「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 生きていさえすればいい。太宰治の『ヴィヨンの妻』 

人非人にんぴにん」という言葉は、前から読んでも後ろから読んでも禁止ワードらしい。
変換キーを叩いても出てこなかった。(Microsoft IME)

類義語は、人でなし、無頼漢、下劣野郎、アウトロー、人間のクズ、人間失格。

ところが、そんな「人にあらずの人」でもいいと書いている作家がいる。



 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」


        ksi7q.jpg (ホーム社漫画文庫)



1947(昭和22)年に出された『ヴィヨンの妻』の中の女主人公が語るセリフだが、
戦後2年目の時期なので、とにかく生きることが大事だという意味だったのか。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『ヴィヨンの妻』―――――太宰 治          
ご注意:ネタバレあり。短編で読みやすく面白いので、先に青空文庫でご一読を。

小説の語り手は、ある放蕩詩人の妻、26歳。

夫の大谷は、飲んだくれで、家庭を全然顧みず、外には愛人が幾人もいる。
(この大谷は、作者の太宰治自身がモデルだと言われている※1)
妻のさっちゃんは、3歳の発育不全の子供を抱え、貧乏生活を甘受している。

ある夜、小料理屋の夫婦が、盗んだ金を返せと怒って家にやって来た。
夫が3年も勘定を払わず、さらに運転資金も盗って逃げたのを追ってきたのだ。

妻は、夫の借金を全部返すために、東京・中野にあるその小料理屋で働き出す。
夫が盗んだ金は、翌晩、夫と深い仲らしい中年女がやって来て払ってくれた。
店は、若い美人が接客して、受け答えもいいというので繁盛し出す。

1pp91.jpg
画像は2009年の日本映画『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜"』のYouTubeより。


夫は二日に一度は飲みにやってきて、勘定は妻に払わせて、ふっといなくなる。
夜遅くやってきて「帰りませんか」と言って、一緒に家に帰ることもある。
そんな夜、妻は夫にこう言う。

「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」

妻は、自分を評価してくれる場所ができ、夫と帰宅できるのを幸福と感じている。
夫は妻にこう答える。

「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れた時から、
死ぬ事ばかり考えていたんだ。・・・それはもう、たしかなんだ。それでいて、
なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめ
るのです」


しかし遊び人の夫は、死ぬことを「キザ」と言い、それをしたいと言っている。

1pp086.jpg


それから二十日位たった雨の夜、妻はこんな想定外の体験をする。

 神がいるなら、出て来て下さい! 私は、お正月の末に、お店のお客にけがさ
れました。


大谷のファンだという若い男が、家まで送ると言うので、相合傘で帰ってきたが、
男は、もう電車がない、翌朝の始発まで玄関の式台でごろ寝させてほしいと言う。

 そうしたら、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられ
ました。
 その日も私は、うわべは、やはり同じ様に、坊やを背負って、お店の勤めに出
かけました。
 中野のお店の土間で、夫が、酒のはいったコップをテーブルの上に置いて、ひ
とりで新聞を読んでいました。コップに午前の陽の光が当って、きれいだと思い
ました。


貞操を汚されたと神に文句を言っているが、「あっけなく男の手に入れられ」た
のは、心の奥では抵抗感がなかったからだ。翌朝、夫の席のコップに当たった陽
の光を「きれいだと思」ったのは、手籠めではなく情交として受け止めたからだ。

 夫は、黙ってまた新聞に眼をそそぎ、
「やあ、また僕の悪口を書いている。・・・ここに僕のことを、人非人なんて書
いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮にね、ここか
ら五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久し振りのいいお正
月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事も仕出かすのです」

夫は享楽三昧の日々を過ごしながらも、心に咎めがあるせいか、自分は「人非人
でない」と妻に言い訳するが、妻は夫にこう言う。

 私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
 と言いました。


ooi076.jpg


                


この「生きていさえすればいいのよ」がキーワードのようだ。※2

妻は「私たちは生きていさえいればいい」と言い、「私たち」を主語にした。
つまり、自分だって後ろ暗いことを抱えている「人非人」だと暗に表明し、
今や自分も自由な生き方をし始めたことを内心で喜び、正当化しているのだ。

放蕩の詩人の若き妻は、
生きている感覚を肌で感じるようになり、
“ 自分の幸せ ” を味わえるようになり、強い女になった。
夫で苦労し、自分も問題に遭ったが、それを良い方向に転じることができた。


視点と地点が内向きから外向きに変われば、新しい世界が拓けてくる。
不幸が重なるように見えても、新しい人生の始まりであることがあるのですね。





補足―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1:詩人である大谷は、十五世紀の放蕩詩人フランソワ・ヴィヨンに見立てられている。

※2:「生きていさえすればいい」のセリフは、作者の太宰がこの書を書いた翌年、39歳の
ときに、玉川上水で10歳下の愛人山崎富栄と入水したことを考えると余計興味深い。

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不幸な精神が産んだ秀作?

かつて『斜陽』『人間失格』などを読んだ印象としては、
何て暗い人だろうと思いました。
ストーリーの描写に惹き込まれますが、胃が痛い(笑)
それも、暗さに憧れているというか、俗にいう
幸福になることを恐れて逃げるという……(^_^ ;)

ドストエフスキー、芥川もそうですが、
精神を逆境に置くことで生まれた文学、けっこうヒットしますよね。
読者に隣の不幸的な、歪んだ充足感を感じさせるのでしょうかねぇ。

放蕩の詩人の若き妻が、ある出来事によって
内なる「人非人」と折り合いをつけた。
自分を許したので、人も心から愛せるようになった。
ここが唯一、救われる『物語の核』ですね。

松たか子、美しいから文学になります。
これが“そうでない方”だと、それなりの作品かも、ですね。(笑)

2019/01/12(土) |URL|風子 [edit]

生きていれば

バーソ様
おはよう御座います。

私は現実的な人間なのでもし女に生まれたとしても芸術家の妻にはなれません。
安定しない生活なんてとてもやっていられません。
でもそういう生活力のない男というのも魅力的な部分もあるのでしょうね。
私には到底わかりませんが。
「生きていさえすればいい」という言葉は生きていればいつかは現実が変わるという期待感があるのでしょうね。現実で満足しているわけではないと思います。
終戦直後は頻繁に使われた言葉なのではないでしょうか。

愛新覚羅

2019/01/12(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: 不幸な精神が産んだ秀作?

風子さん コメントありがとうございます^^)

> 幸福になることを恐れて逃げる
> 隣の不幸的な、歪んだ充足感を感じさせる
 なるほど。さすが、風子さんらしい鋭い人間分析です。
 前者の「幸福を恐れる」とはどういう心理なんでしょうかね。幸福を恐れるとは、いま不幸な人には考えもつかないことですが、不幸のほうがいいとするマゾのような快感なんでしょうか。あるいは生活の変革が怖いのでしょうか。
 しかし他人の不幸を見て充足感を感じるのは、それにより自分の不幸感が多少なりとも軽減されるからでしょう。
 どちらにしても小説の世界を、自分に関係のある現実の出来事として見ているのが面白いですね。そう思うと、スピリチュアル的に、人は人生ドラマという幻想を現実のものとして感じていることも思い出します。

> 内なる「人非人」と折り合いをつけた。
自分を許したので、人も心から愛せるようになった。

 「内なる人非人と折り合いをつけた」ですか。私はこの箇所を書くのに時間が掛かって何度も書き換えたのですが、うまいことスパッと短い言葉で表現しますね。

 人間には内なる人非人が住んでいて、それがいつか何かのきっかけで現れてきて、現れてきたら長年抑えてきたものが開放されるのか、そうして本当の自分になれるのか、あるいは新しい自分に変われるのか。真面目な人とそうでない人との違いがここに出てきそうですが、これも人生体験の醍醐味のようです。

 松たか子。あまり好みの女性ではなかったのですが、動画を見たら、声がきれいで、イメージが少し変わりました。しかしそれにしてもなぜ作家はモテるのでしょう。羨ましいやら憎らしいやら。(笑)

2019/01/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 生きていれば

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
 私は子供の頃にひどい貧乏を経験したので、安定しない生活だけはしたくないという思いが強く、そのせいか弟は公務員になりましたが、ところが私は結婚してから聖書に打ち込むという貧乏人生を選択してしまいました。

 母親の再婚相手が全然「生活力のない男」でしたので、なんでそんな男と結婚したのかと子供の頃は思いましたが、まあ二枚目で話が面白く文学的な会話ができる男だったので、そういう魅力に惹かれたのじゃないかと思います。それと、やはり人間独りでは生きて行けず、精神的な平安も欲しかったのだと思います。

> 「生きていさえすればいい」という言葉は生きていればいつかは現実が変わるという期待感があるのでしょうね。現実で満足しているわけではないと思います。
 なるほど。そういう見方も考えられますね。「いつかはクラウン」というキャッチフレーズが流行ったのも、戦後の競争社会で生きる日本人男性の心に訴えるものがあったのでしょう。「隣の車が小さく見えます」というフレーズも、競争社会ならではの広告でした。

 しかし、そんなにあり余るほどの富は要らない。不正までして金の亡者になる必要はない。そうではなく「生きてさえいればいい」のだとする人生観を持てるなら、それもまた幸福感の一つなんでしょうね。

2019/01/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは

私は明治・大正・昭和の文学に疎いのでバーソさんの
ブログはいつも勉強になります。
今回も興味深い記事ですね。
さっそく青空文庫に行ってみました。

少し前にどうしてもコメントができないことがありました、
私のコメントに禁止ワードが入っていたせいです。
どの語だったかここに書くことはできません、コメントできなくなるもので。(笑)
禁止ワードが徐々に増えて一種の言葉狩りになり息が詰まる思いです。
TVで映画を見ても、最初に断りが出たりして興ざめです。
「この映画には不適切な表現がありますが、作者の意志を尊重して
そのまま放映いたします」

さっちゃんは「生きてさえいればいいのよ」と言い放ち
人生を居直って自分の道を歩み始める。
当時の女性としては強い心意気をもっていますね。
太宰は四度、三度は未遂、二度は女性と共に自死行為を
行ってます。
太宰にかかわった女性たちはみな不幸な目にあわされましたが、
だれも彼を恨んでなかったと聞きます。
それぞれが自分が最も太宰に愛されていたと思い込まされてた
からだそうです。

コメントありがとうございます。
最後の三行は爽やかでが涙ものです。

2019/01/12(土) |URL|エリアンダー [edit]

その扉は一人では開かない

後ろ暗いことや、こころの傷を抱えているということは、
豊かな人生を歩む上で、
実はとても大事なことなんじゃないかなと思うことが、
よくあります。

もちろん、ときにそれは、
自分自身や他者に対して、
新たな負の連鎖を引き起こす因子になりえるものなのですが。

けれども、そういうものがあるからこそ、
同じものを抱えている誰かの気持ちがわかり、
どんな清廉な生き方をしている人物よりも、
どんな立派な説者よりも、
その人のもっとも深いところに、
寄り添うことができると思うんですね。

妻は、自らも人非人になることで、
初めて夫の深みに触れることができたのかもしれませんね。
そして、「後ろ暗さ」による二者の共鳴が、
この世を超えた「愛」を顕現させる扉の鍵となったのかもしれません^^

2019/01/12(土) |URL|友資 [edit]

Re: こんにちは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
 
 あら、エリアンダーさんの『本棚』に入っている好きな本には日本文学も沢山あったかと思いましたが、言われてみるとカタカナの本のほうが多く、文学は比較的現代に書かれた欧米の本のほうが詳しくて専門でしたかね。
 明治大正昭和のいわゆる文豪の本は卒業したのでしょう。私は学生の頃に読んだのが多いのですが、いまは大抵忘れています。でも青空文庫のおかげで、簡単に読め、コピーペーストも楽にできるので助かります。
 そういえば『夢の終わりに…』は読みかけたのですが、かなり厚みがあったのと相まって、最初のほうを読んだだけで挫折してしまいました。せっかく紹介されたのに、最近はすっかり根気がなくなって困ります。すみません。

 禁止ワードについてのブログ機能は便利なようで不便なツールですね。新明解国語辞典では「ばかばか」とは「女性が相手を甘えた態度で避難して言う言葉」だそうですが、コンピュータはそんなことは分かりません。ついでに私も分かりません。(笑)
 私はFC2の環境設定で「おまかせ禁止ワード」を「利用しない」に設定してあるので、どんな言葉でも大丈夫のはずです。今まで一度も読むに堪えないほどひどい言葉は書き込まれたことがないのですが、もしあっても、そんなことを書き込む人はなんとまあ霊性の欠けた馬鹿な人だなあと思うだけのことで、私は別に気になりません。

 太宰はよほど女性にモテたんですね。いくら好きでも一緒に死ぬなんてことは普通の感情では思いませから。『人間失格』も主人公の男がモテモテで、高校生の時から情死未遂をしたりして、まあなんというか、最後には精神病院に行くのも当たり前だと思わされるような呆れた人生観を持っています。そしてその男の心情をことさらにこまかく書く作者も、ちょっと正常な神経の持ち主とは言えないように感じます。
 この『ヴィヨンの妻』は、それほど心理描写をこまかくしていないのと、偏執な性格では全然ない普通のおとなしい女性が精神的に成長していく話なので、異常感は全然感じず、なかなか興味深い本だと感じました。

 しかし才能があって世間的にも認知されているのに、死にたがる人はなぜ死にたいと思うのか不思議ですが、そう思うのはやはり凡人のせいなんでしょうか。そうなら凡人で良かったと思いますが。(笑)

2019/01/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: その扉は一人では開かない

友資さん コメントありがとうございます^^)
 
 そうですね。「豊かな」の反対語は「乏しい」ですから、人生経験が乏しい人が豊かな人生を歩むというのは、ちょっと言葉にも矛盾があると言えそうです。「酸いも甘いも嚙み分ける」という言葉がありますが、甘さの味しか知らない人は、やはり物事の全部を知っているとは言い難いでしょう。

 日本ではちょっと前、ベートーヴェンふうの髪形で耳が聞こえないふりをして、作曲は他者にしてもらっていたのがバレて世間に呆れられた人がいましたが、昔、本当に耳が聞こえないのに名曲を生み出して「楽聖」と呼ばれるようになった人もいました。
 何かハンディを抱えて苦難の中にいるが、しかし努力して頑張って偉業を成し遂げたというような人が世間では立派だと思われます。そんなことを思うと、困難に遭ってもかえって自分には良いことであった、ここは一つ頑張ろうという気持ちになりやすいですね。そして確かに他者の心の痛みも、自分の痛みとして感じるようになり、より同情しやすい善い人間になるのでしょう。

 聖書の言葉を思い出しましたよ。
「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなた(神)の掟を学ぶことができました」(詩編119:71)

 人間は自分が順調なときは神のことなんか考えないものです。しかし実際に苦難に遭うと、それこそ困ったときの神頼みということもあり、神のことや人生のことを真摯に考えるようになります。自分の内面を振り返り、反省し、自分の生き方を考え直すようになります。だから苦難に遭うのは、それに挫けないならば、良いことであるとも言えるのですね。

> そして、「後ろ暗さ」による二者の共鳴が、
この世を超えた「愛」を顕現させる扉の鍵となったのかもしれません

 そうですか。友資さんは物事を善意の目で見る傾向が強いようです。非常にいいことですね。

2019/01/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

結局、太宰治は産まれてから死ぬまで、人に迷惑を掛け続けの「人非人」で通しましたね(笑)
故郷の津軽では、親兄弟から周囲の人々に至るまで困らせ、死ぬ時もよりによって東京都民に大迷惑を掛けた。
よりによって都民の飲料水の源、玉川上水に身投げ心中…太宰の土左衛門が浮かんだ水なんぞ飲めやしませんよ。
これだけの人非人でありながら「大文豪」の名を残したのは太宰治くらいもんです(笑)
人間世界では、度が過ぎるほど悪行を尽くした者の方が名が残りやすいのが欠点です…ヒトラーみたいに(笑)

2019/01/12(土) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)

 自殺は悲しくて虚しくて、ひとに迷惑を掛けます。もしするのなら、探さないでくれと遺書に書いて、富士の樹海の奥などに独りで行って、こっそり静かにというのが良さそうですが。
 しかしそんなことは分かっていても自殺をするというのは、よほどの事情や耐えられないほどの精神的なつらさがあるのでしょう。
 
 太宰が妻・美知子に宛てた遺書には「小説を書くのが嫌になったから死ぬのです」とあり、その他に、体調の不調や病苦、愛人・富栄の自殺強要、無理心中説など、入水心中の原因は諸説あるそうです。
 玉川上水の水は飲用水ですが、どう処理したのでしょう。昭和23年の入水自殺者は太宰が16人目だったそうですよ。

 有名人が死ぬと原因は何かと探られます。日本人の最近例では、漫談の牧伸二、ポール牧は投身自殺。落語の桂枝雀、投手の伊良部秀輝、アイドルの上原美優、歌手の加藤和彦は首吊り。ミュージシャンの加瀬邦彦は窒息自殺。歌手の藤圭子は投身自殺。
 そしてロス疑惑の三浦和義、政治家の中川一郎、大臣の松岡利勝は首吊りで、映画監督の伊丹十三は投身自殺でしたが、彼らは他殺ではないかとの疑いがあるようです。モンローもそうでしたが。
 俳優の田宮二郎は猟銃自殺で、一度仕事で会ったことがありますが、謙遜な人でした。作家では田宮虎彦が投身自殺。芥川龍之介は睡眠薬。川端康成はガス自殺。有島武郎は首吊り。三島由紀夫は割腹自殺。三島は憂国の思いで自死したのですが、効果がほとんどなく、もったいないことでした。
 近代以前を見ると、諸国の大名は自刃か切腹。平家は入水でした。壇ノ浦で死んだのでしょう。

 イジメやパワハラや借金で死ぬ人はかわいそうですね。どこかよそへ行って出直すことができないのかと思ったりしますが、豊かな国に自殺者が多いのも妙なものです。

2019/01/13(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

うーん

 人間の屑男と、それにすっかり共依存してしまってる駄目女って構図ですな。これをして幸福とは何かと問うという時点で太宰作品・・・好きになれん。
 内向きから外向きとは言いますが、つまり幸福の水準の格下げでありまして、人間踏み留まるのを止めたらきりがないと言うか・・・いや、その先の展開ってろくなコメントにならんと思われますので、途中打ち切りであでゅ~。

2019/01/13(日) |URL|miss.key [edit]

Re: うーん

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)

 詩の才能があり、容姿にも自信があるせいか、飲んだくれで、女好きで、ひとを騙し、妻子を顧みない。そんな人間のクズ男に依存している駄目女って構図。好きになれんですか。
 ということはmiss.keyさんは非常に真面目な倫理観とまともな人生観を持っているということでしょう。常識を持っているからこそ、世の中の非常識とを判別でき、常識外のアイデアも出せるのでしょう。いいことです。

 が、しかしですよ。幸福感とは客観的に第三者から判断されるものではなく、自己の内部で感じればそれで完結するということを考えれば、こういうふうに考えることはできませんかね。
 すなわち、もし人間の究極の幸福が自己を満足させればそれで良いものであるとするなら、この放蕩詩人はまさにその通りの生き方をしています。ただし自我まる出しで、他の人のことはあまり考えていないようなのが気になりますが。
 もし女の究極の幸福が愛する男に尽くすことであるなら、この妻もまさにその通りの生き方をしています。

 ここで、もし他の人たちが、そんなことはあまり気にしないで許容しているのであれば、どうでしょう。太宰と付き合った女性は誰も太宰のことを悪く言わなかったそうですが、この男は他の誰にもさして迷惑を掛けずに自分の生き方ができている幸せな男だとは言えませんかね。
 この男は、これからは妻の働きでなんとか生活をやっていけて、酒も店で堂々と飲めるようになり、あまり良心に咎めなく、非常に楽に人生が回っていくようになりました。

 妻の観点だけから見ても、クズな夫でも夫を愛しているがゆえに、逃げようとか別れようとは微塵も思っておらず、それどころか外で働き出して生活を何とか回せるようにしていけて、その中で小さな幸福を見い出せるようになり、これはこれで妻も自己の幸福を味わっています。
 小料理屋にしても貸した金は返してもらえ、店は以前より繁盛するようになりました。みんな万々歳です。

 むろん世間の常識的な観点で見れば、情けない夫と甲斐甲斐しく働く妻の妙な夫婦のように見えるでしょうが、それはそれ。世間の目なんか気にしないでいいなら、この二人は幸せであり、《当人が幸せならそれでいいのじゃないの》という見方もできそうです。
 つまり太宰治は、これを言いたかったのじゃないかと思ったりするわけです。が、この翌年には自死しているので、自分への言い訳にはならなかったのでしょうか。

 といって、この男の味方をするつもりは全然なく、「働こうとしない人間は食うべからず」ですよ。自分自身や家庭を自分で面倒みようとしない人間は最低です。女のヒモのような男は本当にクズです。こんな男を甘やかす女のほうも悪いと思いますよ。ほんとに。早くこんな女に巡り遭いたいものですねえ。(笑)

2019/01/13(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2019/01/17(木) || [edit]

僕の知人に「死にたガール」がいます。

 Girl っていっても50歳ですが...

 死ぬほどの理由は無いのに、彼女はこの数年で3度の自殺未遂を起こして警察沙汰になっています。

 精神的な病気を患ってるのですが、リスト・カットなんぞの生温い行為では無くて、割腹(しようとして、包丁を胸に突き刺す)、首の血管を切り裂く、と大流血でした。。。

2019/01/19(土) |URL|Anthony [edit]

Re: タイトルなし

Anthonyさん コメントありがとうございます^^)

 死にたがる人は、たまにいますね。私のいた会衆(教会)でもそんなひとがいました。まだ二十歳過ぎの娘さんでしたが、パニック症でリストカットを何度もしています。自分では自分の意識をコントロールできないみたいですね。

 症状が突然始まると、どうしょうもなくなって衝動的に切ってしまうようです。夜中にそれが始まると、困ったお母さんから電話がかかってきて、急いでバイクに乗って、途中でコンビに寄ってケーキを買って、その家まで行ったことが何度もありますが、行くと収まって、収まったら別に普通態なんですね。

 その「死にたガール」の方はリストどころか、割腹ですか。怖ろしいことをしますね。でも本当に死にたければ高い所から飛び降りたほうが間違いないと思いますが、その人は包丁かナイフで切るのが手近な方法なんでしょうね。首吊りで死ぬ人が多いのは、やはり手近な方法なんでしょう。

 自殺は宗教的に罪になるとキリスト教は言いますが、でも推奨は絶対にしませんが、どうしてもそうしたいと思うこともあるのでしょう。もし自殺したからといって、神に咎められるということは絶対にないので、それは安心してもいいと思います。が、そんなことはしないほうがずっといいのは言うまでもありません。苦しいことがあっても、生きていると、いつか必ず楽しいことが巡ってきますから。

2019/01/19(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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