「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 出会うべき人と出遭って、人は幸福になる(後編)。  

 
 世界中の皆さまのご多幸を願い、《幸い》な話の後編でございます。

          ______________

「熊さんよ、よく『上みて暮らすな、下みて暮らせ』と言われるが、下と比較す
れば幸せに感じるという心理は私たち凡人にはあるなあ。
 だが、宗教心があった宮澤賢治は、さすがにいいことを言っている。


  世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。

「なるほどねえ、でも、ご隠居。あっしは、とりあえず自分が幸せになりてえで
す」
「そうだな。『とりあえず』っていうのがいいな。自分を愛せる者が他の人を愛
せるのだから、自分ファーストは必ずしも悪いことではない。とりあえず、まず
は自分が幸せになり、そうして他の人も幸せになることも考えられたらいいなあ。
 芥川龍之介がこんな皮肉なことを言っているぞ。

  ある仕合せ者 彼は誰よりも単純だった 
――――『侏儒の言葉』


      nybiuh.jpg NEW YORKER

 単純な人間はあまり悩まないし、他人のことも考えてないから仕合せなのかも
しれんな。しかし、いくら頭が良くても、いくら努力しても、幸運が偶然に転が
り込まないと幸福は無理だと諦めている人もいる。だが、《人生に偶然は無い》
という考え方もあるのだよ」
  
  「どうか偶然なんてことをあてにしないで下さい。
     偶然のない人生というのもあるのですから」

              ―――――ドストエフスキー『賭博者』


「はあ、偶然の運をあてにしたらいけねえんだ」
「じつは、人は生まれる前に、どんな人生模様の絵柄を描くかを自分で大雑把に
決めてあるのかもな。そして生まれてきたら、自分の好きな構図を自由に考えて、
好きな色の糸で織って、人生の時々で『逢うべき糸』に出逢っているとも考えら
れる」
「ご隠居、それって、人は輪廻転生をしていて、運命はあらかじめ決まっている
が、でも生き方は自由だということですか」
「そうだ」
「じゃ、酒池肉林でもいいんで?」
「いいよ」
「うふふ・・・大勢の女に囲まれて・・・」
「肉林に肉欲の意味はない。肉林とはご馳走の肉がいっぱいあることだ」
「あらま、女は駄目なんだ」
「いいよ。ただ、おまえさんの場合は、かみさんにぶんなぐられないかい?」
「ああー、そ、そ、そうでしたったったっ」
「あはは、好きなことをしてもいいが、ひとには迷惑を掛けないほうがいい」
「それが自由意思ってえことで」
「そうだ。人は自分では気づいてないが、結局は自分の成りたい人間に成るべく
自由意思で生きているのだよ。人生ではどんな人間に成りたいと思っているかが
一番重要なことだ。だからな、世の中には、よく、運命論と自由意思は矛盾する
と思っている人がいるが、そんなことはない、両立するのだ」
「へえ、うちのかみさんがあっしに出会った瞬間、運命の男だと思ってぞっこん
になったが、やがて愛想が尽きて自由意思で赤い糸を切りたくなる、なーんてこ
とは絶対にないとあっしは自信があります」


      VF17.jpg VANITY FAIR

「なんだ、のろけか。しかしな熊さんよ、《人生に偶然はない》という考え方の
良い点は、嫌な出来事や嫌なひとに出遭ったとき、それは自分の人間性を向上さ
せるための必要な体験だろうと思えるので、たとえ失敗しても過度に落ち込まな
いですむのと、自分の生き方に積極性と自信を持てることだ」
「ふーん、そうなら、人生で問題が多い人は性格に問題があるんで」
「いや、心の奥深いところで人間的に向上したいと思っている、かなりレベルの
高い人だろうな」
「あっしは風邪も引かず、事故にも遭わねえってことは、能天気。レベルが低い
んだ」
「いや、熊さんは、ひとをハッピーにする貴重な人間だ。朱に交われば赤くなる。
いつも明るい波動を発している人は、出会う他のひとを明るい気分にする。私は、
おまえさんと知り合えてラッキーだと思っている。あ、ほんとだよ。ブログで知
り合えた人についてもそう思っている。それでな、熊さん。幸せな人と幸せな人
がピタッと出会うことを鉢合わせと言うが、これ、分かるかな、分っからないだ
ろうなあ。うふふ」
「ご隠居、『四合わせ』足す『四合わせ』は『八合わせ』。足し算でしょ」
「おう、あたしを理解してくれるのは、やはり熊さんだ。しかしこの算数方式の
駄洒落には降参しただろ」
「へいへい。幸せな話だけに、両手を上げてこうふくです」






補足―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――   
※:宮澤賢治『農民芸術概論綱要』 → 青空文庫
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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COMMENT FORM

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本年も宜しくお願い致します

>出会うべき人と出遭って 、人は幸せになる
出会うべき人に出遭っては、人は不幸にもなる

>単純な人間はあまり悩まないし、他人のせいでことも考えてないから仕合わせなのかもしれんな。
>運命はあらかじめ決まっているが、でも生き方は自由だということですか
>結局は自分の成りたい人間になるべく自由意思で生きているのだよ。だから、どんな人間に成りたいと思っているかが人生では一番重要なことだ。
>だからな、世の中には、よく、運命論と自由意志は矛盾すると思っている人がいるが、そんなことはない、両立する。

すみません、人は誰でも出逢えるべき人と出逢えるのですか⁈
出逢えると単純に幸せになれるものなのですか⁈
運命論で決まっている人生を、自由意志で成りたい自分を目指しても良いのですか⁈

2019/01/05(土) |URL|貴恒 [edit]

運命論はストーリーの選択

>人は生まれる前に、どんな人生模様の絵柄を描くかを自分で大雑把に……。

詳細を、ではなく、この“大雑把に…”というのが、
オリジナル脚本を創造する余地が残されていて、面白いですよねぇ。

で、生まれてきたら……。

>好きなことをしてもいいが、ひとには迷惑を掛けないほうがいい
>どんな人間に成りたいと思っているかが人生では一番重要なことだ。

確かに、若いときは“運命論と自由意思は矛盾する”と思っていました。

年齢を重ね、やがて……。
『できごとは、起きた時点では中立。
それをどう捉えるか』という自由意志よって、
『なりたい自分』を創造する。
それが人生の意義なんだと、やっとこさ、
理解したというわけです。

※『四合わせ』足す『四合わせ』は『八合わせ(鉢合わせ)』。
※両手を上げてこうふくです

∵ゞ(´ε`●) ブハッ!! バーソ流ダジャレに座蒲団5枚!

2019/01/05(土) |URL|風子 [edit]

おはよう御座います。

ご隠居様も言われていますがあまり考えない人は幸せだ。全くその通りだと思います。楽で仕方がないでしょう。しかし、脳細胞が萎縮してしまうかも知れません。それでは幸せとはいえなくなってきますね。
イジメの問題もイジメられる側にも問題ありと言われています。これも人生の試練なのかも知れませんね。
世界中が幸せになって初めて個人も幸せになるのだとしたら永遠に幸せはこなくなってしまいそうです。

愛新覚羅

2019/01/05(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: 本年も宜しくお願い致します

貴恒さん コメントありがとうございます^^)

 初めまして(ですよね)。ようこそおいでくださいました。
 「本年も宜しく・・・」とあるので、今まで訪問してくださっていたのでしょうか。初めてのコメントだと思うのですが、ブログ名が分かるといいですね。できれば精神世界的な思考経歴や背景が簡単でいいから知りたかったです。そうすればこちらも説明がしやすくなりますから。

 運命論と自由意思が矛盾するのではないかという質問ですね。例え話で話します。
 簡単に言えば、九州から北海道に行くことに決めたとします。そうすれば北海道に行くことが人生の目標であり、いわばおおまかな運命のようなものです。
 ではその最終目標(運命)を達成するために、徒歩で行くか自転車で行くか電車やバスで行くか自分の車で行くか、そして目的地に行って何をするか、それが自分の自由意思による選択です。

 その際、飛行機のファーストクラスでさっと行って高級ホテルに泊まってゴージャスに遊びまわる人もいれば、ヒッチハイクだったり歩いたりバスに乗ったり時には野宿をしながらコンビニでおにぎりを食べながらあちこち寄り道しながら行く人もいます。人生いろいろ。無数のバリエーションがあります。それは人それぞれです。

 どちらにしても行路の途中では、いろいろな人に出遭います。スリルとサスペンスが好きな人は強盗や交通事故に遭うかもしれず、親切をするのが好きな人は困っている人や行倒れの人に出遭うかもしれず、ラブロマンスが好きな人はイケメンや美人に出会うかもしれず、忍耐力や包容力が足りない人は電車の隣席に大声を出す行儀の悪いひとが座るかもしれません。

 そのように駅や空港で、道々で、宿で、いろいろな出来事に出会い、いろんな人に出遭うのは、そういう人生行路を自分で前もって選んでいるからで、だから人生行路の途中では、人は出会うべきひとに出遭っていると言えるわけです。
 そして、その行路の時々でいろいろ体験して人生の出来事のバリエーションを楽しみながら、様々な喜怒哀楽の感情を味わいながら、目的地である北海道に最終的に行き着くというわけです。

 ですから「出会うべき人に出遭って不幸になる」ように見えるのは、大きい目で見れば、その人が自分でそのような出来事に出遭う道を選んでいるからです。
 なので「不幸」になっているというよりは、コンピュータゲームで大きな障害に出会ってもそれをクリアしていくようなもので、不幸というよりはむしろ当然あるいは必然の出来事なんですね。人間万事塞翁が馬の話にある通り、不幸だと思ったらじつは幸運だった話と同じで、何があろうと最終的には自分の決めた目標に達すれば、途中での障害物は想定内の出来事であり、別に「不幸」では無いのです。

 人間的な目で見れば全身に不幸を背負っているように見える人がいたとしても、その人が決めた人生行路の面から見れば、その人が大雑把に決めた人生の筋書き通りにうまく歩めているのかもしれません。人間は表層的な一部しか物事を見られないので、なかなか分かりにくいとは思いますが。

 だから「運命論で決まっている人生を、自由意志で、成りたい自分を目指しても良いのです」。運命は神や仏や創造者が勝手に決めてあるのではなく、個々の人が自分の自由意思で大雑把に決めてあるからです。自分で「運命」を大雑把に決めてあるので、その方法や手段もも自分の自由意思で決めることができるのは当然のことです。成りたい自分に成るとは、自分本来の目標(運命)である生き方をするということです。

 ところが人間はそんなことを知らないので、とかく親の意見や先人の知恵などに従って人生を賢明に歩もうとしますが、それよりも、世間の様々な常識とうまく折り合いを付けながら、自由意思を行使して自分が成りたい自分になるように生きるほうが本来の自然な生き方なんでしょうね。

 それがうまくいかなかった人は、来世で再トライすると思います。
 が、言うまでもなく、こういうことは物理的に、また客観的に証明できるわけではありません。

2019/01/05(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 運命論はストーリーの選択

風子さん コメントありがとうございます^^)

 以前は私も運命論というのはおかしいと思っていました。
 ある運命論者にこんなことを言ったことがあります。「バイクに乗る人にヘルメットをかぶるように法律が定められてから、バイクの頭部損傷事故が減った。それは人間の自由意思で運命を変えられる証拠じゃないですか」。そう言ったら「そう法律が変わったのも運命だ」と言われたことがあります。

 運命論がおかしいと思われているのは、人間の人生がほとんど神(超自然の存在)によってあらかじめ決められていると思っているからなんでしょうね。
 王になるか侍になるか奴隷になるか男になるか女になるかは大雑把に決めてあるのですが、どのようにそうなるかを自分でオリジナルの脚本を書けるというのは、確かに人生の醍醐味ですね。そうでなければ人間は単なる神の操り人形になってしまいます。自由意思がない人生なんてじつに味気ない人生になりますから。

 そう思うようになってからは、日常の様々な山あり谷ありの起伏が、生きているのは面白いことだ醍醐味だ有難いことだと思えるようになってきましたよ。

 本当に出来事は中立ですね。私もやっとこさ理解しました。
 同じスポーツを見ても、たとえばバンジージャンプが分かりやすいですが、それを面白いと思う人もいれば怖ろしいと思う人もいる。だから出来事をどう捉えるかは、自分の人生の感じ方、生き方を大きく左右しますね。

 オチは座布団5枚ですか。落ちないようにしなければ。(笑)

2019/01/05(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
  
 あまり考えない人生は、その人にとっては人生が生きやすく、ある意味で幸せなんでしょうね。
 そうなら、頭を人間より使わないであろう動物のほうが幸せか、知能の良くない人間のほうが幸せかといえば、おっしゃる通り、そうではないのは言うまでもありません。

 認知症のボケた高齢者を見ると哀れだなあと思いますが、異なった視点で見ればその人は自分の思考と体力が衰えた姿を意識しないで済むので、まあ、そういう意味では幸福かもしれないですね。

 煽られ運転をされて亡くなった人は気の毒ですが、でも煽られる側の90パーセントに、まわりの車よりも遅く走っているとか追い越し路線を走り続けているとかの問題がある、と或る自動車評論家が言っています。人生の試練は自ら招いている場合もありますね。

 二日前だったか、原宿の混雑している通りで暴走して何人かに重軽傷を負わせた大阪の若い男もボーッと抜けた顔をしていました。いわゆる悪人顔ではなく、悪いことをしたというような顔も全然してなかったです。死刑制度に反対してそうしたとのことですが、ならばどうして自分が人を殺しかねないことをしたのか、その矛盾が分からないのですね。
 
 頭の悪い人の正義感は本当に困ったものです。正義感は悪意のほうではなく、善意のほうで示してもらえばいいのですが、世界は「カネ」が支配している限り、人類全体の平和は難しいでしょうね。困ったものです。

2019/01/05(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは

偶然ってあるんです。
友人がよく話す偶然の話、
友人があるとき大学の廊下を歩いていたんです。
ちょうどそのとき教室の中から名前を呼ばれ引き留められました。
「おおちょうどよかった。あるアルバイトがあるんだけど
行ってくれないか。オレ、べつのアルバイトに決まっちゃって」
もし名前を呼ばれてもそのままずんずん歩いて行ったら、今の
奥さんと子供たちと出会うこともなかったって。
そのアルバイト先で知り合った女性(今の奥さん)と結婚したんですから。
そう考えると人生の出会いの不思議を考えてしまいます。

ある日目が覚めたらすごく幸せを感じました。
あるものが無くなっていたんです、三日間苦しんだ足の痛みが・・・。
幸せって相対的なものですね。(笑)

2019/01/05(土) |URL|エリアンダー [edit]

Re: こんにちは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)

 出来事が偶然に一致するようなことは、「シンクロニシティ」すなわち「意味のある偶然の一致」と言われます。それは偶然のようだが、じつは必然であり、個々の人の意識は根本的には他の人たちの全体意識と交流しているのだとユングが言っています。虫の知らせとか、電話を掛けようかなと思っていたらその当人からちょうど電話がかかってきたなんてことがよくある事例でしょうか。

 大勢の人が雑談している中でも、興味のある人の会話や自分の名前は自然と聞き取ることができますが、それをカクテルパーティ効果と言うそうです。多分そういったことも互いの波長が合うからこそであり、この宇宙では波長の合うもの同士が引き合うようになっているとすれば、シンクロニシティとは波長が近い者同士が偶然の顔をして必然的に近寄ることであると言えるかもしれません。

 確かに、幸せって相対的に感じることが多いですね。だから病気にならないと健康の有難みはよく分からないなどと言われます。とかく、人は他人より良かったり、自分の以前より良くなったら、幸せだと思うようです。

 しかし腕や足や内臓を切らないでも健康の有難みを理解することはできます。ただ、いま生きて呼吸している幸せを考えるだけで、ただ空の雲や木々の緑の葉を眺めるだけで、ただ小鳥のさえずりを聞くだけで、ただ犬や猫のかわいい顔を見ているだけで、あるいは誰か気の合う人と話をしているだけで、それだけでいま幸福感を感じられれば、それが一番いいような気がします。資産や才能がなくても、人間関係があまりよくなくても、幸せ感を感じることができればいいですね。いろいろ沢山恵まれていても幸福を感じられない人は哀れなものです。

 しかしまずは自分の過度の欲望を除去しないと、いま生きている幸せ感はなかなか感じにくいのでしょう。人間は欲望を捨てるべきことを釈迦が人々に語ったのも無理はありません

 ネットにこんな「偶然の一致」がありました。
 https://www.mag2.com/p/news/229023

2019/01/05(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

うふふ。駄洒落、などというところに収まり切れないほど言葉の感覚が新年早々ますます冴えわたっていらっしゃいますね。^^

興味深く拝見しました。この頃こういうことについてとりわけ深く考えることが多いので。

私自身は極めて即物的な結構現実的な人間だと思っていますが、それでも、『ひとは結果的に自分の思い描いたような人生を生きていく』のではないか、とひそかに思うことがあります。
若いころ、自分は将来こうなりたいなあ、とか、こういう人生を送るんじゃないか、と強く思っていると、その通りの人生になっていく、というような。
と言っても、ただ受け身で待つのではなく、自分でいい夢を描いてそれに向かってコツコツ努力をしていく…だから、その結果、自分の描いていたような人生がおくれるに至る、ということなのでしょうが。
逆に言えば、自分の未来への夢も展望も持たず荒れた生活をしていると、あまりいい将来は待っていませんよね。『生活習慣病』などというものは、厳しく言えば、身から出た錆、と思わざるを得ないところがあります。それは自分の身の回りの人間たちを見ていてそう思う。早い話が、私自身が、若い頃からこまこました手作業などが好きで、しかも座卓の前で正座して身を屈めて長時間何かをしている、というような悪い姿勢をずっと続けていたんですね。せっかちで、歩けばせかせか歩く。(笑)その長年の習慣が今になって、呼吸が非常に浅い、肺活量が非常に少ない、胸郭の狭さ、胸筋の柔軟さがない、などという結果になって、そこで肺の手術をしたりしたんで人よりも後遺症に苦しむ、ということになっているんじゃないかと思っているんです。><

さらに、若い頃なんとなく思い描いていた自分の晩年のイメージは、学者風の仕事を持つ物静かな配偶者と、庭のある一軒家で二人暮らし。お互いに本を読んだりしていて疲れたら、「珈琲でも淹れましょうか」というような、そんな静かな生活だったんですね。そしたら、その通りになりましたよ!庭は思っていたような明るい広い庭でなく、猫の額どころか雀のおでこほどのささやかな庭で、学者『風』の夫は今、寝たきりで確かにおとなしいですが(爆)。


先日の朝日新聞に草柳大蔵のことばが引用されていて、曰く,『人は生きてきたようにしか死なない』
これも私の常々思うところで、本当に、ひとはその生きざまのように死んでいく、のではないか。
生前我儘いっぱいだった人は、老後も我儘に生きて周囲を巻き込みながら死んでいく。生前ストイックに生きた人はその死のありようもストイックに、という具合に…。つつましく自らの欲など捨てて子供のためにだけ生きてきた私の母などは、前の晩まで元気で普通に暮らしていたのに、誰にも知られず明け方一人静かに消えるように亡くなりましたし。

つまり、ひとは、自分の思い描いたような人生を送る、ということが、かなりの高確率で起こるのではないか、と思うんですね。自分でそういう生を、そして死に様までもを『選んで』行くのだと…。

ただし、こういうことは、紛争地の真っただ中に生まれいでて生まれて間もなく栄養失調や爆弾銃撃などで死んでいく赤ん坊や、自らには何の落ち度もないのに、小さい体に難病を抱え込んでしまう子供が現実にいる事を想えば、きわめて乱暴な言い草だ、と思わざるを得ませんね。

だから、まあ、ここだけの無責任な雑談、ということで。^^

シンクロニシティについても思うところあり。前のブログでちょっと書いたことがあります。もし興味がおありでございましたら(爆)お覗きくださいませ。もう長年放りっぱなしのブログなので、果たして入れるかな。
http://summerhighlands.blog121.fc2.com/blog-entry-42.html



2019/01/06(日) |URL|彼岸花さん [edit]

あったかい

「愛」を感じる素敵な記事をありがとうございます。

バーソさんの言葉ととんちには、
いつもあたたかいユーモアがあふれていて、
それさえあれば真理なんてものはどーでもいいんじゃないかね、
とさえ思えてきます^^


「運命論」と「自由意志」については、
ぼくの独自の見解があるのですが、
バーソさんがブログのほうにくださったコメントの返答として、
書いてみました。

かなり長文になってしまいましたが、
どうか、それもひとつの考え方かもね、くらいに受け止めてください笑

2019/01/06(日) |URL|友資 [edit]

まず自分が幸せにならなければ他の幸せなど考えられる筈もなく

 しわとしわを合わせてしあわせ~♪
 ふしとふしを合わせてふしあわせ~♫
 まあ、んなこともあらーな。

 会うべき人と出会える事を人は幸せと呼びます~♬
 皆様絶賛の「糸」に私はまっったく魅力を感じないのであります。どこがいいのかさっぱりと言う奴で。

 宝くじに外れてやさぐれているmiss.keyであった

2019/01/06(日) |URL|miss.key [edit]

ノルウェーやフィンランドに伝わる北欧神話にこんな話があります。
光の神(太陽神)バルドルは世界中から愛されていた。誰も彼を傷つける事などできなかった。
神々は面白がって、剣や槍や矢を突き立てようとしたが、武器すら彼を傷つけるのを拒否した。
そこで、闇の神ロキは崖下に生えている宿木を折ってきて、バルドルの弟ヘズに与えてやった。
何も知らないヘズは宿木をバルドルに投げた。宿木はバルドルの身体を貫き彼は死んでしまった。
以来、北欧の空は暗く太陽が照る日がないのだと言い伝えられているそうな。
話のミソは、太陽の恩恵を受けずに日陰で育った宿木は、光の神(太陽神)を愛していなかった。
光の神(太陽神)でさえ世界を幸福にする事はできなかった…闇を好むひねくれ者もいるのです(笑)

2019/01/06(日) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

彼岸花さん コメントありがとうございます^^)

> 『ひとは結果的に自分の思い描いたような人生を生きていく』のではないか、とひそかに思うことがあります。
 いい加減に場当たりで人生を軽く考えて生きてきた人は、自分の人生ラストのほうのシーンを思い描くことなんかしないでしょう。
 しかし彼岸花さんは、そもそも意思が強く、積極的な努力型また行動型人間で、人生とは何かを常に考え、毎日毎日を真摯に生きてきたので、そう思うのでしょう。
 それはブログの内容を見ても分かりますよ。いつも鋭い視点で社会を、また人を見て、いろいろ深く考えていることが分かります。

「黄蝶を抱いて寝る」話も読ませていただきましたが、ちょっぴり悲しくて、小さな命への愛が感じられる良いお話でした。その蝶との出会いの最後は「初冬の淡い光の中へ飛んで行った」。きれいなラストシーンですね。そして20年経っても「あの子に似た小さな黄色い蝶」を見かけて、その子の子孫じゃないかとふと思うことがある・・・。小さな蝶とのちょっとした出会いですが、優しさが表れていて、読んで心地いいお話でした。

 古代ギリシア語で「魂」と訳される語はプシュケーと言います。これは「心」とも訳されますが、「蝶」とも訳されます。当時の人々は、魂とは肉体を離れて空中を浮遊するものと思っていたので、蝶が変態という過程を経て毛虫から羽のある生き物に変化するのを見て、蝶もプシュケーのように思ったのでしょう。

 魂があるかどうか。これは、有ると思っている人もいれば、無いと思っている人もいて、いまだ決着がついていません。でも、デジタル時代でも現代人が葬式という儀式を大事にする習慣を続けていのは、魂は有ると思うほうが自然だとする感覚が人間の心の奥のほうにあるからかもしれません。
 それにまた、シンクロニシティとか人知を超えたいろいろ不思議なことも多いので、現実的な思考を持つ人でも、目に見えないものを意識してしまうこともあるでしょう。

 私も以前は、神秘主義は聖書で厳格に非としており、なにやら怪しげなので避けていました。星占いについても人間が恣意的に星と星を結び付けて考え出した星座と言う図形に、個人の運命が影響されるはずがないとも思っていました。
 ですが今は、そういうものの中には胡散臭いものもありますが、真実味を帯びているのもあると思っています。ともあれ、政治にせよ何にせよ世の中は虚と実、真と嘘とが入り混じっていますね。混沌としているからこそ人生は面白いのだとも言えますが。

 ついでに私のことを言えば、人生の目標と生き方がけっこう大きく変わってきましたね。言い換えれば、確たるものをしっかりつかんでいなかったとも言えます。特に聖書を知ってからは、仕事を何度も変わりましたし、大病もして、貧乏もして、子供も産まず、人並みとは言えない生活を続けてきました。

 しかしだいぶ年月が経って、ネットのおかげで目からウロコが落ち、長年信じていた宗教を信じなくなり、神に関する概念も変わり、視野がすっかり変わりました。
 長年、人一倍活動して、必死に生きてきたつもりで、ああ、人生の半分以上は失敗だったなあと当初はかなり悔やんだのですが、いまはそういう思いはなくなり、自分には必要な経験ができて、重要な学びを得ることができたと思っています。自分はそうなるように生れてきたとも思っています。

 ずいぶん長文のコメントで指が疲れたでしょう。本当にどうもありがとうございました。休養を十分とってくださいね。

2019/01/06(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: あったかい

友資さん コメントありがとうございます^^)
 
 愛を感じましたか。うれしいです。友資さんのコメントも愛を感じます。いつも言葉が温かいですね。

 でも「それさえあれば真理なんてものはどーでもいいんじゃないかね」ですか。あら、友資さんも冗談を言うひとなんですね。よかった。(笑)

 返信コメントを読んで、その感想をちょっと書きたくなりました。あした夜までに書き込みますね。ちょっと待っていてください。

2019/01/06(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: まず自分が幸せにならなければ他の幸せなど考えられる筈もなく

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)

> まず自分が幸せにならなければ他の幸せなど考えられる筈もなく
 あはは、また自虐話で笑いを取ろうとしているとですか。ヒロシと同じ路線ということは、実際は長身で、かなりのイケメンなんでしょう。だいぶ女性陣を泣かせてきたのでしょう。ええい、早く白状せい。(笑)

> しわとしわを合わせてしあわせ~♪
 史話と私話を合わせると幸せ。これは、まさにmiss.keyさんのブログじゃないですか。武士や西洋の歴史話と自分の思想主義主張の話でしょう。

> ふしとふしを合わせてふしあわせ~♪
 不死と富士を合わせると、正月にふさわしい幸せな初夢。これは、浮子のようなつちのこの軽やかな夢を持った生き方をしなさいと勧めているようじゃないですか。ということで、まさに読者が幸せ~♪になれるブログでしょう。ああー、またお愛想を半分言ってしまった。(笑)
 
 中島みゆきの『糸』。「逢うべき糸に出逢えることを仕合せと呼ぶ」。え? miss.keyさんは感じませんか。私はうまいこと言うなあと思いましたが。

 でもね、一番の歌詞に「いつ巡り会うのかを私たちはいつも知らない。遠い空の下、二つの物語」となっている通り、明日はどうなるかは知らない人生がいいのであり、何事もすべて分かっていたら、そんな人生ほどつまらないものはないでしょう。人と人の出会いも分からないのがいいのでしょう。この歌詞は、なかなか人生の真実をついていると思いますよ。

 この歌は歌詞がいいですね。メロディは妙だと感じますが、みゆきさんは、歌詞がいいので、この歌詞を一語も変えずにうまく合うきれいな旋律を考えたのだが、それがうまくいかなかったのじゃないかと思ったりしています。大体がシンガーソングライターの曲というのは歌詞重視のせいか、メロディが平坦で良くないのが多いですね。

2019/01/06(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)

> 話のミソは、太陽の恩恵を受けずに日陰で育った宿木は、光の神(太陽神)を愛していなかった。
光の神(太陽神)でさえ世界を幸福にする事はできなかった…闇を好むひねくれ者もいるのです


 こんな神話まで、よく知っていますね。北欧の空は寒くて暗いのでそんな話ができたのでしょうか。気候風土というのは、人間の感情や人生観に影響を与えるようですね。

 人生では、いろんな人に出遭います。優しい人や意地悪な人、素直な人やひねくれている人。その個性の違いは、おおむね先天的かつ本質的に備わっているデフォルトの性格のようです。目からうろこが落ちるような、よほどのことがない限り、人間の基本的な性格はなかなか変わりません。

 しかし誰でもその二面的な真逆の性向を、それが大なり小なりの違いはあっても、持っていますね。自分の心を振り返って、ああ、自分はイヤな性格だなあといじけたり、悔やむことが時々あると思います。

 でもそうなるのは、自分が何か不足している点を改善したいと思っているゆえでもあり、基本的には真面目な証拠でもあるかもしれないですね。また、そう思うことは真面目な証拠であるだろうと思い込もうとしているせいもありそうですが。(笑)

 闇を好んでネガティブなことをいつも言う傾向の強い人は、じつは内省的で、芯は真面目なので、つい自分自身の謙虚さゆえに明るい立派なことを言いにくいという心理があるかもしれないですね。ひとに悪を行なうような人は、じつは愛情を欲しているのだという話があります。

 心は偽るものであると聖書は述べていますが、人間の語る悪い言葉や行ないは、その人の内面の悲痛な叫びを物語っているのかもしれませんね。

2019/01/06(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

「幸福」と「しあわせ」

遅掛けのコメントで申し訳ありません。
ご隠居と熊さん、この2人の掛け合いはやはり楽しいですね。
おもしろおかしく、そして神妙に読ませていただきました。

小生は「幸福」という言葉があまり好きではなく、めったに使わないようにしています。
「幸福」は、江戸時代まではなかった言葉で、福沢諭吉が「happiness」の翻訳語として使い、それが大きく広まったようですが、なんだか「物なり銭がいっぱい入ってきて、それが幸いした」というイメージが付きまとい、物や銭で「しあわせ」になれるか、と思ってしまう小生です。
ところで、「幸せ」の「幸」の語源には驚きました。「辛」に横棒を1本足すと「幸」になる、わずかな違いで全く正反対になる、これはよく知られたことですが、語源は違うも「幸」も「辛」も昔は似たようなものだったんですね。
今は昔、同じ言葉であっても意味が違う、これは往々にしてあるようですが、古来の日本文化に基づく「しあわせ」をそのまま現在も通用させたいものです。そして、「幸」をあてるのではなく、ひらがなのまま書き表すこととする、小生はそんなふうに思っています。

2019/01/08(火) |URL|薬屋のおやじ [edit]

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2019/01/08(火) || [edit]

Re: 「幸福」と「しあわせ」

薬屋のおやじさん コメントありがとうございます^^)

 確かに「幸福」とは物質的に富むことだ、あるいは名誉や特権を得ることだと思われていて、だから子どもの頃から塾に通って、必死に勉強して、一流大学に行き、そして有名企業に就職できたら幸福のルートに乗れるとばかりに、お定まりのコースを歩もうとする人がいます。
 しかしその反面、胡蝶の夢や邯鄲の夢の話のように、立身出世の夢からは目が覚めて、この束の間の人生で人間はどう生きたら幸福なのかを考え直す人もいるようですが、かなり少数派でしょうね。
 人は生活レベルが平均以下だと、また生きていくことに精一杯だと、あるいは弱肉強食の意識が強い世の中だと、自分が裕福であることを第一に求めたいと思うのは無理もないことだと思います。そういう人に、物質的な幸せは幻想だ、栄枯盛衰は世の習いだと説いても、なかなか理解されにくいでしょう。
 
「幸せ」とか「幸福」と書くよりも「しあわせ」と書くほうがいいですか。なるほど、「幸」につきまとうイメージとその語源を知ると、なおさらそう思いやすいかもしれないですね。確かに、そのほうが色付けがなく、やわらかい感じがします。
 
 言葉は「ひらがな」で書くか、「漢字」で書くか、面白い問題です。
 昨今は、和語はひらがなで、熟語は漢字で、と書き分ける人(作家や文学者)がいますね。和語とは「いう」「よむ」「はなす」などです。
 
 私は基本的に、現代もっとも標準であると思われる表記法にのっとるようにしています。それは新聞社や放送局で使われているものです。
 辞書は小学館『ポケットプログレッシブ現代用語表記辞典」と、三省堂『必携用字用語辞典』を使っています。
 ただし厳密に守っているわけではなく、文字数を揃えたり、同じ行内に収めるために、「~のときに」を「~の時に」としたり、「~の中」を「~のなか」としたりして適当に融通しています。

 むろん、小説を書く場合や自分の文体にこだわる場合は、そんなことは気にせず、自分の方法で自由に書けばいいと思いますが。
 それにしても「ことば」とは面白いものですね。

2019/01/08(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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