「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 なぜ人は「死」を嘆くのか。 


あの元気な高須クリニックの院長(73)が全身がんになったそうだが、
取材に答えたときの態度が普通じゃなかった。

「がんですぐに死ぬわけではなく、人間どうせ死ぬんだから、がんは怖くない。
早めに老衰が来るんだと割り切ればいい。医者って自分が研究していたら新し
い分野に挑戦するのが楽しみだ」

と、やたら明るく、はしゃいでいるように答えていたのが印象に残った。

がんは怖くないとしても、人の死は悲しい。
知っている人が宇宙からポツンと消滅すると思うと、胸が詰まる。

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昔の著名人は、人の死に対してどんな態度を示したか。
イエス、その千年前の先祖ダビデ王、そして仏教の親鸞は、どうだったか。

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新約聖書のヨハネ11章には、非常に珍しいことが三つ書かれている。

場面は、イエスが、友人ラザロの死を聞いて、彼の村にやって来たときのこと。

33節 イエスは、彼女(ラザロの姉妹)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いて
いるのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、

「心に憤りを覚え、興奮して」は非常に強い言葉だ。イエスは激しく怒っている。
皆が泣いているときにイエスが激怒したのは妙な話だが、これは伏線。

それからイエスは墓の前に行く。ラザロは四日前に死んだので腐敗臭がしている。
そのときに非常に珍しいことが三つあった。

(1) 35節 イエスは涙を流された。 
一つ目は、イエスが泣いたことで、イエスがひとの不幸で泣いた記述はここだけ。
英訳聖書では「Jesus wept」と訳され、聖書中の最も短い節として知られている。

(2)43節 「ラザロ、(墓から)出て来なさい」と大声で叫ばれた。 
二つ目は、イエスが大声を出したことで、聖書ではここだけに記述されている。
イエスは不正に怒ったことは幾度もあるが、大声を出したことは一度もないのだ。

(3)44節 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。
三つ目は、イエスの声を聞いて、なんと、ラザロが生き返って墓から出てきた。
死後四日で腐りかかっていた体が生き返る異常事態、つまり奇跡が起きた。

 raza7.jpg
 ゴッホの『ラザロの復活』(1890年) レンブラントの銅版画をモチーフにしているが、
  キリストの代わりに太陽を描いている。右側の女性二人はおそらくラザロの姉妹たち。


イエスが涙を流したのは、親しかった友人が死んだのだから当たり前、ではない。
イエスはラザロをすぐ復活させるつもりだったので、泣くのはちょっとおかしい。

イエスが激高したことを思うと、泣いた一番の理由は聖書的にはこう考えられる。
すなわちイエスは、悪魔サタンの企みによって人類の世に死が入ったことに憤り、
人間には必ず死が訪れることを憐れんだので泣いたのだ。イエスの視野は広い。


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イエスの先祖ダビデ王は、我が子の死に際して妙な行動を取った。

場面は、ダビデ王が家来の美人妻と関係した結果、女が妊娠する。産まれた子が
死にそうになると、預言者が、それは神からの罰だとダビデ王に指摘するのだが。

サムエル記第二12章
16節 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面
に横たわって夜を過ごした。

ダビデの祈り方があまりに凄いので、家来が心配して王を起き上がらせようとす
るが、ダビデは地に伏したまま神に祈り続ける。しかし七日目にその子は死んだ。

20節 するとダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、
主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。

子が生きているときは断食して泣いたのに、子が亡くなったとたんに起き上がっ
て食事をし始めたので、どうしてですか?と家臣はいぶかってダビデ王に尋ねる。

22,23節 彼は言った。「子がまだ生きている間は、主(神)が私を憐れみ、子を
生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ断食して泣いたのだ。だが死ん
でしまった。断食したところで何になろう。あの子を呼び戻せようか。私はいず
れあの子のところに行く。しかし、あの子が私のもとに帰って来ることはない」

子が生きているときは必死に神に祈って断食もしたが、死んでしまったのだから
さらに祈りや断食を続けることは意味がない、とダビデは家来に答えた。

 tiso8.jpg
 『夜に祈るダビデ』 ジェームズ・ティソ (1836-1902) ※ただし状況と年齢は違う。


一見、ダビデはドライな信仰を持っていたように見える。しかしすでに過ぎたこ
とをいつまでも嘆いても意味がないと考える合理思考を持っていたことと、自分
の人生は天から見られているという本質的な信仰を持っていたことが分かる。


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人は死んだ後は、どうなっているのか。

人の死後の状態については、21世紀に入っても未確定事項だ。
無神論も有神論も証明されていない仮説であり、だから「〇〇論」と言う。

しっかり盛大に葬儀をすれば死者が喜ぶと信じているなら、そうしたらいい。
人間は死んだら無になるだけと考えているなら、その逆のことをすればいい。
何にせよ、根拠がないのに、世間や多数意見に従うのは、無難だが賢くはない。

親鸞は、こう言っている。
死後にどうなるかは定かではないが、いずれにせよ罪びとである自分を自力で救
えないことは確かだ。だったら、弥陀の大いなる慈悲を信じることを選びたい。

イエスは、こう言っている。
天の神は悪人にも善人にも、公平に雨を降らせ、太陽を昇らせている。神は博愛
の神であることを信じて、安心しなさい。神は、悪人をも愛する者を愛される。




※補足――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
私は、肉体は死んだら土の塵に戻り、魂は解放されて自由になる。それが道理で考えれば納得できる
合理的帰結と思っているので、葬儀不要、遺体は献体に回すことを遺書と免許証裏に書いてあります。
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COMMENT FORM

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終活?‥‥おお!

>神は、悪人をも愛する者を愛される。

これはすべての魂が完全で、
肉体を持った魂の人生課題によって、その役割を演じていること。
神の愛が博愛、無償であることの真実を語っていると思いますねぇ。

友人ラザロの死を聞いて
イエスが珍しい言葉と態度を示したことについて。

バーソさんの解説は面白くて解りやすい。説得力があります。
『バーソ新約聖書』として出版すればヒットするかも。(笑)

※補足について。
エンディングノート、献体などの考えは同じで、
終活はとうに完了しています。
が……最近、献体希望者急増のようで、
引き取ってもらえないかも?
と、なると、やっぱ樹木葬か、散骨かな?(^_^ ;)

2018/12/01(土) |URL|風子 [edit]

環境

バーソ様
おはよう御座います。

死が怖いかどうかはその人の環境次第でしょうね。
私も基本的には高須院長と同じ考えですが親がいるので死ぬのは困ります。
自分が死んだら散骨でいいという人がいますが残された人にとっては迷惑な話です。
自分自身は格好いいと思っているのかも知れませんが手続きなど含めて墓に入れるより手がかかります。
死んだら自分で葬儀は出来ないのだから人に従うことでしょうね。
イエスは意外と喜怒哀楽が大きいのですね。
聖人なので怒ったりはしないと思っていました。
死んで復活するまでは人間ですから仕方ないのかも。
でもちょっとがっかりです。

愛新覚羅

2018/12/01(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: 終活?‥‥おお!

風子さん コメントありがとうございます^^)

 医師の山浦玄嗣さんは福音書のケセン(気仙)訳を出していますが、この「敵をも愛しなさい」を「敵だって、どこまでも大事にし続けろ」と訳しています。
 「敵をも愛せ」とは、敵を無理して好きになれという意味ではなく、敵だって人間なんだからと思って「大事にする」ことであり、上杉謙信が「宿敵」の武田信玄に塩を送ったようなものだと考えれば理解しやすいかもしれません。あるいは悪人が井戸に落ちそうなのを見たら、人間の自然の反応として、すぐに助けたいと思う「惻隠の情」とも似ています。

 しかしそれよりも精神世界で言われているように、人間は肉体を着た魂が今生の課題として、それぞれの役割を演じている、だから敵のように見える人はじつはイヤな敵役を演じてくれているのだと思ったほうが、敵をも愛せる心境にはなりやすいかもしれないですね。

 献体ですが、私たち夫婦は最後の奉仕ということで10年以上前に『白菊会』に入り、近くの大学を引き取り先に指名しているのですが、その頃は献体希望者が少なくて困っているという話でした。いまでも毎年一回、白菊会から緑色の手帳が送られてきますよ。

 散骨は、代行で散骨してもらうコースは5万円からあり、乗船2名で12万円、24名で25万円でした。樹木葬のほうは45万円からとありましたが、10倍くらいの人気みたいですね。

 それにしても、神も死後の魂も信じておらず、特定の宗教に熱心でもないのに、なぜ多額の費用をかけて死者の葬儀をする慣習があるのか。また生前は優しかった人間が死んだら、なぜ生きている親族にたたると思うのか。意味不明のお経を上げてもらったら、命のない者がなぜ喜ぶと思うのか。こういう考え方や慣習は、私には全然理解できないですね。むろん、信じているのならいいのですが。

2018/12/01(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 環境

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
 
 確かに、葬儀というのは自分一人の信念や意思で出来るわけにはいかず、親族の考えも考慮に入れないといけない場合がありますね。それに、自分の親より先に逝く可能性がある場合も困ります。教授の場合は、お母さんが一番心配なんでしょう。大変ですね。でも、やるべき準備をきちんとやっておいたら、あとはなるようになるだろうと思うのはどうでしょうかね。少しは気が楽になるかもしれません。
 散骨は最低費用が5万円からだそうですが、その手続きが手間が掛かるのですか。

 私たち夫婦は、どちらかが先に逝っても、そのあとは介護にお世話になったりして何とかやっていこうと思っているのですが、まあ、どうなるのか、残されたほうが寝たきりになったらさぞかし大変でしょう。
 
「喜怒哀楽」についてですが、これは人間の自然な感情です。子供が笑うのを見て一緒に笑い、かわいそうな人を見て泣き、甚だしい悪や不正を見て怒るのは、ごく自然な感情です。それがなく、いつも無表情で感情をほとんど表さない人がいれば、人間的には普通でも自然でもないでしょう。
 イエスが主人公の映画で、イエスがいつも柔和で、笑みを絶やさず、何があっても表情を変えず、泣きも怒りもしないというのは聖書的ではなく、ちょっと演出がおかしいと思っています。

 それに対し、「感情的」というのは、理性を失って、激しく感情を表すことです。些細なことで、やたら泣いたり、ちょっとしたことですぐ怒って、わめいたりすることです。理性的な思考力と自制心が弱い人の特徴ですね。

 イエスは普通の感情を持つ理性的な人でしたから、喜怒哀楽の感情を普通に持っていて、容易に理性を失うということがなかったので、「大声を出した」というのは非常に珍しく、この死んだラザロを墓から呼び出したときだけだったのですね。

2018/12/01(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

人が死を恐れるのは、自分自身が消えてなくなる(無に帰する)恐怖からだと思います。
しかし現実には、活動を停止した細胞は元素レベルまで分解され、また何かの形を得てこの世で再生します。
多分、人が心配するのは魂なる個我の存在だと思いますが、そもそも人に固定的な魂があるかどうか疑問に思います。
人の脳は脳波と呼ばれる電気信号を発信し、それをイメージとして自身にフィードバックして「魂」だと認識しています。
その魂なるものは刻々と変化していて一定ではありませんが、電気信号である為に永遠に消滅しないと言う特質を持ちます。
それはラジオやテレビの電波と同じで、一度発しますと粒子の波として永遠に宇宙を飛び続ける事になるからです。
つまり、人は(例え微弱でも)生きている間に無数の魂(思念)を宇宙に放出している存在だと言う事になる訳です。
だから生きている間に何を思うか?何を考えるか?…その思念の善し悪しと強さが我々にとって重要な要素になります。
人は完全には死にません。いゃ、死ねません…人が生きている間に発した思念は、本人の意思に関係なく生き続けます。
我々に影響を与えるのは死者が残した宇宙を飛び交う思念…強大な思念を持つ人の思いを表した書はなおさらの事です。
例えばイエスや釈迦の教えの如く…総じてこの世は生きている者よりも死んだ者の方が数が多いのです。

2018/12/01(土) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

 sado jo さん コメントありがとうございます^^)
> 人が心配するのは魂なる個我の存在だと思います
 そうですね、死が怖いのは自分の思考や意識が無くなることで、「われ在り、ゆえにわれ在り」と考えることも出来なくなるのが怖いですね。自我というのは日頃はほとんど意識してないですが、人間が一番大事にしているものなんでしょう。
 
 それゆえ「自我の消失」という人類の怖れを解消するものとして、太古の昔に「不滅の魂」の概念が出てきたと考える学者がいるわけで、実際、ほとんどの宗教は「魂としての永遠の命」を教えています。古今東西の宗教で、死後に永遠に生き続ける魂の存在を信じないのはエホバの証人ぐらいで、彼らは地上の楽園での永遠の生命を唱えています。

 しかし「魂」については認知できるとか見えると言う人は、この21世紀の世の中にも大勢いますね。私の父親も真言宗の僧正であったことがありますが、魂が見える人間で、病気の癒しやある程度の予言も行なえる霊能力がありました。だから魂が有るという主張のほうが、無いという主張よりも状況証拠が多そうです。

 魂の実体については、思念の一種であり、電気信号と考えますか。唯物論者の中には、思考を脳の働きと考える人がいますね。養老孟司さんも、そんな一人でしたか。

 私は、魂とはいわば意識というエネルギー体のようなもので、この物質世界のものとは別の次元のものだから電気計測器では認知できない範疇のものと考えていて、そう思うほうが自分の感覚でもしっくりきます。

 生きている間に何を思い、何を考えるかは非常に重要だというのは、まったく同意します。
 人が生きている間に発した思念は、それを受け継いだ人たちの思念や、書かれた書物により後世の人類に受け継がれていくので、そういう意味では永遠に生き続けるというのもよく分かります。

 また魂が意識であれば、死者と生者の思念なり意識もまた、天空を飛び交っている電波のように世界中に充満しているのだろうと思っています。

2018/12/01(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんばんは

私は家族の幸せを願って毎日祈りますが、神に
祈るのではなく両親の遺影に向かって祈ります。
願いが聞き入れられないとグレてダビデ王になって
しまうかもしれません。(笑)

ブロンテ姉妹の一番下のアン・ブロンテは前年に姉の
エミリー・ブロンテを亡くし、自らの死の間際に三人姉妹のなかで、
ただひとり取り残されようとしているシャーロット・ブロンテに向かって、
「勇気をだして、シャーロット。勇気をだして」

哲学者の久松真一は90歳で亡くなりましたが、彼の遺詠は
バーソさんのまさに考えている清々しさそのものでした。
「我死すも引導、追善、葬(弔い)無用、むくろは荼毘(だび)て骨な拾いそ」

2018/12/01(土) |URL|エリアンダー [edit]

Re: こんばんは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
> 私は家族の幸せを願って毎日祈りますが、神に
祈るのではなく両親の遺影に向かって祈ります。

 素晴らしい。こういう祈りは宗教的な信仰とか理屈とかじゃないんですね。宇宙を制御している不思議な力と智慧に感謝し、それに自然に従って生きていけば人生はうまくいくと思っている、いわば明るい人生観や信念のようなもので、それは人間が本質的に持っている心の中の純粋さのような概念の一つだと思います。アインシュタインやニュートンの信じている神の概念と似ているかもしれないですね。

 ブロンテ姉妹の話は、言われて読んだことがあるのを思い出しました。エリアンダーさんのブログじゃなかったですかね。死のうとしている者が生きている者を案じる。これもいい話です。三人とも二十代か三十代で亡くなっています。嵐が丘もジェーン・エアも、空が暗いイギリスの風景が思い出され、悲しくなります。当時はいい薬がなかったので早死にする人が多かったのでしょうか。

 その句は「骨な拾いそ」と、なその格で終わるのが面白いですね。
 私の好きな句は十返舎一九のです。駄洒落です。
「この世をば どりゃお暇に 線香の 煙とともに 灰さようなら」

 でも本当はこういう死に方がきれいで、理想です。
「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の 如月の頃」

 私が先に死んだら、エリアンダーさんの所にもお邪魔して、灰か花びらをどこか珍しい場所に出しますからね。そうしたら、魂は確かにあるようだとブログに書いてくださいよ。(笑)

2018/12/01(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

孔子の言葉

今回の記事を拝読し、
孔子が弟子に語った言葉を思い出しました。

「未まだ生を知らず、焉んぞ死を知らん」

未だ生きることが何であるかを知らない者が、
どうして死を知れるというのか。

という意味を持った言葉だと思うのですが、

この言葉にのっとって考えるなら、
生がなんであるかを、
全ての人が納得できる論理で論証できないぼくら人間は、
永遠に「死」を主観でしか知ることができない
存在であることになるのですが、
最愛の弟子顔淵(がんえん)を喪ったとき、
周囲の目も憚らず声をあげて烈しく泣いたという
孔子の人間的なあたたかみは、
どこか親鸞を思い起こさせるものを感じます。

2018/12/02(日) |URL|友資 [edit]

Re: 孔子の言葉

友資さん コメントありがとうございます^^)
 まあ、本当に霊的関心事が多岐に渡っていますね。相当、いろいろ哲学的な本を読んでいますね。

 子曰く、生を知らない者がどうして死を知ることが出来ようか。
 ごもっとも、そうだなあと凡人は思いますが、人生の終着地には何があるのか、それを知りたいと思うのも人間の自然の思考です。むしろ、それが分からなければ、一体自分は何をするために生まれてきたのか、いま歩んでいるこの道でいいのかという疑念が解けず、生きていても完全な安寧を得ることができません。
 
 でも、これが、死んだ後のことよりも今を懸命に生きよという意味であれば、死後の命や生の意味など分かり難いことを探るために多大な時間と労力を費やすより、自分が楽しいと思うことを気軽にしたほうがずっといいじゃないか。そのほうがエンジョイライフができるじゃないか。さあ、友よ、この盃を受けてくれ、どうぞなみなみつがしておくれ、花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ、となるのもなかなか興趣がありそうです。

 人類がこの地球上に誕生してから、生きる意味はこうだ、死んだらこうなるという教えはいろいろバリエーションがありますが、いまだ絶対確実という決定打はありません。その教えの是非は、結局は個人の主観で、あるいは好みで判断されているように思います。

 人目をはばからずに泣いた。この言葉を見て、先のオリンピックだったかの女子レスリングで吉田沙保里選手が優勝したときに、涙を全然ぬぐおうともせずに男泣きをした監督を思い出しましたが、その監督は今はいません。

 人生、波乱万丈、紆余曲折、有為転変。一寸先は闇としても、その先は光。この地球でせっかく生を受けたのですから、大いに泣き、大いに笑い、大いに悲しみ、大いに喜びたいものですね。

2018/12/02(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

人に限らず死ねば世界に同化するのであります

 生き物は良いも悪いもみなチャラにして世界へ還るのであります。よって、魂の普遍は有り得ず、人の復活も無い。「神様」もまたアリアンロッドの歯車でしかなく、よって何かをする力は無く、何かを成す意思も無い。ただ流れるまま、茄子が儘。茄子のチーズ焼きは美味い。

2018/12/02(日) |URL|miss.key [edit]

Re: 人に限らず死ねば世界に同化するのであります

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
 あー、またまた真っ向からの否定論を面白い軽いジャブでいただきました。ならば、このコメント欄は他の方も読むかもしれないので、当方も面白がって反論めいたことを述べさせていただきますかね。それにしても、思想的立場が真逆なのに、毎度毎度コメントをすみませんね。
 ただし記事中にも書いた通り、無神論も有神論もいまだ証明できていない「論」に過ぎず、当方、確たる証拠を挙げてストレートに反論することはできません。ジャブジャブと波立つようなフック気味の弁明をしますが、その辺はこちらの苦しい胸の内も汲み取ってくださいよ。
 
> 人に限らず死ねば世界に同化する
 はい、まったくその通りです。土の塵(諸元素)で出来たものは再び塵に戻るだけです。ただし、それは物質面だけに限定した話でしょう。なぜなら、世の中には目に見える(物質的な)世界の他に、目に見えない(霊的な)世界もあり、その証拠に「一番大切なものは見えないものなんだよ」と星の王子さまが言っており、世界中の多くの読者が賛同していますから。

 いや、目に見えないものなんて無いのだよと思うでしょうか。
 星の王子さまは、そんな人にこう言っています。「だけど、目では何も見えないよ。心で探さないとね」。ですので、メルヘンチックなハートを持ち合わせていない人には見えないようになっているようですが、miss.keyさんはかなりメルヘンな世界も好きで、だからメルヘンつちのこを創ったわけでしょうから、この点がどうも不思議ですねえ。むろん「見える」とは目で見えるという意味ではなく、心で感知するという意味であり、ゆえに少しく曖昧もこもこもこのところがありますが。

 言うまでもなく、人間の「肉体」は物質であり、目に見えますが、「心」は物質でないので、目には見えません。たとえば「愛」は、重さもなく、形もないですが、しかし心の中に「愛」があれば、その結果は何かしらの状況に現れるので、人はその目に見える現象を見て、ああ、愛の心があるのだなと認知できるのは先刻ご承知のとおりです。
 
 心は脳とか心臓にあると思っている人がいます。旧約聖書では腎臓もその場所の一つに挙げられていますが、どの臓器の中にあるかは医学的に確定されているわけではないでしょう。ただ、心臓移植では、そのように思える事例もあるようです。ちなみに英語の「heart」は、「心臓」という意味の他に「心」という意味もあり、「心」という意味に限定したい場合は「比喩的な心臓(heart)」という言い方をします。
 心は脳には無いでしょう。頭がいい人が、すなわち愛がある人ではないですし、人間はみな同じようなサイズの脳と心臓を持っていますが、愛が大量にある頭の悪い人もいれば、憎しみと恨みだらけの知恵ある人もいるわけで、これはAIには感情が無いのと同じです。

 大体が、この社会は何が動かしているか。この社会は物質で出来ていますが、物質が動かしているわけではないですね。まず人間の「心」の動機が、こうしようとかああしようとか思います。次に「思考」が働いて、ではどのようにしようとその方法と手段を考え、その次に実際に「肉体」の口が動いて、手が動き、足が動きして必要な作業をしていくわけです。だから「心」と「思考」とかの、目に見えないものが、目に見える人間社会を動かしているのですね。
 
 自然界も同じようなものじゃないですか。自然界の現象や生物の行動は、自然界を動かしている目に見えない自然の法則とか本能、あるいは摂理と呼ばれる不思議な智慧ある決まりごとのようなものによって動かされています。

 いやそれは、たまたまの偶然であると言う人がいますが、DNA一つの構造と機能を見ても、偶然にしてはあまりにも奇しく出来すぎていて、21世紀の人間の知恵をはるかに凌駕していますから、偶然の産物であるはずがありません。
 もし「偶然」に永年の経年変化が加われば偉大な知恵が出来あがるのであれば、この現代でもいまだに横穴式住居に住んでいる未開人でも、一つぐらいは文明人が敵わないほどの大発明が出来てもいいはずです。

 何事も、成すがままに勝手に動くことはなく、まず「心」が茄子のチーズ焼きを食べたいと思い、では茄子は那須に買い出しに行こう、チーズは冷蔵庫にあったはず、作るのは病院で知り合ったナースさんに頼もうと「思考」したら、実際に「体」が動いて、電話して、来てもらって作ってもらえば、為すことをしないでもハマナスの咲く頃にモンパルナスの夕べを思い出しながら食べなすことができるというわけで、そんな優しいビーナスのような白衣の天使がいたらボーナスの一部を差し上げますから紹介してくださいなす。

2018/12/03(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2018/12/07(金) || [edit]

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