「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 倉田百三『出家とその弟子』と聖書との親密性(前編) 


大死一番に点を一つ付けて犬死一番としたらどうなるでしょう?

「大死一番」とは、死んだ気になって精一杯やるという意味ですが、
「犬死一番」なら、無駄死にが一番となり、情けない死に方になります。

できれば最期は一つの汚点もなく美しく死にたい、
なるべく安らかに逝きたいとは誰でも思うことでしょう。

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倉田百三が戯曲『出家とその弟子』で “信仰と救い” について論じています。
『歎異抄』の親鸞かと思って読んでいると、聖書の言葉をいろいろ思い出し、
ロマン・ローランが大絶賛したのもむべなるかなと思えてくる面白い本です。

この書には、神や仏を信じない人にも共感できる話が盛り込まれています。
バーソの話は甘口が多いとお嘆きの貴兄に、今回は少々“堅め”の話(前編)です。

 ※長年信仰に打ち込んだ私バーソの注釈を読めば、たちまちその書の核心が分かる!
 はずですが(^-^;、もし未読であれば、そう長くないので一読を勧めます。→
青空文庫


――――――――――――――――――――――――――――――――――――
倉田百三『出家とその弟子』には、聖書の教えがちらちら垣間見える。 
                     ※時間のない方は下線部だけでもどうぞ。

●序曲では「人間」が登場して、地上で生きる歓びを独白している。
人間 (地上をあゆみつつ)わしは産まれた。そして太陽の光を浴び、大気を呼吸して生きている。ほんとに私は生きている。見よ。あのいい色の弓なりの空を。そしてわしのこの素足がしっかりと踏みしめている黒土を。はえしげる草木、飛び回る禽獣、さては女のめでたさ、子供の愛らしさ、あゝ わしは生きたい生きたい。(間)わしはきょうまで さまざまの悲しみを知って来た。しかし悲しめば悲しむだけ この世が好きになる。あゝ 不思議な世界よ。わしはお前に執着する。愛すべき娑婆(しゃば)よ、わしは煩悩(ぼんのう)の林に遊びたい。千年も万年も生きていたい。いつまでも。いつまでも。

前半で地上で生きることの素晴らしさを列挙し、後半では悲しみは様々にあるが、
「しかし悲しめば悲しむだけこの世が好きになる」と人生への愛着を述べている。
つらいこと悲しいことも人生の味わいの一つ。艱難を乗り越えるのは貴重な経験。
信仰や救いには関心がなくても、この“人生賛歌”には大抵の人が共感するだろう。

                 

●「顔蔽(おお)いせる者」すなわち仏(神)が登場して、人間が死ぬ理由を述べる。
顔蔽いせる者 死ぬのは罪があるからじゃ。罪のないものは とこしえに生きるのじゃ。「死ぬる者」とは「罪ある者」と同じことじゃ。
人間 では人間は皆 罪人だとおっしゃるのでございますか。
顔蔽いせる者 皆 悪人じゃ。罪の価は死じゃ。(消ゆ)

「罪の価は死」は聖書のローマ人への手紙6:23にある言葉だ。アダムの犯した原
罪は子孫全員に遺伝され、人はみな個々に罪を犯していると聖書は主張している。

                 

●場面変わって第一幕。左衛門宅で、親鸞と弟子一行が一夜の宿を乞うと・・・
左衛門 (親鸞の言葉には耳を傾けず)あなたがたのなさる説教というものはありがたいものですな。おかげで世間に悪人がなくなりますよ。喜捨、供養をすれば罪が滅びると教えてくださるので、皆 喜んで米やお金を持って行きますでな。お寺は繁盛いたしますよ。すわっていて安楽に暮らして行けますよ。善い事をすれば極楽に行けるとはありがたい教えでございます。ところで あいにくこの世の中は善い事ができぬようにくふうしてつくってありますでな。皆 極楽参りができますよ。はゝゝゝ。
親鸞 そのようにおっしゃるのはごもっともでございます。

この世は善いことができない仕組みになっているのに、宗教は有難い説教を教え
て寄付を受け取るだけで問題点を改善してない、と左衛門は宗教の弱い点を突く。
理性で考えれば“むべなるかな”と思える話なので、親鸞は穏やかに肯定している。


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●宗教の嫌いな左衛門は、女房のお兼に、自分の人生観を語る。
左衛門 (飲み飲み語る)わしは悪人になってやろうと思うのだ。善人らしい面をしているやつの面の皮をはいでやりたいのだ。皆うそばかりついていやがる。わしはな、これで時々考えてみるのだよ。だが死んでしまうか、盗賊になるか、この世の渡り方は二つしか無いと思うのだ。生きてるとすれば食わねばならぬ。人と争わずに食うとすれば乞食をするほかはない。・・・乞食もできないとすれば、むしろ力ずくで奪うほうがいくら気持ちがよいか知れない。どうせ争わねばならぬのなら、わしは慈悲深そうな顔をしたり、また自分を慈悲深いもののように考えたり虚偽の面をかぶるよりも、わしは悪者ですと銘打って出たいのだ。

左衛門は言う。この世は弱肉強食だ。死後の神罰がないなら、ひとを押しのけて
生きていくのは賢明で合理的な生き方だ。だから、せめては善人面などしないで、
悪者として生きていく…。これはいわゆる小市民的な偽善のない快楽主義だろう。

                 

●親鸞は、いや、地獄はあると左衛門に説明する。ここは非常にいいところだ。
親鸞 私は地獄がなければならぬと思います。その時に、同時に必ずその地獄から免れる道が無くてはならぬと思うのです。それでなくては この世界がうそだという気がするのです。この存在が成り立たないという気がするのです。私たちは生まれている。そしてこの世界は存在している。それならその世界は調和したものでなくてはならない。どこかで救われているものでなくてはならない。という気がするのです。

人間の倫理観は、悪人が罰を受ける地獄があるのは当然と考える。だがその同じ
倫理観は、この世界は調和しているので、どこかで救われていなければバランス
が取れないと考える。この鳥瞰的な公正感覚は善良さを信じる心から生じている。

                 

●さらに親鸞は、地獄があっても、人が救われるワケを説明する。
親鸞 善くならなくては極楽に行けないのならもう望みはありません。しかし私は悪くても、別な法則で極楽参りがさせていただけると信じているのです。それは愛です。赦しです。善、悪をこえて働く力です。この世界はその力でささえられているのです。・・・これまでの出家は善行で極楽参りができると教えました。私はもはやそれを信じません。それなら私は地獄です。しかし仏様は私たちを悪いままで助けてくださいます。罪をゆるしてくださいます。それが仏様の愛です。私はそれを信じています。それを信じなくては生きられません

善人でなければ極楽に行けないのなら人には救いがない。だが親鸞は、仏の愛は
善と悪を超えている罪を赦す力だ、私はその無条件の愛を信じる、信じなければ
生きていけない、と述べている。この信仰は愛を信じる心の上に成り立っている。


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        ____________________


私バーソは、人を裁く神から、人を咎めない神に信仰方向を転換しました。

神や死後の世界については、在ると思える論理的また物理的な根拠があり、
むしろ無いとする根拠のほうが薄いと思っていますが、
根拠や証拠が有る無いの話よりも、
そう信じることは心地いいから、
そう信じることは自然だという感覚も自分の中にあります。

なんにせよ、犬死や徒死にはならないだろうから、
間違いであっても別にいいという思いもまたありますね。


(次回の後編に続く)



補足―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※人を裁く神は宗教が教える人格神です。人を咎めない神は、精神世界が教える無条件の愛の神です。
 人が自由意思を与えられているのなら、人を造った神が人の選択と行動を咎めるはずはありません。
 画像はフリー画像(Pixabay)を借用しています。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――





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信仰

バーソ様
おはよう御座います。

人間は生きるためには食べなくてはなりません。動物であれ植物であれ生あるものを殺して食べているわけですから生きているだけで罪を犯していることになりますね。
親鸞のいうような心の広い仏様でなければ人類を救うことなんて出来ません。
私のような深く物事を考えたこともない人間は救ってもらおうとも考えたこともありませんのでそのような宗教も不要です。
ところが死んだら人並みにお墓に入りたいですし供養もしてもらいたいです。この気持ちは一体なんなのでしょう。信仰ではなくて見栄なのでしょうか。

愛新覚羅

2018/11/03(土) |URL|aishinkakura [edit]

一読? ム、ムリです!

一読を勧められた『青空文庫』でしたが、
途中、(o´_`o)ハァ・・・。
バーソ解説がはるかに判りやすくて。(笑)

戯曲『出家とその弟子』に聖書との共通点を見つけるなんて、
バーソさんにしかできない技ですよねぇ。
『青空文庫』風だと、核心にふれるまでにギブアップしそうです。

>神や死後の世界については、在ると思える論理的また物理的な根拠があり、
むしろ無いとする根拠のほうが薄いと思っていますが…

ワ~ォ!
『垣間見る死後の世界』風に言えば、
『バーソ流/垣間見る核心』バンザ~イ\(^o^)/

2018/11/03(土) |URL|風子 [edit]

Re: 信仰

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
 殺生は悪事なので蚊一匹でも殺してはいけないとする宗教がインドのほうにありますが、生き物を殺していいのかどうかというのはけっこう難しい問題ですね。
 人間に害になれば殺してもいいという《合理的》な考え方もあれば、牛や羊は殺してもいいが、イルカやクジラは殺してはいけないとする《感情論》的な考え方もあります。
 害を出すものは一切いけないのなら、炭酸ガスを出し、メタンガスを出し、糞尿を出し、憎しみや怒りの言葉を出し、生きものを殺すのをゲームとして楽しみ、不都合なら仲間の人類を平気で殺めている人間が最大の害でしょう。
 なのでここで求められるのは《バランス感覚》じゃないでしょうか。何事も極端な思考はしないほうが、まあ、リーズナブルじゃないかと思います。

 大抵の日本人は進化論を信じる無神論者だと思えるのですが、人が死んだら墓に入れて供養をする宗教行為が当たり前になっているのが面白いと思います。たぶん長年の慣習でしているというのが最大の理由で、あとは潜在的に死後の命を漠然と信じているのかもしれないと思っています。

 我が家は夫婦とも死んだら献体することに決めていて、だいぶ前から登録してあります(→篤志解剖全国連合会)。死んだら肉体は単なる物体ですし、供養しないと魂があの世でさまようなどとは全然思ってないのと、それが最後のご奉公だと思っています。

2018/11/03(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 一読? ム、ムリです!

風子さん コメントありがとうございます^^)
 一読、ちょっと無理でしたか。ひょっとしたら、ここが私とちょっと違う点ですかね。風子さんの神信仰(スピリチュアル)は、科学的かつ物理的な根拠の上に成り立つものでしょうかね。そうであれば、まずは一般宗教のまずは信じることから始まる《信仰》による神信心とは、同じ見えない世界を信じているのですが、その理由なり根拠がだいぶ違っていそうです。

 ですが、じつはと言うか、私もまったくそうなんですね。以前、信じていなかったキリスト教を信じるようになったのも、科学的かつ合理的に神信仰を教える珍しい教団に出遭ったからです。

 年末になると街頭でよく聴こえてくる宣伝文句「信じなさい、信じるものは救われる」は、正統派キリスト教の基本的な考え方ですが、私が知った異端教団は、ただただ信じなさいとは言わず、まずは《正確な知識》を得ることを強調していて、だから信者になる前に、信じられる科学的かつ道理的な根拠をずいぶん学びました。あの教団ほど熱心に勉強をする教団はないと思います。
 
 ですが、それゆえにと言うべきか、私は、素直に信じる神信仰を持っている人をリスペクトする傾向がありますね。疑わずに信じる心を持つ人は、たいしたものだと思います。倉田百三はそういう純粋な信仰を持っている人ですね。
『出家とその弟子』は26歳のときに書いたのだそうですが、自分のその同じ年齢のときを考えれば、また自分の現在の年齢を考えると、まあ百三さんは凄いひとだなあと瞠目してしまいます。共通点を強いて言えば、若いときに肺結核をしたことですが、当時はいい薬がなかったのですね。

2018/11/03(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

初めてコメントさせていただきます。

今回の記事や、いくつかのバーソさんの記事を読んで、バーソさんが極めて理性的に、神や死後の世界に到達するための地図を記していく、ある意味気が遠くなるような作業を行っているような、そんな印象を受けました。

けれどもバーソさん自身はむしろそうあることで救われているような、心地よくあれるような心境の中で、着実に、地道に、そこに向かって歩まれているのかなと、そんなことを思いました。

そして同時に、過去、信仰とともにどうにか神を形にしようと象られてきた、あらゆる精緻な宗教芸術のようなもを連想しました。



ぼくの場合、もしかしたらバーソさんとは反対の経路をたどりながら、今の道を歩んでいるのかなと、ふと、思ったんです。

そもそもぼくは本を読むことや、論理的な思考が苦手な人間で、今もそれは変わらないのですが、地図など持たぬまま、先に事故的に直感的にとらえてしまった(とぼくが勝手に確信する)神というものを、どうやって論理的に説明すればよいものか、ぼくが直感知したものと、一般的な人とを繋げるための、それまで馴染のなかった橋(論理)を、手探りで、足場から固めていってるような、そんな感覚で今のブログを書いてます。


>なんにせよ、犬死や徒死にはならないだろうから、
間違いであっても別にいいという思いもまたありますね。

この感覚は、ぼくもよくわかります。
死への恐れがなく(痛いのは嫌ですが)、いつ死んでも後悔はないという思いが、直感的事故体験を経て以降、ずっとあります。
仮にぼくが間違っていたとしても、それならそれで構わないのです。
最善は尽くしますけどね。
じゃないと、つまらないですもん。


記事とは関係がないようなコメントになってしまい、
申し訳ありませんでした。

2018/11/03(土) |URL|友資 [edit]

Re: 初めてコメントさせていただきます。

友資さん コメントありがとうございます^^)
 まあ、ずいぶん身に余る評価というか過分な好意的感想を書いていただき、恐縮しています。それにしても物事をずいぶんよく考えていますね。そのことにも感心しました。

 拙ブログのカテゴリの中では、スピリチュアル的なものは「ちょっと精神世界的」という、「ちょっと」を付けた控えめなものしかないのですよ。他は雑多な話ばかりなんですね。そのちょっと精神世界的な記事にしても、無神論のひとやスピリチュアルのひとを対象者にして書いているというよりはむしろ、既成の宗教にまだ救いを求めているような人(特に私が以前いた教団の信者)を意識して書いているようなところがありますね。

 長年、聖書伝道をしてよく分かったことは、人はみなが《人生の真理》を探し求めているわけではなく、大抵の人は自分の好きなことを信じて、自分の好きなことをしていて、それを変えさせられたくはないと思っていることです。だから一生懸命に話し合いをして、説得しても、他のひとの意識なり考え方を変えさせるのは非常に難しいということも身に浸みて分かりました。

 しかし山の頂上に至るにはいろいろな道と方法があって、時間的に遅い早いはあっても最後はみな何らかの形で頂上に至るのだろう。だとしたら、人は各々自分の思いたいように思ったらいい、生きたいように生きたらいい、ひと様に迷惑を掛けず、あとで悔やみがないのならそれでいい、人生とは結局はその個人個人の範疇のことで、その人にまかされているのだから、と思うようになりました。これは言い換えると自由意思の尊重であると言えるかもしれません。
 むろん何かの言葉などで、少数でも誰かが新しい視点や思考を持つきっかけになれば、それはそれで非常にうれしいことなのですが。

 友資さんは、私バーソとは「反対の経路をたどりながら、今の道を歩んでいる」のですか。「事故的に直感的にとらえてしまった(とぼくが勝手に確信する)神」を論理で説明するためにブログを書いているのですか。
 うーん、そういうことが出来る人は凄いなあと思いますね。そういう感覚と思考を持てているのは、おそらく先天的な要素がかなり大きく関係しているのじゃないでしょうか。生まれながらに子供の頃から、こういうことに関心があり、それが続いていて、その芽がいま結実しているのじゃないですかね。

 友資さんの「アースフルネス」。よくこんなことを思いつくものだと感心します。ちょっと読んだのですが、また何度も読み返してみたいと思いますね。

2018/11/03(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

ハゲに毛が無く刷毛に毛があり

例によって『出家とその弟子』を読みに青空文庫に
行ってきましたが、けっこう長編だったので今回は
バーソさんの注釈を頼りにします。
>この世は善いことができない仕組みになっているのに、宗教は有難い説教を教えて寄付を受け取るだけで問題点を改善してない

現在の宗教の中で信者に金をせびらない宗教ってあるんですかね。
私は無宗教ですが生活の場では神道(半分仏教に飲み込まれていますが)に
左右されることが多いですね。神社に行ったり、自然に対して畏敬の念を持ったり
現世利益を願ったりとかね。お賽銭も少額ですしね。(笑)

>親鸞は、仏の愛は
善と悪を超えている罪を赦す力だ、私はその無条件の愛を信じる、信じなければ
生きていけない、と述べている。この信仰は愛を信じる心の上に成り立っている。

親鸞って読んだことがないですが、感動的な言葉ですね。
わかっていても赦しができなくて前に進めないことがよくあるんです。
憎しみのトゲが刺さったままで抜けないのです。

「生まれ変わり」とか「死後の生」とかの本を読むと死への恐怖が
なくなります。でも死の苦しみは死ぬほど怖い。(笑)

2018/11/03(土) |URL|エリアンダー [edit]

Re: ハゲに毛が無く刷毛に毛があり

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
 旧約聖書のモーセの律法の一つに「脱穀している牛にくつこ(口を覆う器具)を掛けてはならない」とあります。家畜は懸命に脱穀している穀物を幾らか食べたいという欲望に苦しめないようにするための愛ある律法でした。
 新約の使徒パウロはこれを引用して、「いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者(教会の伝道者)が望みを持って耕し、脱穀する者(伝道者)が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです」と言っています。
 
 なのでキリスト教の信者は本来はみんな伝道をする義務があるのですが、その神の仕事に専属で従事する人(牧師や宣教者)のために、その費用を信者たちがまかなうのは当然のこととされています。(私のいた教団では牧師クラスはみな自分で働いて自分の生活をまかなっていました。むろん信者は、本部のほうには寄付を毎月定期的にしていました)。
 イエスも弟子たちを伝道に派遣するときに「働く者が食べ物を受けるのは当然である」と言いました。イエス自身も一銭も持たずに各地に伝道して歩きましたが、そのときは裕福な女性が何人も一緒に歩いてイエスの暮らしを応援したと書かれています。いわゆる追っかけがいたのです。

 ところが問題は組織が大きくなると、必ず上層部に金に汚いやからが出てきて、うまい汁を吸おうとするのですね。隣国の大統領はほぼ全員が後で牢屋入りをしていますが、宗教組織の場合はそれが公に露呈しないだけという場合が多いのではないですかね。

 悪人のほうが救われるのだとする親鸞の教え。ご承知のように、親鸞のいう「悪人」とは、煩悩具足(キリスト教で言う罪びと)の私たちです。自分では自分を救いようがないので阿弥陀仏が救ってくれる第一対象(正機)となるのですが、親鸞のいう「善人」とは自分は善い人間だと思っている人のことなので、ゆえに他力の心が薄く、阿弥陀仏の救いの第一対象ではないのですね。これはキリスト教と似ています。
 とかく宗教に救いを求める人は弱い人間だと言われますが、そうであっても謙虚な人間なんですね。そして自分より大きなものを信じる心は非常に強いのですが。

 ここで精神世界の教えとの違いになりますが、精神世界には「救い」というものがありません(有るとするスピリチュアルも一部にあり、浄化が必要だとか言いますが)。
 人は救われる必要が無いのは、そもそも人間は悪人とか善人とかに分別されておらず、死んだら天国行きと地獄行きとに分けられてないからです。全員がいわゆる天国に行くとされています。なぜかといえば死後の世界には天国だけしかないのですから。臨死体験でもみな、そういう天国のような光景を見たと言いますね。

 宇宙の根源(創造者/サムシンググレート)は、人間を倫理的に自由な者として造ったとされています。であれば、人間は自由意思を持つ者ですから、これをしたら罪になって悪人だと決めつけられ、死後に罰を与えられることもないのですね。
 この公園はどこで遊んでもまったく自由ですよと言っておきながら、芝生に入ったら叱るというのは矛盾しています。神や仏が無条件の愛であるなら、人間には自由意思を与えているはずであり、そうであるなら個々の人間を善人と悪人に分けたりするはずもないのです。

 宗教は悪を定義し、悪を犯した結果(神罰)から逃れるために、善行をしなさい、自分たちの宗教に頼りなさい、寄付をしなさい、そうすれば救われますと言っています。これは神を愛のないものとしていて、神を侮辱する行為なんですね。特に、これを買えば救われると称して免罪符とか高価な壺を売りつける宗教商法は、嫌悪すべきもの、唾棄すべきものです。

2018/11/04(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2018/11/04(日) || [edit]

犬死と言うととても情けなくて惨めに聞こえますが、現実の死はそんなものであろうと思います。
ところが人は死に意味を持たせ、死を美化しようとします…それは人の弱さであり、現実からの逃避なのでしょう。
為政者はそんな人の心理を巧みに利用して、特攻兵に「君の死は無駄ではない。必ずお国の役に立つ」などと死を美化します。
また聖者の教えを利用し「天国に行ける」などと言って民の統制を図ります。今アメリカの中間選挙で盛んにやってますが(笑)
しかし、先頃105歳で亡くなった有名な医師・日野原重明先生が最期に病床で吐いた言葉こそが嘘偽りのない真実だと思えます。
医師でもありあれほど長生きしてもやはり死は怖いのです…どう意味を取り繕おうが美化しようが、人にとって、死は避けて通れぬ悲劇でしかありません。
死の恐怖を誤魔化す為に、或いは野望や都合から死を美化したり利用したりする者は、自らが死に至った時に逆に死に逆襲されます。

2018/11/04(日) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)
 犬死とは言うが、猫死とは言わない。犬は猫よりずっと忠実なのに、役に立たないことの譬えで使われていて、かわいそうなものです。

 人間の死はどんな場合に犬死か。joさんに関連して思い出した例を言えば、分厚い鉄筋コンクリートで造った丘の上の堅固なトーチカ群に、単発式歩兵銃に銃剣を付けて全員突撃せよーっと命令されて突っ込んで行ったら、待ち構えていた敵兵から機関銃弾を雨あれれと浴びせかけられて何個中隊全滅、それでもまた同じ命令が繰り返されて、また何個中隊全滅、なのにまた同じ命令が繰り返されて何個中隊全滅・・・というようなケースの死を「お国のための死」と美化されても、まあ、「犬死」と思いますね。勇気と忠誠心は強くても馬鹿な上官の下にいたら最悪です。

 しかしながら平時では「犬死」という事例をちょっと思いつかないですね。世の中に何も貢献しないで死んだようであっても、芥川の『蜘蛛の糸』の大泥棒のように、一匹の蜘蛛の命を助けたことがあるかもしれないわけで、「犬死」という死に方は普通はまず無いのではないでしょうか。そう思わないと自分自身がみじめになるようなハンディを持つ人たちもいそうですし。

 かの一休和尚も仙厓義梵も臨終の時に「死にとうない」と言ったそうです。神父が強盗に銃を突きつけられて、「静かにしないと天国に送ってやるぞ」と脅されたら、「それだけは勘弁してください」と言ったという話もあります。誰でも貴重な今の命を失うのが嫌なものです。

 私も死は一番怖いですが、でもその怖さは以前よりはだんだんと、そしてずいぶん減りました。そうなれたのは、聖書を学んで有神論者になれたことと、精神世界を知って宇宙の真理を知ったと思えたことが大きいですよ。
 つまり必要な霊的知識を知ったと思えたことに加え、信仰によってそれを信じることができるようになったのが自分にとっては幸いなことでした。

 死後に地獄が無いことは道理から考えて明白です。では天国は有るのか無いのかという点についていえば、無いとしても元々で、有るとしたら儲けもの。こんなうれしいことはない。というような話をパスカルが死の間際にある友人に語った話はよく知られています。

 死後の命について全く信じない人は、自分の存在が無になるのが怖くないのでしょうかね。全く無いと言いきれるひとは強い人ですね。たいしたものだと思います。私なんかだと、もし死後の命の希望がないなら、死んだら墓の中で蛆虫に食われるだけ、あるいは焼かれて灰になってしまうだけ、なんて思うだけで怖ろしくてたまりません。

2018/11/04(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

もう、バーソさんときたら

 毎度毎度難しいお題ばかり並べたてやがりくださいまして、レポートを提出する方の身にもなりやがってくださいませってなもんですよ。しまいにゃ「おいしいカレーの作り方」を提出してまいますよ。まったくもう。

 で、「罪の価は死」って、随分無茶苦茶言うじゃあーりませんか。暴論ですよ、暴論。その理屈ではキリストも罪人、マリア様も罪人。映画レッドブルじゃないけれど、「俺の犯した一番の罪を教えてやろうか?生まれて来た事さぁぁぁ」となりますぜ。とするとだよ、罪を生んだのは神様となる訳で、一番罪が重いのは・・・神様やんけぇぇぇぇ!!なんだ、神様こそ牢屋にぶっ込まなならん奴だったのか。納得。
 そもそもね、何かを食べると言う事は殺すと言う事なのですよ。肉食動物が他の動物を捉えて食べるのに何の呵責を感じますか。そういう生き物なんですからしょうがない。それが罪だと何を以て言えるのか。いや、そもそも論なら草食みの牛馬だってしっかり植物殺してますやん。それを指して罪だなんて、言ってて虚しくないですか。死は生の一部でありまして、一部の人に「罪」と称されるものは所詮生きる事の一部なのであります。責めたってしょうがない。
 まあしかし、人間には社会を構築する上でのルールってものがありますから、それを逸脱したらそれなりの応報があるのは覚悟してもらわんと、こっちとしては危なくてしょうがない。そこで与えられる死なら罪の価として間違いはないですがね。
 人に限らず、存在するものは総て何時かは消えるものであります。この広い宇宙でさえ、始まりがあり、終わりがあります。そこには善悪など無く、ただ在るがままに在るがままの事象が存在するだけです。神なるものがいたとして、それすらも所詮その一部に過ぎない事に気づくべきなんじゃなかろうか。

 ・・・こんなもんでどうでやんしょ。え゛、落第?・・・。

2018/11/07(水) |URL|miss.key [edit]

Re: もう、バーソさんときたら

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
 あらまあ、すこぶる多忙な状況下にありそうなのに、またまた長文レポートで痛み入ります。それにしても、毎回毎回よくそんなにスラスラと書けるものです。え? スラスラじゃない? でも書き出したら筆が止まらないのでしょう。

 で、「罪の払う値は死」ですが、救い主イエスが罪びとであっては困るので、だからマリアは聖なる処女だったという《マリア無原罪の御宿り》の教理になり、ゆえにカトリック教会ではマリア(像)も崇拝するのですね。

> 死は生の一部でありまして、一部の人に「罪」と称されるものは所詮生きる事の一部なのであります。
 ん、なるほど。この前半の「死は生の一部」。これはなかなかピリッとした鋭い言葉じゃないですか。確かに「死」も、誕生と同様「生」の一部であり、人生の一部ですね。
 この「原罪」の教理を考え出した人はすごく頭がいいですよ。原罪がないと、オレは罪なんか犯した言葉ないぞと堂々と言える人が世の中にはけっこう多くいて―――たぶん真面目な小市民的な一般の人はみなそうでしょう―――そういう人は教会に来なくなる。そうなれば寄付がかなり減る。それでは困るので、《人類みな罪びと》ということにしたのではないかと思われます。

 そうした人は使徒パウロという人物ですが、この人は生前のイエスに会ったこともなく、十二使徒の一人でもないんです。しかしユダヤ人のラビで有名なガマリエルという学者に学び、ローマの市民権も持っていて、キリスト教の教理のほとんどはこの人が作っています。だからキリスト教はパウロ教だと言う人もいます。なおイエスはキリスト教徒じゃないですから。

 ただ、面白いのは、この人は何かの教理をひとに言うときは、霊感によって書いているときとそうでないときをきちんと分けて、「これは主(イエス)からの導きによって書いているのではなく、私自身の考えだ」とちゃんと断っているのですね。
 そういうわけで聖書は「聖書全体は霊感によって書かれている」ことを主張していて、だから信じるに値するということになっているのです。「霊感」という言葉は重いんです。この摩訶不思議な現象を人は信用するのです。

> 間には社会を構築する上でのルールってものがありますから、それを逸脱したらそれなりの応報があるのは覚悟してもらわんと、こっちとしては危なくてしょうがない。そこで与えられる死なら罪の価として間違いはない
 これは私もそう思います。口には出せないような残忍極まる極悪非道なことをして、なおその犯人の命を護れというのは考え方は、犯人への愛はあるようですが、被害者と遺族への愛が足りず、そもそもの考え方が非常に不公正でバランスが取れてないと思いますね。
 先進国では死刑は廃止されているとよく言われますが、ところがあちらのほうは簡単に警官が犯人を射殺します。容疑者が逃げるだけで背後から何発も撃たれる場合もあります。すなわち裁判なしの私刑が日常的に平気で行なわれているのですが、それは話題にされません。

> 人に限らず、存在するものは総て何時かは消えるものであります。この広い宇宙でさえ、始まりがあり、終わりがあります。そこには善悪など無く、ただ在るがままに在るがままの事象が存在するだけです。神なるものがいたとして、それすらも所詮その一部に過ぎない事に気づくべきなんじゃなかろうか。
 ううっ、これはまさに「金言」の領域。非常にいい言葉です。私としては、首肯、同意、賛意、共感、まったくその通り。なにも付け加えることはありません。
 ただ、あえて言うならば、私なら「神も事象の一部」と言うよりは「事象も神の一部」と言いますが。
 
 あ、次週も後編が続きますから、その節は「おいしいパスタ」でも何でも結構ですよ。

2018/11/08(木) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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