「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 『最後の晩餐』は、ルネサンスの人間性尊重思想を示す。(後編) 


前回は『最後の晩餐』の絵には十二使徒の中に女性が描かれていることを考えた。

イエスの右隣(向かって左隣)にいる人物は、使徒ヨハネではなく、絵を見ても分
かる通り《女性》であり、マグダラのマリアらしいことを聖書から解き明かした。


『最後の晩餐』のジャンピエトリーノの模写 (※レオナルドの制作助手であった可能性がある)
mosya11.jpg
二人の間には大きなV字型のスペースが空いている。聖書的には二人は密着しているはずだが。


なぜレオナルドは、使徒ヨハネの定番位置に、マグダラのマリアを描いたのか?

中世ヨーロッパでは、教会が巨大な権勢を握り、民衆や国王さえも牛耳っていた。
人間は原罪を有し、罪を犯しやすい。罪をつぐない、悔い改めてイエスを信じよ。
教会に十分に寄進せよ。そうすれば生者も死者も救いを獲得できると教えていた。

人生を閉塞させる思想に反発したのが、人間性解放の新思想運動『ルネサンス』。
ヨーロッパ最大の富裕財閥メディチ家の莫大な私財が学問・芸術とフィレンツェ
の活発化のために用いられ、新プラトン主義が奨励され、商業も非常に繁栄した。

人は明るく楽しく生きていいはずだ。文芸爛熟した古代ギリシアの時代に戻ろう。
プラトンの素晴らしい時代に戻ろう。それが理想の生き方だと大いに唱道された。


kaisy4.jpg
上絵と同じくジャンピエトリーノ画の『悔悛するマグダラのマリア』


教会は男尊女卑であり、男の僧職者が教皇や神父として《神の座》に座っていた。
イエスの「愛した弟子」は男性でなくてはならず、女性であっては不都合だった。

ルカ福音書7章36-50節には、イエスの足を香油で拭いた名もない娼婦が出てくる。
ローマ教会は、マグダラのマリアはこの娼婦と同一であり、「罪深い女」とした。
意図的に彼女のイメージをおとしめ、自分たちの権益と名誉を護ろうとしたのだ。

そんな人間性を無視した教会の独善専横に、レオナルドは抗議し プロテスト たのではないか。
元娼婦であっても、心が清い女性なら、イエスの真正の弟子であっていいはずだ。
イエスは神に匹敵する存在ではなく、人の子であり、普通に結婚していいはずだ。
だから慣例である頭上の光輪は描かずに、背後の窓上部の半円で表したのだろう。

それでレオナルドは『最後の晩餐』の中の使徒ヨハネの定位置に、ローマ教会が
不当にイメージを落とした女性マグダラのマリアを意図的に描いたと推論できる。


elgrek12.jpg
エル・グレコ『悔悛するマグダラのマリア』(1585-90年頃)


しかし教会から厳しく咎められたら困る。当時は破門されるのは死より怖ろしい。
そこで、場合によっては使徒ヨハネを描き足すつもりで、イエスとマリアの間に
あの大きなV字型の空間を開けておいたのではないか(と思いついたのですが※)。

マリアは表情は控えめで、後ろに引っ込んでおり、前に一人描き足すのは容易だ。
女性は過ぎ越しの祭りの晩にろうそくを灯す役目で描いた、とでも言い訳できる。

この壁画は従来のフレスコ技法ではなく、卵を溶剤に用いたテンペラ技法で描い
たために気温や温度の変化に弱く、完成からわずか20年足らずで顔料の剥離が進
んだ。だがテンペラ画は描き直しが容易で、発色もきれいという利点があるのだ。


テンペラ画のマリアではないですが、個人的には、こんな顔がいいです。(^^ゞ
jdasu.jpg
イエズス・エンリケ・エミリオ・デ・ラ・ヘルゲラ・エスピノザ(メキシコの画家 1910-1971) 



以上、芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチの人間性復ルネサンス興思想というような話でした。
あれほど創意工夫と論理思考のある人が単なる写実宗教画を描くとは思えません。

私は使徒ヨハネが女性顔に描かれることだけは受け入れ難いので、彼の名誉のた
めにも書きました。マグダラのマリアとする根拠は下の《補足》もご覧ください。

ユダヤ人の男はヒゲを損なってはならないと律法で定められており(レビ19:27)、
ヨハネは漁師の出身で、イエスから「雷の子」と呼ばれたほど気性が激しくて、
何たってバーソの名は、十二使徒の一人バルトロマイの略称なのですから。(笑)



《補足》
●ダン・ブラウン著作『ダ・ヴィンチ・コード』では、この女性はマグダラの
マリアで、イエスの妻だったとされているが、そう思える聖書的根拠もある。

1)イエスは33歳半で、当時は妻帯が普通。独身だとする記述は聖書にない。
2)イエスの宣教中は、マリアは自分の持ち物を提供し、イエスに仕えた。
3)刑柱上でのイエスを、マリアはイエスの母たち数人と一緒に見守った。
4)イエスの墓が空で、遺体がなかったのを最初に見たのもマリアだった。
5)復活後のイエスに最初に会ったのもマリアだった。イエスから「私にすがりつくのをやめなさい。まだ父の元へ上っていないのだから」とたしなめられるが、マリアは生前のイエスの胸に抱きつく間柄であったことがうかがえる。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
※この絵にはレオナルドの暗号が隠されているという解釈がいろいろある。
(1)イエスとマグダラのマリアの間にあるV字型の空間は、マリアの子宮を意味し、二人の間に子供が出来ていたことを示す。(2)イタリア語で「勝利」は vittoria(ヴィットーリア)で、頭文字はVだ。(3)イエスと右側の三人の輪郭を見ればМの字であり、マグダラのマリアやマトリモニオ(結婚)を意味する。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
マグダラのマリアは、イエスから七つの悪霊を追い出してもらっているので、
神秘的な体験ができる体質であり、普通の女性とは少し違っていたようだ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
・マグダラのマリアの「マグダラ」は地名。マリア・マグダレンとも言う。
・現代では、カトリック教会、聖公会、正教会で「聖人」とされている。

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なるほど the バーソ推論

なるほど! 
『レオナルドの抗議説』はもちろんですが、
『V字型の空間』の秘密にも得心しました。
ダビンチほど感性の豊かな、創意工夫と論理思考に長けた人物を思えば、
バーソ説は説得力に満ちていますねぇ。

>①V字型の空間は、マリアの子宮を意味し、
 二人の 間に子供が出来ていたことを示す…。
②イエスと右側の三人の輪郭を見ればМの字であり…。

(・_・?)このダビンチコード解釈はどうでしょう?
V空間は嫌でも、その両隣にM構図を創るような……(^_^ ;)

ところでヘスス・ヘルゲラの絵は中間色の美しさに秀でてますが、
テンペラ画なんですか?
エキゾチックで品のある美女ですねぇ。

ともあれ、メディチ家の莫大な私財が学問芸術に寄与されたこと、
素晴らしいですねぇ。
そうでなければ天才レオナルドも埋もれたままだったかも。

2018/07/14(土) |URL|風子 [edit]

思い出しました

バーソ様
おはようございます。

ダヴィンチコードを思い出しました。それによるとイエスとマグダラのマリアの間は「V」ではなく「M」になっていたと思います。そしてこの絵のいたるところに構図的に「M」が仕組まれていたと思います。
但しそれがマリアの「M」だったのか、それ以上に謎があったのかは忘れてしまいました。バーソ様のブログを先に読んでいればもっと熱心に映画を観たのでしょうけど。

愛新覚羅

2018/07/14(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: なるほど the バーソ推論

風子さん コメントありがとうございます^^)
 ガッテンしていただけましたか。それはそれは、よかったです。
 《本当は面白い名絵の謎解き》のような話はよくありますね。特に中世ヨーロッパの絵は、ちょうど花言葉のように、モノにそれぞれ象徴的な意味が付けられているのですが、それを超えた解釈の場合は、ちよっと無理があったり、飛躍しすぎているように感じるときもありますね。『ダ・ヴィンチ・コード』の解釈まで行くと、私には少々眉唾系に感じます。むろん、このたびの私の解釈もちよっと思いついた程度の事なので、あまり本気にしてもらっては困ります。
 
 最近読んだのは、ゴッホが黄色を多用したのは黄視症だったという話ですが、他には「アブサン」というリキュール依存症のせいだとか、黄色は満たされることへの期待感だとか、いろいろあるようです。

 画家自身によると、自分はそんな評論家の言うようなことを意図して描いたのではないという意見も出たりして、絵の見方というのは面白いものです。私は美術館で絵を見るときは、必ず横の注釈文を読みますが、読んだほうが興味深くなりますね。

 ヘルゲラの絵は、どうしても文脈で見てしまうので、確かに勘違いされやすいです。なので《テンペラ画ではない》という注釈を追加しました。ありがとうございました。

 マリアの名画を探していたときに、じつは好みの顔というか、気に入った絵がなかなか無かったのです。でも、この女性の絵を見たときに、顔がイスラム系の美人で、コスチュームも昔のユダヤみたいだったので、これを使わせてもらおうと思ったわけです。バックにサボテンがあるのが難かもしれないですが、まあ、そこはご勘弁のほどをお願いします。

 他の人の益のために自分の資産を多く用いる人は立派ですね。尊敬します。

2018/07/14(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 思い出しました

aishinkakura さま コメントありがとうございます^^)
> イエスとマグダラのマリアの間は「V」ではなく「M」になっていたと思います。
 そうですか。よく覚えていますね。この絵のシンボリックな解釈はかなり多いようです。最後の晩餐、ダ・ヴィンチ、暗号、謎といった言葉で検索すると、いっぱいあるようです。
 なので、この《補足》の2番目の項目で3つ解釈を挙げたのは、その例であって、『ダ・ヴィンチ・コード』の本の解釈からだけではないのですね。

 ですから、太字の見出しは2つありますが、
 その1番目は、ダン・ブラウン著作『ダ・ヴィンチ・コード』では・・・と書いて、その本の話をしました。
 そして2番目の太字見出しには、※この絵にはダ・ヴィンチの暗号(コード)が隠されているという解釈がある。と書いて、1番目の段落とは分けて、一般的な解釈の説を述べたつもりでした。

 しかし「暗号」のあとにカッコで「コード」と付けたのが、『ダ・ヴィンチ・コード』の本のように見えて、よくなかったですね。なので「コード」の言葉を削除しました。良いご指摘をありがとうございました。風子さんからも他の点について助言をいただきましたが、こういうのを《校閲》といって、書いている者にとってはありがたいことです。

 映画『インディジョーンズ』でも、失われたイエスの聖杯を探すという話があり、なかなか面白かったですが、しかし聖書の話を神秘主義的に解くのは、どうも私には徳間書店が出しているオカルト本と同じように、面白半分・真面目さ欠如の話に感じます。

2018/07/14(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは

Ⅴ字型の空間の謎、面白い推理ですね。
あれがマグダラのマリアだとすると、時代から言って、
地動説であれだけ教会から叩かれたたガリレオの比では
ないほどの迫害を受ける可能性はあったでしょう。
だからV字型の空間を開けておいた・・・。
ダヴィンチの絵って描かれている下にも別の絵が隠れて
いたりします。
ひょっとして、もっと真正面に描いたマリアを、教会の非難を
忖度して隅に追いやったのかもしれません。(笑)
ジャンピエトリーノの「最後の晩餐」はダヴィンチに比べて
華やかでくっきりしていて驚きました。

2018/07/14(土) |URL|エリアンダー [edit]

Re: こんにちは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
> あれがマグダラのマリアだとすると、時代から言って、
地動説であれだけ教会から叩かれたたガリレオの比では
ないほどの迫害を受ける可能性はあったでしょう。

 そうだと思います。ただ、ガリレオの天動説否定は全能者なる神の否定のようですが、ダ・ヴィンチの場合は、使徒はどんな顔だったのかの違いだけのようにも思えます。むろんそれでも教会にとっては許せないことですが、しかしもう一つの言い訳として、ダ・ヴィンチの描く男はどうも女っぽいということもありそうです。

 たとえばダ・ヴィンチ晩年の作品『洗礼者ヨハネ』は、ほとんど女の顔です。これは1513年から1516年に制作されたもので、『最後の晩餐』はそれより20年近く前の1495から1498年に完成しています。
 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/
3/39/Leonardo_da_Vinci_025.jpg
 ひょっとしたら男を女の顔のように描いても、それほど違和感のない時代だったのか、あるいはダ・ヴィンチの場合には許容されていたのか。なんせミケランジェロも性的にああいう人でしたから。

 ところが聖書の記述はまるで違います。マタイ3:4
「このヨハネはらくだの毛の衣服を着け、革の帯を腰に巻いていた。その食べ物もいなごと野蜜であった。」


 この洗礼者ヨハネは十二使徒のヨハネとは別の人物で、この人は旧約の預言者エリヤと似た服装をしていました。町に住まず、野に住み、野心や金銭欲などとは全く無縁のボロボロの汚い服装で、人々に神の言葉を伝え歩いたのです。なので、ある意味、麻原彰晃をもっとスリムにして、顔を二枚目にしたような、もっと鋭角な男のイメージだったと思われます。

 洗礼者ヨハネは時の支配者の不倫を大胆に指摘したので、捕まえられ、最期は首を斬られますが、このことがへロディアの娘「サロメ」の話として絵画やオペラ、小説でよく知られています。なのに、なんで、こんな女の顔のように描くのか、そしてそれが許されるのか、不思議です。ダ・ヴィンチは教会に忖度し、教会側は巨匠に忖度したのでしょうか。ダブル忖度なら、これぞツーカーの仲ですね。(笑)

 『最後の晩餐』は何度も修復され、その技術もかんばしくなかったそうで、このジャンピエトリーノの模写がダ・ヴィンチの本物の絵を伝えているようですね。インド辺りの僧院の派手な色彩と同じで、中世ヨーロッパの絵も案外原色に近い鮮やかな色だったのかもしれないですね。

2018/07/14(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

現代のキリスト教会で使われている聖書には、古代オリエントには存在しなかった風習や慣習が多く含まれています。
これは、後にヨーロッパに移住してその住民となったゲルマン人にキリスト教を理解させる為、聖書をゲルマン化した過程を表しています。
顕著なのが女性の扱い方です…オリエントでは女性は人権や財産権(相続権)を持ちます。従って夫である王が没すれば、妃は女王になれます。
ところが古代ゲルマン社会では女性は男の持ち物(子供を産む道具)であり、人権はもちろんの事財産権もありません。極北の厳しい生活風土の中で男性戦士が女性を支配する男尊女卑社会であった訳です。
なお、女性を財産と見なして処女性を重んじる風習は近年までヨーロッパ社会に存在していました。
マグダラのマリアが娼婦だったり(その方がドラマチックに映る)マリアが処女受胎だったりする聖書の記述は、キリスト教がゲルマン社会の間に広まる過程で捏造されたものだと思いますね。

2018/07/14(土) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)
> マリアが処女受胎だったりする聖書の記述は、キリスト教がゲルマン社会の間に広まる過程で捏造されたものだと思いますね。
 私はかつては、聖書は神の霊感の書だと教えられ、百パーセント正しいと信じていました。保守的な根本主義のキリスト教信者なら大抵そう思っているはずです。
 しかし聖書に特有の奇跡めいた特殊な事柄は、たとえば聖母マリアの処女出産については、同じようなことが書かれている異教徒の宗教が聖書より古くからあるようです。モーセの律法についても、似たような記述がモーセ五書より古いハンムラビ法典にあると言われます。しかし特に倫理性と記述の純粋さが聖書の場合は他の経典とは断然違うと以前は思っていましたね。

 ところがキリスト教の教団も人間の組織であり、人間の組織であれば必ずと言っていいくらい自分たちの特権を護るためには、真実を覆い隠し、修正し、削除することをしていくものなのですね。なにしろ原本が残ってないので、内容が真実かどうかは信仰によるだけしかありません。

 組織というのは集まりの規模が小さいときは、その組織を始めた人たちの動機の純粋さが際立っていたとしても、規模が大きくなるにつれ、何よりも組織を護り、自分たちの権益を大事にすることが第一の目的になるのですね。
 それが政党であれば一党独裁になり、人間であれば独裁者になり、企業であればワンマン社長になり、そうなれば組織の下にいる者たちが自らの自己犠牲を覚悟した革命でも起こさなければ根本的な改善は難しくなります。

 最初は気の弱い人が権力を行使できる高い立場になると、必ず専横になり、他のひとへの愛や親切を忘れるようになります。組織と階級制というのは社会の必要悪のようなもの。いわば諸刃の剣であり、怖いものがありますね。お隣の大陸では終身独裁制度になったので、これからはもっと怖ろしいことになるか、あるいは割合早く自滅するかのどちらかになりそうじゃないですか。

2018/07/14(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

私の珍説

私が花も恥じらう女子高生だった頃、マグダラのマリアは娼婦だったと聞きました。
カソリックの尼さんからです。
聖書に出てくる有名女性が娼婦! すげえ。
好奇心おう盛な年頃ですから、マグダラのマリアの出てきそうな所を探して、聖書の飛ばし読みをしました。

娼婦と書いてあるところは見つからず、代わりに面白い事に気がつきました。
イエスの最晩年、重要な場面にちょいちょい出てくる。
ゴルゴダの丘にも居るし、なにより、復活の場面には彼女しか出てきません。
他の弟子たちは何日か後に現れて、棺が空なのを見て、イエスの復活を知った。
という表現だったと思います。
女子高生の妄想が炸裂しました。
もしかして、イエスの棺とは、マグダラのマリアのお腹なのではないのか。
イエスの子を身ごもっていたマグダラのマリアが出産し、お腹がぺちゃんのになり、二世として復活したということじゃなかろうか。
イエスとマグダラのマリアがデキテイタというのが不都合で、娼婦という話を流したのかも。
「ダヴィンチコード」が出版されるよりずいぶん前だったので、誰にも言いませんでした。

罰当たりな事に、イエスをネタにしてギャグ漫画を描こうとした時、父が「大きな宗教団体には、おかしなちょっかいを出すな。下手なことを言うと、狂信者にぶっ殺されるぞ」と警告したからです。

「ダヴィンチコード」のおかげで言えるようになりました(笑)

2018/07/15(日) |URL|しのぶもじずり [edit]

Re: 私の珍説

しのぶもじずりさん コメントありがとうございます^^)
> イエスの子を身ごもっていたマグダラのマリアが出産し、お腹がぺちゃんのになり、二世として復活したということじゃなかろうか。
 あははは、私は思ったこともない考えです。花も恥じらう頃は漫画も描いていたのですか。だからこんな発想が浮かんだのでしょうかね。
 それにしても赤毛のアンのように、いろいろ夢見る少女だったのでしょう。

 そうですね、結婚していたら妊娠してもおかしくないし、子供がいてもおかしくないですよね。むしろ子供がいない妻は、当時は一人前とは認められなかったようですから。
 ただ、イエスの宣教活動はわずか3年半なんですね。町から町へ、村から村へと、ずっとユダヤを泊まり歩いていて、マリアは、その間に知り合った女性ですから、事実上の結婚状態にあったとしても、子供は活動の邪魔になるので産まないようにしたかもしれないですね。

> 「大きな宗教団体には、おかしなちょっかいを出すな。下手なことを言うと、狂信者にぶっ殺されるぞ」と警告したからです。
 昔、S学会の会長の批判を書いた作家がずいぶん嫌がらせを受けました。著名な映画監督の自殺は他殺だという噂もあるようです。イスラムの悪口を書いた外国の作家には教団から殺害命令が出たこともあります。しかし暴力的な怪しいカルト教団を除いて、今の日本にそんな殺人をするほどの狂信者はいるのでしょうかね。オウムの残骸はそれほど心配しないでいいように思いますが。

 だいぶ以前、貼り薬のテレビコマーシャルだったかで「貼れるや」と讃美歌を合唱するシーンがありました。「ハレルヤ」とは「ヤハ(ヤハウェ/エホバ)を賛美せよ」の意ですから、まあ、よく教会から抗議が来ないものだ、その会社の宣伝部は常識に欠けていると思ったものです。宗教を嫌ったり信じないのは自由で別にかまわないのですが、その神をからかうのはやめたほうがいいと思いますね。

2018/07/15(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

何よ、もうしらないんだから

 マグダラのマリアさん、イエスさんがあんまり相手にしてくれないもので、隣に陣取りながらも体を離してボイコットの姿勢であります。イエスさんも売り言葉に買い言葉、わがまま言うならわしゃもう知らんでってな具合でそっぽ向いとります。ああ、夫婦喧嘩は犬も食わんでって、信徒の方々は心配げに二人を見ています。さて、この夫婦喧嘩の行先は・・・テーブルに並べられているのは神の味噌汁であります。ケッケッケッ・・・。
 しかしですよ、裏を返せば喧嘩するほど仲が良い。二人の位置関係を逆にすると、イエスさんに凭れ掛かるマグダラのマリアさんと、それを恍惚として見つけるイエスさんの姿が現れるのであります。もう、ごちそうさまやん。もうマグダラやのうてダラダラやん。あ、イエス様はデレデレですな。

2018/07/17(火) |URL|miss.key [edit]

Re: 何よ、もうしらないんだから

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
 例によって物事を裏返しに見ましたね。二人は夫婦喧嘩をしたので体を離している。他の者たちは二人を心配げに見ている。しかし二人の位置関係を逆にすると、本当は仲がいい。喧嘩したのはその証拠。だからイエスは恍惚の顔をしている。
 なるほど、イエスが裏切られて間もなく殺されるのを分かっているにしては、どうも顔がぼうっとニヤけていて、緊迫状況にそぐわないと思っていましたが、そういうことでしたか。その説明で、イエスの顔の奇妙さへの疑問が少しく晴れました。こう言っては何ですが、この顔は間抜けそうで、ひどいですから。イエスの良いイメージがくずれます。

 しかしmiss.keyさんに返コメを書いているうちに、イエスとマリアの体が離れている理由もわかりましたよ。二人の体が聖書の記述に合わせて密着して描いていたら、イエスの「愛していた弟子」とはマリアの事であると画家が明確に言っていることになり、それでは教会から厳しい追及を受けるのが必至なので、あえて体を大きく離して書いたのでしょう。これだけ大きなスペースを空けておけば、かなりはっきりと言い訳でできそうですから。

 してみると、レオナルドはかなり用心深かったと言えそうです。やはり相当に頭がいいひとなのでしょう。なので、この大きなV字型空間はレオナルドの「vittoria(ヴィットーリア)」すなわち「勝利」を表しているようだ、と一応ここでは判断しておきます。これは絵画に初めて登場した《Vサイン》ですね。

2018/07/17(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2018/07/17(火) || [edit]

とっても興味深いです。

どう見ても、バランス的に絵画として
あの空間は不自然ですもの。
アンバランスが、際立っています。
しかも中央で、堂々と不自然なアンバランスを
見せるところに
作者の意図が見え隠れするようです。

私は子供の時、この絵を見て、皆が名画というけど、もっとバランスよく人を配置したほうが、いいのになあと思っていました。

ダヴィンチは正直な人なのですね。
だから気持ちが、空間を作らせた。
ちょっと主張を描きたかったのかな。

2018/07/27(金) |URL|森須もりん [edit]

Re: タイトルなし

森須もりんさん コメントありがとうございます^^)
 子供の頃に、構図のバランスが悪いと思ったのですか。すごいです。私なんか財布を握っているユダの顔しか興味がなかったです。
 しかしこの空間は絵画的には不自然ですよね。なにかの意図がありそうです。

 この『最後の晩餐』の絵は、普通はイエスが刑柱に架けられる前の晩に弟子たちと共にした食事だと思われています。
 ところがイエスの右にいるのが十二使徒ではない女性の顔で、しかもイースト菌が入った膨らんだパンが置いてある(最後の晩餐はユダヤの過ぎ越しの祭りの食事で、その際にはパンにはイースト菌を入れないで焼くのです)ので、その矛盾を解こうとして、こんな説を述べる人もいます。
 つまり、この晩餐はイエスが復活したあとに弟子たちの家の中に突然現れたが、そのときの文字通り最後の晩餐シーンだ、そしてその後に昇天したというのです。
 
 そうならイエスの横にマグダラのマリアがいても別に問題ないですし、イエスの左で手を上に上げている男はトマスだとされているのですが、その行為もごく自然になるのです。というのは、この人は復活後のイエスに会ったとき、てのひらにクギの跡を見なければ私は復活なんか信じないと言った人だからです。

 ただしこの説の問題点は、裏切り者のユダが居ることです。ユダは最後の晩餐の食事中に外に出て行ってイエスを祭司長に銀30枚で売ったのですから、ここに居てはおかしいのです。
 なので、いろいろ意見があって面白い絵ですね。頭の上に輪がないのもレオナルドらしいような気がします。

2018/07/27(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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