「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』と「本当の幸い」。(後編) 


「人生は短く、時は過ぎ去る。熊さんよ、先週、なにを話し合ったか覚えている
かい?」
「ご隠居。そんな昔のことは……覚えてますって。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜
の話でした」
「そうだ。で、どんな話だったか覚えているか」
「へえ、死者の世界に行く銀河鉄道の汽車に、ジョバンニと親友のカムパネルラ
が乗っていて、このカムパネルラは亡霊だった。というのも、いじめっ子のザネ
リが川に落ちたとき、すぐ川に飛び込んで助けたのはいいが、自分は溺(おぼ)れて
死んでしまったからで、そんな愛と悲しみの日々の話でした、マル」

  gia191.jpg
  『銀河鉄道の夜』 (日本の名作文庫) 宮沢賢治 (著) ポプラ社


「若いというのはいいなあ。よく覚えとる。そう、そのジョバンニが乗っていた
銀河鉄道の列車内に、今度は途中からふうっと女の子が現れて、その子は、乗っ
ていた船が氷山にぶつかって海の中に沈んでしまったそうで、だから、その女の
子もすでに死んだ人間で、亡霊だった」
「船ってタイタニック号ですか」
「そうかもしれんが、とにかく、しばらくしたら、天の川の向こう岸に赤い光が
見えた。そのとき、女の子はお父さんから聞いた『さそり』の話をする――――
 一匹のさそりが、ある日、いたちに食べられそうになったので逃げたが、井戸
に落ちて、よじ登れず、溺れそうになったとき、神に祈った。

 ああ、わたしは いままで いくつのもの の命をとったかわからない、・・・・
どうして わたしは わたしのからだをだまって いたちに呉れてやらなかったろう。
そしたら いたちも一日 生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さ
い。こんなにむなしく命をすてず どうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)
のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。


 どうだ。熊さん。さそりは、自分の体をくれてやったら、いたちが命を長らえ
させることができただろうにと悔やんでいる。このさそりの意識はすごいと思わ
んか。自然界では弱肉強食が当たり前だから、弱者は強者に恨みや憎しみを抱い
ているかもしれん。ところが、このさそりは弱者でありながら、次は強者に自分
の命を与えたいと願っている。熊さん、これこそ愛だよ」

  ginga71.jpg
  『藤城清治 銀河鉄道の夜 [DVD]』 コロムビアミュージックエンタテインメント

「ご隠居。じゃあ、なんですか、弱者は、自分を殺そうとする強者に自分の命を
与えることまでして、愛を示すほうがいいんですか。それが『まことのみんなの
幸いのための愛』なんですか。あっしには無理。イヤです」
「まあ、そうだろな。しかし、さそりが自己犠牲の愛を表したい気持ちになった
ワケは、一つは、自分だって弱者を大勢殺しているという罪意識があったせいと、
もう一つは、この女の子の話の続きを見なさい。

 そしたら いつか 蝎(さそり)は じぶんのからだが まっ赤な うつくしい火になっ
て燃えて よるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるって お父
さん 仰(おっしゃ)ったわ。ほんとうに あの火 それだわ。


 このさそりは有神論者だな。自分の命を他者のために使っても、神からの報い
があると信じていた。実際、さそりは真っ赤な光になって、夜の闇を照らして、
世の中を明るくしている。ほら、素晴らしい祝福が与えられたのだよ」
「うーん、でも、あっしは、そんな街灯みたいな人生は淋(さみ)しくてイヤです」
「それは考え方の違いだ。このさそりは、みんなに役立つことをうれしいと思う
精神構造をしていた。だから、そう思っていた通りになったのだよ」
「うーん」
「キリストさんも『友のために命を捨てること以上に大きな愛はない』と言って
いるぞ」
「しかしですね。ご隠居。昔、線路に落ちた男性を助けようとして自分が犠牲に
なった留学生がいましたね。踏切の中に居た女性を助けようとして自分が犠牲に
なった警官もいました。神とか信仰とかに関係なく、そういう自己犠牲的な精神
を持つ人は世間に居るじゃねえですか」
「うむ、ただただ心に動かされて、純粋な動機で愛を示すなら、心底から喜べる
だろうな。そうだ、それが正真正銘の『本当の幸い』だ。熊さん、冴(さ)えてる
じゃないか」
「でしょ。先週から冴えまくっ…ちまちまちしちまって」

  gng111.jpg
  『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治童話集)春日部たすく (イラスト) 岩波書店

「やはり、ちまちましとるな。しかしなあ、熊さんよ。そもそも人間が利他的な
愛を持っているのは不思議だとは思わないかい。そんな善良で親切な優しい心が
この弱肉強食の世界の中に偶然に進化して出来たと考えるのは、ちょっと理屈が
おかしいだろ。弱いものを犠牲にしようという精神と、弱いものを助けようとい
う精神は、まったく正反対なんだからな」
「うーん」
「だから、原因結果の法則だよ。愛という結果は愛という原因によって造られた、
と考えるほうが自然ってものじゃないかい?」
「うーん、しかしですよ。愛って、本当に人類に備わっているもんなんですかね。
ご隠居だって、あっしのために死ぬのはイヤでしょ」
「ああ、イヤだ」
「じゃあ、言行不一致だ。二重人格者だ」
「こらっ、拳固一致させるぞ、おまえさんの頭に、ゴツンと」
「いや、右の頬に右手の甲で軽~くどうぞ」
「前々回のバーソのブログを読んだな。しかし、おまえさんは、全体をカンペキ
ルラに読んどらんらろ。中盤は飛ばして、終盤は抜かしてるだろ」
「へい、文字が多いので、ジョバンニ すぐ飽きてます」







訂正とお詫び―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
前回、『ラ・カンパネラ』(La Campanella)をリストの曲と書きましたが、原曲はニコロ・パガニー
ニのヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章のロンド『ラ・カンパネラ』で、その主題をフランツ・リス
トがピアノ曲に編曲したものです。しのぶもじずりさんのご指摘を受け、22(金)に訂正しました。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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究極の難題です

>そもそも人間が利他的な
愛を持っているのは不思議だとは思わないかい。

思いますとも。
どう考えても“弱肉強食の世界の中に偶然に進化”
したとは思えないタイプですぅ。

自己犠牲の精神……難題ですねぇ。
そのとき、思考を越えて瞬間的に体が動くか、というと……。
わが子なら、そうする確信がありますが、
他人のために、となると、自分にはできないと予想します。

また自分自身が死にかかっていたとしても、
まだ意識があるうちに、イタチの食料になれるかというと、
それも無理。
死んでからなら好きにして、みたいな未熟な魂です。

究極の利他愛って、神からの報い(祝福)を期待して……じゃなく、
咄嗟、瞬間の行為でしか測れないと思うので……。(*´ェ`*)

2019/02/23(土) |URL|風子 [edit]

熊さん冴えています

バーソ様
おはよう御座います。

先回、今回と熊さんが冴えまくっていますね。
ご隠居さんもタジタジのようです。(笑)

サソリはどっち道溺れ死んでしまうのだからイタチに食われる方がましだったとやけになっていたかも知れませんね。

そういう私は中国でサソリを何回も食したことがあります。塩こしょうをして油で揚げたものです。エビセンのような味でビールに合います。

弱者を助けるか弱者を食い物にするかの気持ちは誰でも持っているのでしょうね。
弱者を助ける・・・・理想
弱者をくいもの・・・現実

これを政治にすると前者が共産主義で後者が資本主義でしょうか。

共産主義を実現するのは難しいと歴史が証明しています。

愛新覚羅

2019/02/23(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: 究極の難題です

風子さん コメントありがとうございます^^)
 
 いわゆる「惻隠の情」とは、相手がたとえ悪人であろうと咄嗟に助けたいと思う“仁”の感情です。これは人間に基本的に標準設定されている特質なのでしょう。ただし、この人間社会では競争が激しいためと、その中で生き抜いていくための教育制度のために、こういった思いは薄まっていると思いますが。

 しかし自分の命を懸けてまでもそんな「惻隠の情」を表すかといえば、自分の子供なら間違いなく自己犠牲の精神を表すが、他人ならどうするか。自分の好きでない人間ならどうするか。これは確かに難しい問題です。自分はそうするとかそうしないと思っていても、実際にそうなってみないと分からない部分もありそうですが、私も風子さんと同じでしょうね。

 昔、アメリカで、単線の線路の分岐係が、分岐器の不具合に気付いた。両方向から列車がやってきたとき、その分岐係は、線路の上に立って分岐器を抑えたままにして、列車が正面衝突する事故を防いだ。その分岐係は中年で、妻も子もいたが、死ぬことを選んだ―――こんな話を教団にいたときに大会で聞いたことがあります。だからイエスが人類を救うために自己犠牲の精神を表したのは……と話が続いたのですが、これに似た話は世の中には結構あると思います。

 警察官とか消防士とか軍人とか自分の職務に忠実な人に多いと思いますが、「惻隠の情」と違って、これは理性による愛の発露でしょうね。義なる心とか博愛の精神と言えるかもしれません。これは良心とそして訓練された心によってできることです。聖書は「心は偽るものである」と述べていますが、しかし訓練によって心はより清くなれるのですね。

 神からの報いを期待してする自己犠牲の精神は美しいようですが、それを期待しないでする精神はもっと美しいのでしょう。いずれにしても私は精神世界を知り、神は罰も報いも与えないことが分かり、すっきりしましたよ。

2019/02/23(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 熊さん冴えています

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)

 熊さんは八っつあんと違って、教養が普通程度にある人という設定にしたので、話の展開が楽になりました。以前に出ていた八っつあんだと、落語に出てくる八っつあんと同じで、チンチンカンな話になって面白くはなるのですが、どうしても内容は浅くなりがちですから。

 サソリはやけになっていた。あー、なるほど。捨て鉢になっていたという可能性もありそうです。サソリはすぐカッとなるタイプで、切れやすい虫だったのですね。自分で自分を刺せばいいのですから自己処理は容易なのでしょうが、自暴自棄になると、まわりに迷惑を掛けても平気になりますからね。

 それを食べたのですか。ビールに合う。エビセンみたいな味。何回も。おお、すごい。私なら見るだけで卒倒しますよ。最も嫌いな昆虫です。クモの次に怖ろしいです。私への拷問はサソリ責めが一番効きます。悪事をすぐ白状します。(笑)

 弱者を全員助けるのは理想的であり、いいことですが、働こうとしない(ずるい)者は助けないほうがいいと思いますね。聖書も「働かない者は」ではなく、「働こうとしない者は食うべからず」と言っています。
 働く機会は“公平”に与えるべきです。しかし働ける状態にあるのに働く意思が全然ない不真面目な自称弱者に、平等に賃金もしくは生活費を与えるのは、“公正”の原則に反しています。
 すべてを“平等”にする政治思想がうまくいかないのは、そもそも “公平”と“平等”を誤って解釈しているからだと思いますね。

2019/02/23(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは

今回の熊さんはさらに進化してご隠居さんをやり込める
までになっています。

「友のために命を捨てること以上に大きな愛はない」
確かにそうですね。
愛のために命を捨てるという映画や小説はけっこうありますが
なぜか友人のために命を捨てるというのはあまりないですね。
そんな小説や映画を見てみたいです。
サソリ座のアンタレス、今南西の夜明け前に木星と並んで見えます。
今後アンタレスをを見るとこの童話を思い浮かべますよ、きっと。
赤い星って言うと、他にオリオン座のベテルギウスや火星があって
見間違えることがあります。
一句浮かびました。
<赤い火星 見間違えたのは アンタレス> お粗末。(笑)
この記事の起承転結の結のダジャレの見事なこと!
私の頭の中にある疑惑が浮かんでは消えています。
まさかこの「ジョバンニ」を使いたいために上下二週に
渡る記事を書かれたのではないでしょうね。(笑)

2019/02/23(土) |URL|エリアンダー [edit]

まぁ、人生のジョバンニ飽きてしまうのは人間のサガです。
青年・乙女の頃までは輝く銀河(鉄道)にワクワクドキドキししますが、結婚してしまうと暗黒星雲の闇の中(笑)
自分の夢や希望を捨てて、産まれて来た子供を次の時代に運ぶための機関車にひたすら徹する事になりますからね。
「こいつさえ産まれて来なければ…」と、子供に憎しみが湧いてきて虐待した栗原勇一郎の心境がかいま見えて来ます。
世間の常識から見ればとんでもないエゴ親だが、人間の本性に照らせば「何で俺が子供の犠牲にならにゃいかんのだ」
となります…してみると、普通の親は自分を犠牲にして子供を育てている訳で、これも立派な自己犠牲だと言えます。
エゴと自己犠牲と言う、相反する真逆な本能を有する人間は悪魔にもなれるし、神にもなれる不思議な生き物ですね。

2019/02/23(土) |URL|sado jo [edit]

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2019/02/23(土) || [edit]

Re: こんにちは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
 どういうわけか、熊さんが、本人も言っている通り、冴えているんです。ということは、熊さんを登場させた作者も冴えているのでしょうか。と書いたら、冴えているという言葉が、“きばえている”に見えてきて困りました。そうです。木枯らし吹きすさぶ冬が目覚めて暖かな春になれば、木々の芽が生え、獣は牙を研ぎ始め、ものみな勢いが増してくるのでしょう。

> なぜか友人のために命を捨てるというのはあまりない
 あ、そうなんですか。内外の文学作品に詳しいエリアンダーさんがそう思うのなら、そうなんでしょう。大義のために死ぬ人は少なからずいますが、友のために死ぬ事例は、イエスを除外すれば、聖書にも無いですね。旧約聖書の箴言は「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる(17:17)」とは言ってますが、死ぬとまでは言ってません。

 いま私が思い出せるのは、あえて言えば『走れメロス』ぐらいですね。メロスは人質になった友の命を取られては困るので懸命に走ったとされていますが、以前、中2のある生徒がメロスの走りを分析してレポートにしたように、あまりにものんびりとしていたので、タイトルは「走れよメロス」のほうがいいなんて言われていました。
https://barso.blog.fc2.com/blog-entry-147.html 
 大体が、妹の結婚に行きたいために友の命を軽々しく自分の身代わりに差し出したのはけしからんと思いますが、その友人のほうはメロスの慎重じゃない性格を知っていたのに人質になったのでしょうから、まさかの場合には友のために死んでもいいと思っていたのでしょうか。

 小説『白鯨』は、海難時に食料が底をつき、友の肉を食べた実話をもとにしているそうですよ。
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO76219110X20C14A8000000

 富士山が見え、木星もアンタレスもベテルギウスや火星もみな見える。エリアンダーさんは、いい所にお住まいですね。羨望の気持ちで、一句できました。「富士や星 みな見えるのは アンタレス」。お粗末。(笑)

 オチは良かったですか。よかったです。これで報われました。(笑) ちょっと話をずらして無理気味に落としているのが気になっていたのですが。

2019/02/23(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

鍵コメさん コメントありがとうございます^^)

 ずいぶん長文の論文コメントをありがとうございました。これほどの深い内容なら、公表してほしかったですね。私はたとえ反論でも真摯で誠実な内容のものなら一向にかまわないのですし、これは別に反論ではなく、興味深い一つの学説なのですから、遠慮せずに出してほしかったです。

 科学的な内容なので、感想を書けるかどうかちょっと分かりませんが、もし書けたら、そちら様のほうに鍵コメで出しますね。

2019/02/23(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)

 おや、joさんは人生悲観論者で、結婚は人生の墓場なり、暗黒星雲の中、のほうでしたか。非常に妻思いのひとだと思っていましたが。いやいや、分かりました。これはカウンターの奥で世間を観察した結果の一般論を言っているのでしょう。

 しかし人間という生き物は、結婚がブラックホールで、天国ではないとしても、そのエネルギーに強く引っ張りこまれてしまう。男と女は性が異なるだけで互いに誘引力を発し、感じている。子供を欲しいか欲しくないか、そんなことは別にして、そもそも本能的に互いに引き合う関係にある。それが面白いと思います。むろん、それがないと子孫が生まれてこないのですが。

> 普通の親は自分を犠牲にして子供を育てている訳で、これも立派な自己犠牲だと言えます。
 確かに、そうですね。親の苦労は子は知らず。自分は子のために生きているようなものだと感じている親は多いでしょう。その親の本能的な愛情も、すごいことだと思います。昆虫や魚などは子を産みっぱなし。鳥やライオンなどは早い時期に子離れをさせます。人間だけが我が子の成長とその将来までを心配しているようです。昨今の子殺し事件は、例外的な特殊事例なので、ニュースになるのでしょう。

> エゴと自己犠牲と言う、相反する真逆な本能を有する人間は悪魔にもなれるし、神にもなれる不思議な生き物ですね。
 はい、まったくその通りだと思います。自由意思で、どちらにでも成れるというのが人間らしいですし、人間ならではの特権だと思います。エゴだけというのも情けないですし、自己犠牲だけというのも、こういうと語弊があるかもしれないですが、ちょっと面白くなさそうです。
 どちらを選択するかは、性格やその人自身の感情や環境もあるでしょうが、理性と認識による場合もありそうです。そう考えると、何を学ぶかは人生では大事なことですね。

2019/02/23(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

バーソさんの記事とは

たびたびシンクロニシティが起こります。

本日は実は、
ぼくがブログで「三本の柱」と呼んでいるものについての動画撮影をしていたのですが、
「愛」について試みた動画解説と、
加えて本日アップした動画が、
まさに今日の記事とシンクロするものでした。

人間に自己犠牲もいとわない「利他」があるのは、
「愛する」「愛さない」の二元性を超越した、
不可逆の「愛(自己愛)」が、
自我と呼ばれるようなものが、
極限まで縮小したときに、
発露され、むきだしになるのだと、
そんなふうにぼくは考えております。

極父性的な人間は、
「利他」や「共感」の意味することすら、
わからなかったりしますが(これまで三人ほどそういう人間に会ったことがあります)、
そんな人ですらも、
極父性のバイアスをもたらしている肉体が消失した、そのときには、
「愛(利他であり自己愛)」に還るのだと、
そんな確信のようなものが、
なぜだかあります。



それと、なんだか遠慮してしまって、
申し遅れてしまいましたが、
前回の「天の父」についての質問に対する返答、
本当にありがとうございます。
これ以上の回答はないと思えるほどの、
理性的かつ、懇切丁寧な返答をいただいてしまいました。


返答いただいた、

イエスは神をなぜ「父」と呼んだのか。

から下の全文を、
「愛」の柱という動画解説の際に、
掲載させていただいてもよろしいでしょうか。

ぼくが前回させていただいたコメント同様、
動画で「天の父」と呼ぶことが解せないといったことを発言するのですが、
バーソさんの聡明な返答は、
動画を見てくださる方々の、
建設的な学びや自己との向き合いになってくれるものと思うのです。

2019/02/23(土) |URL|友資 [edit]

Re: バーソさんの記事とは

友資さん コメントありがとうございます^^)

> 人間に自己犠牲もいとわない「利他」があるのは、
「愛する」「愛さない」の二元性を超越した、
不可逆の「愛(自己愛)」が、
自我と呼ばれるようなものが、
極限まで縮小したときに、
発露され、むきだしになるのだと、
そんなふうにぼくは考えております。

 なるほどなるほど。そうですか。宇宙の根源たる存在が有している究極の“自己愛”が発露され、剥き出しになった時に、それを人間は「自己犠牲的な利他愛」と呼んでいるのですね。
 そういうものが人間にインプットされているというより、元々内在しているものが顕れるということなんでしょう。そうなら、私もそのように考えています。それを分かりやすくするために、デフォルトで装備されているというように説明していますが、宇宙はすべて神を材料にして出来ているので、じつはすべては一つ、神と人間も一つであり、自分と他人もじつは一つなのであろうとも思っています。

 このたびの友資さんのYouTubeを見て思ったのは、
宇宙は愛で出来ている。が、それはお花畑の愛ではなく、愛と憎しみという二元論の愛でもない。それは、いわゆる宇宙の根源たる存在の不可逆の「自己愛」である。そうであれば、その自己愛から世にあるすべては生じたことになる。つまり愛とは正反対の悪、すなわち憎しみや汚れや卑しさや醜さも、その根源たる存在とされる「神」または「創造者」から発している。とすれば、「神」は愛だけしか持ってないと思うのは片手落ちになる。と思うと、この世にはいろいろ正反対のものがあってもいいし、それが当然だということにもなるだろうと思いましたよ。なので、こう言うとちょっと誤解を招くかもしれないですが、神は何でも含有している、聖も邪も、清も濁も、何でもありの存在だと思っています。善の部分は無条件の愛が表れているとも思っていますし、究極的には神は無条件の愛であると思っています。それは突き詰めれば、友資さんが説明する“自己愛”であるとも言えるかもしれません。
 
 
 拙ブログの文章は、どこでも引用してもけっこうですよ。ただし、他の教会の解釈も調べたほうが間違いはないと思いますが。
 
 なお、イエスが神を父と呼んだのはなぜか?について補足をすれば、一般のキリスト教では「三位一体論」を採っているので、旧約の神エホバは「父なる神」で、新約のイエスは「子なる神」つまり“父なる神の子”であるからだという説明がされると思います。
 私は、人間や聖霊を神様扱いする「三位一体論」について懐疑的なので、その説明を省きましたが、イエスが神を父と呼んだのは、自分の父は神であるという認識があったためもあります。普通は、これが一番の理由とされるでしょう。
 
(なので当該コメントに以下の文を追加しました)
 そして後の時代に「三位一体論」として「子なる神」の概念に発展するのですが、イエスは、自分は天の神から遣わされた神の子であるという認識があったのですね。だからそういう意味でも神を「父」と呼んだのです。その証拠の一つとして12歳のときにエルサレムの神殿に行きましたが、そこを「自分の父の家」と呼んでいます。(ルカ2:49) またイエスは「私の父(神)は今に至るまで働いておられます。それで私も働いているのです」(ヨハネ5:18)とも語っています。
 なお、イエスは「神の子」であるというのは、精神世界でもそう言っており、人間はすべて神の子、神の分身であると言われています。

2019/02/23(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

どうせ結果が同じなら

 サソリがイタチから逃げたのは、食われたが最後命が無い訳で、死にたくないの一心からでありましょう。しかし、井戸に落っこちて一巻の終わり。そこで今際の際に雑念が駆け巡る。どうせ死ぬならただ死ぬのは嫌だ。
 合理的に考えるなら何かの役に立ちたいと思うのは判らんでもない。しかしだよ、その事でイタチが死なずに生き延びるのだとしたら、次の一日の為に新たなサソリの命が必要になる訳で、つまりサソリの命が無駄に終わる事で他のサソリの命が救われる事にはなるんじゃないのかいな。
 それに井戸の中にはカワズがつきもの。カワズにとっては待ちに待った食糧で、天からの救いの手かも知らん。だからそれはそれでサソリの命は無駄にはならない。逃げて正解。うんもそうに違いない。
 まあ、色々と御託を並べてみたところで、先の事は判らんもんで、井戸に落ちる前にイタチと会えば、やっぱり逃げたいだろうし、逃げるだろう。井戸に落ちてもう助からないと思っても、元気なうちはカワズに食われたくはないだろうよ。死んで糧になっときゃよかったと思ってはみても、じゃぁそうなりなと神様が救い上げてくれたら、イタチの前にさあ食べてくれと腹見せて横たわるかとなれば、んな訳無い。逃げます。
 それこそが命の本能なのです。利他的行いと称されるものもあるだろうが、失敗を前提に行動しているかと言えば、そうではない。行動の後に目論見が間違っていたと気付いて「ああ、やっちまったよ」となるんだろうけど、その時はそれっきりだから表には出て来んだけで、本人はしなきゃよかったと後悔してるかも知らんよ。
 え?miss,keyの言いたい事なんぞ初めから判っとるて?したり顔で言うな?・・・すみません。でもねぇ、その当たり前な事を、人はみんな何時の間にか忘れて置き去りにしてしまうんだよなぁ。

2019/02/24(日) |URL|miss.key [edit]

ありがとうございます!

>それは、いわゆる宇宙の根源たる存在の不可逆の「自己愛」である。そうであれば、その自己愛から世にあるすべては生じたことになる。つまり愛とは正反対の悪、すなわち憎しみや汚れや卑しさや醜さも、その根源たる存在とされる「神」または「創造者」から発している。とすれば、「神」は愛だけしか持ってないと思うのは片手落ちになる。と思うと、この世にはいろいろ正反対のものがあってもいいし、それが当然だということにもなるだろうと思いましたよ。なので、こう言うとちょっと誤解を招くかもしれないですが、神は何でも含有している、聖も邪も、清も濁も、何でもありの存在だと思っています。善の部分は無条件の愛が表れているとも思っていますし、究極的には神は無条件の愛であると思っています。それは突き詰めれば、友資さんが説明する“自己愛”であるとも言えるかもしれません。


まったくもって、
ぼくが言いたかったことは仰ってくださったとおりです。
こうなってきてしまうと、
あまりに身も蓋もなく感じられてしまうし、
善悪の認識があることの意味が失われてしまうし、
権力者側の支配ツール(ねつ造してでも敵を作るといった)にもビジネスにもなりえないので、
過去から現在に至るまで、
こうした「神への認識」がマジョリティになることは、
なかったのかもしれませんね。



引用の件、ありがとうございます。
他の教会の解釈も、可能な範囲で確認しつつ、
追加していただいた文章と併せて引用させていただきます。

2019/02/24(日) |URL|友資 [edit]

Re: どうせ結果が同じなら

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)

 よくまあ、話をいろいろ膨らませて考えるもので、カワズまで出てくるとは思わなんだかんだ神保町は古本屋の町ですが、しかしながら「その事でイタチが死なずに生き延びるのだとしたら、次の一日の為に新たなサソリの命が必要になる訳で、つまりサソリの命が無駄に終わる事で他のサソリの命が救われる事にはなるんじゃないのかいな」という論理を言われれば、なるほどなるほど、そういう見方もあると思ったことでした。
 確かにそうですね。弱者が食われるのが哀れと思って助けてやれば、強者のほうは食えないので生き延びていけない。だから野生の営みは放っておいたほうがいいと言われるのもよく理解できることです。

 人間の場合、どのように生きるか、どのように死ぬかという問題は、結局は、その人の生き方、考え方によって決まってくることなのでしょう。正解はこうだああだと客観的かつ一律に決められるものではなく、個人個人の人生観とその時々の状況で決まってくるように思います。
 世の中には、人生成功しっぱなしで運に恵まれている人もいれば、人生失敗続きのように見える人もいます。人それぞれですが、ともあれ、人みな試行錯誤の、山あり谷ありの人生を送っているのは、古今東西、どの国でもどの社会でも共通しているようです。
 
 じつは人間が過去、飽きもせずに同じような人生を終わりなく繰り返してきていることを業界用語で「いたちごっこ」と言いまして、「ごっこ」とは遊びの意ですから、太古の昔から人類はそんな人生ゲームを続けてきているのですね。ちなみに将来も変わらず生命が続くことを、同じく業界用語で「輪廻転生」と言います。

 人の中には自分は平凡な人生を送りたくないと思う人がいます。自分のことが近辺には見つからないために自分探しに外国に出かける人もいますし、人生とはなんぞやと調べて考えて悩んで一生をその探求のために費やす人もいます。しかしながら、山の彼方の空遠くに幸い住むと言われても涙さしぐみ帰るだけ。なかなかその答えは凡人には見いだせないことになっています。
 
 しかしそうはいっても、一を聞いて十を知るような頭のいい人もいます。そうです、miss.keyさんのような人は「さ」と聞いたら、「し・す・せ」を飛ばして「そ」まで一気に悟ります。そのように事象の仕組み、すなわち宇宙の「理」を悟っている頭脳レベルの人を「さそ理」の人と言います。
 つまり『銀河鉄道』の話の中では「さそり」は頭の切れる「さとり」のひとを象徴的に表している虫なのですね。切れるので彼は鋏を持っているのです。そうは思えなくても、とりあえず、ここはそう思っておいてください。

 では、なぜ「虫」なのか。鳥や獣ではいけないのか。先刻ご承知のように「虫」は「無私」に通じ、頭のいいさそりは「無私の愛」を示したいと常々願っているとなっています。常日頃、こうすることは他の人が益になる、こうすることは世のためになる、こうすることは合理的なことである、とそんなことばかり考えて生きているので、さそりは愛も変わらず、この地球上で、いたちごっこの人生を送って、利他的な愛を示し続けているというわけです。彼はなかなかいい人生を送っているとは思いませんか。
 
 以上、大変苦しい説明でありましたが、合点していただけたでしょうか。いや、そげんなこと出来っこないとですか。まあ、無駄に長いだけの返コメでしたから、無理もないとです。(笑)。

2019/02/24(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: ありがとうございます!

友資さん コメントありがとうございます^^)

 友資さんの主張していることの骨子は、私の理解でおおむね合っていましたか。それはよかったです。
 神は何でも含有している、聖も邪も、清も濁も包含しているというのも合っていましたかね。これはキリスト教的には、神は聖なる方ですから、絶対にあり得ない考え方なのですが。

 しかし、こうまとめてしまうと身も蓋もない。あらら、確かにそうですね。こういうことは短く言ってしまうと味気なくなりますね。そして短く要約してしまうと、かえって容易には理解しがたくなります。

 こういうことはやはり、学校の授業でも普通は小学校から中学、高校と進んでいくように、段階的に学んで、漸進的に理解していくほうがよさそうです。そうすれば、だんだんと頭に浸透してきて、だんだんと心の奥に入っていきそうです。私も、おいおい分かっていくのでしょう。

2019/02/24(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2019/02/27(水) || [edit]

鍵コメさん コメントありがとうございます^^)

 長文の情報をありがとうございました。
 面白そうなので全文読んでみます。
 ただ時間が掛かりそうですので、
 その感想はしばらくお待ちくださいませ。

2019/02/27(水) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2019/02/28(木) || [edit]

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