「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 レオナルドの『最後の晩餐』には女性の弟子が描かれている。(前編) 


文化は過去を巻き戻しながら近未来を再生していく。
「ルネサンス」とはフランス語で“再生”とか“復活”の意だが、
なぜ、そんな復興運動が突然の嵐のように14世紀イタリアに起きたのか?

中世は、教会が巨大な権限を持っていたために、社会が暗く、閉塞していた。
そこで古典古代のギリシャ、ローマの文化が繁栄していた時代に戻り、
人間性を解放し、現世を謳歌し、個性を尊重しようとする機運が生じた。


レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に、そのアンチ教会の思想が見える。

下の絵は、イエスが十二弟子と最後の晩餐をした際、「あなた方の中に裏切り者
がいる」と述べた有名な場面を描いているが、単なる“写実的”な宗教画ではない。

Leo99.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ(1495-1498) 420×910cm サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院(ミラノ)

        ____________________


●この絵を「ルネサンス」の“抗議”プロテスト 視点で見ると、何が絵の中心点なのか分かる。
それはイエスでもユダでもない。イエスの右隣(向かって左)にいる“人物”である。


他の11人は「裏切り者がいる」と聞き、えっ、誰ですか?と衝撃を受けているが、
この人物だけが体を後ろに引き、表情は哀しそうで、その話を知っているようだ。
イエスとこの人物の間には、V字型の空間が奇異に感じるほど大きく空いている。

(中央部拡大)
Leon4.jpg
しかしながらこの人物の顔は、どう見ても女性に見える。男であればゲイボーイだ。

      ____________________


イエスの右隣に“女性の顔”が描かれたそのナゾ解きが、なかなか面白い。

 (ヨハネ福音書13章23節)
 弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。

当時の宴の食事は机と椅子ではない。寝椅子に左肘を掛け、寝そべったような姿
勢で、食事は右手でとった。だからイエスの「愛しておられた者」がイエスの胸
の近くにいたとは、座り姿勢を考えるとイエスの右隣(向かって左隣)にいたのだ。

  《参考:左肘をついて、なかば寝ているような姿勢で食事している》
  last-supper-1.jpg
  刺繍入り祭壇(1633年)


この人物は伝統的な見解では使徒ヨハネである。なぜならヨハネ福音書で「イエ
スの愛しておられた弟子」と言われるのは使徒ヨハネだと確定されているからだ。

 (24~26節a)
 それゆえ、ペテロは(イエスから遠かったので)、この愛されている弟子に、
 イエスは誰について言っておられるのかを尋ねるように合図(耳打ち)をした。
 その弟子がイエスの胸元に寄りかかったまま「主よ、それは誰のことですか」
 と言うと、イエスは「パン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。

ペテロが「愛されている弟子」に、裏切り者は誰かと聞いてほしいと言っている。
もしイエスの愛した弟子が使徒ヨハネなら、「イエスの胸元に寄りかかった」行
為は同性愛者のようでユダヤ社会では嫌悪されるが、女性ならごく普通の行為だ。


 (26b~28節)
 それから、イエスはパン切れを鉢に浸して取り、ユダにお与えになった。
 ユダがパン切れを受け取ると、サタン(の反抗精神)が彼の中に入った。
 そこでイエスは「しようとしていることを今すぐしなさい」と言われた。
 座に着いていた者は誰も、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。

イエスが「パンを与える人が裏切り者だ」と言ってユダに与えたのに、他の弟子
たちが、裏切り者はユダと分からなかったのは、ユダがパンを受け取るのがごく
自然だったからで、つまりユダはイエスの左隣(向かって右隣)に座っていたのだ。

絵の中では、ユダは、イエスの右側(向かって左)三人目の、右手で財布を握って
いる男だが、本当は(向かって)、愛されている弟子・イエス・ユダの席順のはず。

ユダはカリオテというユダヤの町の出身。イエス一行の金庫番をしていて、使徒
たちの中では重んじられていたが、他の使徒たちは地方のガリラヤの出身だった。

        ____________________


「愛された弟子」は「マグダラのマリア」で、その証拠がヨハネ19章にある。
これはバーソの新論証である(と思って念のために検索したら既にありましたが)。


ここは普通は、使徒ヨハネがイエスの母マリアを引き取ったとされているシーン。


iikiio2.jpg
マルコ・パルメザーノ『イエスの磔刑』(1490年)

 (ヨハネ19章25節)

 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアと
 マグダラのマリアとが立っていた。

この節では、イエスのそばにいるひとは、女性だけであることが述べられている。
男の弟子は誰も名が挙げられてない。なぜならイエスがゲッセマネの園で捕まっ
たときに、みんな逃げてしまったからだ。その後は恐れて、戸に鍵を掛けていた。

 (26節a)
 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、

前節では女性だけの中に「マグダラのマリア」がいて、ここでは「愛する弟子」
がいるのだから、「愛する弟子」はマグダラのマリアであるとしか考えられない。

 (26b~27節)
 母に、「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と言われた。
 それから(愛する)弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です」。
 そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

イエスは、母マリアと「愛する弟子」が義理の親子関係になるように言っている。
自分亡きあとの母親の老後を心配したのだ。そして「愛する弟子」がイエスの母
マリアを引き取っている。しかし引き取ったのは使徒ヨハネと考えるより、マグ
ダラのマリアがじつはイエスの婚約者だったからと考えるほうが素直ではないか。

そうであれば、イエスは死の間際に、母親の前で二人の結婚関係を宣言したよう
なもので、マリアはイエスの死を悲しみながらも、非常にうれしく思っただろう。


        ____________________

そういうわけで、レオナルドが使徒ヨハネのいる定位置にマグダラのマリアを意
図して描いたのは聖書的でもある。V字型空間も、しかるべき理由がありそうだ。

では、なぜレオナルドは、十二使徒の中に「マグダラのマリア」を描いたのか?
ここに「ルネサンス」の人間性復興、つまり反ローマ教会の思想が関係してくる。

この点は説明が長くなるので、次回の《後編》に書くことにします。



補足―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
mri876.jpg左は、レオナルド・ダ・ヴィンチ
『岩窟の聖母』(ルーヴル美術館)

この絵の女性はイエスの母マリア。
これを切り取って傾けて、『最後
の晩餐』の当該人物の横に並べる
と、ほぼ同じ顔に見える。
つまりイエスの「愛した弟子」は
女性であることは間違いない。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※《イエスの愛した弟子=マグダラのマリア》説は、ヨハネ20:1-2で、マグダラのマリアがイエス
の墓が空なのを見てペテロと「愛した弟子」の所に行ったという記述があり、これが矛盾として問
題になる。しかし昔の教会権威者がマリアをおとしめるべく、聖書本文を修正した可能性もある。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

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COMMENT FORM

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過去のNHK番組で『最後の晩餐』の大修復(1999年)と
CG見たことあります。
ですが結局、それまでに何度も補筆、加筆が繰り返されていて、
オリジナルはどうなっていたのか、未だに謎なんですよねぇ。

ですが私もイエスの右側の使徒は女性だと思います。
「マグダラのマリア」かどうかは判りませんが、
ダビンチの描く聖母マリアや、モナリザにそっくりですもん。(笑)

>イエスとこの人物の間には、V字型の空間が奇異に 感じるほど大きく空いて いる。

そう言われると、奇妙な構図です。

>なぜレオナルドは、十二使徒の中に「マグダラのマリア」を描いたのか?

この答えと共に、V字型の空間について、次回、バーソ流推論、お願いします。(*^▽^*)

2018/07/07(土) |URL|風子 [edit]

ダビンチコード

バーソ様
おはよう御座います。

バーソ様なら当然ダビンチコードという映画をご覧になっていると思います。私はテレビの洋画ショーで観ました。
この絵に関しては相当謎があるようですね。
それにしても寝ながらの食事ですか。食べにくそうです。
飲むのにはいいかも知れませんね。そのまま寝られますから。

愛新覚羅

2018/07/07(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: タイトルなし

風子さん コメントありがとうございます^^)
> ですが私もイエスの右側の使徒は女性だと思います。
「マグダラのマリア」かどうかは判りませんが、

 そうですね。あの顔は誰が見ても女性だと思うのですが、これを使徒ヨハネと思うほうがおかしいですよね。しかし絵画では伝統的に女性風もしくは少年風に描くのが普通だそうですが、なぜなんでしょう。

 聖書に「イエスの愛された弟子がイエスの胸に寄りかかっていた」と書かれていますが、「弟子」とは男性の弟子である使徒たち以外にあり得ないという先入観と決め付けがあったためか、あるいはローマ教会が、その「愛された弟子」が女性の弟子では困るので、結果としてヨハネは女性っぽいイメージになるよう画策したのか、それ以外に原因があるのでしょうか。不思議です。

 新約聖書は全27冊からなっています。当時は実際にはもっと沢山イエス関係の文書があったのが、最初の頃の諸教会で認められていたものがだんだんと正典になっていったようです。つまり当時の教会が選んだ文書、彼ら宗教指導者にとって都合のいい文書が聖書正典になっているのですね。

 ボッティチェリの『春』プリマヴェーラの修復画はきれいでしたね。何年か前、ある女性がイエスの絵を修復したら、見るも無残な顔になったので問題になったことがありますが、ひどく破損した絵の修復というのは難しいのでしょう。
 http://www.afpbb.com/articles/-/2963272

2018/07/07(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: ダビンチコード

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
 『ダ・ヴィンチ・コード』はテレビで見て、本も図書館で借りて読みました。ちよっと神秘主義的なストーリーが軸になっていて、私には違和感が若干ありましたが、面白かった記憶があります。

 この絵は素人目では、構図がいいと思いますが、聖書の記述と違うのが気になります。登場人物の顔は好みがあるのでいいのですが、男にヒゲが生えてない人がいること。大工(石工)であった肉体労働者イエスの顔が日焼けもしておらず軟弱であること。食事風景が机と椅子であることなどで、これらはかなりおかしいと思いますね。

 私の子供の頃は、寝て食べたら牛になると言われましたが、ユダヤでは牛は清い動物とされていたので、問題なかったのでしょうか。(笑)

 寝そべったスタイルで最後の晩餐をしている画像を検索して探したのですが、2枚しか見つからなかったです。聖書関係の映画でもけっこう聖書の記述と違う場面があります。なかなか聖書というものは正しく読まれてないのだなあと思いますね。

2018/07/07(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは

今回の記事はミステリー的で好奇心を刺激されました。
イエスのそばで横になっている人物が気になって
「寝ながら食べる最後の晩餐」の大きな絵をgoogleで探しました。
本の表紙(「さあ横になって食べよう―忘れられた生活様式」)と
古代のヴィラについて書かれているサイトにありましたが、
大きな絵は見つけられませんでした。
この絵だと男だか女だか分かりませんね。
ダヴィンチの「最後の晩餐」が単なる宗教画でなく、ダヴィンチの
ルネッサンス的意味が込められていたという説は興味深いです。
そして二人のマリアについても驚きです。
「岩窟の聖母」のマリアと同じ人物が「最後の晩餐」にも描かれて
いるのはダヴィンチの何かの主張でしょうか。あるいは仕事の遅い
ダヴィンチが単にコピペしただけとか。(笑)

2018/07/07(土) |URL|エリアンダー [edit]

Re: こんにちは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
 しかし、面倒がらずに何でもよく調べますね。本当に知的好奇心が強いのですね。私よりかなり著しくとても大変まったく非常にすごいです。(笑) 画像は著作権の関係で、なるべく古いのを選んでいるつもりなんですが、適切な画像を選ぶのは容易ではないです。

 当時のユダヤの宴では寝そべって食べるという習慣はあまり知られてないのか、有名な画家の油絵には、ほとんどと言っていいくらい寝そべりシーンの絵は無いですね。聖書時代の風俗習慣をよく調べもしないで、画家の時代の社会習慣をそのままに、自分のイメージで自由に描いているように感じます。まあ、芸術絵画はカメラで写した写真ではないので、それでもいいのかもしれませんが。

 しかし何か自分の意図や主張をもって自分のイマジネーションを絵の中に入れ込むのはいいですが、聖書的な教訓を与えるべき写実的な宗教画に、記述や史実と違う要素が入っているのはかなり気になります。

> ダヴィンチの「最後の晩餐」が単なる宗教画でなく、ダヴィンチの
ルネッサンス的意味が込められていたという説は興味深いです。

 はい、興味を持ってもらうためにもそういう書き方をしたのですが、あながち全然ウソ話でもないだろうと思っています。ルネサンスは教会の旧い教えに反発し、新しい人間らしい生き方を模索するものですし、またそうでないと、あれだけ科学的に物事をよく調べるダヴィンチが十二使徒の中に女性を描くはずがないと思いますから。しかしそれにしても大胆な絵だと思います。教会の追及にどう言い訳したのかと思いますね。ただ、イエスの顔は私は気にいらないですね。もっと男らしい知性のある顔に描いてほしかったです。

> 「岩窟の聖母」のマリアと同じ人物が「最後の晩餐」にも描かれて
いるのはダヴィンチの何かの主張でしょうか。

 ダヴィンチの絵は割合共通点のある絵が多いようです。モナリザの顔がダヴィンチ自身の顔に似ているという話もあり、その画像も見たことがあります。画像のコピペは考えられますね。元のスケッチがあるはずですから、使いまわしをしたのでしょう。(笑)

2018/07/07(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

当時の社会通念から見て、30にもなれば責任ある大人であり妻がいなければ社会的信用もなく、布教すらできなかったと思います。
従ってイエスには妻がいたと思います…それがダ・ヴィンチ・コードで言うマグダラのマリアであっても何の不思議もありません。
聖書にも頻繁に登場し、母マリア(姑)と行動を共にしている所を見ると有力であり、もしかしたら、子供もいたかも知れません。
イエス亡き後、イエスの子(後継者)を擁して教団をまとめて布教したのは間違いなく妻である彼女だったと思います。
正統な後継者がいないと、仏教やイスラム教の様に弟子達は序列争いを繰り広げて教団を分裂させます…初期キリスト教団に分裂の痕跡が見あたらないのは、正統な後継者か女主人(教祖の妻)がいた証拠です。
それが後になって、女主人の存在が貶められたり消されたりしたのは、多分中世になって専制君主を頂点とする厳格なピラミッド型社会(武力を尊ぶ男性社会)が形成されたから…教会としては女主人を擁立出来なくなったと言う事だと思います。
しかし、庶民の間ではマグダラのマリアと母マリアは合体して「マリア信仰」として現代まで受け継がれたのではないでしょうか?
つまり、マリアが抱いている幼子はイエスであると同時に、イエスの子そのものなのです…だから二重の意味で尊い存在になります。
さて、イエスの母と妻と子の運命を知るものはいませんが、イエスの死後数十年経って反乱を起したイスラエルはローマ軍に破壊され、住民は奴隷にされるか追放されたと歴史にあります。
ちなみに、国家滅亡の難を逃れてきたイエスの忘れ形見の伝説は、英国やフランス、アイルランド、スペインの各所に存在します。

2018/07/07(土) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)
 聖書時代のことにも詳しいですね。イエスには妻も子もいない。独身で清い人だというイメージがありますが、そうですね、当時の社会で三十過ぎで独身というのはあり得ないようです。
 しかもイエスは人々から「師(ラビ)よ」と何度か言われています。ラビ扱いをされていたのであれば、なおさら結婚していたと考えるほうが自然です。そして結婚していたら子供がいるのは当然です。族長ヤコブの妻ラケルは不妊症だったので、恥辱と考え、絶望感を述べています。当時のユダヤで子供がいない女性は「石女(うまずめ)」と言われて蔑まれていたので、イエスにも子がいても当然です。

 ただ、その妻と子に関する文献がまったく残ってないのも不思議です。イエスの生涯についても、誕生時と三年半の宣教期間中の話の他には、十二歳の時に神殿に行ったエピソードしか福音書に書かれていません。その他のことは、教会に都合の悪いことが書いてあったので、正典成立時までに削除編集されたとしか考えられないですね。
 『トマスの福音書』を読んだことがありますが、イエスとマグダラのマリアが親しいので他の弟子たちが妬んだことが書いてあったような記憶があります。

 イエスの母マリアとマグダラのマリアが合体したですか。あり得ますね。民間信仰というのはじつにいい加減なものですから。

 イエスの弟子が初めて「クリスチャン」と呼ばれたのはシリアのアンティオキアでしたが、エルサレムには主だった使徒たちが集まっていて、信者たちの中心的な組織を作っていたことが「使徒行伝」の記述から分かります。
 しかしローマ政府の迫害で各地に散らされ、それが結果的に、散った先々で教会が各地に出来る要因になったようです。

 ローマ教会は、イエスの後継者はペテロであり、その後継者は我々だと言っていますが、聖書的にはそうでないと言える根拠があります。
 しかし、いつの時代もそうであるように、純粋で真面目な人よりも、政治力と組織力の強い人が教会の権限を握っていったのじゃないでしょうか。そんな気がします。

2018/07/07(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

そうですね、V字形の空間が不思議ですよね。
この絵を見るたびに、思うのですが
なんともアンバランスな配置のようで
それぞれの人物のことも
わからない私でさえ、いつも「謎めいた」感じを
持ちます。

やっぱり隣の人物は女性なんでしょうね。
長く長く、歴史の謎になるほどに
不思議な絵、構図。人物の配置。V字形の空間。
ミステリアスです。


2018/07/08(日) |URL|森須もりん [edit]

Re: タイトルなし

森須もりんさん コメントありがとうございます^^)
> なんともアンバランスな配置のようで
それぞれの人物のことも
わからない私でさえ、いつも「謎めいた」感じを
持ちます。

 そうですか。アンバランスと見ましたか。弟子たちは勝手バラバラにざわめいているようですからね。
 解説書を見ると、この壁画は中央のイエスに目が行くような構図になっていて、遠近法の中心点はイエスの《こめかみ》で、実際にその部分に釘を打ったあとがあるのだそうですが、私は構図よりも、むしろ聖書の記述とは違うことと、そして弟子たちの年齢も気になりますね。
 聖書には弟子たちの年齢についての言及はありませんが、おそらく白髪の老人は一人もいなくて、イエスよりも少し若い人ではなかったかと思っています。
 というのはイエスが彼らに出会ったとき、「これからは魚の漁師ではなく、人間の漁師にしてあげよう」というようなことを言うと、「彼らはただちに網を捨ててイエスに従った」と書かれているからです。若くないと妻や子供や家族がいて、ただちにイエスに従っていくことはできないですから。

 森須さんも一人で頑張っています。いろいろ大変でしょうが、一人でいられるのは、いわば特権です。いまの状況を活かして、もっと楽しいことができるようになればいいですね。でも前の仕事よりは感情的に少し楽なんじゃないですか。しかし残業が増えたのは困りましたね。

2018/07/08(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2018/07/09(月) || [edit]

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2018/07/09(月) || [edit]

後の文献なりを以って歴史の証明とするのはいかがなものか

 ダヴィンチの画はイエスの死後何年が経っておりましょうか。そう考えれば、彼の絵にイエスの秘密が画かれていると考えるのは無理がある。ダヴィンチもまた後世の人であり、所詮我々と立場は同じ。想像と推測以上の物は画けないのであります。
 道理、理屈で歴史を見ると、通説が如何におかしなものか、如何に矛盾に満ちたものかに気付きます。文献もまるっと信じると馬鹿を見る。疑う心を持ちましょう。そうすればへそ曲がりが一人出来上がる。・・・駄目ジャン。

2018/07/10(火) |URL|miss.key [edit]

Re: 後の文献なりを以って歴史の証明とするのはいかがなものか

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
> ダヴィンチの画はイエスの死後何年が経っておりましょうか。そう考えれば、彼の絵にイエスの秘密が画かれていると考えるのは無理がある。

 キリスト教とイエスの言行については、聖書を基にして論じることになっています。聖書は神の「霊感の書」で、内容に間違いはないとされているのと、聖書以外に文献がほとんどないせいもあります。
 ゆえに聖書の記述と合っていれば《正》、違いや矛盾があれば《否》とするのが聖書学の通例というか、基本です。イエス以後、何千年経っていようと、イエスやキリスト教のことは、常に聖書から論じるのが基本です。同様にキリスト教の宗教画の史実性についても聖書から論じるのが基本です。
 
 山本七平が、何でも許容する日本人は「日本教徒」だと喝破しましたが、中世ヨーロッパの人々は違います。ローマ教会が、人々の生活を、人生を、社会を、国家を支配していました。「カノッサの屈辱」という事件は、ローマ皇帝がカノッサの城門で裸足のままに断食と祈りを続け、ローマ教皇に赦しを求めた出来事として知られている通りです。

 その肝心のローマ教会は立派だったかといえば、罪が赦されると称して免罪符などを売り、民衆を騙して金儲けに励んだので、それは聖書の教えと違反している怒って抗議したのがマルチン・ルターなどで、そうしてプロテスタントが台頭し、カトリックと血を流す争いが始まりました。つまりは近世までは、そのくらいキリスト教の権勢が強かった。言い換えれば聖書が絶対とされていたのです。

 なのでイエス関連のことは聖書を基に論じていいのです。そういうわけで『最後の晩餐』でイエスの両隣に座っている二人の弟子だけは、学問的には(もちろん歴史的には分かりませんが)、ある程度は聖書から推測できるのです。

 十二使徒の中に女性がいるなんてことは、現代の天皇家の男子相続制を考えてもわかる通り、キリスト教では有り得ない考えです。十二使徒の中に女性を描いたら、ローマ教会からは破門必須であり、「レオナルドの屈辱」でもしなければ絶対に許されないことです。とてつもなく有り得まないことですが、それをレオナルドが描いたということは、ある意味、死を覚悟するほどの物凄いプロテスタントと同じような行動をしたのですね。

 しかし伝統的な公式解釈としては、この『最後の晩餐』でイエスの右隣にいる人物は女性ではなく、使徒ヨハネだとされてきました。ヒゲを生やしたユダヤ人の荒くれ男であるべきなのに、そして絵を見れば明らかに女性の顔をしているのにも関わらず、それは使徒ヨハネなんだと画家や評論家が説明しても、ほとんどの人は誰も気にしていません。これはおかしくないでしょうかね。

 真実や正義というのは、他からの教えや伝統、社会通念、圧力、そして自らの先入観や思い込みで、割合容易に曲げられるのです。大勢あるいは識者が《正》といえば《正》になり、大勢あるいは識者が《否》といえば《否》になる。そんな思考はおかしいでしょう。

 現代のマスコミやネットの風潮がちよっと似ていませんか。何か出来事があると、あちこちからもっともらしい意見が出てきて、大衆がみなその方向に同調して行動します。芸能人が自宅に来た少女を襲って無理やり事を成し遂げたわけでもないのに、寄ってたかって大犯罪者のようにみなし、こきおろし、抹殺します。その歌手のしたことは決して肯定できるものではないですが、しかしみんなで寄ってたかって叩き、自分は義人の顔をして得意になっている。そんな精神や風潮は度を超してないですかね。

 ヒトラー政権下のドイツ国民は《みんな右へならえ》だったようですが、そのような、大衆を扇動する一種の《空気》にはよくよく気を付けなくてはいけません。この《空気》のことを、聖書では「世の霊」と言います。「霊(spirit)」とは悪霊という意味ではなく、単に《精神傾向》の意です。確かに、この世には大衆の思考を一つの方向へといざなう「世の霊」が満ち満ちているような気がしますね。

 そういうわけで
> 道理、理屈で歴史を見ると、通説が如何におかしなものか、如何に矛盾に満ちたものかに気付きます。文献もまるっと信じると馬鹿を見る。疑う心を持ちましょう。
 これは、ごもっとも、ごもっとも、です。決して、へそ曲がりではありませぬ。それが正しい見方だと思います。ただ、聖書関連のことや聖書学は聖書から論じるものなのですね。

2018/07/11(水) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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