「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 苦行で悟るか。在るがままで生きるか。 


 例えば水の上を歩けるようになれれば、もう人知の領域を超えたと思いますか。

夜が明ける頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。
          ――――新約聖書マタイ伝 十四章二十五、二十六節


                 


 水上を歩く修行者――――バーソ・モジリアーニ・アクタガワ

 ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらと
お歩きになっていらっしゃいました。
 この極楽の蓮池は、水晶のような水を透き徹して、三途の川や針の山の景色は
もちろん、人間世界の様子も、ちょうど覗(のぞ)き眼鏡を見るように、はっきりと
見えるのでございます。

 そうしていると下界では、とある川のそばで、一人の修行者が悲壮な顔をして
苦行をしている姿がお眼に留まり、お釈迦様はどえらく親近感を感じられました。
そこで地上に降りて覚者の姿となり、修行者にお尋ねになりました。
「あんさんは、何年ここで苦行をしてんかね」
「はい、私は三十年もの間、朝から夜まで毎日毎日、ひたすら苦行を続けており
ます」
「なかなか感心やな。せやけど、なんでしんどい修行をしとるのかいな」
「はい、この娑婆は、煩悩と苦悩を味わいながら耐え忍ぶことが前提の世界です。
私は、ぜひとも今生で悟りを得て、日々苦しみに追われることなく生きたいと願
っているのです」

 ebaa8.jpg

 お釈迦様は、またかいなとお思いになり、うーむと眼を細くされました。
 と申しますのは、世の中の人間は大雑把に分ければ二種類。片方は、如何に生
きるべきかといった事には殆ど無関心で生きており、もう片方は、人間の生きる
べき道を知る事に極めて執着して生きております。ここでアイロニー、また不条
理のように思えますのは、真摯に宇宙の真理や人生の意義などを追究しない者の
ほうが安楽に、そして愉快に暮らしているように見えることでございます。
 お釈迦様は、苦行者にお尋ねになりました。
「三十年間も苦行したら、さぞかしええ結果を得ることができたやろ。一体なに
が出来よるようになりよったんかね」
 苦行者は、すーっと晴れやかな顔になり、胸を張って答えました。 
「はい、私はどうにか水の上を歩けるようになりました」


 ebajj90.jpg


 それを聞いて、お釈迦様は、なかなかたいした奴やないかと思いつつも、こう
おっしゃいました。
「あんさんは、オノレを利口な人間や思うかや。三十年も修行せずとも、わずか
な船賃さえ払うたら船頭が向こう岸に渡してくれたやろ。そうしたら、三十年間、
もっともっともっと他のことをいろいろ体験できて、もっともっともっともっと
人間の幅を広げる事も出来よったんとちゃうかね」
 苦行者は「あ、あー」と小さく声を出し、その場にへなへなと座り込んでしま
いました。長年の苦労が水の泡になったのかと思ったのでございます。
 しかし人生には悪いことしかないと思えても必ず善いこともあるもので、苦行
者の両眼には、以前にはなかった明るい光が、かすかではありますが、確かに輝
き出していたのでございます。

 eba308.jpg


 極楽の蓮池の蓮は、下界の事には少しも頓着致しません。その真ん中にある金
色の蕊(ずい)からは、何とも云えない良い匂いが絶え間なく辺りへ溢れております。
極楽の時間は、いつもまぶしい朝なのでございます。


                 


――――――――――――――――――――――――――――――――――――
人生の舵取りに失敗した、ああダメだなあ、と強く悔やむことがあるでしょうか。
一生懸命に生きてきたなら、その人生体験は必ず何か成果を成し遂げたはずです。
宇宙は完璧で、人間に失敗を与える構造になっていないと思うのはどうでしょう。
確たる証拠はなくても、愛が世界を支配していると思うのは心地よいものですよ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

※写真は鮮やかな色が好きなんですが、彩度を落として、ほんのりカラーのモノトーン風にしました。

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宇宙は完全でも、人間は不完全である

バーソさん、おはようございます(*´∇`*)
>苦行で悟るか。在るがままで生きるか。う〜ん、分からん(*´-`)

昔から言われてきた因果応報。自分の行い(良い事悪い事)は自分に返ってくる、天はいつも見ている。
後、神様は耐えることの出来ない人間には試練を与えない。
60代になった今、人生を振り返ると、この事は正しかったような、正しくなかったような気もします。やはり分からないですね(´-ω-`)

分かることは、この歳になると過去が長いので、自分の過去を納得するためにも、幼い自分を助けてあげられなかっただけに、今の自分を大事にしたいです。
過去を納得するのか、暗いものにするかは、これからの残り少ない未来が決めると思います。

2018/05/12(土) |URL|めぐみ [edit]

蓮の花に観る在り方

大乗仏教経典に次のような言葉があります。
『高原の陸地には蓮花は生えない。
汚泥の中からこそ蓮花は咲く』

泥の中にありながら清く美しく咲く……。
まさに、バーソ・モジリアーニ・アクタガワさんの
『座右の銘』といったところでしょうか。

舵取りに失敗、ダメだなあ、強く悔やむこと、
このこと自体が宝物かも、ですね。
ただ修行者が、悲壮な顔をして苦行をするか、
それを楽しむかで、極楽、地獄のいずれかを味わう。
人生は“♪同じアホなら踊なにゃソンソン♪”でしょう。

お釈迦様って、関西出身?
知らなんだぁ。((´∀`*))
三番目の蓮、いかにも清らかで美しいですねぇ。

2018/05/12(土) |URL|風子 [edit]

コメントをくださったかたへ。^^)
 本日、出かけますので、返信は、夕方以降に、遅くなると思います。いつもありがとうございます。(^_^)

2018/05/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

意地悪なお釈迦様

バーソ様
おはよう御座います。

随分と意地悪なお釈迦様ですね。
人が苦労したことを一瞬で全否定ですか。
そういう人っていますよね。
そして自分が一番出来ると思いこんでいます。
苦行者はそれを楽しんでいるのですから
放っておけばいいと思います。
人間は誰でも価値観が違うのですから。

彩度を落とした写真が優しくていいですね。
サントリーのCMで商品だけカラーで残してその他を全てモノクロにしたのがありましたが強烈な印象でした。

愛新覚羅

2018/05/12(土) |URL|aishinkakura [edit]

こんにちは

いい話ですね。
映画や小説で重く苦しい内容のストーリーでもラストに一筋の
希望が描かれているとほっとします。
バーソさんが前に書かれた文からして、この話にはバーソさんの
体験談が入ってますね。
下の1と2の間にはどんな心境の変化があったのでしょうか?
何かを瞬時に悟ったとか。
1.「長年の苦労が水の泡になったのかと思ったのでございます」

2.「苦行者の両眼に明るい光が輝き出していたのでございます」

誰でも子供時代は池の上を歩けたものです、2月の凍てついた朝などには。(笑)

彩度を落としたハス、天国のハスのような不思議な感覚にとらわれます。
バーソさん、画像加工ソフトは何を使っていますか?

2018/05/12(土) |URL|エリアンダー [edit]

釈迦やイエスと言った聖人の行動を分析すると、人としては極めて非常識なエゴイストに見えます。
釈迦は親や妻子を捨てて勝手に王宮を飛び出しましたし、イエスも家を飛び出した挙句、犯罪者となって死んで母を嘆かせた訳ですから、当時は周囲の人々の非難を浴びました。
(釈迦国の人々はシッダルタを快く思わず、その為に放浪布教生活を余儀なくされ、釈迦の教えは母国では受け入れられなかった)
その彼らが、なぜ後の世で人々に崇められる聖者となる事ができたのでしょうか?
思いますに、肉体に縛られた人間の規範を破らなければ、それを超えた精神の高みに達する事はできなかった。
現世に流されて生きるか?それを超えようとするか?…人の行動は外見からでは判断できない所がありますね。

2018/05/12(土) |URL|sado jo [edit]

身に覚えがあったんでしょう

お釈迦様自身が、ブームにのって苦行で死にそうになりましたものね。
スジャータがくれたミルク粥で命拾いしたおかげで、「なんでこんな苦行してるんだろう」と我に返った過去がありますから、思わず関西弁になっちゃったのかも。

2018/05/12(土) |URL|しのぶもじずり [edit]

愛に支配されてます・・

こんばんは~

イントロダクションはまさに蜘蛛の糸、苦行者の下りはモジリアーニ様の創作でしょうか、30年の苦行、その無意味さを一言でバッサリとなんと痛快なお話、で、そのあとの苦行者に対しての温かいフォロー、なんとも、む・む・む・なお話恐れ入りやした。     

2018/05/12(土) |URL|ばく [edit]

Re: 宇宙は完全でも、人間は不完全である

めぐみさん コメントありがとうございます^^)
 因果応報とは、原因があれば結果があるという自然界の原則ですが、ただし人間の場合は過去生、現生、来世と長い目で見る必要があるように思います。

 天はいつも見ている。そうです。見ていますが、天からの信賞必罰はないと思いますね。なぜなら人間の人生は、その人の自由意思に任されていますから。善いことにしろ、悪いことにしろ、人の行ないの結果は、その人が自分で負うようになっているだけの話だと思いますね。

> 過去を納得するのか、暗いものにするかは、これからの残り少ない未来が決めると思います。
 そうですね。残り少ない時間を大切にしたいものです。ただ、過去は失敗だと思えば、そうなるでしょうし、過去はいい勉強をしたと思えば、そうなると思いますね。だから過去をどんなものにするかというのは、いま現在の自分の意識次第のような気がします。

 でも本当は、いま人がどう思おうと、みないい経験をして自分の課題を果たしていると思っています。今生の過去だけを見れば、失敗したと思えても、じつはそうではなく、自分に必要な経験をして、そのときの感情をたっぷりと味わい、どうしょうかああしょうかと悩み、いろいろ考えるのも、人生の醍醐味の一つであるような気がします。春の海のたりのたりと微風の中で、ぼーっと無為に生きているような人生はおよそ意味がないと思いますね。

 めぐみさんが生まれてから、ひとより過酷な経験をしたのであれば、それだけのことをするように生まれてきた人だということでしょう。すなわち霊的にそもそも高いレベルの人だから、そうなったんじゃないですか。そう思いますね。

2018/05/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 蓮の花に観る在り方

風子さん コメントありがとうございます^^)
> 『高原の陸地には蓮花は生えない。
汚泥の中からこそ蓮花は咲く』

 人は煩悩の泥にどっぷり漬かっていても、美しい蓮の花を咲かせることはできるという話ですね。蕪村も書いていました。

  この泥が あればこそ咲け 蓮の華

 しかし煩悩があるからこそ悟りがあるわけで、もしすべての人間が悟っていたら、どうなるのでしょう。みんな人間卒業となり、地球という舞台で行われる夢芝居一座は解散となるのでしょうか。それもなんだかさみしいような気がします。

> 舵取りに失敗、ダメだなあ、強く悔やむこと、
このこと自体が宝物かも、ですね。

 ああ、そうですね。強く悔やんだら、そのあと、どうするかですね、問題は。それで負けてしまったら、それだけのことで終わってしまいますが、風子さんなら、それをバネにして一段も二段も飛躍するのでしょう。みながそうなれば、すごい世界になると思いますが、なかなかそうはならないのですね。

> ただ修行者が、悲壮な顔をして苦行をするか、
それを楽しむかで、極楽、地獄のいずれかを味わう。

 修行者が悲壮な顔をするのは、しっかり決意をして懸命に努力している証拠で、麗しいものです。しかし悲壮な顔をしているというのは、じつは心の中では幸福感がなく、義務感だけで、いやいやしているために顔に苦しさが表れているのなら、それは“踊って”はいないわけでしょう。なにをするにしても踊りながら、すなわち楽しみながら、あるいは無心にできれば、いいと思いますね。

 お釈迦さまもいろいろ時代を経るにしたがって、各地に亜流が出てきまして、この話に出てくるお釈迦様は、大阪はナニワ方面出身のお釈迦様です。だから即物的に計算して物事を考える傾向があるようです。(笑)

2018/05/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 意地悪なお釈迦様

aishinkakuraさん コメントありがとうございます^^)
> 人が苦労したことを一瞬で全否定ですか。
そういう人っていますよね。
そして自分が一番出来ると思いこんでいます。

 あはは、そう来ましたか。そうですね。確かに、そういう人、いますね。頭のいい人に多いでしょうか。いや、頭がいいと思い込んでいる人に多そうです。

 自分は正確な知識を持っていると強い自負心がある人は、とかく、それゆえに間違った知識を持っていると思える人を見下げたり、非難したり、裁いたりすることをして、自分はにやにや笑って得意顔をしたりします。
 しかし、もし正確な知識を持っているのなら、それを誰もが分かるようによく解き明かしをしてほしいものです。それが親切というもので、その説明をしないで、ただ他者を非難しているだけなら、その人は単に批判的でネガティブな意地の悪いひとになり、社会を明るくはしませんね。

> 苦行者はそれを楽しんでいるのですから
放っておけばいいと思います。
人間は誰でも価値観が違うのですから。

 これも一つの真理のようですね。苦行者は楽しんでいるから、放っておけばいい。楽しんでいる人に、他の人が自分の価値観を押し付けるのは確かによくないですね。他の人が苦しんでいるなら、話はまた別でしょうが。

 彩度を落とした写真、優しく見えましたか。じつはこの写真は色がとても鮮やかに撮れたのですが、それだけではあまり面白くないので、試しに彩度を落としてみたのです。前回のシャンソンの記事も最後に出したバラの写真も彩度を少し落としたのですが、案外、少しくすんだような色調が、アンティーク好きのわたしに合っているかもしれないと思いました。

2018/05/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: こんにちは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
 はい、じつはこの苦行者については、私バーソを若干ダブらしています。もちろん私は修行や苦行はしていません。でもちよっと口幅ったいことを言うようですが、聖書で知った真理を実践したいと考え、自分では一切を投げ打って、人生を懸けて生きてきたつもりです。
 たぶん苦行者のように必死の形相をして、文字通りよそ見をせず、本当にひたすら走り続けてきたのですが、あるとき、有難いことに縁あって、つまり、あたかもお釈迦さまに出遭ったような経験をして、目からバリバリっとウロコが剥がれ落ちました。
 そのとき、ああ折角の人生の時間をもっと多彩に有意義に使ったらよかったと、かなり悔やみましたね。そして聖書以外に真理はないのかと精神世界などを探し続け、そしてこれが真理だろうと思える知識をこれも縁あって得た時に、一筋の光明がはっきりと見えたような気がしたというわけで、これがいうなれば、1.と2.に相当するでしょうか。

 今はその頃の情熱が薄れているのですが、もう安心しているのかもしれず、また、人間は誰もが必要な経験をその人の人生ですることになっていると思っているせいがあるかもしれません。

 レタッチソフトは一応 Adobe Photoshop Lightroom を持っているのですが、私にはちよっと使いこなせないというか、普段それほどの写真は撮れていないのです。なので、私には PhotoPad (約5000円)のほうが使いやすくて、ほとんどこれオンリーです。なお、圧縮画質は精一杯落として、いつもファイルサイズ20KB以下の軽い画像にしています。

2018/05/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)
 ああそうですね。釈迦もイエスも、真理のために、自分と家族のために生きるという一般的な人生目標を捨てています。そしてイエスは。自分従う弟子たちに同じことを勧めていますね。

「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」
「自分の財産を全部捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」

 ですからこれを文字通りに行おうとするクリスチャンは、現代でも家族や世間からよく言われませんね。場合によっては夫から離婚されたり別居になったりする人もいます。でも聖書の言葉を文字通りに解釈し、実行すれば、そうなるのがいわば当然とも言えますし、聖書は、たとえそうなっても真理を実践しなさい、そうすれば真のいのちを得るだろうと言っています。宗教とは単に日曜に集会に行けばいいというような甘っちょろいものではなく、本当はかなり厳しいものなんですね。

 ただしオウムなどのカルトと違うのは、他者を殺めてもいいなどは間違っても教えていないことです。それどころか他者のために命を捨てるのが真の愛だと教えられます。だから、その愛がなく、金もうけや教団の拡大だけを目論んでいるなら、その宗教はろくでもない偽善的な悪質団体です。

> 肉体に縛られた人間の規範を破らなければ、それを超えた精神の高みに達する事はできなかった。
 普通は、そうなんでしょうね。だから修行をして苦行をして、苦しんで悩んで必死に悟りを得ようとする人がいるわけで、その動機は立派なことだと思いますね。それがつらい顔をしないで出来れば、たいしたものだと思います。

2018/05/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 身に覚えがあったんでしょう

しのぶもじずりさん コメントありがとうございます^^)
 バラモン教は、苦行によって死後に幸せになるとかの教えで、釈迦は七年間苦行に入ったが、スジャータというミルク粥を食して元気になり、菩提樹の下で悟りを得たそうです。ならば「スジャータ」をコーヒーに入れれば即、悟りを得られるかといえば、そうはならないのが残念なところです。ここでは、お釈迦さまが関西弁になったのはバーソのいわば「てらい」のようなものです。ハイ。(笑)

 ミルクの「スジャータ」は名古屋の会社みたいですね。業務用のコーヒーフレッシュを小分けにして「喫茶店の味を家庭でも」として売り出したら当たったそうで、こちらのミルクは家庭を幸福にしたようです。
 幸福というのは、ちよっとしたことで感じることができますね。日常の些細なことを喜ぶか、あるいは宇宙の真理を知れたことを喜ぶか。ひとには、それぞれ「分」というものがあり、ひとは各々自分の範疇で生きるようになっているのではないか、なんにせよ自分の人生は懸命に生きればそれでいいのではないか、と思うことがあります。

 釈迦は、悩んだところがよかったんじゃないですか。ソクラテスもプラトンもみんな悩んで大きくなったと言われます。悩みがあるからこそ、それを解決しようと思うのがいいんじゃないですかね。

2018/05/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 愛に支配されてます・・

ばくさん コメントありがとうございます^^)
 そうです。イントロは芥川さんの「蜘蛛の糸」。そして苦行者との会話のくだりは、創作というよりはアレンジです。つまり、この話はモジリアーニなので、お釈迦さまはインド弁ではなく、関西弁でしゃべっています。(笑) 関西弁は便利な言葉ですね。きついことを言っても、当たりが柔らかくなりますし、硬いことを言っても、ちよっと冗談ぽくなります。

 この話、私が思うには、どう解釈してもいいと思っています。すなわち、苦行者は愚かしいと思ってもいいし、いや、そうじゃない、なかなか立派であると受け取ってもいいと思っています。

 もっと言えば「苦行者」という言い方ではなく、単に真摯な「修行者」ならよかったかもしれません。
 というのは「苦行者」の「苦」の字がよくないと思うのです。スポーツでも芸術でも学問でも何でも、必死に真剣に行う姿を見るのは、はたから見ていて、じつに麗しいものです。しかし苦し気な顔をして、つらそうにしているなら、なにもそこまでしなくてもと思ってしまいます。
 これは苦しそうな顔がいいとか悪いとかの話ではなく、気持ちの問題です。要は、自分がしたいからという動機でしているのであれば、その顔がつらそうに見えても麗しいのですが、本当はしたくないが義務感や責任感で、我慢しながらしているのであれば、それはあまり麗しくないと思うわけです。

 正しいことを義務感でするというのは、真面目な人の特徴なんですね。本当は正しいことを愛しているからするというのが一番いいのですが。

2018/05/12(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2018/05/13(日) || [edit]

Re: タイトルなし

鍵コメさん おはようございます。^^)
 思い込みが激しく、客観的に物事を見られない。自分は正しく、ほかの人が間違っていると思い込んでいる。常識や正論がまったく通じない。その人の問題点を客観的に正確に指摘しても、泣いたり怒ったりして逆恨みされるだけ
 単なる性格的な欠点の場合もありますが、ある種の精神的な病気のようです。よほどのことがないと治らないと思います。

 その症状は、統合失調症(精神分裂症)と似ていますね。症状が重くなると幻覚や幻聴や異常行動を伴いますが、そこまでにはならない程度の人は、けっこう世の中にいますよ。私は、そういう人を何人か知っています。頭がいい人に案外多いように思いますが、頭がかなり悪い人にもそういう人はいます。知性の問題ではなく、心の問題のようです。

 Wikipediaによれば日本では70万人以上いるそうです。生涯発生率は120人に一人。ですから案外身近なところにいるのです。

 Wikipediaの「症状」というところを見ると、多く当てはまっていると思うかもしれません。特に神経過敏と被害妄想が凄いようです。それから安眠不可、注意力喪失、体重減少、抑うつ、そして自分を天才と思ったり、周囲との接触を拒絶したり、活動低下したり、自閉的であったり、いろいろ目立つ症状があります。
 原因は遺伝要素が大きいようですが、代謝異常やストレスもあるようです。夏目漱石と高村智恵子、ゴッホやムンク、カミーユもそうだったとか。

 で、どうしたらいいか。言っても治らないので、関係者としては諦めるしかありません。むしろ自分の今生の課題だと考え、それに対応して平静でいられるよう自分の感情をコントロールするか、そのような人とは付き合わないようにするしかないと思います。
 Wikipediaには「援助の方針」も書かれています。また対処の方法を説明しているサイトもあるかもしれません。調べてみたらどうでしょう。

2018/05/13(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

えーと確かエリアンダーさんのところの小噺に・・・

 忘れてしまいましたがエリアンダーさん所の小話にこんなのがあった気がします。

 あくせく働く人を見て、ある人が尋ねます。
「どうしてそんなに働くのか」
 するとこう答えが返ってきます。
「お金を稼ぐ為だよ。」
「どうしてお金を稼ぐんだい」
「将来の為に蓄えているんだ。」
「蓄えてどうするんだい。」
「遊んで暮らすのさ。」
「ああ、それなら僕達はとっくにやってるよ。」

 こんなんでしたかね。
 まあ、実際本当に遊んでたら暮らせない訳なんですが、しかし過剰にがんばったところで見合っただけの見返りはありませんわなぁ。増して未来なんてあやふやなものに過度に期待してもしょうがないと言えばしょうがない。
 こんな話も有る。

 働き者の男はお金を使わずに貯金に励んだ。その兄は飲んだくれで毎日酒を飲んでは空き瓶の山を築いていた。在る時、経済が破綻した。男は無一文になった。兄は空き瓶を売って大金持ちになった。

 うー、世の中無常でやんす。しかしだよ、お釈迦様まで修行しても無駄だったんじゃないの~?なんて実も蓋も無い事言っちゃったら拙いと思うよ(笑)。ほら、芸は身を助くって言うじゃない。水の上を歩けるなら、水球の選手やらせたらきっと最強だよ。・・・水球の選手が食えるかは知らんけど。

2018/05/13(日) |URL|miss.key [edit]

Re: えーと確かエリアンダーさんのところの小噺に・・・

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
 そうそう、エリアンダーさんのブログに、そんな話がありました。覚えています。私も似たような話を2012年03月19日に『人間は「いのち」を意識的に生きれば幸福である』という記事の中で書いています。ニューヨークで懸命に働いて成功した実業家が休暇を取って南洋の島でのんびりしようと思ってやって来たら、現地の若者が働かずに遊んで、年中のんびりしていたという話です。

 この話で面白いのは、言いたいことは納得できるが、そうは言っても、その年中遊んでいる若者の真似をしたいとは思わない人が多いだろうということです。
 むしろこの世では過剰に働けば見返りも大きく、過剰に働くこと自体が立派なことだと思われているフシがないでしょうか。二宮金次郎のように働きながら本でも読むなら偉人だと尊敬されたりしますから。

 人が過剰に必死に働きたがるのは、それが正しいと思う儒教的な人生観があるためで、他には、未来に対するあやふやな不安を持っているせいもあり、だから憑かれたように働きアリのように働くのじゃないですかね。アダムが罪を犯して与えられた罰は「顔に汗して働く」ことでした。働く苦しみとか働く本能というのは、どうも人間に本質的なもので、あたかも原罪であるようにも思えます。

 空き瓶を打って大金持ちになった兄は、頭を使って不要なものを活用したという点が偉いと思いますね。そもそも働かないというのは体も頭も使ってないわけで、何も考えずに「無為に」ダラダラ生きているというのが、知的生物である人間として一番情けないような気がします。

 真理を知るために飽くなき努力するのは頭を使うことの中でも褒めるべきことのように思いますが、ただ真理を知るというのと、奇跡をおこなえるようになるというのとは微妙に違うというか、かなり動機と目的が違うように思います。
 真理を追い求めているうちに奇跡ができるようになったというのであれば、たいしたものですが、この苦行者の場合は、「すーっと晴れやかな顔になり、胸を張って答えました」というところに、ちよっとばかり本人の認識不足が感じられるので、だからお釈迦さまは、それを茶化すような話をしたという話になっています。でも苦行者も、言われて初めて真理というものにいっそう近づけた気がして、だから両目に光明が輝きだしたというわけです。人間、いろいろ間違いをしたとしても、それまでの人生を真摯に誠実に生きてきたなら、最後は必ずいい結果になるというのは真実だと思いますね。

 まあ、いずれにしても当人が良い、幸せだと思っているのであれば、そして真理を知るためには一切を犠牲にしても別に惜しくはないという意識がしっかりとあるのであれば、それはそれで問題はなく、充実感と満足感も得られるように思いますが。

2018/05/13(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2018/05/13(日) || [edit]

Re: 大阪弁はやっぱりいいですね

鍵コメさん コメントありがとうございます^^)
 イエスと釈迦のイメージの違いはちよっと面白いですね。皮膚の色で分けると、なんとなくインド人は黒人のようで、イエスはアジア人と言いながら白人に近いようなイメージがありますが、実際はイエスも釈迦もコーカソイド。むしろインド人はアーリア系で、ドイツのヒトラーを連想させられ、西欧に近い顔に見えます。

 人種は長年の経年変化で物理的にどの人種も混血しており、純粋種というのは無さそうです。イエスもイスラエル人の純粋な正統的子孫ではなく、その先祖には二人ほど異邦人がいることが福音書の系図から分かります。
 名前は、方やゴータマ・シッダッタとは呼ばずに釈迦と漢字で書かれ、方や耶蘇ではなくイエスとカタカナ表記されますが、どうも日本人には伝統的な文化ゆえに仏教の釈迦のほうが当たりが柔らかく、親しみを感じやすいのでしょうか。

 大阪弁は当たりが柔らかいのが特徴ですね。逆に言うと緊張が欠けているようでもあります。亡くなった二代目枝雀も関西弁の巻き舌でぺらぺらしゃべるのがよく、あれがもし歯切れのいい江戸っ子弁であれば、緊張が緩和しなかったような気もします。(笑)

 私は大阪弁は日常ではほとんど使うことがなく、知り合いにもいないのですが、たまに意識せずに「どないいまひょう」とか「あきまへんわ」とか「あかんなあ」とか言っていることがあります。ちよっと気が抜けているときに使いやすい言葉ですね。本当は熊本弁とか名古屋弁も使ってみたいのですが、ちよっと難しいです。

2018/05/13(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2018/05/15(火) || [edit]

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