは「とお、と」に「そ」もあるのですね。そういえば、デパートの「そごう」は「十合」で、「三十路」も「そ」でした。 

 なぜかについては、ネットにこんな回答がありました。

『十』の音読みは2つ。「ジュウ」「ジッ」のみです。「サンジップン」を「サンジュップン」と言っているアナウンサーもいますが、正しいのは「サンジップン」です。
『十』は歴史的仮名遣いでは、「じふ」と書きます。これに「本」や「個」などの助数詞がつくと、「ふ」の部分が促音便となり、「じっぽん」「じっこ」となるわけです。第二次大戦後、国語審議会の答申を採択して、昭和21年に内閣告示で、「大体、現代語音にもとづいて、現代語をかなで書きあらわす場合の準則を示したもの」ということで、「十」は「じゅう」と表記されることになりました。その結果、「う」の部分が促音便化して、「じゅっぽん」や「じゅっこ」が出てくることとなったわけです。大学時代の恩師によれば、「じゅっぽん」や「じゅっこ」などは、山の手言葉であったとか。つまり、一種の方言ともいえるものです。ですから、古い言葉で「十」のつくもので「じゅっ」は本来ないはずなのです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1442620034

 漢字は中国語ですので、もともと発音が違うのです。元々はおそらく「zip」のような発音でした。ですから、「ジッ」の方が古い語形に近く、「ジュウ」は日本語の発音変化のなかで新しく生まれたものです。
ただ「十」という漢字も特別です。他のpで終わる漢字は、「急患(キフカン)」を、「キッカン」とは言わず、「キュウカン」と言うように、新しい語形に置き換えられました。なのに「十干」は「ジュウカン」とならず、「ジッカン」の発音を残したままです。
 別の方向に変化したものもあります。「立(リフ)」は、「リッ」の発音を残しており、「立憲(リッケン)」のように使います。ですが、他の語につく発音も「フ」をやめて「ツ」にし、「リツ」で統一していしまいました。
「十」は、古いものと新しいものの二つの形を持っているということです。https://oshiete.goo.ne.jp/qa/1036974.html 

 大抵の人は『十戒』の中では「人を殺さない」と「盗みをしない」「隣人の財産を貪らない」は絶対に守れる自信があるでしょうが、意外に「姦淫をしない」は難しいでしょうかね。というのは、これは一般論として書きますが、「情欲を持って女を見る人間はすでに心の内で姦淫を犯したのである」とイエスが述べているからです。
 心の奥にある欲望の始まりまで言われると、律法とか掟とか戒めを守るのはかなり難しいものですね。

2019/06/22(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

神は命令しない

命令するのは人間だけの所業ですね^^

バーソさんが教えてくださった原文の十の言葉は、
「人間の善意に訴えかけている」というよりも、
「知る者」からの「ネタバラシ」か、
もしくは人間への「エール」のようにも感じました。

「実はこの十の言葉にある姿こそが、
真なる(肉体を超えた)あなたたちの姿なのですよ」

ぼくにはそんなふうにも聞こえました。
胸が熱くなりますね。

2019/06/22(土) |URL|友資 [edit]

Re: 神は命令しない

友資さん コメントありがとうございます^^)
> 神は命令しない
命令するのは人間だけの所業ですね^^

 そうですね。聖書的に言うと、神が人間に与えた最初の命令は、エデンの園にあった「善悪の知識の木」の実を食べてはならないという禁止律法で、それから古代イスラエルとは旧い契約を結んで『十戒』と数多くの『律法』を与え、1世紀になり新しい契約時代に入ったら、イエスはそれを「神を愛せ」と「隣人を愛せ」の二つの「掟」に集約しました。

 その神の掟を守るのが人間の務めなのだが、それが難しいのはアダムの原罪のせいかと思っていましたが、しかし道理を考えてみるなら、神が、人間に守れないような律法を与えるはずもないので、聖書に書かれている命令は元々の教えからかなり逸脱しているののだろうと考えられます。

 いま聖書を離れてから思うと、イエスの二つの「掟」は命令されて行なうようなものではなく、自発的に心に促されて行なうものであり、特に神自身が「神を愛せ」と人間に命令するのは非常におかしいことだと感じます。
 ちょうど隣国の首領様が人民に対して、自分だけを愛せと言って、まわりからちやほやされるのを喜んでいるのと同じようなものですから、おかしな「掟」だと感じていましたが、この『十戒』の原語の意味を知ると、そうですね、「人間へのエール」かもしれず、あるいは「この十の言葉にある姿こそが真なる(肉体を超えた)人間の姿」であるかもしれないですね。
 
 人間が神の子であるなら、その本質は善であるはずです。本当は互いに争ったりいがみあったりするのは人間の本道を外れているわけで、それに気づかないとなかなか世界の平和は実現しそうもありません。と考えると、世界のどの宗教もが人々にその重要なことを教えこむのに失敗してきたのが残念です。というより宗教とその組織にそれを期待するのは無理なんでしょうね。

2019/06/22(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

無人偵察機を撃墜されて怒り狂ったトランプ大統領は、20日にイラン攻撃を命じたが10分前になって突如攻撃を中止させました。
理由を「150人ほどの死者が出ると軍が言うので、140億円の偵察機と150人の死人では勘定が合わないのでやめた」とツイッターに投稿しました。
これを聞いたマスコミや世界の人々は、責任ある立場にあるアメリカ大統領としてのやさしさ…だと勘違いした様です。
とんでもない!あんた方の目はフシアナか?…よく記事の内容を見なさい。彼は人の命と機械の値段を金の秤に掛けています。

「金以外のものを神とはしない」「金で買った黒人や東洋人の女は人間ではないから姦淫した事にはならない」「黒人や異教徒(イスラム教徒)は人間ではないから銃で撃っても殺人にはならない」「インターネットの世界は現実の人間社会ではないから幾ら嘘をついても偽証にはならない」「遠く離れた異教の中国(事によれば日本も)は隣人ではないから、幾ら金をふんだくっても貪った事にはならない」(笑)

そうでしたね。トランプ大統領殿(笑)…映画「十戒」でモーセを演じて、今y全米ライフル協会会長で「汝殺すなかれ」の十戒に背いているヘストン氏も同意しています。
アメリカンプロテスタントの十戒心得とはそんなもんですよ…所詮、移民のWASP(白人でアングロ・サクソン系でプロテスタント)なんてインディアンから土地を強奪したキリスト教徒を騙る偽キリスト信者ですから(笑)

2019/06/23(日) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)

 エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地カナンに入ったとき、カナンの七つの先住民を滅ぼし尽くし、征服して回っています。ノアが「カナンは呪われよ」と予言した通りのことが起きたと言えるわけですが、しかし土地の権利者である先住民カナン人を殺戮した理由は、「彼らの悪が甚だしく、偶像礼拝,不道徳,流血行為などの忌まわしい慣行がはびこっていたから」で、だから「聖絶」するのだと、聖書では大義名分が付けられています。
「聖絶」とは神に捧げるために滅ぼすという意味で、イスラムのジハード、オウムのポアと似ていて、殺戮を神のためにする行為だと正当化する論理です。

 普通だと、まあ極めて残虐な酷い悪事だと思うはずなんですが、聖書に書かれているとイスラエルの民の行動のほうが正義だと思ってしまい、別に無慈悲な悪行だとは感じない不思議があります。

 昔、日本人が西部劇映画で見たアメリカとインディアンの関係も同様ですね。映画では、インディアンに攻められて砦に立て籠もった白人たちを白馬に乗った騎兵隊が助けに来ると、映画館の観衆は昔はパチパチパチと拍手をする人がいたものです。一方で「インディアン、うそ言わない」とも言われていましたが、白人の嘘と宣伝と武力のほうが優っていたために、いまやアメリカではインディアンはごく少数しか残っていません。
 いつの世も勝てば官軍。勝ったほうが負けた方を一方的に悪く言って、それが歴史の真実のようにされています。
 
 今のアメリカ大統領は世界一の権力者で、“勝つ”ほうの第一人者ですから、何でも自分の思う通り、やりたい放題です。しかしアメリカ人にとってはプラス面が多いせいか、人気があるようで、再選されそうじゃないですかね。しかしツィッターでつぶやくという手法はなかなかうまいものです。公式な言葉ではないのに、ほぼ公式とみなされるので、簡単容易で同等の効果があります。ミサイルを飛ばすのをやめたと言うだけで優しいと言われ、関税をあげるぞと脅すと皆、ははーっと恐れ入るのですから、力には正義の感覚が通用しないのですね。

 それにしても聖書の神とその民の優越性を主張する宗教は、キリスト教もユダヤ教も、またイスラム教もそうですが、ろくなものじゃないですね。「殺すなかれ」が「殺せ」に変わっていても、それを矛盾だとか不正義だとは思わないのですから。
 恋は盲目。信仰も盲目。知性的な視力を失った“信じる“ことには怖ろしさがありますね。

2019/06/23(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2019/06/24(月) || [edit]

十戒を十回読もう

十戒を十回読もう
きっと覚えられるんじゃないかな。
あ、いや、ただそれだけ。うん。

2019/06/24(月) |URL|miss.key [edit]

Re: 十戒を十回読もう

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)

> 十戒を十回読もう
きっと覚えられるんじゃないかな。
あ、いや、ただそれだけ。うん。

 うーむ、他ならぬmiss.key殿のコメント。おそらくは禅問答のようなものであろうと考えると、これは『十戒』など十回も読めば十分であり、所詮はその程度のものであるとのご意見であろうと考えられ、うーむ、深い。深そうだ。深いのかもしれぬ。深いのだろう。
 
 しかし、はたまた、「ただそれだけ」という文言に注目し、それが本音であろうとみなせば、コメントするにもあたらない、フン、なんだこれ、というような考えを表しているようでもあります。
 あ、いや、あるいは義理チョコッと、である可能性も大いにありそうで、そうであれば、わずかなりとも義理と人情を示していただけることに感謝をすべきかもしれません。
 
 ま、いずれにしても『十戒』は映画で見たほうが面白いのかもしれません。紅海がまっぷたつに分かれるシーン。「紅海」は原語では「葦の海」となっていて、現在のあの大きな紅海ではなく、葦が生い茂った、どこかの浅い水のある場所だろうという説もあります。そうであれば強い風が吹いたりして水深が浅くなったということもあり得えそうです。
 そのように、現代の学者は何とかして奇跡というものを科学的あるいは合理的に解釈しようという傾向がありますね。それももっともだと思いますが。

2019/06/25(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2019/06/27(木) || [edit]

『十戒』後ろ半分の「五戒」とジャイナ教の「大誓戒」の共通性

だいぶ遅れてのコメントですみません。
小生が、“これぞ宗教”と思うものに「ジャイナ教」があります。仏教より歴史は古いのですが、初期仏教との相互影響で確立していったようで、類似性が高いです。それは紀元前5世紀前後のことのようであり、ユダヤ教との相互影響もあったように思われます。
さて、旧約聖書にあるモーセの『十戒』なるものを初めて目にしたのですが、後ろ半分の「五戒」とジャイナ教の「大誓戒」に面白い共通性があることを知りました。(順番が少し違い、比較するため「非淫」と「非妄語」の位置を入れ替えました)

『十戒』後半の  ジャイナ教「大誓戒」
 「五戒」     <出家信者向け>
六 人を殺して… 非殺生(生き物を殺すなかれ)
七 姦淫をして… 非淫(セックスするなかれ)
八 盗んでは…  非与取(与えられないものを取るなかれ)
九 偽証をして… 非妄語(偽りの言葉を語るなかれ)
十 …財産を貪… 非所有(何物をも所有するなかれ)

「六 人を殺してはならない」と「非殺生(生き物を殺すなかれ)」が最初に掲げられるのはうなずけるところでして、食文化の違いで動物を食って良いか悪いかに分かれる必然性がありましょう。
「七 姦淫」「九 偽証」は、「非淫」「非妄語」と対応しましょう。
興味深いのは「八 盗んではならない」「十 隣人の財産を貪ってはならない 」という類似したものが旧約聖書にあるのと同様に、ジャイナ教には「非与取」「非所有」という類似したものが並べられていることです。
ジャイナ教を少々調べていて、小生が特に興味を持ったのが「非所有」の戒律です。
バーソさんの解説では「第十戒のほうは《貪り》という《強欲》、つまり犯罪に至る前段階の心の動機を問題にしています。」とありますが、ジャイナ教はこれを1歩も2歩も進めて「何物をも所有するなかれ」とまで言いますから(もっとも在家信者にはもう少し緩い「小誓戒」を適用)、これでは信者が集まらず、少数宗教のまま今日に至っていると思われます。
 紀元前5世紀頃に、すでに凄まじいまでの人間の強欲さが社会を混乱させていた、単に1項目では人間の強欲さを抑えきれない、戒律の最後の項にダメを押すものを入れておかないことにはどうしようもない、といったところでしょうね。
 ちなみに仏教では、五戒の最後の項は「不飲酒戒」でお茶を濁し、信者を集めんがための“ええかげんな戒律”にしていますが、しかし、これでは格好が付かないからと、後から十戒なるものをつくり、その最後に「不蓄金銀宝(ふちくこんごんほう):お金や金銀・宝石類を含めて、個人の資産となる物を所有してはならない。」としていますが、こんなものは付焼き刃でしょう。

2019/06/28(金) |URL|三宅和豊 [edit]

Re: 『十戒』後ろ半分の「五戒」とジャイナ教の「大誓戒」の共通性

三宅和豊さん コメントありがとうございます^^)

 まあ、丁寧詳細に書いてくださって、ありがとうございます。面白いですね。同じような戒めが、時代は違いますがインドにもあるのですね。そうですか。ジャイナ教の「五戒』とモーセの『十戒』広範が似ている―――はい、確かに似ています。

 しかしながらジャイナ教のほうが《苦行・禁欲》が厳格で徹底していますね。「盗みがいけない」のは当然ですが、「何も所有してはいけない」は度を越しているようで、「一切生き物を殺してはいけない」となると野獣や暴漢に襲われても激しく防衛できず、草むらでは蚊も殺せず、公園を歩くときには地面のアリなどをよくよく見ながら歩かないといけなくなり、また姦淫どころか「セックスはいけない」となると子供が生まれてこないので、『五戒』を忠実に守って純粋に真面目に生きようとするジャイナ教の人たちは地上に生存できなくなり、絶滅してしまいます。

 ということは、この『五戒』は、生き物の命は殺さないとしても、自分の命を殺し、生まれてくるはずの子孫の命も殺すわけなので、崇高な教えどころか、殺人的な怖ろしい教えであることになります。
 在家信者には緩い「小誓戒」があるとしても、教える側の僧のほうは日々の生活がかなり大変で、ジャイナ教が世界に流行らないのも無理からぬことです。

 古代イスラエルの律法にも、イエスの死後に生じたキリスト教の教えにもいろいろおかしなものがありますが、宗教の神や教祖が語った尊い律法だと言われると、オウムの例にある通り、信者はおかしく感じなくなるから不思議なものです。

 イスラム教徒が豚を食べないのは禁忌なので当たり前ですが、イスラム教徒ではない人間が豚を食べても汚らしい気持ち悪いと言って非難するそうで、そうなれば理屈ではなく、正邪のj判断でもなく、感情の問題だということがよく分かります。

 自然界は弱肉強食で、強い動物が弱い動物の肉を食べて生存しています。しかし人間は愛を実践していくべき生きものであると考えると、本当は肉は食べないほうが倫理的には良さそうですが、しかしそれをひとに強制し、肉を食べる者を激しく攻撃するとなると、これは度を越していると言わざるを得ません。正義感というのも正しいようで、そうでない場合もありますね。

 ジャイナ教の「非淫」にしても、キリストが述べた「人妻を見て情欲を抱くものは、心の中に姦淫を犯したのである」ぐらいの教えが、私にはリーズナブルで納得しやすいですが、この言葉に続いてキリストが述べた「そうなるよりも右の眼をえぐりだし、右の手を切り捨てたほうがいい」の教えを比喩と受け取らずに、実際に行動に移す人はいないようなのも面白いことです。人間は何事も自分に都合のいいように解釈するのでしょうかね。

 そういえば「猪八戒」を思い出しましたが、これにも由来がありそうですね。

2019/06/28(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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