「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 倉田百三『出家とその弟子』と精神世界との調和性(後編) 


倉田百三『出家とその弟子』
この戯曲は、親鸞の教えを下敷きにした “信仰と救い” についての話ですが、
著者の意識が、仏教とキリスト教を超えて、精神世界へと大きく拡大しています。

今回(後編)は、地獄があっても人間は救われるのなら、
その根拠はあるのか?という疑問から始まります。

 fo98.jpg


 非常に面白いので、未読の方は一読を勧めますが、(→青空文庫)
 時間のない方はバーソが引いた下線部の本文だけでもどうぞ。

        _________________


●修行僧の一人が科学的思考に基づく当然の疑問を親鸞に尋ねる。
同行一 ただ一つ私にお聞かせください。その念仏して浄土に生まれるというのは何か証拠があるのですか。
親鸞 信心には証拠はありません。証拠を求むるなら信じているのではありません(一気に強く)弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の教説 虚言ではありますまい。釈尊の教説 虚言ならずば、善導の御釈偽りでございますまい。善導の御釈 偽りならずば法然聖人の御勧化(ごかんげ)よも空言(そらごと)ではありますまい。(間)いや たとい法然聖人にだまされて地獄に堕ちようとも私は恨みる気はありません。私は弥陀の本願がないならば、どうせ地獄のほかに行く所は無い身です。どうせ助からぬ罪人ですもの。・・・私は何もかもお任せするものじゃ。私の希望、いのち、私そのものを仏様に預けるのじゃ。どこへなとつれて行ってくださるでしょうよ。
(一同しばらく沈黙)
同行一 私は恥ずかしい気がいたします。私の心の浅ましさ、証拠が無くては信じないとはなんという卑しい事でございましょう。
※釈尊はインドの釈迦。善導は浄土思想を確立した中国の僧。法然は鎌倉時代の僧で浄土宗の開祖。

以前教団に所属していた時、集会に来た新しい人から、救いの福音が本当じゃな
かったら補償してもらえるのですかと聞かれたことがある。信仰の生活は損得で
するものではない。それが正しいと思うから、そしてまた好きだからするのだが。

救いがないなら、死んだら終わりか、地獄に堕ちるかの二者択一。証拠があれば
信仰は要らない。信仰は、宇宙の善良さを素直に信じる心の上に成り立っている。

                 

●親鸞最期のときに、救われた人は美しい死に方をするのかを述べる。
親鸞 だから皆よくおぼえておおき、臨終の美しいということも救いの証ではないのだよ。わしのように、こうして柔らかな寝床の上で、ねんごろな看護を受けて、愛する弟子たちにかこまれて、安らかに死ぬことができるのは、恵まれているのだよ。・・・だが、世にはさまざまな死に方をする人があることを忘れてはならないよ。刀で斬られて死ぬ人もある。火の難、水の難で死ぬ人もある。飢えと凍えで路傍にゆき倒れになるものもある。

臨終の美しさは救いの証明ではないとの意味は、神仏を信じてもすべては順調に
いかない。病気にもなり、事故にも遭うという意味だ。人が何かの行動をすれば、
何かの結果が伴ってくる。高速道路で無茶をすれば事故死に遭うこともあり得る。

                 

●親鸞は、救われる秘訣について説明する。
親鸞 だがそのような浅ましい臨終はしても、仏様を信じているならば、助けていただく事はたしかなのじゃ。救いは機にかかわらず確立しているのじゃ。信心には一切の証はないのじゃ。これがわしが皆にする最後の説教じゃ。わしがこれを言うのは人間の心ほど成心(じょうじん)を去って素直になりにくいものはない事をよく知っているからじゃ。素直な心になってくれ。ものごとを信ずる明るいこころになってくれ。信じてだまされるのは、まことのものを疑うよりどれほどまさっているだろう。なぜ人間は疑い深いのであろう。長い間 互いにだましたり、だまされたりし過ぎたからだ。・・・信じてくれ、仏様の愛を、そして善の勝利を。

先日ノーベル賞を受賞した本庶佑博士のモットーは「好奇心と常識を疑うこと」。
固定的観念には縛られないほうがいいが、信仰とはもっと根源的な心の特質であ
り、人間の本質は愛であって世界の根源も愛であると素直に同意することなのだ。


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●親鸞臨終のシーンは本戯曲のクライマックスである。やっと放蕩息子の善鸞ぜんらん
帰ってきて、どうか親不孝を許してほしいと願う。
親鸞 (目を開き善鸞の顔を見る)おゝ、善鸞か。(身を起こそうとしてむなしく手を動かす)
侍医 (制する)おしずかに。
善鸞 (涙をこぼす)会いとうございました……ゆるしてください。わたくしは…………
親鸞 ゆるされているのだよ。だあれも裁くものはない。
善鸞 わたくしは不孝者です。
親鸞 お前はふしあわせだった。
善鸞 わたしは悪い人間です。わたしゆえに他人がふしあわせになりました。わたしは自分の存在を呪います。
親鸞 おゝ おそろしい。われとわが身を呪うとは、お前自らを祝しておくれ。悪魔が悪いのだ。お前は仏様の姿に似せてつくられた仏の子じゃ。

悪の根源は悪魔であると言い、地上の諸問題の責任を仏(神)に負わせないように
している。人間は、仏(神)の属性に似せて造られた仏(神)の子であるので、本来、
慈愛や公正や知恵を持ち、祝福されているという話は、聖書の教えそのものだ。


●しかし放蕩息子の善鸞は、自分は仏の慈愛に値しない人間だと言う。
善鸞 もったいない。わたしは多くの罪をかさねました。
親鸞 その罪は億劫(おっこう)の昔 阿弥陀様が先に償うてくだされた……ゆるされているのじゃ、ゆるされているのじゃ。(声細くなりとぎれる。侍医眉をひそめる)わしはもうこの世を去る……(細けれどしっかりと)お前は仏様を信じるか。
善鸞 …………
親鸞 お慈悲を拒んでくれるな。信じると言ってくれ……わしの魂が天に返る日に安心をあたえてくれ……
善鸞 (魂の苦悶くもんのためにまっさおになる)
親鸞 ただ受け取りさえすればよいのじゃ
(一座緊張する。勝信は顔青ざめ、目を火のごとくにして善鸞を見ている)
善鸞 くちびるの筋が苦しげに痙攣けいれんする。何か言いかけてためらう。ついに絶望的に)わたしの浅ましさ……わかりません……きめられません。(前に伏す。勝信の顔ま白になる)
親鸞 おゝ。(目をつむる)・・・(かすかにくちびるを動かす。苦悶の表情顔に表わる。やがてその表情は次第に穏やかになり、ついにひとつの静かなる、恵まれたるもののみの持つ平和なる表情にかわる。小さけれどたしかなる声にて)それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ……善い、調和した世界じゃ(この世ならぬ美しさ顔に輝きわたる)おゝ平和! もっとも遠い、もっとも内の。なむあみだぶつ。
侍医 もはやこときれあそばしました。

親鸞は当初、悪人を裁く地獄があるのは当然だとする信仰があり、だから放蕩息
子の善鸞に「信じると言ってくれ」「私に安心を与えてくれ」と頼むのだが、そ
の願いを良心的な息子に拒否され、しばし黙想したあと、《不信仰でも悪人でも
それでも人はみな救われている》という深い洞察に到達して、平安のうちに死ぬ。

イエスの有名な『放蕩息子の例え』と違うのは、その話では、悔い改めた放蕩息
子(人類)を 優しい父親(神)が快く許すラストになっているが、この親鸞の話では、
息子はいまだ仏を拒否していても、すでに赦されているという結末になっている。

親鸞最期の「それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ……善い、調和した世
界じゃ」は最高潮を成す言葉だ。キリスト教では、悪魔が居る限り、この世界に
は救いがないのだから、ここが全く違う。百三は精神世界的な信仰を持っている。

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        ___________________


親鸞が言うように、人の平和は、最も遠く、しかし最も心の内にあるものです。
その平安は、世界を統御している愛と善良さを信じることから生じます。

人間は本当は、愛はもちろん、世界を善くする知恵も能力も十分に持っています。
自由意思を行使して、善いことを選択すれば、誰でも善いことができるのです。

問題は多々あっても、今もなお世界の本質は善いものであり、調和しています。
そう信じれば、信じるように実際になれると思いますね。




※画像はフリー画像(Pixabay)を借用。
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COMMENT FORM

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究極の愛を語る親鸞

>正しいと思うから、そしてまた好きだからする。
>宇宙の善良さを素直に信じる心の上に成り立つ。

まさに、この心情に尽きると思いますねぇ。

自分は仏の慈愛に値しない人間だと言った
放蕩息子の善鸞。
『ただ受け取りさえすればよいのじゃ。』
そう答えた親鸞。
泣けますよねぇ。

自由意思を行使して多くの問題が発生したとしても、
繰り返す輪廻の生で気づいていく。
『体験中』という過程の中でさえ、
信じようが信じまいが赦され愛されている。

いい話ですねぇ。o(;_;)o
青空文庫は行っても踵を返しましたが、
バーソ要約のおかげで得心できました。
ああ、ありがたや(笑)

しつこいですが、いい話でした。

2018/11/10(土) |URL|風子 [edit]

お休み

バーソ様
おはよう御座います。

すみません。読んでいるうちに頭が疲れてきてしまいました。今回はコメントを休ませていただきます。

愛新覚羅

2018/11/10(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: 究極の愛を語る親鸞

風子さん コメントありがとうございます^^)
「正しいと思うから、そしてまた好きだからする」
 これはある意味で諸刃の剣的なところがあります。とかく宗教心というのは特定の思想や信念に凝り固まりがちで、そうなれば視野が狭くなり、平衡の取れた見方ができなくなり、思考が独善的かつ排他的になりがちだからです。

 ですが「宇宙の善良さを素直に信じる心の上に成り立つ」と書いた通り、宗教心というのは、宗教やスピリチュアルを嫌うひとがよく言う言葉―――弱いからするのだろう、科学的思考がないからだ、見えないものを信じるのは馬鹿だ、失恋でもしたのか、―――といったネガティブな動機で関心を持ったわけではなく、それこそ「正しいと思うから・好きだから」なんですがね。
 つまり宇宙の大理というような自然界の摂理に従いたい、それが人間の生きる道だという意識を抱いていられることが心地いいのですね。

 何にも頼らず、すべて自分の意思と力で行動して楽しい人もいるでしょうし、それはそれでいいと思いますが、自分より偉大な知恵と力が宇宙にあるはずだと思って、それを知ってそれに従いたいと思う人もいるのですね。まあ、人間には自由意思があり、信教の自由もありますから、ひと様に迷惑をかけない限り、どちらでも別にいいと思いますが。

> 『ただ受け取りさえすればよいのじゃ。』
そう答えた親鸞。
泣けますよねぇ。

 ああ、そうですそうです。そうでした。早速、ここにも下線を引きました。そういう素直な心がいいのです。でもそれは物事をすぐに信じる非科学的で愚かな心だと思う人もいるでしょうし、確かにそういう一面もありますね。ですが、ここは論理的な思考力の違いもありますが、好きか嫌いかという感覚(感情)や倫理観の違いもありそうです。

> 自由意思を行使して多くの問題が発生したとしても、
繰り返す輪廻の生で気づいていく。
『体験中』という過程の中でさえ、
信じようが信じまいが赦され愛されている。

 なにかに気づくというのは非常に面白い心理現象ですね。子供の頃、教えて! なんで?と大人に何でも聞きました。でも自分で気づいたこともあり、そのほうが面白いのですね。生きていれば苦しい体験もありますが、それも何かを学べて、気づけるわけですから、永い目で見ればすべては良い体験なのでしょう。

2018/11/10(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: お休み

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
 ああ、すみません。わざわざご丁寧に断りのコメントをいただいて。前回の記事も読むのがちょっと大変だったでしょうに、よくコメントを書いてくださいました。
 私だって、念仏を唱えるだけで救われるというような仏教説話だったら読む気がしませんから、コメント休みは当然のことだと思います。

 このような宗教的な話は、関心のない人には読めないだろうなあと思いながらも、前編後編と二回も書いてしまったのは、この本の著者の信仰が仏教からキリスト教に変わり、精神世界に拡大したからで、その変遷が私の場合とちょっと似ているからなんですね。私もキリスト教に入る前は、親の影響を受けて新興神道と仏教を少しかじりました。だから倉田百三の心境も少しは分かる気がしたのです。

 ですが、こういう文字数が多くて、内容が硬くて、ユーモアも一切なしの話は、いつでも、どんどんスルーしていただいてけっこうですからね。^^)

2018/11/10(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

美味しいスパゲティの作り方

 え゛ー、まずは玉ねぎとピーマンを千切りにし、これをフライパン・・・ではなくオーブンにて乾燥させるように焼きます。すると後々溶けずに触感が残り、大変美味しゅうございます。その間にフライパンでひき肉を炒め、余分な脂が出てきたら、えいやっと捨てます。その後、マッシュルームを丸のまま放り込み、ホールトマトを二缶程ぺっ。煮詰めます。ぐつぐつがぶしゅーになる位よーく煮詰めます。先ほどの玉ねぎとピーマン、塩コショウとローズマリーを加え、なじんだらとりあえずいっちょあがり。
 パスタは多めのお湯に塩を適量。此処が味噌です。多過ぎても少な過ぎてもいけません。で、じゃぁ実際如何程と問われれば、そこは適量なのです(笑)。お湯が煮立ったらパスタを投入。表示されているゆで時間は無視。自分で噛んでみてまだ芯が残ってる位がベスト。此処でちょうどいい加減だと後程ダレます。それをざるに上げたら、フライパンのソースと煽って絡めて出来上がり。え゛、単純?手抜き?如何にも男の料理?キニスンナ。こんなもん、手を掛けりゃ美味いというもんじゃない。さっと作れるものにはさっと作れるものに宿る美味さがある。そこは調和ですよ、調和(笑)。
 あ、もう一つ、最強の調味料を忘れてました。出来れば前二食位抜いてからお召し上がりください。

2018/11/10(土) |URL|miss.key [edit]

Re: 美味しいスパゲティの作り方

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
 ええー、私は先回「おいしいパスタの作り方」と申したような気がするのでありますが、「美味しいスパゲティの作り方」ですか。こんなところにも料理へのこだわりがあるようですね。
 それにしても言葉通りに受け取る正直な方もいるのですねえ。「正直の頭に神宿る」と言いますから、miss.keyさんの頭にも神がしっかり付いているのでしょう。私の頭にも憑いていますが。(笑)
 とはいえ、わざわざ詳細にかつ適当にレシピを教えていただいて有難く思っております。毎度毎度、気を使っていただいて、すみません。

 で、このレシピのノフハウは、野菜を炒めるときにオーブンを使うことと、麺を茹でる際は此処に味噌を使うのがコツですか。多過ぎても少な過ぎてもいけない。そうでしょそうでしょ。入れ過ぎると味噌味になるでしょうし、少な過ぎると醤油だか味噌だか分からないでしょうから。
 なお、ここでの希望をちょっと言わせていただくと、赤味噌がいいのか白味噌がいいのか、はたまた豆味噌か麦味噌か蟹味噌か糠味噌か脳味噌か、あるいは手前味噌がいいのか、その辺のことも書いてほしかったですね。私は鯛味噌なんて、けっこうご飯に合いますが。

 というわけで、ええと、軽い感想だけで申し訳ないですが、できればこの次は「おいしい生活」の仕方についてご教授いただければと願っております。あ、「おいしい文章の作り方」でもいいですよ。

2018/11/10(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

バーソさんこんばんは

今回の記事で、
バーソさんが何をこの世でもっとも尊いものと定めるのかを、
はっきり感じることができたように思いました。

おそらくぼくは、本庶佑博士と同じプロセスや、
未成熟な論理的考察をたどりながら、
世界を統御しているもの(時空を超えて皆助かっていること)を伝えることをしていて、
バーソさんは、
「疑う」の対極にある「信じる」のプロセスに比重を置きつつ、たどりながら、
世界を統御しているものを伝えることをしているのかもしれないなと、
前回コメントさせていただいたことが、
より明確になりました。

損得を超えたものを提示する宗教の、
すべてが究極的に示すものが、
実は同じものなのでしょうね。


そして、
バーソさんが前回コメントで仰ってくださった言葉と、
ちょうどそのとき読んでいた本とがシンクロし、
新たな重要なインスピレーションを獲得することができました。
ありがとうございます。
いま、他のことと同時進行させながら、
そのことを提示できるまでに具現化すべく、
慌てず構築しているところです。

「信じること」は諸刃の剣ですが、
たとえその刃に倒れたとしても、
誰しもが最初から救われていることを知る者は、
親鸞と同じ、
自ら肯定する必要性も必要としない、
「肯定を超えた肯定」としての平和な最期を、
迎えることができるのかもしれませんね。

2018/11/10(土) |URL|友資 [edit]

こんばんは

親鸞臨終のシーンの息子の善鸞とのやり取りが
作り話とは思えないリアリティを感じます。
子の善鸞の拒否にあいながらも黙想の後に深い境地に
到達したのが感動的です。
念仏で浄土に行ける証拠はなくても、美しい死にざまでなくても、
心が平安でなくとも浄土に行けるのです。
まさにキリスト教や仏教を超えた境地も存在するのです。
>今もなお世界の本質は善いものであり、調和しています。
そう信じれば、・・・。
映画「アンネの日記」のラストでアンネが言ったことをよく覚えています。
Inspite of everything , I still believe that people are really good at heart.
嫌なことだらけだけど、人の心は善いと信じています。
もう一度青空文庫に行ってきます。

2018/11/10(土) |URL|エリアンダー [edit]

Re: バーソさんこんばんは

友資さん コメントありがとうございます^^)
 あー、またまた身に余る好意的コメント、恐れ入ります。
 私は本質的に感情や気分で動くほうではなく、どちらかといえば論理思考をするほうだと思っているのですが、聖書に親しんだ人生が長かったせいか、かなり聖書的な考え方に洗脳されていると思います。それゆえにか、使徒パウロが述べたこんな聖句に共感する傾向がありますね。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(Ⅰコリント13:13)

 この言葉を私がいいと思うのは、多分この三つの特質が自分にあるからというよりは、自分に無いからだと思います。ひとは自分に無いものに憧れますから。

 ただし、世界を統御している《見えないもの》については、それを希望しているので信仰によって(盲目的かつ素直に)信じているわけではないですね。論理的また客観的に考えれば、無神論よりも有神論のほうが証拠や根拠がはるかに多いと思っています。
 例えば創造論に対抗するのは進化論ですが、進化論は進化の途中形態が全くないなど矛盾点がいろいろあり、つまり進化の物証は全然なく、その論は証明されておらず、証明できない仮説に過ぎないのですが、多くの人は(自分では気づかずして信仰によって)信じてい(ると思ってい)ます。
 
 素直に信じる心は悪質な心にコントロールされやすい欠点があります。宗教にしてもスピリチュアルにしても、金儲け主義や偽善的なもの、倫理的また教理的に問題のある教団が多々あるゆえに、そういう精神世界的なジャンルのものすべてを否定する人の気持ちも分かるような気がします。

 私の霊的な知識は、友資さんのように独自に論理的な構築ができているレベルのものではないのですが、風子さんや友資さんと知り合ったのも一つのきっかけになり、こうして時々精神世界的なことをちょっとたまに書いている程度なんですね。

 とかく救いは最終的な目標のように思われていますが、誰もが救われている、というより人類は本当は救いなど必要としてないことを理解できれば、本当の平安が心の中に宿ると思っています。
 しかしながら、そこは凡人の悲しさで、いろいろ悩むことがありますが、じつはそれも人生の醍醐味の一つのように思っています。

2018/11/10(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: こんばんは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
 親鸞と放蕩息子の善鸞のやり取りはいいですね。お互いに真面目です。魂と魂の会話をしています。父と子がこんな会話をできれば最高ですね。

 臨終間際の親鸞は息子の誠実な拒否にあって、初めて深い境地に辿り着けました。親鸞は以前から、人は仏の慈愛で赦されるには、南無阿弥陀仏と唱えて仏に頼らなければ救われないと思っていたのですが、しかしそうではなく、人はみな元々赦されているのだと悟りました。
 だって仏の慈愛が本当の慈愛なら、これをしなければ救われないといった条件があるはずがないのですから。ですから仏(神)の慈愛は単なる普通以上の大きな愛ではなく、まったく条件や要求が一切ない《無条件の慈愛》だと気づいたことが悟りにつながったのでしょう。

 仏に念仏を唱えなくても、神に祈ってアーメンと言わなくても、そんなことを全然しなくても、赦すも赦さないもそんなことには一切関係なく、人間は最初から神の裁きの対象にはなってないことを知ると、それはそれは非常にうれしいものです。私は、神の愛が無条件の愛だと知ったとき、人生で一番良いことを知ったと思いました。

 ところが面白いことに、真の神は裁く神ではなく、赦す神だというのは、『レ・ミゼラブル』の最初のほうでも言われているのですね。ミリエル司教はジャン・ヴァルジャンが銀の食器を盗んでも快く許しました。ジャン・ヴァルジャンが悔い改めたからではなく、司教に無条件の愛があったから許したのであり、ここで読者は感動するのですが、ところがその司教の愛はじつは神の本当の愛すなわち無条件の愛を示しているとはなかなか思いつかないのですね。

 アンネがそんなことを言っていましたか。たいしたものですね。エリアンダーさんは何でもよく知っていて、しかもよく覚えていますね。『アンネの日記』は読んだことがあるのですが、私は全然気づかなかったですね。
 もう一度青空文庫に行ってきますか。ああ、うれしいお言葉です。

2018/11/10(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

不思議な事に放蕩息子の寓話は、仏教にもキリスト教にもあって、その内容がとても似通っています。
ところが、奇妙な事にどちらにも放蕩娘の寓話はない…なのに聖者は女性は罪深い穢れた存在だと解いた、と後に解釈された。
これはとてもおかしな話でして、現実に釈迦もイエスも女性のお弟子さんを男女の分け隔てなく迎えています。
察するに、放蕩息子の寓話の意味する所は、聖者が男女どちらが罪深く穢れた存在であるかを良く知っていた証拠であると思えます。
なぜなら女性には素直な性質があり、一通り教えておけば本来持っている本能的な愛情と、自然の命の道理に従うから罪を犯す事はない。
だが、男の場合は幾ら教えても色欲と我欲の強さが災いして、あらぬ方向に走った挙句、人を泣かせたり傷つけたりして罪を犯してしまう。
仏教にもキリスト教に共通する放蕩息子の寓話は「重点的に救うべきは女ではなく男である」事をよく表したものだと言えます。
聖者は男女の性の持つ良い所と悪い所を、よく熟知しておられたのでしょうね(笑)

2018/11/11(日) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)
 またまたjoさんらしい面白い解釈ですね。男性は我欲が強くて救わないといけない動物だが、女性は本能的な愛情があり、自然の道理に従うから罪びとには成り得ないですか。うーん、joさんは女性に優しいジェントルマンなんでしょう。いや、最後に「カッコ笑い」が入っているので、これは冗談半分の異説ですか。

 しかしここは真正面から、いや、私も冗談半分で答えることにしましょう。
 放蕩息子の話はあっても放蕩娘の話が無いのは、人間の代表として単に男性を選んでいるだけでしょう。「少年よ大志を抱け」には「少女」も含んで言われています。何かの書類の名前例である「山田太郎」には「花子」も含まれているのです。「セールスマン」という言葉には「ウーマン」も含まれているのです。そういうのは男尊女卑だ、けしからんと怒る人がいるのを知っていますが、昔の聖書や宗教経典はそうだったのです。

 そもそも、女性と男性とどちらが罪深いか。
 禁断の木の実を最初に手に取ったのは女で、男は女からもらっただけでした。男は浮気をするが、その相手は女です。犯罪の陰に女ありとか、歴史は夜つくられるとも言われます。世界の歴史は男社会が主流なので男の犯罪が目立つだけであって、大昔は女性のほうが権力を握っていたそうなので、その時代は女性のほうに犯罪者が多かったのじゃないですかね。

 敵をどう扱うかにしても、男は相手をスパッと斬首するだけですが、女はもっとジメジメと虐め殺します。西太后、武則天、呂雉が何をしたか。ああ、考えるだに怖ろしいことです。それに好々爺とは言うが、好々婆とは言わない。鬼婆と言っても鬼爺とは言わない。・・・ええと、このぐらいにしておきましょう。そうでないとバーソは女嫌いかと勘違いされてしまいます。(笑) 念のために言っておきますが、私は男性より女性のほうが好きですからね。(^-^;

2018/11/11(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

またまた

シンクロを覚えました。

ぼくはバーソさんと比べたらお話にならないくらい、
キリスト教に対する造詣の深さを持ち合わせていないのですが、
ですが、実はそのコリント人への手紙第13章の言葉を、
過去に記事で取り上げたことがあり、
ぼくの思想の中核を成すものになっております。

ブログのサブタイトルに「三本の柱」と記しているのですが、
それはまさに「希望」「信仰」「愛」のことで、
その三つがいわゆる「あの世」との架け橋となるものとぼくは確信するのですが、
そのことをどうやって伝えたらいいものか、
まだいい答えが見出せず、
答えを熟成させている最中であります。

さて。どうなることやらですね^^

2018/11/11(日) |URL|友資 [edit]

Re: またまた

友資さん コメントありがとうございます^^)
「三本の柱」が、信仰、希望、愛なんですか。希望と愛が入るのは分かるとしても、信仰が入っているのはスピリチュアルではちょっと珍しいように感じました。

 その記事、読みました。利他愛と自己愛。愛はまず自己愛から始まるというのは聖書的ですね。イエスも、自分を愛すその愛で他のひとを愛しなさいと言っていますから。

 しかしまた自分の命を犠牲にする利他愛ほど美しいものはないとも言われていますから、なぜその愛を表したいと思うのか、その心の動機の純粋さが問われそうです。

 そして、たとえ全世界を得ても自分の命を失ったら何の益があるかとも問われているので、自分の命を大切にして生きることも非常に良いことなんでしょう。
 
 シンクロがあったというのは面白いです。そのコリントの聖句、いつもはほとんど意識してない聖句なんですが、このたび、ふっと思いついたのです。これは友資さんと私の思うところとが近いことを示しているようですね。

 同じ波長の人と巡り会えるのは貴重なことです。これからもどうぞご指導のほどをよろしくお願いしますね。^^)

2018/11/12(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2018/11/16(金) || [edit]

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