「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 満足と後悔の分かれ目。村上春樹『アフターダーク』の神話。  


 満足はとことん追うべきか、それとも、ほどほどで満足したほうがいいのか。
 村上春樹の『アフターダーク』にあるハワイの神話が興味深いですよ。


   ga881.jpgGAHAG
 
                 

 三人の若い兄弟が嵐で流されて、美しい島に流れ着いた。椰子の木が生えてい
て、果物がたわわに実り、真ん中にはすごく高い山がそびえていた。

 その夜、神様が三人の夢に現れた。
「海岸に三つの大きな丸い岩があるから、その岩を転がして好きな所に自由に行
きなさい。岩を転がし終えた所が、お前たちそれぞれの生きるべき場所だ。高い
場所に行けば行くほど、世界を遠くまで見わたすことができる」

 三人の兄弟は岩を転がして行ったが、とても大きくて重くて、坂道を押して登
るのはえらい苦労だった。
,

 いちばん下の弟が最初に音を上げた。「兄さんたち、俺はここでいいよ。ここ
なら海岸にも近いし、魚もとれる。じゅうぶん暮らせる。そんなに遠くまで世界
が見れなくてもかまわない」

 次男が山の中腹で止まった。「兄さん、俺はもうここでいいよ。ここなら果物
も豊富に実っているし、じゅうぶん生活できる。そんなに遠くまで世界が見れな
くてもかまわない」

 しかし長男は坂道を歩み続けた。何か月もかけて、ほとんど飲まず食わずで、
その岩をなんとか高い山のてっぺんまで押し上げた。そこが彼の住む場所だった。
草も生えないし、鳥も飛ばないような場所だった。水分といえば氷と霜を舐める
しかなかったし、食べ物と言えば苔をかじるしかなかった。


 
   kaau788.jpgPixabay
 
 
 でも後悔はしなかった。彼には世界を見渡すことができたからだ……。


                 ●


 神話の教訓は、「何かを本当に知りたいと思ったら、人はそれに応じた代価を
支払わなくてはならない」ことだと書かれています。
 イエスも似たような話で、「天国は、良い真珠を捜している商人のようなもの
である。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売り払い、これを買
うのである」と述べました。(マタイ13:45,46)

 このハワイの神話、私は好きですね。常識的には、長男は愚かなことをしたも
のだ、どうやって生きていくのか、と思われるでしょうが、当人は「後悔はしな
かった」というのがいいですね。
 そして、人が世界を見渡すことを、すなわち真理を知ることを神が望んでいる
と思えるような筋立てになっているのもいいです。

 人生は成功と失敗の繰り返し。人間に「後悔」は付き物でしょう。
「反省」なら、次は失敗しないよう心掛けるので益になりますが、「後悔」は、
くよくよと沈んで罪悪感を持つだけなら、自分をただ落ち込ませるだけで害悪
です(私はそうなりやすいですが)。
 ですから、もし人が後悔しない人生を歩めたなら、もう最高でしょう。

 というのは普通の解釈ですが、私は、たとえ後悔したっていいと思います。
 ひとからなんと言われようと、要は、自分が選択した人生に納得できていれば、
それでいいと理性的には思います。


 kauqq.jpgPixabay


 さらに、幸福を得るためのこの三択問題については、こう考えます。
 すなわち次男の選択も良かったし、三男の選択もまた良かったのだ、と。

 この神話の神様は多分、どの選択でも良いと考えていたのではないでしょうか。
というのは、人間に好きな生き方を自由に選ばせるような神様がいたとするなら、
その神様は一つだけ正解にして、他は全部誤りにするはずがないからです。
 もしそうしたのなら、神様は意地が悪く、愛がないということになり、愛がな
いなら神様の定義を大きく外れてしまうことになります。

 いや、こんな人格神は存在せず、この世界は宇宙に見られる《大いなる叡智》
のようなものが造ったとしても、あるいは《進化の知恵》のようなものが偶然ま
たは突然変異で造ったとしても、いずれも人間の知恵をはるかに超えています。
 そうであれば、その《叡智》ある原因者は論理的に、人間が失敗と後悔だけを
して死ぬというような、愚かしい選択肢を基本設定するはずもないと思うのです。

 次男も三男も「ここでじゅうぶん生活できるから、俺はここでいい」と言いま
した。長男は後悔していないどころか、世界中を見渡せて、満足しています。
 ですから三案、どれを選んでも、選んだ人が納得できているので、それでいい、
という話であるとも考えられます。

 というわけで、人間の人生に失敗はないと私は思っているのです。


                



神話を語った高橋が「両方の目からうろこがぼろぼろ落ちるような気がした」曲です。カーティス
・フラーのアルバム『ブルースエット』に収められた「ファイブ・スポット・アフターダーク」。




蛇足―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
テレビを見ていたら、「もし生まれ変わったら、どんな職業に就きたいか?」と問われていました。
私なら、おそらくは見えない世界の探求と、クリエイティブなジャンルの仕事をまた選ぶだろうと
思いましたね。それはなかなか分からないことやなにか新しいことを考えるのが面白いからです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


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反省はしても『後悔』はなし

『幸福を得るための三択問題』。
私だと、物語の長男同様の行動をとります。
親兄弟、取り巻きがなんと言おうと、
自らの心に忠実に生きたいからです。

アメリカの女優シャーリー・マクレーンの著書
『アウト・オン・ア・リム』の意味は、
『熟した果実は枝の先端に……』みたいな意味で、
物語の核が、ハワイの神話に似ています。

なにをどう選択しようが、
自らの『得心』が全てだと思います。
人生は、なにかをトコトンやる。
そのための舞台のようなもの。
一度や二度の人生で完璧なんてあり得ないでしょうから(笑)

あっ、後悔はしませんが、反省はします。
反省がないと次のストーリーに生かせませんから。(^_^ ;)

2019/06/15(土) |URL|風子 [edit]

3兄弟の話

バーソ様
おはよう御座います。

3兄弟の話は10年後、20年後、50年後がどうなっているのかが分からなければどれがいいのか言えないと思いました。
個人的には次男の選んだところが好きです。
魚が無くて果物が多いところのようですから。
最後のダンモはいいですね。50年代ジャズは大好物です。

愛新覚羅

2019/06/15(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: 反省はしても『後悔』はなし

風子さん コメントありがとうございます^^)

> 私だと、物語の長男同様の行動をとります。
親兄弟、取り巻きがなんと言おうと、
自らの心に忠実に生きたいからです。

 風子さんなら、それ以外の選択肢はないでしょう。実際、そのように生きてきたとも思います。自分に自信と才能のある人は、そんなふうな生き方をしますよね。自信がない人は、人の意見に従ったり、平均的な無難な方法を選びますが。

> 人生は、なにかをトコトンやる。
そのための舞台のようなもの。

 これもそうですね。大抵の人は必死に生きていて、自分では気づかずして結果的にトコトンやっているのでしょうか。真面目にコツコツ働いたり、何か趣味や意義あることをしようという意欲がない人や、家にじっと引きこもっている人は、じつにもったいない人生を送っています。

 そうそう、「アウト・オン・ア・リム(Out on a Limb)」の意味は、そうでした。危険を冒しても枝の先まで行かないといけない。シャーリーもそういう生き方を選んだひとでした。風子さんと同じく、体外離脱の経験もしていました。

 反省はするが、後悔はしないですか。たいしたものです。私は、自分が他のひとに何か迷惑を掛けたり不快な思いをさせたかなあと思ったときは、けっこう悔やみますね。日々の生活には、そういうちょっとした失敗が多いですから。

2019/06/15(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 3兄弟の話

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)

> 3兄弟の話は10年後、20年後、50年後がどうなっているのかが分からなければどれがいいのか言えないと思いました。
 なるほど。そうですね。「人間万事塞翁が馬」のたとえを思い出しました。その時は失敗したようでも、ちょっと長い目で見れば成功した場合もありますし、その逆だってあるわけですから。本当の意味の「後悔」をするかしないかは、人が寿命を全うして息を引き取るときに分かるのでしょう。

 ただ、人はその時々に喜怒哀楽を感じながら生きているわけなので、その時々にどう感じるかも大事なような気がします。老後は安寧な生活ができるアリの生き方もいいでしょうが、遊びまわったキリギリスの生き方も、老後にキリギリスが貧乏でも満足しているのなら、それもまたいいような気もします。

> 個人的には次男の選んだところが好きです。
魚が無くて果物が多いところのようですから。

 あはは、そういう感想があるとはまったく思わなかったですよ。果物が多いということはさほど高山ではないので、鳥や獣の狩りはできるのでしょう。魚嫌いの人には潮の匂いもしないでしょうから、この選択肢が良さそうですね。

 私は50年代のダンモはあまり知らないのですが、この曲のメロディは聞き覚えがありました。その頃のヴォーカルのヒット曲なら大抵知っているのですが。

2019/06/15(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは

その三兄弟の説話なら、次男のを選びますね。
真理を知るというのは大きな魅力ですが、なまけものの
私には代価がきつ過ぎます。
「足るを知る」をモットーにしていることでもありますし。(笑)
人生ああすればよかった、こうすればよかった、と言うことが多いけど
「納得」はしています。
タイムマシンを駆って過去に戻り、訂正したいこともありますけど。
ある時大学の廊下をまっすぐ歩いていたんです。
その時、横の教室から私の名前を呼ぶ声が聞こえました。
「どうしようかなあ。聞こえないフリしてこのまま行っちゃおう」かと
迷いましたが結局友人たちとの話の輪に入りました。
このことで私の人生が大きく変わっていきました。いまでも
あのまままっすぐ歩いて行ってたらどうなったかなとよく夢想します。

2019/06/15(土) |URL|エリアンダー [edit]

Re: こんにちは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
> その三兄弟の説話なら、次男のを選びますね。
真理を知るというのは大きな魅力ですが、なまけものの
私には代価がきつ過ぎます。

 後半は謙遜でしょうが、まあ普通の暮らしの中の選択なら、次男方式を選ぶ人が多いんじゃないでしょうか。たとえば何か電気製品を買う場合でも、高価な最高機種は買っても多彩な機能を使いこなせないと思い、といって最低機種は後で後悔するだろうから買わないほうがいいと思い、結果的に中庸な機種を機種を選ぶ人が多いと思います。常識があって賢い人ほど、そのようにしそうです。(ただし私は、デジタルなど電機製品の場合は、最近は中華製を選ぶことが多いですね。というのは日本製と同じような性能のモノがかなり安く手に入るので、それが運試しのようでもあり、面白いからです。
 最近のヒットはこのイヤフォンです。BA型とDD型と2つドライバーが入っていて、音質が非常に秀逸で、耳のかけ心地が良く、1850円です。)
 https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01LZ9XUY3/ref=ppx_yo_dt_b_asin_title_o08_s00?ie=UTF8&psc=1   

 ただしパソコンマニアなら、最高性能のPCが欲しいでしょうから、遊ぶのを我慢して貯金して高級機を買おうと思うかもしれません。《真理を知りたい》というのは、いわばマニアに入るような範疇の精神心理かもしれないですね。真理というのは、誰でもが容易に手に入るものではなく、無いと困るものでもなく、また世の中には怪しげなものも多いですから、一部の人がまあ物好きで探求するようなことかもしれません。

 私の場合は最初、家に来た伝道者から勧められて買った書籍(堅表紙のポケット版で192ページがわずか100円)が、『とこしえの命に導く真理』というタイトルでした。まずは「聖書」と「真理」という言葉に興味をひかれ、そして伝道者の男性の浮世離れした純粋そうな人柄に感銘を受けたので、無料の家庭聖書研究を自宅で始めたわけですから、最初から長男方式を選んだのではなく、結果的に長男方式になってしまったと言えます。
 そして会社を辞めてからは、聖書の真理を広めるべく、パートタイムの肉体労働をしながら聖書伝道を専門にする貧乏生活を送っていたのですが、数年後に肺結核になって体が動けなくなったので、やむを得ず生活を支えるためにデスクワークができる広告会社に入ったわけで、そのようにして二足の草鞋を履いたことは結果的に自分には良かったと思っています。両方とも面白かったですから。

 人生というのは、何かのきっかけで、あるいは流れで、しばしば方向性が変わりますね。私は大きい変化は二度ほど経験し、小さい変化は何度も経験し、そのたびにいろいろ環境や精神や人間関係の変化がありました。

 エリアンダーさんのその経験も興味深いですね。名前を呼ばれたことが人生が変化するきっかけになったのですか。大学の廊下での出来事なら、自分の職業の目標が変わったという訳でもなさそうですが。

2019/06/15(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

帰郷は叶わなかったのですな

 故郷には家族や仲間はいなかったのでしょうか。帰るという選択肢が無かったのは残念至極。
 でもって、最初の時点で果物がたわわに実り魚が取れたというなら、住むには何の問題もなかったと推測されます。それ以上に良い土地を探して旅に出たという事なんでしょうが、なんか欲を出しすぎてババを引いたというか。本人が満足しているならそれで良いんですけどね、愚かな自分を騙す為に「これで良かったんだ」なんて言ってる悲劇の主人公みたいでねぇ。遠くを眺めて満足したら、其の儘石を蹴っ転がして豊かな場所まで戻りゃ良いのに。と思わなくもない。
 人生後悔後を絶たず。
 戻れないから諦めてるだけで、後悔しない人なんていませんがな。でもね、後悔があるから人は進歩できるんだと思いますよ。

2019/06/15(土) |URL|miss.key [edit]

ぐっときました。

バーソさんの神話に対する解釈と、
ほとんど同じことを思いました。

ぼくはおそらく、
人一倍「承認欲求」が強い人間でした。
俳優を目指した理由のひとつも、
そんなところにある気がします。

真珠を得るために売り渡した代価は、
「承認欲求」だったのかもしれないと、
今回の記事を読んでいて思いました。

その真珠を手にしてしまったからには、
自分が過去に求めてきた種類の
「承認」を得ることは、
決してもうないからです。

ですが、後悔はありません。
というよりも後悔のしようがなく、
真珠を手にする道を選んだことが、
(究極的には)自分の選択ではないことを、
真珠が教えてくれたからです^^

2019/06/15(土) |URL|友資 [edit]

Re: 帰郷は叶わなかったのですな

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)

 ああ、故郷に帰る選択肢ですか。そんなことは思いもしなかったですよ。私には故郷とか親類縁者がないせいでしょうかね。

> 最初の時点で果物がたわわに実り魚が取れたというなら、住むには何の問題もなかったと推測されます。それ以上に良い土地を探して旅に出たという事なんでしょうが、なんか欲を出しすぎてババを引いたというか。本人が満足しているならそれで良いんですけどね
 この例え話の「世界を見渡せる」というのは、生活していく際の環境条件が良い土地という意味ではなく、《宇宙の真理を悟る》ことにどの程度関心があるかという関心事とレベルの話であり、頂上まで行けた後は山腹や海岸付近の平地に戻ればいいという案はmiss.keyさんらしい独自の発想で面白いのですが、その選択肢はちょっと無いようです。

> 愚かな自分を騙す為に「これで良かったんだ」なんて言ってる悲劇の主人公みたいでねぇ。
 まあ確かに、そのように「自分を騙して」言い訳をする人はいるでしょうが、しかし実際に納得して満足する人もいないわけではないと思いますよ。
 私の場合は、自分の人生を振り返って、いろいろ失敗はあったし苦労はあったし体は壊したし聖書が究極の真理かと思っていたらそうではなかったし…と悔やむことは多いですが、しかし他の人生を選択していたら決して学べなかっであろうことをいろいろ学べたので、このたびの人生経験は失敗や後悔も含めてじつに貴重なものだったなあと、これは本当にそう思いますね。

 しかし、はた目から見ると馬鹿な人生を送ったやつだと思われるかもしれないし、そう思われても特に反論しようとは思いませんが、また人間に生まれ変わってきて好きな人生を選べるとしたら、最後の《蛇足》部分に書いたように、私はまた同じような人生を、次は “もっと要領よく” 行ないたいものだと思っています。全く同じ人生ではなく、次は、他の道を通って違う人たちと関わり合って山の頂上に登りたいですね。

 山登りは頂上に登りつくのも楽しいのでしょうが、いろいろ苦労しながら、そして変化する景色を見ながらする途中経過もけっこう楽しいもので、その体験は、ひとから聞いただけや本を読んで知っただけでは得られませんから、じつに貴重な価値があるものなんですね。
 
 デジタル大辞典によると、「反省」とは「1 自分のしてきた言動をかえりみて、その可否を改めて考えること。2 自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること」です。
 そして「後悔」とは「自分のしてしまったことを、あとになって失敗であったとくやむこと」です。
 ですから、「反省」は過去の失敗から学んで積極的かつ能動的な成長志向の精神に変われるので有益ですが、「後悔」には「反省」の意味合いは無く、ただ後ろ向きになって自分を責め、罪悪感を持つだけの暗い自己否定の精神状態なので、ほとんど益がないと書いたわけですね。
 とはいえ、まあ、人間は「後悔」するほどの大きな失敗でもしないと、なかなか真剣に「反省」をしないものかもしれないですがね。

2019/06/15(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: ぐっときました。

友資さん コメントありがとうございます^^)

 承認要求とは、ひとから認められたいという意識のことで、これは誰でも持っていますね。絵や本や音楽などの芸術作品を生み出して、それを世間に公表しない人はほとんどいません。学問の分野でもスポーツの分野でも、頑張っているひとは、大抵は広く世間に自分の才能と存在を認めてもらいたいと思っているものです。これは自分がいま生きている証を強く欲しているという気持ちの表れでもあるのでしょう。

 これには、いい面と悪い面がありそうですが、偉そうにするとか他のひとを蹴落とすというのは悪い面で、そういう人が世の中にはけっこういて、別に自分では恥ずかしいことだとは思っていないようなのがちょっと不思議ですね。

 友資さんが「俳優を目指した理由の一つは承認要求だった」と書いているのは、客観的な視点があり、自分自身を冷静に見つめているわけなので、これはいいことですね。そのようにできる人が、自らを一つ一つ振り返って成長していくのでしょう。まあマスクは個性的なイケメンなので、俳優業でもうまくいったと思いますが、それよりも価の高い真珠を見出したということなのでしょう。

> 真珠を得るために売り渡した代価は、
「承認欲求」だったのかもしれないと、
今回の記事を読んでいて思いました。

 「真珠を得るために売り渡した代価」とは、精神世界で言う《真理》を得るために、《承認要求》を諦めた、すなわち俳優業をやめたし、いろいろな野心とか物質欲とかも縁を切ったという意味でしょうかね。

> ですが、後悔はありません。
というよりも後悔のしようがなく、

 これは分かります。が、次がちょっと分かりません。

> 真珠を手にする道を選んだことが、
(究極的には)自分の選択ではないことを、
真珠が教えてくれたからです

 真珠を手にする道を選んだことは究極的には自分の選択ではない―――ことを真珠が教えてくれたのですか。これはすでに霊的に悟りの段階まで到達できたので、それゆえ悟ることが目標点なのではなく、そんなことを超越している自分の今の精神状態がもう真珠であるのだということですか。そうなら霊的レベルが高すぎて、私にはちょっと分からない段階の話です。

2019/06/15(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

人はどんな生き方をしても自由ですが、生き方にはそれぞれの人間の魂のレベルが現れます。
三男は海岸(俗世)で、腹一杯メシを食う(金持ちになる)生き方で、低級な魂のレベルに留まります。
二男は山の中腹から海岸(俗世)を見下ろす(政治家の)生き方で、天と地の真実を識るより地位が欲しい中級の魂です。
長男は、メシや地位よりもこの世の真理を究める事に喜びを見出す人(聖職者)で、最高級の魂を持っていると言えます。
ある意味、原始生活をしていた太古のハワイに、人の上下優劣を魂のレベルで判断する神話があったのには驚きです。
これは古代のインドやユダヤの人々の認識と共通していて、昔は人間の外見よりも中身が重視されていた事を表しています。
一見乞食にしか見えない釈迦やイエスが尊敬されたのが、当時の人々が魂(精神性)の高さに憧れていた何よりの証拠です。
ところが現代社会では人々の認識は逆転し、裕福な資産家や地位のある政治家が高級な人間になってしまっています。
金や地位など目に映る利得を追い求め、魂の高みに昇る事を捨てた現代人は、古代人に比べて明らかに精神的に劣ってます。
世界全体がグローバルなソドムとゴモラとなって堕落した現代社会がどうなってゆくか見ものです(笑)

2019/06/16(日) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado jo さん コメントありがとうございます^^)

 三人兄弟の選択の違いを魂の霊的レベルの序列例と見ましたか。まあ確かに、そのように解釈できるかもしれませんね。霊的な人は物質的な人や肉的な人に優るというのは、霊的志向のある人には共感を得るでしょうが、そうでない人には、何を言ってるんだろう、頭の悪い奴だと思われそうです。
 その証拠に、数々の立派な話をして人々に大いに感銘を与えたイエスも、総督ピラトが、強盗バラバを赦そうか、それともキリストと言われるイエスを赦そうかと呼び掛けたとき、群衆は、イエスを刑柱に架けよ架けよと叫びました。
 当時の宗教指導者や一般大衆について、イエスはこう言っています。(マルコ4:12)

 「彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず』
 いつの時代も霊的な盲人のような人が大勢いるようです。だから彼らに、霊的に向上しなさい、霊的な目を開きなさいと勧めても、ちょっと無理のようです。

 でも私は、だからといって三男や次男と同じ歩みをするような人を、霊的な質が低いと言って責め、悔い改めさせ、霊性改革をするために無理やり説得しようとは思わないですね。人は一度の人生で真理を掴めないからこそ何度でも生まれ変わりの人生があるのだろうと思っているので、自分も含めて人間の行動に対しては長い目でおおらかに見る姿勢がないといけないと思っています。
 人を蹴落とすのは良くないですが、ひとより抜きんでるのは別に悪くはなく、野心でも金儲けでも何でも真剣に打ち込んでやるのがいいと思います。

 それに、熱心な宗教組織に長年所属し、ある程度は上の方に行って、上層にいる人たちの内面の意識も身近に見てきましたが、本当にイエスのように心の純粋で清らかな人は目立つ場所にはいないで、むしろ目立たない下の方にいるように感じています。
 何にせよ、組織というのは腐敗しやすく、上に立つと大抵の人は謙遜そうな顔をしながら、つい権威を振るいたくなるようで、だから聖職者がすなわち霊的レベルが高い人だとは思っていませんね。
 私は、相手の顔の特に目を見ると、大体その人の霊的レベルが分かります。キリスト教でも仏教徒でも他の宗教でも、信仰の強い弱いも目で分かります。そして今まで大体、私の判断は間違ってないことが多かったですね。

 近未来は、ソドムとゴモラと同様の肉欲まる出しの世界になっていきますか。これはjoさんの持論のような予想というか不安でしょうが、私は『マッドマックス』の世界にはならないだろうと思っているのですがね。ヒトが進化の産物なら知恵も進化するはずですし、人間はそこまで愚かではないと思っているのですが、ただ政治家のトップに問題がある場合はちょっと怖いですね。(笑)

2019/06/16(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

悔い改めよ

 ↑バーソ様風に言うてみました。
 反省だけなら猿でも出来る。要はその反省をどう活かすかだ。なんてかっこいい事を言ってみる。わたしゃ「後悔」がバーソ様の言うようなものだとは思わないのですな。つまり記憶として残るから次に活きるのでありまして、忘れちまえる程度のものならそもそも修正する必要すらない。まあ、修正しようとして修正できるようなら苦労は無いのでありますが。
 わたしゃくよくよはしませんよ。でも重ねた「罪」は忘れられんもんですし、それを悔いる気持ちを無くしたら人間としてどうかと思いますわ。

2019/06/16(日) |URL|miss.key [edit]

Re: 悔い改めよ

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)

> 「後悔」がバーソ様の言うようなものだとは思わないのですな。つまり記憶として残るから次に活きるのでありまして、忘れちまえる程度のものならそもそも修正する必要すらない。
 そうです。私もそう思うので、前回の返コメではこう書きました。

 とはいえ、まあ、人間は「後悔」するほどの大きな失敗でもしないと、なかなか真剣に「反省」をしないものかもしれないですがね。

 miss.keyさんと私とでは、「後悔=後で悔やむ」という言葉についての解釈の違いがちょっとあるようですね。この文章から分かります。
> わたしゃくよくよはしませんよ。でも重ねた「罪」は忘れられんもんですし、それを悔いる気持ちを無くしたら人間としてどうかと思いますわ。
 私には、この文章は、《くよくよはしません=悔やむことはしない》が、《悔いる気持ちは無くしたらいかん》と読めます。
 この「悔いる」と「悔やむ」は、よく似た言葉ですが、意味合いというかニュアンスはちょっと違うのではないでしょうかね。それぞれの言葉の意味というか、私の解釈を書きますよ。
 
悔いる=失敗したことに気づいて反省する(→やる気を取り戻す)
悔やむ=失敗したことを後から残念に思う(→くよくよして沈む)

 ですから「悔いる」のほうは「反省」をして、これからは気をつけようという積極性があり、良い結果を生みますが、しかし「悔やむ」のほうは、こうすればよかった、ああすればよかったと過去の失敗を悔やんで、自分は駄目人間だなあと悩み沈むことですから、「くよくよする」要素が強く、悪い結果を生む、という違いがあります。
 その証拠に、作者の村上春樹も神話の結論で、長男の選択について「後悔」の語を使って、こう述べています。

 でも後悔はしなかった。彼には世界を見渡すことができたからだ…。

 この「後悔」とは、「悔いる」の意(だから価値がある)ではなく、どちらかと言えば「悔やむ」という意味で使っていますね。言い換えれば、「後悔はしなかった」とは、満足していたという意味で使っています。

 miss.keyさんは、失敗して一時的に悔やむことはあっても、長く「くよくよ」することはせず、むしろ「悔いる」ことをするようですから、それはいいことです。それは感情より理性が勝っている証拠であり、賢い人の特長でしょう。

 そういうわけで、miss.keyさんと私とは、《人には悔いること、あるいは悔い改めが必要である》という点ではまったく同意見だと思いますが、ちょっと言葉の意味の受け止め方の違いがあっただけのようです。
 
 私が最初書いたように「後悔」と「反省」だと違いが分かりやすいと思いますが、しかし「悔いる」と「悔やむ」だと違いが分かりにくく、それに最近は、世の中でも、この二つの言葉をほぼ同じような意味として使うひとが増えてきているようです。言葉の意味や用法というのは経年変化をしますからね。
  
 ちなみに、人がキリスト教の信者になるときの段階を述べますが、

 告白(自分の罪を認める)→悔い改め(悔いる)→転向または回心(生き方を変える)→献身(神に仕える) となります。
 
 なので「悔い改め」の前の段階には、聖書の規準からすれば自分はなんと「罪深い」人間かと気付かされ、それゆえ自分の過去の歩みを強く「悔やむ」ような人が、「悔いる」こと、すなわち「悔い改め」をし、そして神に《心の救い=赦し》を求めて、これからは神に仕えて神に喜ばれるような生き方をしようと決意し、洗礼(浸礼)の儀式を経て、献身すなわち入信をするのです。
 私は失敗が多いので、いつも悔やむことだらけで、悔いることが多いですよ、本当に。
 
 というわけで、私の書き方に言葉足らずがあり、勘違いされやすいことも分かったので、「後悔」はしませんが、「反省」をし、次のように修正しました。

 
 「反省」なら、次は失敗しないよう心掛けるので益になりますが、「後悔」は、自分をただ落ち込ませるだけで害悪です。
             ↓
 「反省」なら、次は失敗しないよう心掛けるので益になりますが、「後悔」は、くよくよと気持ちが沈んで罪悪感を持つだけなら、自分をただ落ち込ませるだけで害悪です。

 貴重なご意見、ありがとうございましたね。(^^)

2019/06/17(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2019/06/19(水) || [edit]

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