「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 「原罪」の教理はエゼキエル書の一つの聖句から論破できる。 


 かつて聖書の伝道中に、居合抜きで負けたことが一度あります。

 ある秋の日、神社の境内の奥で、細い体つきの六十歳ぐらいの婦人が竹ぼうき
で落ち葉を掃き集めていて、こちらを一度チラッと見ました。
 神主の奥さんだなと思ったので近づいて、十秒か二十秒か話し掛けるタイミン
グを見計らっていたら、黄色いイチョウの葉が一枚ひらひらと落ちてきて、その
人が物静かな顔で、ほうきの先を見ながらポツリと言いました。
「無常ですね」
 言葉自体は月並みで、どうってことないのですが、私は話し掛ける意欲が萎え、
黙って礼をして静かに引き下がりました。機先を制され、精神的に負けたのです。

 しかしそれ以外では、家の人と話し合って理屈で負かされたことはないですね。
地元では、他の宗教の幹部、強固な無神論者、牧師や宣教者、大学の神学教授と
も論じ合ったことがありますが、返り討ちにあったことは一度もないです。※1

           eze11.jpg
 
 しかしじつは、聖書伝道者を沈黙させることができる必殺の言葉があるのです。
 そんな切り札というか、妙手というか、殺し文句となる聖句を一つ紹介します。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――
エゼキエル18章20節は「子は親の罪を負わない」と明記しています。

罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである」――――旧約聖書 エゼキエル書 18章20節

「罪を犯した本人が死ぬ」とは、《人が罪を犯して罰で死ぬべき場合は、他人で
はなく、本人が死ぬ》という意味ですが、ここで注目すべきは、その続きにある
子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない」というフレーズです。

 現代の法律でも、親が罪を犯したときに、子が裁判を受けることはありません。
子が罪を犯したときに、親が刑罰を受けることもありません。どの国も同じです。

 有名な「目には目を」の言葉も、犯罪者が故意に誰かの「目を害したなら(裁き
人は当人の)目のみを害せよ」という意味の公正の律法です。だから目以上に鼻や
耳までも害してはならず、まして当人の親や子供までも罰してはならないのです。

          ee44.jpg

 同様の言い方をすればエゼキエル18:30は「親なら親を、子なら子を」となり、
罪を犯した《当人だけ》に罪の報い(罰)を公正に負わせよと言われているのです。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ところが、このエゼキエルの聖句と矛盾するのが「原罪」の教理です。

「原罪」とは、人類の先祖アダムが、禁断の木の実を食べて神に罪を犯したので、
その子孫も遺伝的に罪を受け継いでおり、人はみな生まれながらに罪びとである
という基本教理です。すなわち《父の罪を子が負っている》とする教えです。※2

 アダムは故意に罪を犯したので、罰を受けて死ぬのはいいとしても、その子孫
までも罰を受け継いでいるなら、神の裁きは不公正で、不条理で、非常におかし
いのです。そんな神は愛が無く、陰湿で、底意地が悪いということにもなります。

 つまりこの聖句は、キリスト教の「原罪」の教理を完璧に否定しているのです。

           eze33.jpg


 それで伝道者が訪ねて来たら、エゼキエル書を開いてもらい、こう訊ねます。
エゼキエルの18章20節には、《子は親の罪を負わない》と書かれていますね。
ところが『原罪』の教理は、《父アダムの罪を子孫である全人類が負っている》
という考えです。どちらが正しいのでしょう?
※3

 この質問は彼らには想定外であり、おそらく絶句してしまうはずです。
 聖書は神の言葉で自己矛盾がないはずであり、もし「原罪」がなければ、イエ
スの死は「贖(あがな)い」のためではなく、無駄に死んだことにもなるからです。

 これは伝道者をいじめるための嫌味な質問ではなく、虚構の教えの夢から覚め
てもらうための親切な質問ですから、穏やかに訊ねてみることができるでしょう。

          eze22.jpg

       ____________________

 人は生まれながらに罪びとであるという教えは、好ましいものでしょうか。
 いいえ。それは人に罪悪感を持たせ、救われるためには教会に通い、献金と善
行を喜んで行ない、神とイエスだけを信じ、忠節に生きよ・・・となるものです。

 善行の部分は善いものですが、しかし「原罪」の教理は教会を利し、神を悪者
にする部分が大きいとは思いませんか。そして、それだけでなく、むしろ人から
自由な考え方と生き方を奪うというマイナス面が非常に大きなものなのですね。

 これはイエスの言葉です。
「真理はあなた方を自由にするであろう」――――ヨハネ福音書8章32節


 宗教や哲学思想、またスピリチュアルは、自由へと人を解き放つべきものです。
 根拠のない教理や規則、観念、慣習に縛りつけるなら、それはまやかしです。




補足――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1:知性的な人とは真摯に論議ができるのですが、私が理屈で反論すると、それには答えず、他
の論議に移っていく傾向が困りました。宗教に凝り固まった人は感情的に、すぐこちらを、邪教だ、
悪霊だと ののしり出すのにも困りました。しかし私は、ののしり返したことは一度もありません。
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※2:東方教会には「原罪」の教理は無いので、この論議は通じないかもしれませんが、彼らには
戸別に伝道する意思と習慣が無いので、家に来ることはありません。東方教会とは、ギリシャ正教
・東方正教会とも呼ばれ、コンスタンディヌーポリ総主教を名誉的なトップとし、グルジア正教会、
ブルガリア正教会、ロシア正教会、セルビア正教会、ギリシャ正教会、ルーマニア正教会、日本正
教会といった諸々の独立正教会・自治正教会が連合体を形成しているそうです。(Wikipediaより)
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※3:エゼキエルの18章20節は、「エゼキエルは十八、二十歳(はたち)の若者だ」と覚えられます。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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しびれる『無常』

ほうきの先を見ながらポツリ…『無常ですね』。
それに対してバーソさんが無言で立ち去る。
これは宮本武蔵の世界を連想させますねぇ。
“気の勝負”を感じる、いい話です。(笑)

聖書の矛盾点を突く、聖書伝道者を沈黙させることができる
必殺の言葉について、苦い経験があります。

若いときに聖書を独学。
その最中、統一教会の人から勧誘され、
その聖書の矛盾点を突いたのですが……。
厄介なことに、その人は自分で聖書を読んだこともない。
先輩教徒の受け売りをそのまま発信するタイプで、
確かめようとする意欲が皆無。
バリバリの盲信者だったんです。

エホバさんとも、その点を討論しましたが、
まるで『本日の話』……。
穏やかな微笑みを浮かべて『………』でした。

>救われるためには教会に通い、
 献金と善行を喜んで行わせる。

なにが恐いって、自分では学ばずに組織に依存する人たち、かもですね。

それにしても、この度の神父たちの破廉恥歴史。
偽善どころか、聖書と信者への冒涜です。
これを機会に、信徒も目を覚ましたらいいのですが…。
どっこい、依存癖って、なかなか治らないですよねぇ。(^_^ ;)

2018/08/25(土) |URL|風子 [edit]

論争嫌い

バーソ様
おはよう御座います。

今でこそ犯罪者の親族に罪は及びませんが大名が滅ぼされるときなどは親族を皆殺しにしてあだ討ちもさせないようにしていましたね。
平清盛が頼朝に情けをかけてしまって自ら滅んだのがいましめになっているのかと思いきや洋の東西を問わず同じようなことをしていたようですね。
私は頭が悪いので言い争いが苦手です。でも仕事で討論になれば参加しない訳にはいきません。相手が一理あると思えば相手を常に尊重してきました。絶対に間違っていると思うときだけは我を通しました。
言い争いで相手を論破するのは後味も良くないので好みません。

愛新覚羅

2018/08/25(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: しびれる『無常』

風子さん コメントありがとうございます^^)
 そうですか。風子さんは理論派で、弁舌も巧みですから、相手はさぞかし困ったでしょう。統一教会の会員は聖書を読んでなかったですか。教祖の文鮮明は地上に再来したメシア(キリスト)と自称していたそうで、どうも異端と呼ばれるキリスト教の信者はみな、イエスや聖書の教えよりも教祖や教団の教えに心酔し、依存しているところがありそうですね。

 エホバの証人は組織の中枢メンバーを「油注がれた残りの者」と呼んで、イエスから直接任命された特別な級だとして非常に尊んでいます(私は例外的に違いましたが)。信者は聖書自体はあまり読んでないですが(私は5種類を全巻読んでいます)、ものみの塔協会の出版物は非常によく読んでいますね。
 モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)は、教祖が啓示を受けたとする「モルモン書」が経典で、たぶん聖書よりも信頼しているのではないでしょうか。

 モルモン教徒とは二度ほど会ったことがあります。一度は、真面目そうな白人の若者二人連れが、我が家で40人ぐらい集まって夜7時から家庭集会をしていたときに訪問して来たので、その旨を告げたら、2時間後ぐらいに再訪問して来ました。
 彼らは黒人を差別した歴史があるので、「神は人を偏り見ない」という聖句を引いたら、それは「nowhere」だと言いました。いくら論議しても結論はどこにも無いという意味らしく、要は答えることができなかったのですね。紅茶を出したら、カフェインは飲まないと言われ、この点はエホバの証人より厳格でした。
 もう一度は、自由が丘で、若い女性の白人二人連れから街路伝道をされました。「We are Jehovah's Witnesses」だと言ったら、「がんばってください」と言われ、握手をされました。
 彼らもキリスト再臨派で、至福の千年王国を説いており、キリスト教団の中では信者が伝道を行なっている希少の教団で、彼らには親近感を覚えたものです。

 信仰というのは強い信仰と盲信と妄信は紙一重のところがあり、信じ込むと他のものが見えなくなりますね。いまはインターネットが普及していますが、昔は情報源が全然なかったので、比較検討する術(すべ)が全くなかったですよ。むろん今でも凝り固まっている人は、ネット情報などは、この世の神「悪魔」の罠だとして信用していませんが。

 神父たちの破廉恥歴史については、じつはエホバの証人の海外では結構あって、裁判で億単位の賠償金を支払わされている事例があるようです。抵抗できない子供相手ですから、まったくもって酷い話です。

2018/08/25(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 論争嫌い

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
 親や主君の仇を討つことを美談とする話は結構ありますね。そのために子供や家臣が自分の命を懸けたり、貴重な人生の大半を費やしたというのも哀れな話です。

 初夢に見ると縁起が良い夢を「一富士、二鷹、三なすび」と言いますが、これは「三大仇討ち」のことだという説があるようです。
 1.「曾我兄弟の仇討ち=富士の裾野で巻狩りが行なわれた際に仇討ちを行なった」、2.「赤穂浪士の討ち入り=浅野家の家紋は丸に違い鷹の羽だった」、3.「伊賀越えの仇討ち=伊賀国はなすびの産地として知られていた」のことを言った。

> 相手が一理あると思えば相手を常に尊重してきました。絶対に間違っていると思うときだけは我を通しました。
言い争いで相手を論破するのは後味も良くないので好みません。

 そうですか、さすがですね。穏やかで、相手を気遣って、立派な態度だと思います。確かに論争で勝っても後味が良くないと、いい心地はしませんね。

 私も普段はまず論争をしないですね。誰かが言った意見に、それは違うと思っても、だいたい黙って心の中に収めておくほうです。
 しかし伝道のときは話は別です。伝道はイエスに命じられた神の仕事をしているのであり、真の神はエホバであると証言をしている(だからエホバの証人と言います)という強い責務感があったので、会う人から異議を言われたときは、会えたときが滅多にないチャンスですから、論理的にその反論をきちんと述べるようにしていました。
 
 むろん自分の意見や考えを否定されると、余計ムキになったり、怒り出す人が多いので、そこはまず相手をよく褒めてから、同意できる点には同意し、それから傷つけないように穏やかに、こういう考え方もあるのではないかという言い方で自分の論議を述べるようにしていました。でも、そうやって論争できる人はじつに有難い人なのです。大抵の人は無関心でしたから。

2018/08/25(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは

私の好きなジョーク、
ある日、政治学のクラスで教授と学生の一人がが激しい議論を始め、
言い合うにつれてますます話が紛糾していった。
そのうち突然、学生は教授が自分の側にまわっていることに
気づいて自信たっぷりにこう言った。
「でも先生、先生は今、ボクの側に立って論じていらっしゃるじゃありませんか」
わかっている」と教授は答えた。「キミの側が形勢不利だからだ」

「無常ですね」・・・まるで手練れの剣士の間合いを見るようです。
打ち合わなくても相手の力量を推し計って「参った」ですね。

バーソさんを味方につければどんなディベートにでも勝てそうです。
いつだったか山本七平氏が、「相手を言い負かすことはできない。
こちらが反論すれば相手はそれに延々と再反論してくるから」と言った
ことがあります。尖閣や竹島問題でも何度も見た光景です。

一週間ほど前、郵便受けに手書きで
「一度お会いしてお話ししたいです」と書かれた紙片が郵便受けに
入っていました。どきっとしてよく見るとエホバの証人でした。
訪問に対して今後は聖句と原罪の矛盾を持ち出してみましょうか。
エゼキエルと言えば、私はエゼキエルの車輪(UFO)を思い起こします。(笑)

2018/08/25(土) |URL|エリアンダー [edit]

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2018/08/25(土) || [edit]

Re: こんにちは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
 教授が理論で学生に負けるのは立場上、困るでしょうね。こんなことを言う教授はアメリカ人でしょうか、うまく切り抜けようとした言葉が負け惜しみのジョークになっています。

 私は聖書以外のディベートは自信がないですね。知らない分野が多いのです。ただ、勝てるコツは一つあるように思います。それは、方広寺の鐘に彫った「国家安康」という文字に徳川方から難癖を付けられて言い訳できなかった事例もある通り、相手の攻撃(難癖や言いがかり)に弁明や反論をするのはかなり難しいので、それよりは相手の弱点を突くほうが良いということです。

 例えば相当に昔のことで、しかも確たる根拠もないことをネチネチとオーバーに言いつのって、謝罪と金銭を何度も要求し、自分たちのコンプレックスを解消し、優越感を得ようとするようとする相手には、まずはその確かな根拠がないことを具体的に反論することが重要ですが、それをなぜか妙に遠慮していると、相手は効果があったと思って、ますます調子に乗ってきます。私は別に右でも左でもないですが、非難が不当なものならば誠実に論理的に反論をすべきなのに、それをしないでいるのはじつに不思議なことだと思いますね。むろん、もし事実なら、もっときちんと謝罪すべきですが。

 それよりも相手の弱点―――例えばある国は、近隣の弱小国家を虐げてきたことや、自国の大規模なデモを制圧(おそらくは相当数を抹殺)していながら、そんな事件はなかったと言い、Googleでは検索できないようにしていること、またもっと昔には自国民大量粛清の歴史もあった―――そんな恥ずべき不祥事の事実を、相手がこちらを攻撃するたびに、こちらも毎回毎回声を大きくしてアピールするほうが効果的だと思いますね。相手は、自分が言われたくなかったら、こちらのことを言わなくなるでしょう。
 
 勝負は相手の土俵ではなく、自分の土俵でしたほうがいいですね。アントニオ猪木は寝技とプロレス技を封じられたためにモハメド・アリに勝てず、借金をして高額のファイトマネーを支払ったという事例もあります。古い話ですが。(笑)

 エゼキエルの聖句はぜひ試してみてください。どう弁明するか、知りたいです。

2018/08/25(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

「無常ですね」…確かにそう言われると論破しようと目論む事自体が空しいですね(笑)
キリスト教と仏教では原罪と罪の解釈は異なります。戦後外交でよく問題になる日本軍の所業を例に、仏教における原罪と罪の違いを説明してみます。
日本人が普通の暮らしを捨てて戦争に邁進していた時代「立派な兵隊さんになれ」と言われて育った若者は、召集されて戦地に行きました。
そこで若者は敵兵を殺し、住民から食料を奪い、女性を犯し、老人や子供を虐殺しました…周りの兵士もそうだったので、若者はそれが当たり前だと思っていました。
戦争に負けると若者が正しいと思っていた事は全て犯罪でした。若者は罪を背負って裁判で裁かれ、戦犯として処刑されました。
近年、外国から責められるのが嫌な子孫達は「自分達は何も罪を犯していない。なぜ先祖の事で責められなきゃならん。いっそ、全てを無かった事にしよう」です。
この場合、仏教では若者に罪を犯させた悪い民族性や好戦的な国家のあり方、そんな環境で育ってしまった事を「宿業」と言います。
そして、その間違った「宿業」に染まって犯してしまったあやまちを「罪」と言います…罪はそれを犯した個人が贖う事になります。
しかし幾ら個人を裁いても、個人を悪に引き入れた「宿業」は残っています「宿業」を断ち切らない限り、子孫は同じあやまちを繰り返すのです。
つまり、仏教ではキリスト教の原罪に当たるものを、民族や国家、社会などの集団の中にある悪を引き起こす原因として捉えます…集団的な「宿業」が基になって、そこから個人の罪が生じてくると言う考え方に立ってますね。

2018/08/25(土) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)
 私は、政治や近代史のことはあまりよく知りません。政治は悪魔サタンの一番のツールであると聖書から学んだので、二十代のときから政治のことにはずっと関わらないようにしてきました。
 ですが、私としては珍しいことに、ちよっと長めに自分の考えを述べたくなりました。joさんの考え方を否定するための反論ではなく、joさんを誠実で謙遜な人だと思って信頼しているゆえに安心して書きますので、どうかくれぐれも気を悪くすることなく読んでください。
 
------------------------------------------------------------------
 日本のことを悪く言う人は、昔の日本軍が侵略戦争で悪いことをしたから悪いと言います。これは確かにその通りでしょう。いろいろ悪いことをした兵隊もいたでしょう。
 ただ、侵略と言うなら、かつて東南アジアはみな英仏蘭葡などの植民地でした。インドも清国も英国のいいようにされていました。そのときには大勢の人が血を流し、苦しんだはずです。そして白人が黄色人種をどのように扱ったかは言うまでもありません。アメリカ人はアフリカ人を奴隷にして悲惨な目に遭わせ、いまだに黒人蔑視は残っています。

 そしてついでに念のために言えば、南京大虐殺と従軍慰安婦で「何十万人」が虐殺されたとか被害を受けたと言われる数字は、道理から考えても到底あり得ない数字で、私の知っている限りでは、その数字には著しい誇張と悪意のプロパガンダがあると思われます。その物証は皆無のはずで、むしろ反証のほうが多いと思います。
 戦後、捕虜の英兵にゴボウ料理を出しただけで木の根を食べさせたとして罰せられた日本兵はいましたが、極東裁判では慰安婦のことは話題にも出なかったはずです。また当時は公娼制度があり、自らそうなった女性たちは日本兵の三倍ぐらいの収入があったという証言もあります。
 しかしもし事実だったとの確証があるのなら、日本政府はもっときちんと謝罪と対応をすべきですが。

 とかく侵略戦争というのは悪事が付き物であり、結果的に何らかの良いことがあったとしても、そのような悪行は決して許されるものではないことは言うまでもないことです。

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 キリスト教の「原罪」は、神が罰として子孫にも罪を受け継がせたという考えで、非常に不条理かつ不公正な考えです。
 仏教の「宿業」は、以前(または前世)に行った善悪が原因となり、後の結果として良い事や悪い事が現れてくるということで、俗に「親の因果が子に報う」と言われます。因果応報とか原因結果論のことですから、実際にそういうことはあると思います。

 しかし一般通念的また法律的に言えば、《子は親の罪を負わない》というのは真実の原則であることはもっとよく認識されるべきことです。それは宗教・思想に関係なく、民主主義社会の世界普遍的共通の原則なのですから。

 戦後70年以上たち、もう世代は完璧に入れ替っています。昔の日本軍は悪かったとしても、今もなお日本人全体が倫理的・法律的に悪いとは言い募るのは道理にかなったことでしょうか。
 仇討ちが正当だった武士の時代に、親のかたきを討つために、そのかたきの子や孫までも執念深く憎み続けたという人がいたなら、美談として語り継がれることはないでしょう。
 二度も世界大戦を起こし、二度目にはユダヤ人の大虐殺を命じたヒトラーを選んだのは当時のドイツ国民だから、ドイツ人には宿業があり、今でも悪い悪いと言って、いまだにドイツ国民を非難し続ける人がいたら、普通はかなりおかしい人間だと思われるはずです。

 親の世代や親の親の世代のほとんどの人が軍の命令でやむなく(あるいは、それが正しいと教育されて)したことを、今の世代の人がいまだに問題視し、怒り、恨み、引け目を感じるのは、まあいいとしても、日本人は今でも悪い悪いとしきりに言い募るなら、それは《子は親の罪を負わない》という公正の原則に反しており、しかも自虐趣味の領域に入り掛かっているとも思えるのですが、どうでしょう。いや、これはちよっと言いすぎかもしれないですね。そうではなく、ただただ強い正義感ゆえなのでしょうね。失礼しました。

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> 個人を悪に引き入れた「宿業」は残っています「宿業」を断ち切らない限り、子孫は同じあやまちを繰り返すのです。
 そうですね。何にせよ罪の大元の原因は排除したほうがいいというのは確かにその通りかもしれません。トイレの消臭剤のCMで「悪い臭いは元から断たないと駄目」というのが昔ありました。
 
 しかしながら、この地球は二元性の原理で成り立っている惑星です。暑さと寒さ、喜びと悲しみ、楽と苦、黒と白、明と暗、上と下、右と左・・・と何でも対照的なものが存在しています。
 「上」に昇るためには学問が必要だと言ったのは福沢諭吉です。みんな等しく「中」にしようとしたのが共産主義で、それはかえって別の種類の上下の身分差を作りました。
 とかく左の人は右を嫌います。右の人は左を嫌います。しかしながら猛暑や極寒だけの気候が極めて暮らしにくいのと同様、極右だけや極左だけの社会もまた、考えるだけでも怖ろしいものです。

 日本を好戦国家にしたくない気持ちはよく分かりますし、共感できます。しかしながら極端な思考を持つ人たちは、古今東西いつでもどこにでも必ずいて、今後もいなくなることはないでしょう。
 今の日本人の中に《個人を悪に引き入れた「宿業」は残っている》としても、それはごく一部のはずで、大勢を占めることは無いと思うのですが、どうでしょうね。
 自衛隊員の数がどんどん減少しているそうです。今の若者の多くが(中高年も)喜んで武器をもって戦地に行くとは考えられませんし、そういう好戦的な法律が出来るとも思えないのですが。

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 世の中にはいろいろな考え方があります。でもその中から自分で良いと思えるものを選択して、他のひとの意見も尊重し、争わないようにしていけば、この地球上で人は何とかいいバランスで生きていけるようになっていると思うのですが、どうでしょう。私は、そのバランスの妙を自由に味わうのが人生だろうとも思っているのです。

 もし、悪いものを元から断固断とうとすると、暗殺や無差別テロやクーデターが起こり、それが拡大すると内乱や戦争になります。ハト派の平和志向は良いものですが、タカ派の平和運動は怖ろしいことになりがちです。

 最近の調査では、日本人の75パーセントが生活に満足しているそうです。今の世の中は悪すぎるから、そして宿業が残っているから、日本人の心の中に不平や不満が鬱積していて、そのうちもっと危なくなる、というような状況ではなさそうじゃないですかね。
 戦争が好きな日本人がいたとしても、ごく一部の人たちだけでしょう。そういう人たちがネットでいろいろ書いている(だけな)ので、ネットを見ている人には目立っているだけじゃないですかね。

 繰り返しますが、悪いのは、昔の日本軍と政府や学校やマスコミなどが悪かったのであり、その責任は彼らの特に上層部にあります。そしてその軍関係者の裁判は戦後すぐに行なわれて終結し、各国への謝罪も賠償も公式に終了しています。

 むろん日本兵の個々の悪行はいろいろあったでしょう。その後、ヴェトナムでは米兵や韓国兵も同様のことをしたようです。私は軍隊の階級を利してパワハラが平気で行なわれることや、兵隊による婦女暴行などの悪行が大嫌いで、強い嫌悪感を感じます。戦争というのは、本当に普通の人をも残虐にするところがあり、怖ろしいものですね。

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 いまの日本人は、世界の中でもかなり考え方や生き方が穏やかで、倫理的・道徳的にはかなり良いほうではないですか。その証拠の一つに、あの311の大災害があったときに、コンビニから盗みをしたりしなかったので世界から称賛されたのじゃないですか。おもてなしという言葉は日本人の心として世界から認知されているのじゃないでしょうか。
 
 自国の領海(本当は日本の領海)に入ってきた日本船がいれば、ロシアは発砲し、船員を射殺し、拘留し、船を没収し、賠償金を取ります。ところが日本は今までそういうことをしたことが一度もないでしょう。外国の地で不買運動を起こされても、大使館や商業ビルを壊されても、日本政府も日本人も何も仕返しなどしていません。
 
 日本人は世界の中でも一番非戦的かつ厭戦的な国民で、和を尊び、他者を恨まず、それどころか、すぐ諦め、許すことをする珍しい国民性を持っていると思っているのですが、違うでしょうか。
 東京を無差別大空襲され、広島・長崎を原爆で破滅させられても、いまだにアメリカ人を恨んで怒っている日本人はほとんど皆無だと思うのですが、どうでしょう。いや、そうではなく、いまだに「宿業」が強く残っていて、それはまだ危険な病原なのでしょうかね。

 台湾は日本が統治し、日本語を習わせ、改名させることまでしました。しかも戦時中に戦った人々は蒋介石のほうの中国人でしたが、彼らは今はかなりの日本贔屓です。311の時も一番援助をしてくれたのだそうです。東南アジアでは、中韓の二国以外はほとんどが日本贔屓です。むしろその二国のほうが嫌いな国とされ、評判が良くありません。その二国以外の国は、過去を忘れて未来に進んでいっています。

 これもついでに言えば、半島では、北からかつてはソウルまで攻め込まれ、それ以降も時々砲弾を撃ち込まれ、自国民を拉致され、旅客機を爆破され、しかもその国のリーダーは自分の兄を暗殺し、親せきまでも平気で粛清する人物ですが、それでも今では南の大統領以下、国を挙げてその北の国と仲良くしようとしています。
 そのように過去を憎まない性質は持っているのですから、それを隣人の日本にもぜひ適用してもらいたいと思っています。日本では韓流ブームも起きたことがある通り、ほとんどの日本人は彼らを毛嫌いする感情など持っていなかったのですから。私にも韓国人の知り合いが何人かいますが、みないい人ばかりです。

 人が人を悪く言い続けて、互いが良い関係になることはありません。過去をいつまでも引きずっていると、進歩や幸福はありません。もっと個々の人が愛の精神を抱き、寛大に許すことをし、世界がもっと平和になるといいですね。
 これもついでに言うと、高率な関税を各国に不当に吹っかけて気軽に経済戦争を起こす大国の横暴は困ったものです。

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 以上、私の意見に同意してほしいので書いているのではありません。私はブログでは「考え方はいろいろあるから面白い」と標榜している人間です。別に怒ったりはしないので、反論してくださっても別にかまいませんが、論争が長引いて険悪な関係になるのは困ります。それに大体が、私にはそれができるほどの知識を持ち合わせてもいないですしね。

 そもそも、今回のテーマはキリスト教の「原罪」の話であり、旧日本軍の話ではありません。ほう、バーソはそう思っているのか、と心に留めるぐらいにしていただけると有難いですね。^^)

2018/08/26(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

食う事が罪ならば私は罪人である

 え゛ー、わたくしめが良まれてこの方奪ってきた命は如何程のものか、考えただけでも気が遠くなります。
 わたくし、肉が好きでして、鶏肉、豚肉、牛肉、羊肉、魚も蛸も烏賊も貝も兎に角たくさん食べてまいりました。特に鶏のから揚げ、鯛の刺身は大好物であります。で、その肉を得る為にはお命頂戴いたしませんと行けない訳で、そりゃあもうどれだけ恨まれてる事でしょうか。
 え?何も生きてるのは動物だけじゃない?ごもっとも。わたくし、ご飯もパンも蕎麦も大好きでして、その他にも芋、トウモロコシ、葉物、根菜、数えられないほど食べてきました。特にパンには目がなく、そりゃあもう、どれだけ恨まれても反論できません。
 え゛?動植物だけが生き物じゃないって?全くですな。私、ヨーグルトとかチーズ、味噌醤油などの発酵食品も大好きでして、キノコなんかもしょっちゅう買ってきては食べています。特にキノコとチーズの乗っかったピザなんてあった日にゃLサイズ二枚は一人で行けます。一回に何百億の大虐殺であります。もし東京裁判だったら百回は死刑確実の案件であります。考えるだに恐ろしい。
 生まれちまったもんはしょうがない。生きていくしかない。でも食わなきゃ生きていけない。食う為には殺さんとあかん。うーん、その罪の重さは考えたら押しつぶされそうであります。
 が、生きている以上、食べたい。旨いものを食べたい。たらふく食いたい。しょうがないよね。本能ですから。そういう訳で原罪なんざクソ食らえ。キニスンナ、ショウガナイ、アキラメロの世界三大原理ですべて乗り切るのであります。
 今日も旨い物を食べるんだぁぁぁ。しょうがないよね。
 だって人間だもの。みつを。

2018/08/26(日) |URL|miss.key [edit]

Re: 食う事が罪ならば私は罪人である

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
 食べ物の話で、人間はたくさんの動植物の命を奪っていて罪深い、東京裁判ならば死刑確実だ、ああ人間の原罪は怖ろしやという話ですが、しかしそれは生きていくうえでしょうがないのだ、みつを。という深遠な主張のようですね。

 確かに地球上では、人間が一番エゴで、一番恐ろしい生き物なのでしょう。ところが人間は自らを万物の霊長と思っているので、それは当然だと思っています。これは進化論的な適者生存の考え方で当たり前と思われているようですが、ところが聖書の見方も面白いですよ。

 BC2370年、地球上を覆ったと言われる大洪水の水が引いて、一年後にノアたちが方舟から出てきたとき、地球には植物がなかったせいでしょう、神は初めて肉食を許可しています。ただし、まだ血(命)が残っていて生殺し状態で食べるのは(かわいそうだから)、血を完全に抜く処理をせよと条件が付されていますが。

 旧約時代は、大量の牛や羊が神殿で神に捧げられました。犠牲にされる動物の数は毎年、雄牛113頭、雄羊32頭、子羊1,816匹にもなるそうです。祭壇の近辺には、さぞかし血生臭い匂いが充満していたと思われます。https://barso.blog.fc2.com/blog-entry-29.html#more

 新約時代には、ペテロが「捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物」てなことを言っています。つまり聖書は、家畜は殺してもいいと言っているのですね。まあ、元々イスラエルは放牧民の出身ですから当たり前なんでしょうが。

 一方、厳格な仏教では、殺生はいけないので蚊一匹でさえ殺さないそうです。
 また一般には、わが身を傷つける自傷行為はいけないとも言われます。これを厳格に考えると、髪の毛や爪を切るのもいけないのかということになります。これは原理主義という思考で、何でも極端に陥るとおかしなことになる見本のようなものです。

 クジラを殺すと、それを極悪人のように言う人がいます。ところが、その人はたぶん血の滴るビーフを喜んで食べているのです。もしクジラ肉が牛肉より美味であれば、西欧人は間違いなく食べていいと言うだろうと思いますね。

 スピリチュアルでは、動物の肉を食べることをあまりよく言いません。人間は死肉を食べていると非難されます。私は、その言葉を聞いてから、肉をあまり食べたくなくなりました。しかし野菜ならいいのかと言われれば、野菜にも命があり、それなりの意識があるはずです。ここが問題になりますね。

 しかし前述の髪の毛や爪を切ることは別にかまわない話と同様、人間が生きていくうえでやむを得ない殺生は許されると考えるのは、おそらく中庸なバランスの取れた考えなのでしょう。

 いや、肉は食べたくないというベジタリアンは、そうしたらいいと思いますし、そうでない人は、そうでないようにしたらいいと私は思っていますが、ただし獣や鳥を「狩り」のゲームとして、銃や矢で殺すのはどうかと思いますね。魚を釣って放すのも、魚君のほうはさぞかし口に針が刺さって、振り回されて痛いだろうと心配します。

 映画『ベイブ』を見てから、豚肉はあまり食べたくなくなった・・・ことはありません。(笑) ここが矛盾ですね。人間は勝手なものです。それでも許されているのですから、妙なものですね。

2018/08/27(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2018/08/27(月) || [edit]

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2020/01/18(土) || [edit]

Re: タイトルなし

[太字]鍵コメさん コメントありがとうございます^^)

 聖書の神は罪深いというのは記事にしたことがあります。
 https://barso.blog.fc2.com/blog-entry-29.html
 ですが、おそらくは創造者に関する最初の真実の情報がだんだん捻じ曲げられ、特に支配者にとって都合のいいように変えられたのだろうと思っています。良い教えの中に、妙な男尊女卑のような教えが混在しています。

 よく旧日本軍は悪いと言って、いまの日本人も悪いと言い張る人がいますが、昔も今も白人種に比べればかなりマシです。白人は後ろめたいので日本人の悪を課題に言うのはまだ分かるとしても、日本人が日本人のことを不当に悪く言うのは理解できません。不当にというのは、事実でないことを事実だと根拠を捏造してまでも言うことです。それは正義感どころか、犯罪です。
 
 スピリチュアルの人は、嘘やレッテル貼りが多く、傲慢な人がいるというのは分かります。宗教にもいますから。宗教の場合は未熟な人ですが、ひどくなると表面の自分と内面の自分と二種類の顔を使い分ける偽善者になります。
 ちょっと自分の頭脳や才能や知識が高いと、愚かな人はすぐ誇り、偉そうにしたがります。才能や頭脳がない人が階級制の上に立つと、傲慢尊大がひどくなります。パワハラはそれが原因で起きます。人間は自分を高めたいんですね。他者を低めたいんですね。会社でも何でも階級制がある所では、上に立つ人で謙遜な人は極めて少ないと思います。

 もし他者の意見や主張が間違っていると思ったら、それだけを指摘すればいい論議ができるのですが、相手の人格まで攻撃するのは、結局は真理に関心があるのではなく、相手を低め、自分を高めたいことに関心があるのです。将棋をしていて負けると将棋盤をひっくり返すようなひとは、将棋のゲームを考えることが好きなんじゃなく、相手を打ち負かすことが好きなんですね。返信が遅くなって、すみません。また何でも感想を書いてくださいね。(^^)

2020/01/19(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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