「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 何のために人は生きているのか。中島敦の短編小説『狼疾記』 


 突然、社の広い制作室の中で、
「宗教をやる人間は馬鹿だ」という大きな声が聞こえた。

 私がまだ二十代だった昔、聖書の神に付き従う人生を歩もうと決意し、大手広
告代理店を辞めた当月の話です。

 大声を出した男は三十代の理屈っぽいコピーライターで、革新系の市議に当選
して退職することになっていたが、どうやら誰かと話をしていたときに、自分の
信条をこの私に聞かせたくなったようだ。

 しかし私は、別に、というか、全然、腹は立たなかった。
 なぜなら、ひとがそう思うのも理解でき、まあ、もっともだと思うからだ。

   rou1p.jpg ※画像は単なるイメージカットです。


 とかく宗教に関心を持つと、外から非難や憎悪、また助言や説得がやってくる。
 しかし中島敦の短編小説狼疾記ろうしつきでは、作者が内側で自問し、反問している。
 
 この書の主人公の思考と性情が、私バーソと似ているのです。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『狼疾記』の主人公は、形而上的な疑問を解きたい性情がある。
※形而上とは、形を持っていないもの。感性を介した経験では認識できない超自然的・理念的なもの。

 小4のときの三造(作者)は、何万年後かには太陽も冷えて、真暗な空間をただ
ぐるぐる回っているだけになると担任から教えられ、たまらなくなった。

 それでは自分たちは何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙は
このままに続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。それ
が、今、先生の言うようでは、自分たちの生れて来たことも、人間というものも、
宇宙というものも、何の意味もないではないか。

 私バーソも少年時、自分の存在が無くなると思うと叫び声が出そうになったが、
三造も、人間や地球や太陽や宇宙の存在意義まで考えて不安になる傾向があった。

   rou21p.jpg


 成人した三造は、人間に分からない問題は考えないのが幸せだとする現実的な
人生観は持っていた。彼の内面にいる貧弱な常識家が三造に、こう問いかける。

「いい年をして、まだそんな下らない事を考えているのか。もっと重大な、もっ
と直接な問題が沢山あるじゃないか。何という非現実的な・取るに足らぬ・贅沢
な愚かさに耽(ふけ)っているのだ。・・・少しは恥ずかしく思うがいい。」



 だが三造は、心の奥に、どうしても知りたいという「性情」を持っていた。

 何より大事なことは、俺の性情にとって、幾ら他人に嗤(わら)われようと、こう
した一種の形而上学的といっていいような不安が他のあらゆる問題に先行すると
いう事実だ。・・・この点について釈然としない限り、俺にとって、あらゆる人
間界の現象は制限付きの意味しか有(も)たないのだから。

 女や酒に身を持ち崩す男があるように、形而上的貪慾のために身を亡ぼす男も
あろうではないか。・・・前者は欣(よろこ)んで文学の素材とされるのに、何故後
者は文学に取上げられないのか。

 形而上の問題を解きたいのは、学者のような知識欲ゆえというより、自分の本
質的な「性情」であって、その疑問が解消されなければ生きていけない。だから
形而上的な探求を、肉欲追求の快楽と同等の快楽として正当化しようとしている。

   rou31p.jpg


 つまり快楽の対象が人によって違うのは、好みの他に、正邪や損得などの理屈
を越えた「性情」による場合もあるのですね。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『狼疾記』の冒頭には、孟子の言葉が引用されている。

 養其一指、而失其肩背而不知也、則為狼疾人也。
 其(そ)の一指を養い、その肩・背を失えど、而(しか)も知らざれば、則(すなわ)ち 
狼疾の人たり。

 孟子は、「一本の指」の養生に成功しても、「肩・背」などの全体が駄目が駄
目になることに気付かないなら、それは狼のごとき病の愚人であると教えている。

 つまり精神的な飢えを満たすことに懸命なあまり、自分の人生行路や家庭生活
を破綻させているのに、それに気付かないなら、「宗教や哲学や精神世界をやる
人間は馬鹿だ」と言われるかもしれないのだ。

   rou12l.jpg


 というわけで、かく言う私バーソによく当てはまる話になるのでありました。



ちなみに具体的にいえば――――――――――――――――――――――――――――――――――

 私が駄目にした「肩・背」は、厳格な教団に長年所属し、伝道活動と週3回の
集会を最重要視したがゆえの転職無職の苦労や貧乏、慢性疲労や大病に、遊ばず、
子供は作らず、教団と信者の援助のために費やした人生(気力体力時間金銭)です。
 
 普段の集会では約70人の信者に聖書の話をし、大会では約1500人の聴衆に1時
間の話をしたり、年中超多忙でしたが、ついにネットで米国本部の実態を知って
離脱したときは、ああ、自分は孟子の言う「狼疾の人」だと大いに悔やみました。

 養生できた「一本の指」は、すぐに精神世界の教えを学び、人生に失敗はない、
人はみな自分の定めた人生を歩んでいると思えたことと、神の愛とは無条件の愛
だと分かったことです。これは人生最大の知的収穫であり、おかげで目が開け、
自分は必要なことを体験でき、面白い人生を歩めたと思えるようになりました。

 現在の心情は、言うなれば肩と背は損傷したものの、大事な指だけは以前より
良くなったつもりになってるアマチュアピアニストみたいなものですかね。(笑)


補足―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※中島敦(1909-1942)は第二の芥川の再来かと大いに期待された小説家ですが、33歳の若さで病死。
※画像は米国コンデナスト社発行の雑誌『The New Yorker』(1925.2.17~)の表紙を借用しました。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

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COMMENT FORM

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ああ、得心しまくります!

>何より大事なことは、俺の性情にとって、
幾ら他人に嗤(わら)われようと、
こうした一種の形而上学的といっていいような不安が
他のあらゆる問題に先行するという事実だ。

これは共感しまくります(笑)
しかも私的には……。

>70人位の信者に聖書の話をし、大会では1500人位の聴衆に
1時間の話をしたり、年中超多忙でしたが……。

この日々が、バーソさんを有能な論者に育てた。
どんな質問にも、愛と誠実さを込めて解答する
知的で寛容な生き方……習慣を養えたのだと思います。

バーソさんの組織からの離脱は、
まるで“ベルリンの壁”のようなものだったんでしょうね。
解放されたあとに押し寄せた自由と意識の急速な発展、進化。
心酔していた意識の密度が深かったからこそ
“バーソは超絶自由に”なったのでは?と思うほどです。(笑)

2019/01/19(土) |URL|風子 [edit]

同じですね

バーソ様
おはよう御座います。

内容はかなり違っていると思いますが多くの人達の前でプレゼンしていたのは同じですね。
私の場合は常に損得勘定と合理化の話ですが。
頭のいい人はいつも哲学的な考え方をするようですね。私もその入り口までは行くのですがすぐに面倒になって追求を止めてしまいます。
何のために生きているなんて全人類が考えたら収集がつきません。全人類が哲学者になってしまったら哲学者は職を失ってしまいます。(笑)

愛新覚羅

2019/01/19(土) |URL|aishinkakura [edit]

今年もよろしくね

遅ればせながら新年のお慶び申し上げます(笑)

養其一指、而失其肩背而不知也、則為狼疾人也
ゴルフ場でのおいらは、まさに「狼疾の人」なり。

傲慢、嫉妬、憤怒、暴食、色欲、怠惰、貪欲、おいらは欲の塊なり・・・。

獲得、構成、優越、承認、顕示、保身、反発、恭順、模倣、対立、攻撃、屈従、非難、拒絶、求知、解明、などこれも欲とするなら、神、仏に信仰をよせる輩もこれまた欲の塊。

人間の欲望を巧みに操り、神、仏を最初に作った人、又それを膨らまし続けている人、これはもう詐欺なんていうレベルではない、やはり神のなせる業だ。

なんて、変なコメント入れちゃったけど、エロ爺の素朴な脳みそではこんな考えしか出来ませんでしたので、あしからず。

2019/01/19(土) |URL|ばく [edit]

Re: ああ、得心しまくります!

風子さん コメントありがとうございます^^)

 得心しまくりましたか。この話は、書きながら、むしろ風子さんのほうに合っているかもしれないと思いましたよ。

 私は、この「形而上的な不安」は聖書によって完璧に解答を与えられたと思ってしまったのですが、最初の頃、もっと精神世界のいろいろな出版物があれば、あるいはパソコンとネットがあれば、また異なった道を選択して違う人生を歩んでいたかもしれないですね。
 しかし、なんせ、今とはずいぶん情報環境が違うので、自分の歩んだ道が精一杯だったというより、まあ、それで良かったのだろうと思っています。

 私は口下手なほうだったので、まず伝道に出て、知らない家々を訪問することにちょっと以上の決心と勇気がいりました。だから演壇から聴衆に話すことなんてとんでもないことだったのですが、教団では真剣宣教学校といって毎週、信者全員にマイクを使っての話し方の訓練がされるのです。
 課目(1)興味を引く紹介の言葉から始まって、声量・休止・抑揚、意味の強調、要点を目立たせる、効果的な例え話・・・などの訓練課目を段階的に学んでいるうちに、みな人前で話せるようになります。
 この話し方の訓練はたいしたもので、何年か学んできた男子なら大抵、内容は別として、話し方に関しては並の政治家よりも上手だと思いますね。

 そうですね。私の所属した教団ほど聖書に全面的に従おうとする厳格なキリスト教会は他にないでしょうから、辞めてからは、その反動もあって、ブログでは口癖のように自由、自由と言うようになりました。
 しかし単に言っているだけで、決してヒッピーのように奔放ではなく、じつは世間的に見ればかなり規律正しい人間のほうの範疇に入ると思っていますね。(^^ゞ

2019/01/19(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 同じですね

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)

 教授は大勢の人の前でプレゼンをする仕事だったのですか。
 経営と合理化。ニッポンが誇る企業戦士の最先鋭だったのですね。外国にも行ったり、恵方巻を流行らせたり、相当活躍したのでしょう。ブログの内容やいまの仕事や、趣味やそれに関する物を見ると、ある程度わかりますよ。

 頭のいい人は、まず「合理的」ということを第一に考えるのじゃないですかね。なんにせよ非合理的な作り方とか要領の悪いやり方というのは、愚かしくて黙って見ていられないでしょうから。

 哲学など思想的なことを考える人は内向的な人が多いのじゃないでしょうか。作家は頭がいい人が多いので、度が過ぎるとウツや自死や心中の方向に行く人もいるようです。
 そう考えると、孟子の言うように、考えても答えの出ないことは、ある程度時間を掛けたら見極めをつけるほうがいいかもしれませんね。でもそれは案外難しいのですが。

 確かに、難しいことは人類の中の一部の人がしたらいいのでしょう。
 聖書では使徒パウロが宣教活動のためには独身のほうがふさわしいと言って、ひとは結婚しないことを推奨しているのですが、全員がそうしたら人類は絶滅してしまいます。人生いろいろ、人それぞれ、がいいのでしょうね。

2019/01/19(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 今年もよろしくね

ばくさん コメントありがとうございます^^)

 あら、新年の挨拶はまだでしたかね。もうとっくに済んだと思っていましたが、そうだとしたら失礼しました。

> ゴルフ場でのおいらは、まさに「狼疾の人」なり。
 あはは、体に不調を抱えながらも頑張って励んでいるようですね。

> 傲慢、嫉妬、憤怒、暴食、色欲、怠惰、貪欲、おいらは欲の塊なり・・・。
 あはは、人間はみな、量の違いはありますが、みなそうですね。中島敦も『狼疾記』の終わりのほうで、そのようなことを書いていますよ。

> 獲得、構成、優越、承認、顕示、保身、反発、恭順、模倣、対立、攻撃、屈従、非難、拒絶、求知、解明、などこれも欲とするなら、神、仏に信仰をよせる輩もこれまた欲の塊。
 おやまあ、ずいぶん列挙しましたね。そうです。信心のある者だって同じです。種々の煩悩があるからこそ仏教があり、良心の咎めがあるからこそキリスト教があり、そういうものを好まない人には哲学や精神世界があるのですから。
 この中では「対立、反発、攻撃」が他者に迷惑を掛けやすいでしょうし、「優越」は個人的に質を高めていこうとする動機のものならいいと思いますし、「屈従」は、自分を不必要に低めてみっともないので勧められるものではないですね。「従順」ならおとなしくていいのですが。
 私は、ひと様に迷惑が掛からないのであれば、立身出世も野望も全然悪くはなく、何でもやりたいことをやったらいいと思っていますが、そういう意味では、ばくさんは自分の夢を達成して一国一城の主になり、たいしたものです。

> 人間の欲望を巧みに操り、神、仏を最初に作った人、又それを膨らまし続けている人、これはもう詐欺なんていうレベルではない、やはり神のなせる業だ。
 神や仏を最初に作った(よく考え、求めた)人は、人間の根源的な疑問に答えてくれるものが欲しかった、そして精神に不安を解消してくれるものを求めていた人じゃないでしょうか。というより、そのはずです。
 キリストにせよブッダにせよ親鸞にせよ、のちに宗教の創始者と言われるようになった昔の人はみな、純粋で真摯な動機を持っています。今でもご利益を求めて我欲で入信する人もいるでしょうが、形而上的な深遠な疑問の解答を求めている人もいるはずです。

 ところが妙なことに、そういう個の人間が集まると組織になり、組織になると組織の存続が最重要事になるのですね。そうなると階級制ができ、組織の長にいる人は、自らの権威を振るうことと、組織に金を集めることに最大の熱意と関心を示すようになります。
 組織が巨大になればなるほど偽善が大きくなり、虚偽や腐敗がひどくなります。信者から金をむしり取り、他の宗教団体とは教理上の点で争い、時には殺し合い、民族紛争に加わることもあります。

 こういうことは宗教団体の「負」の面で、宗教を嫌う人はこういう悪事を嫌うのでしょう。しかしまた宗教には「正」の面もあって、その教えによって自分の性格や生活を改善したとか、精神にやすらぎを得たとか、死後の不安がなくなったとか、いろいろ良い面もあります。ですから世界からは宗教が減少することはあっても無くなることはないでしょうね。需要があるので供給があるわけですから。

2019/01/19(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こころ打たれました

「性情」とは「衝動」とも言えそうですね。
理屈ではなく形而上に向かって突き動かされる自分がいて、
形而下に重きを置く多数派の人々もまた、
同様なのでしょうね。


ぼくは、
バーソさんが歩んできた道のりに、
敬意を表すことしかできませんし、
バカにすることなんて間違ってもできません。

そして、コピーライターが放ったひと言もまた、
バカにすることができません。
コピーライターが生まれ授かった先天的特性、
彼を取り巻く人間関係や学びや経験が、
そうさせたひと言だからと思うからです。



「あのときがあったから今の自分がある」と
思えることは、
人生におけるひとつの恩恵ですが、
「こんなはずじゃなかった、あのときがなければ…」と思えてしまうことは、
人生における悲しみのひとつですが、
そんな人も、のちのちに前者へシフトする可能性を、
常に秘めていますよね。

前者へとシフトしたバーソさんは、
多忙な説者としての日々を糧に、
思想や宗教観を超えて、
後者の人を導く役割を担ったのかもしれませんね。

2019/01/19(土) |URL|友資 [edit]

こんばんは

バーソさんもブログで形而上的な疑問をいつも
提起し、私、読ませてもらっています。
バーソさんは宗教的上の疑問がネットで氷解されたんですよね。
高名な宗教指導者でもネットでネガティブでスキャンダラスな
記事が出ていたりします。
ネットは図書館の、新聞の、TVの、百科事典の10倍便利で、
情報が豊富です、取捨選択は必要ですけど。
面白いですね、三造さん。
自分は死んでも地球や宇宙は続いていけば安心・・・
逆に女優の高畑淳子さんは子供のとき、自分がこの世から
居なくなっても、世界は動いてゆくんだという事がすごく
怖かった、と何かで読みました。
でも魂が永遠に生き続けるなら怖いこともないか。
こればかりはググっても解答がでてこない。
死んでみないと分からん。(笑)

2019/01/19(土) |URL|エリアンダー [edit]

Re: こんばんは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)

 ネットを始めるようになって、まず調べたのは、所属していた教団の教理の真実性です。
 教団にいた頃から、これは聖書的におかしいと思っていた教理が幾つかあったのですが、その教団は間違えた場合は出版物で訂正記事を出するので、私が疑問に思っていることもそのうち修正されるだろうと好意的かつ楽観的に思っていました。なにしろその教団ほど聖書に忠実に付き従おうとする教団は他になかったですから。

 ところがアメリカ本部で主要な出版物を書いていた組織の中枢的な人が、教団独自の教理に疑問を述べて排斥されました。そして本部の実態を暴露する本を出しました。レイモンド・フランズ著『良心の危機―「エホバの証人」組織中枢での葛藤』という本です。
 その本を読んで、教団が重要な教理の間違いを分かっていながら、信者には隠してごまかしていたこと。そして言うことと行なっていることにかなりの相違があり、いろいろ偽善があったことが分かりました。
 私は日本支部には行ったことがあり、皆いかにも真面目を絵に描いたような人たちばかりが奉仕していましたが、アメリカの本部の中枢部(統治体と言います)は違っていて、じつは金儲け主義の権化でした。

 私が入った頃は、霊性が高い純粋なキリスト教徒の団体というイメージが強かったのですが、最近は本部の統治体の委員のメンバーがすっかり入れ替わり、かなり俗世的に変わりました。まさに世も末です。
 
 
 精神世界の知識はネットじゃなく、本から得ました。ネットからは今でもあまりその種の知識は得ていないのです。
 東京駅の八重洲口や丸の内にある大きな書店に行っては、いろんなジャンルの本を買ってきて、ずいぶん読み漁りました。真理は一つだから聖書に替わるものが必ずあるはずだと思って必死に探し、必死に読みましたね。

 そして『神との対話』に行き当たり、目からウロコが激しくポローッと落ちました。精神世界の本はいろいろ読んでも、100パーセントは納得できる本はなかったのですが、その本は書いてあることがすべて納得でき、乾いた熱砂に水が浸み込むように全部すーっと心の中に入ってきました。
 まあ、正邪の判断基準というのは正しいか間違っているかというより、自分が好きか嫌いかの違いだということもあり、言い換えれば私に合っていました。

 高畑淳子さんが持つ疑問は私も子どもの頃に持ちましたが、持つ人はけっこう多いんじゃないでしょうね。そんな疑問は全然持たないで生きていけるほうが、私はちょっと不思議な感じもします。よほど何かに打ち込んでいるのか、あるいは満ち足りているのか、もしくは平和活動やボランティアに打ち込んでいるのか。いずれにしても自分で自分の生き方を納得できていれば、それはそれでいいことだと思いますが。

2019/01/19(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: こころ打たれました

友資さん コメントありがとうございます^^)

 「性情」とは、生まれつきの性質と心情です。なので、なかなか変えるのが難しそうです。形而上の場合は内面から突き動かされるようなことが多いので、確かに「衝動」と言えそうですね。
 ただ、ワクワクで知られるバーシャルのチャネラーであるダリル・アンカのように元気な大声を出す人もいるので、そう考えれば、激しい開放的な衝動もあれば、制御された内に秘めた衝動もありそうです。
 友資さんは後者のほうのようですね。私のように冗談や駄洒落をあまり言わない人のほうが、霊的にずっと上質の人のような感じがします。(笑)
 
> 「あのときがあったから今の自分がある」と思えることは、人生におけるひとつの恩恵ですが、
「こんなはずじゃなかった、あのときがなければ…」と思えてしまうことは、人生における悲しみのひとつですが、そんな人も、のちのちに前者へシフトする可能性を、常に秘めています

 そういう考え方はポジティブでいいですね。物事には明と暗、清と濁のように両面があります。どちらが正しいか、どちらが得かという視点もありますが、やはりそこに、どちらが好きかという性情が関係している場合もありそうです。

 私がよく出す例えは、真っ白なハンカチがあって、一点に黒いシミがある場合、その黒いシミだけが気になる人と、まわりの真っ白のほうがはるかに多いと思う人と、二種類に分かれると思いますが、その違いは日ごろ自分の語ることや関心事に表れ、ひいては自分の幸福感にも関係してくると思います。

 神や仏の愛によってすべては赦される。だから故意に悪事をしないなら大丈夫。安心して生きていきなさいとなれば、それは正しい教えだと思います。しかしそうではなく、神や仏のご意思を行なわず、死に至るまで忠実でないなら決して救われないと教えるなら、人間を不幸にします。
 だから、ある宗教組織がどちらのほうを強調するかで、その組織が「正」のほうが好きな性情なのか、「負」のほうが好きな性情なのか、見分けられると思いますね。

※順序が一つ変わってしまい、すみません。

2019/01/19(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

宗教をやる人を馬鹿だと言うなら、人類が認める釈迦やイエスなどの聖者も馬鹿になります(笑)
大方、革新系の市会議員になる人も共産系のイデオロギーをやっていて宗教批判をしたのでしょう。
宗教もイデオロギーもカブれてのめり込むと人間をキ〇ガイ(狂信者)にする怖さを持っています。
本来は宗教もイデオロギーも人を幸せに導く手段のはずですが、狂信者は手段を目的にしてしまいます。
狂信的な指導者が上に立つと、宗教の為に人を殺し、国家の為に戦争をする手段と目的が逆転した世界になります。
その点では自由主義だと綺麗事を言っている現代的資本主義者も、地球環境を破壊し貧富の差を拡大させて手段と目的をあべこべにしている拝金的狂信者には違いありません(笑)
何かの宗教や思想にのめりこむ前に、まず人がいてこそ成り立つ…言わば「人間主義」を忘れないで欲しいですね。

2019/01/19(土) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)

 結論は、狂信がいけないということでしょうかね。盲信は妄信と猛進になりやすく、危ない。強信は自信過剰になり、反対意見のひとを軽んじ、攻撃したくなります。
 だったら、軽信か弱信が良さそうですが、それじゃ信仰の効果やご利益がなさそうです。いっそ無信仰になれば信仰にまつわる問題は一切なくなりそうですが、それはあり得ないでしょう。

 と考えてくると、政治思想でも強すぎる主義主張を持つなら、他者を罵り、非難し、憎み、殺すことにまで発展しやすくなります。なので、むしろノンポリのほうがいいとなりますが、そうなると政府や官僚の思うがままにされ、不正や腐敗がはびこり、生活が悪化します。

 だから、いけないのは、自分の考えを持つのは良い。しかし自分の考えと違うひとを悪人であるかのように言って排撃しようとするのは良くない、となりませんかね。
 意見や考え方が違うだけで、人と人が憎み合い、傷つけあうのはおかしいです。正義感はあっても肝心の愛や親切がありません。

 その正義感にしても、自分が単に正しいと思っているだけで、その正当性はいろいろ理屈を付けて説明できるかもしれないですが、そう言ってしまえば相手のほうも同じように理屈を持っているわけです。意見の違う者同士が同じ席で話し合っても大平行線をたどるだけです。なぜかといえば、「正しい」とは、すなわち自分が「好きだ」であるだけのことが多いからです。
 
 それにしても民族紛争や大国の横暴や思想テロで、ひどい迫害や大量虐殺があって、大勢が難民になって、それを他国から拒否されて、今日を生きていくのも大変な人々が大勢いて、本当に困ったものです。早くなんとかならないかと思います。

 人間みんなが愛に基づく人間主義をしっかり認識していれば問題は起きないのでしょうが、それは永遠に難しそうです。それこそ邪悪な宇宙人の襲来でもなければ、地球人が一つにまとまることはないのでしょうかね。

2019/01/20(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

平等なんてものは無いのかも知らん

 何処で何時誰の子としてどの様な才能を持って生まれるかは自分では絶対決められませんで、人生とは最大のギャンブルとも言えましょう。それを此処では運命とでも言いましょうか。いわゆる世間でいうところの運命とは違いますのでご注意あれ。
 さて、その運命を抱えて生まれたからにはある程度選択肢は決まってきまして、音楽家の子供に生まれた人とそうでない人の音楽的環境が違うように、政治家の子として生まれた人とそうでない人の政治的環境が違うように、資産家の子として生まれた人とそうでない人の経済的環境が違うように、科学者の子として生まれた人とそうでない人の学問的環境が違うように、ぼーずの子として生まれた人(イイノカ?)とそうでない人の宗教的環境が違うように、決して完全なる平等などと言うものはありえないのでありましょう。いやいやそれは本人の努力次第?ハイハイごもっとも。されど努力出来るか出来ないかや、その方向性を決めるのも生まれた時の環境が大いに影響しているのもまた事実。それらを子供に何とかせい言われても、そもそも無理筋っちゅうもんですな。
 とは言え、世の総ての人が本当に平等だったとしたら・・・一人が転べばみな転ぶ。誰か風邪ひきゃ皆肺炎。皆で忘れりゃ失われ、喧嘩が始まりゃ大乱闘。あ、こりゃ大変ですなぁ。不平等万歳。
 また論点がずれとる。
 そこで無理矢理に話を引き戻しますと、性情なるものが個々に存在し個々によって違うのも、多様性による種のリスクヘッジと言えるのでありましょう。宗教にのめり込むのもクソ食らえなのも、未来を思って心配になるのも我がいなけりゃ世界は要らぬなのも、これからもしかしたら訪れるかも知らん「環境」に順応できる存在を用意しておこうとする種の本能なのかもしれませんな。うは、強引。だってお題が難しすぎるんですよー。

2019/01/21(月) |URL|miss.key [edit]

Re: 平等なんてものは無いのかも知らん

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)

 いやー、またまた、すこぶる多忙な中、かなり時間を掛けていただいたようで、非常に極めて大変有難いことです。miss.keyさんなら書き出したらすらすら言葉が出てくるのでしょうが、それにしてもこの文章なら、私だったらだいぶ時間が掛かりそうです。
 あ、でもコメント欄を見たら、音楽家・政治家・資産家・科学者・ぼーずに関わる文章がきれいに斜めに揃っていて、この並列列挙でいささか文字数を稼いでいるようでもありましたが。(笑)

 昔、「親の因果が子に報い」と見世物小屋の客引きが言いました。生まれてきた環境や本人の資質は、確かにその後の人生に大きな影響を与えますね。お金持ちの子供は、くったくのない、苦労をしたことがない顔をしています。音楽や美術など文科系の素質は遺伝しやすいようで、特に七光り族はかなりチヤホヤやされ、優遇されます。

 大昔から、人はみな生まれながらに不平等なのですが、ここで参考までにmiss.keyさんの嫌いなスピリチュアル的な話をあえて言わせていただくと、まず輪廻転生があると前提すれば、人は生まれる前に自分でどんな道を歩むかを選択するようになっている。だからひどい境遇や才能で生まれてきた人は、じつは相当霊的にレベルが高い人が意図して困難な人生を今生で歩もうとしている、と考えられます。
 言うなれば、わざわざ危険な高い山に登ることを喜びとするような登山家と似ています。F1レーサーとかスタントマンとか冒険家とか、世の中には困難を乗り越えるのが好きな「性情」の人がいますし、時流や体制や上位の権威に逆らったり、何でも少数派に属するほうが好きな人もいますね。

 世の中が悪いのは人間の我欲のせいだとか、原罪のせいだとか、悪魔サタンのせいだという宗教的な説明はあります。末法の世のあとには世の終わりとかハルマゲドンがあって、その時には宇宙の公正が実施され、世界の救いが実現するとか、あるいは人は皆あの世に行って至福を享受するのだという説明もあります。

 しかし、だったらそんなことより、愛と公正であるはずの神や慈悲の仏さまがなぜもっと早く地上の事柄に関与して、地球上で現にいま苦しんでいる人類を救わないのかという疑問が出てきて、この矛盾に納得できる答えを出すことはできていません。

 いや、だから宗教じゃなく、政治で良くするのだと言う人もいます。しかし封建主義、帝国主義、共産主義は失敗したことが歴史から証明され、資本主義は格差社会を拡げるばかりです。自分ファースト主義は当たり前だとする風潮が自由主義大国の米英から始まっている昨今、近未来への不安はますます増えそうです。

 人間は弱肉強食の動物社会の一部なんだから、不平等は当たり前だとする考えは、そうなら救いがなくて悲しくなります。人間は単なる獣の発展形なんでしょうか。それが満足でき、納得できる正解なんでしょうか。

 貧困の格差と言っても、日本ならまだタカがしれています。スマホや自転車を持ち、缶ビールを飲んでいて、自分は貧乏だ、給食費も払えないとか言っている人もいるわけですが、アフリカや難民が起きている国だと、その日に食べる物も住む所も無く、暴行され迫害され虐殺されることもあるのですから、そんな人たちに輪廻転生の話なんかしたら全然励ましにならず、かえって怒り出す人がいるかもしれません。
 
 しかしながら、太古の昔のチベット付近から出てきた怪しげな考えだと思われている輪廻転生の説明以外に、その証明はできないとしても、この社会の不平等をうまく説明する言い訳は無さそうなんですが、どうでしょうね。

2019/01/21(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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