「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 子やぎの肉を母の乳で煮るのは禁止律法の拡大解釈。 


マックだろうが、マクドだろうが、チーズバーガーは絶対に食べない、
と決め込んでいる人たちがいます。

旧約聖書の律法に従う厳格なユダヤ教徒です。

食べない理由は、牛肉が禁じられているからではありません。

聖書には、ノアが大洪水の後、箱舟から出て、動物を焼いて神に捧げると、
「主はその香ばしい香りをかいだ」と書かれています。(創世記8:21)

イスラエルの祭司が、雄牛を祭壇で焼いて神に捧げるときに出る煙は、
「主にささげる香ばしい香りである」とも書かれています。(レビ記1:9)

このように「主なる神」は肉好きで、とりわけ牛肉が大好物なのですが、
しかし肉と乳製品が一緒に使われている料理は律法で固く禁じられている、
と厳格なユダヤ教徒は考えています。


 macesults.jpg
  (ユダヤ教徒なら、「てりやき」のほうに票を入れるでしょうか?)


そう思われている律法と、その拡大された解釈がなかなか面白いですよ。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
厳格なユダヤ教徒には、肉と乳製品の食べ合わせはタブー。

モーセの律法の中に、三箇所に出てきて、重要視されている戒律があります。


「あなたは、子やぎをその母の乳で煮てはならない」

    ――――出エジプト記23章19節、同34章26節、申命記14章21節

《子やぎの肉を、母やぎの乳で調理してはいけない》と命じられていますが、
問題は、これはどうしてなのか、どう解釈したらいいか、ということです。


神とモーセの会話をご覧ください。むろんジョーク仕立てですが。


「モーセよ、子やぎの肉をその母の乳で煮てはいけないよ。母乳で子を煮るのは残酷で、私の考えた物事の秩序とは逆のことだからね」
「主よ、それはつまりは肉類と乳製品を一緒に食べてはいけないということですね」

「モーセよ、子やぎの肉をその母の乳で煮てはいけないということだよ」
「具体的に考えれば、牛肉を牛乳で煮込んだシチューを食べてはいけない、ということにもなりますね」

「いや、ただ、子やぎの肉をその母の乳で煮てはいけない、と言っているのだよ」
「主よ、恐れ入ります、もう少し私に述べさせてください。では牛の焼肉を食べているときは、コーヒーは要注意ですね。飲んだら、おなかの中で牛肉とコーヒーのミルクが混ざりますから」

「あのねぇ、モーセよ。同じことを何度も言わせないでくれよ」
「主よ、どうか辛抱して私の話をお聞きください。では胃の中に滞留した肉が腸に送られるまでの数時間、いや、安全を見越して最低6時間ぐらいは間を空けないとミルク入りコーヒーはご法度ですね」

「そうじゃないってば、モーセ。ただ、子やぎの肉をその母の乳で煮てはいけないと言っているだけなんだよ」
「主よ、お怒りにならずに、どうぞ私にもう少し話させてください。くどいようですが、食前にミルクコーヒーを飲んだ場合は、肉と違って消化に時間が掛からないので、30分もたてば肉を食べてもよろしいのでしょうか」

「ああー、もういい。好きなようにしなさいっ」

(創世記18章22-33節に、アブラハムが神に執拗に聞いている、似たような場面があります)


そういうわけで、ユダヤ教徒は、この聖句を拡大解釈し、牛肉にも適用しました。
・牛のひき肉に牛乳を入れてコネて作ったハンバーグはダメ。
・チーズは牛乳から作られているので、チーズハンバーガーもダメ。
・バターで玉ねぎを炒めたビーフシチューやビーフカレーもダメ。
・中には、鍋・食器は、肉用と乳製品用とに別々に揃えている人もいるそうです。


この戒律の趣旨は、本来、母乳とは子どもに飲ませて育てるものなのに、その乳
を使って煮て食べるというのは本末転倒であり、子やぎを害するということです。
あるいは人間に同情心や優しさを促すための教育律法だという説もあります。※1

《子やぎの肉を母の乳で煮たらいけない》という大原則をさらに拡大解釈すれば、
鶏肉と有精卵を使った親子丼は、ああかわいそうだ、残酷だという話になります。
鮭イクラ丼とか、子持ちカレイの煮付けも、大丈夫だろうかという話になります。

 oyqwk2.jpg
 (ユダヤ人には地雷のような親子丼:フリー画像)


このように聖書の原則というのは、しばしば本来の趣旨や意図と外れた拡大解釈
がなされ、人に不必要な戒めや過度の制限になっていることがあるのですね。※2

厳密に正邪の判断をしようと思う真面目な人ほど、とかく《木を見て森を見ず》
となり、物事の本質や重要なことを見失いがちになるので、注意が必要でしょう。



補足――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1:動物虐待説と別の解釈は、当時の異教徒の雨乞いの儀式か、豊穣のための魔
術的儀式であったので、聖書の神はそのような慣習を禁じたという説もあります。

※2:マスコミの報道で知られているのは、ある教団が輸血を禁じていることです。
旧約聖書に「血を食べてはならない」とあり、新約聖書に「血を避けなさい」と
あるのを拡大解釈し、輸血は血を食べる行為であり、罪になると主張しています。
イエスの登場でモーセの律法は終わりました。旧約の聖句はユダヤ教徒のみにあ
てはまり、新約の聖句は、ユダヤ教に帰依していて、その習慣が抜けない当時の
異邦人クリスチャンの良心を気遣って言われた言葉です(使徒15:21、ローマ14)。


正統派ユダヤ男子はヒゲをたくわえています。レビ記19:27に「ヒゲを剃っては
ならない」とあるからです。しかし、律法の伝統的解釈では、禁じられているの
は一枚刃の剃刀であり、刃が二枚のはさみで切るのはいいという解釈があります。
電動シェーバーも二枚刃式なら剃っているのではないという敷衍解釈もあります。
それよりも「男子はヒゲを剃るな」に、どれほどの重要な意義があるのでしょう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――




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変な理論

バーソ様
おはよう御座います。

残酷だというのであれば子ヤギを食べること事体が残酷なような気がしますが。
乳は関係ないような。
ユダヤ人の考えは理解不能です。
モーセと神の会話はずれていて面白いです。
国会の答弁でも似たようなケースがありますね。

愛新覚羅

2017/09/02(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: 変な理論

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
> 残酷だというのであれば子ヤギを食べること事体が残酷なような気がしますが。
 ああ、確かにそうですね。《動物愛護の精神》を重要視しているのであれば、かわいそうだから子どものやぎは食べるな。もっと言えば、親のやぎでも食べるな、肉は食べるな、野菜にせよ、という話に徹底されてもよさそうです。

 律法が定められた頃のイスラエル(ユダヤ)人は遊牧の民でした。家畜の肉食は生活の基盤ですから絶対に外せないのですね。
 正義感というのは、まずは自分に《得》となることを確保しておいて、それから、こまかなことで《徳》を言うというところがありそうです。

> モーセと神の会話はずれていて面白いです。国会の答弁でも似たようなケースがありますね。
 代議士の常套句の「丁寧に答える」というのは、要は、厳しい質問の要点をいかにはぐらかすかということのように見えます。はぐらかしのうまい下手で、政治能力があるかないかが測られそうです。でも、うまくはぐらかしても、結局はごまかそうとしているというのは分かりますから、結局は信頼を損ない、《損》になるような気がしますね。

2017/09/02(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

解釈は無限大?

宗教上の戒律は、ある種の特別意識……。
スティタスなんでしょうね。
戒律は、多ければ多いほど燃える、みたいな……。(^_^ ;)

読んでいて、ふと疑問が……。
チベットのような鳥葬が盛んな国から、
鳥がイスラム圏に飛来したとしましょう。
厳格なイスラム教徒でも、イスラムのルールに従って屠殺した肉なら
OKだと思い込んで食べたらどうなんでしょう?
また、同じことをエホバ信者がしたとしたら? (。・?_?・。)ムゥ…

拡大解釈って、無限大かも、ですね。

2017/09/02(土) |URL|風子 [edit]

Re: 解釈は無限大?

風子さん コメントありがとうございます^^)

> 宗教上の戒律は、ある種の特別意識……。
スティタスなんでしょうね。
戒律は、多ければ多いほど燃える、みたいな

 そういうところ、ありますね。私が元いた教団も、聖書には書いてないのに、こまかな規則や制限がたくさんありました。教団が指導している場合もありますが、信者の自主規制も多かったですよ。例えば、聖書カバーの赤色は派手で聖書的に問題だから私は地味な色を選んでいると自慢げに言う姉妹(女性信者)もいました。私は頭髪を極端な刈り上げにしてなかったので、上から二度ほど注意されたことがあります。やむなく妥協して短めにしていましたが。

 不必要な戒律を自分(や他者)に課すのは、特別に《義》である証拠だと思って自己陶酔しているのでしょう。そういうことを自慢するような人は偽善者であるとイエスも強く非難しているのですが。
 人が厳密に《義》であろうと努めると、そして頭が良くないと、聖句の解釈は不必要に拡大されていくのでしょう。 

 イスラム教の神はユダヤ教と同じです。彼らはモーセをムハンマドの次に重んじているので、旧約聖書の原則と同様のものを持っているのではないかと思います。そのモーセの律法にはこう書いてあります。
「鳥類のうちで、次のものは汚らわしいものとして扱え。食べてはならない。禿鷲、ひげ鷲、黒禿鷲、鳶、隼の類、烏の類、鷲みみずく、小みみずく、虎ふずく、鷹の類、森ふくろう、魚みみずく、大このはずく、小きんめふくろう、このはずく、みさご、こうのとり、青鷺の類、やつがしら鳥、こうもり」。

 なので鳥葬された人肉を食べる可能性のある雑食の鳥は、そもそも食べてはいけないと規定されているのではないかと思います。輸血を避けるエホバ信者は、血が入っているサラミソーセージも避けますよ。

2017/09/02(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

旧約聖書の律法を、もっと拡大解釈しますと「永久不戦」になりそうです。
「子はその手にした剣で親を斬ってはならない。その逆もまたしかり」
「親はその手にした弓矢で子を射てはならない。その逆もまたしかり」
武器を使用すると、人の親や子を殺す事になる(北朝鮮の)ミサイルなどもっての外です。
神の戒律どうりなら人は一切武器を使用できません…いやぁ、さすがに全能の神の戒律ですね。
しかし、肝心のユダヤ教徒=イスラエルすら神の戒律を平気で破ってます…愚かなるは人ですね(笑)

2017/09/02(土) |URL|sado jo [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)
> 「子はその手にした剣で親を斬ってはならない。その逆もまたしかり」
「親はその手にした弓矢で子を射てはならない。その逆もまたしかり」

 これは何でしょうね。こんな聖句はないですから。聖書の教えを拡大解釈すると、こんな言い方もできるということなんでしょう。

> 神の戒律どうりなら人は一切武器を使用できません
 そうですね。新約の神は武力には反対です。イエスは「汝の敵を愛せよ」「剣を取る者は、みな剣によって滅びる」と言っています。

 しかし旧約の神は新約の神と同じはずなのに、かなり違いますね。旧約時代の神は、カナン(パレスチナ)に住んでいた異教徒は全員絶滅せよと命じ、イスラエルは、その土地の住民を女・子供に至るまで一人残らず皆殺しにしてまわり、家畜や戦利品は自分たちの物としましたから。
 黒人霊歌やジャズのスタンダードナンバーで有名な『ジェリコの戦い』はエリコの城壁を攻略したヨシュアを称えるものです。
 https://www.youtube.com/watch?v=gPZuWzZvoYQ

 異教徒を絶滅させなければいけない理由は《彼らがいれば、やがてイスラエルが彼らの神を崇拝するようになったら良くない(申命記6:2-4)というのですから、まあ、神の異常な排他精神と不寛容が大量殺戮の原因なのですね。
 ゆえに現代でも同じ神を崇拝する者たちがキリスト教世界の人々を憎むのは、そもそも一神教の排他的な精神に原因がありそうです。

 どんな記事にもコメントを書いてくださって、感謝します。^^)

2017/09/02(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

ユダヤ教とキリスト教

バーソさん
こんばんは。

ユダヤ教はモーセ五書のみ、キリスト教は新約聖書
がメイン、

では将来の教えは?と言うと
イエスが過去に言われた「2つの掟+霊に対する
冒涜」のみになるのでしょうねぇ。

ユダヤ人は「義に過ぎる者」となったらどうなるか?
を例証=パリサイ人が有名ですね!

キリスト教は「教えを都合よく曲解」したらどう
なるかを例証でしょうか?

まぁ、サタンも死んでしまえば、「罪は放免される」
みたいなので、復活の希望はありかも?

であれば、「三つ子の魂百まで」を何とか嘘の教え
であると言って欲しいですね!

まさか、赤ちゃんが罪に凝り固まっているとも思え
ないですが、
桃太郎伝説の「ボクのおとうさんは、桃太郎という
やつに殺されました」の新聞広告を思い出しました。

2017/09/02(土) |URL|kenichi2409 [edit]

こんばんは

話の通じない、めげないモーゼに困惑する神、
笑いました。
親子丼のこと、私もそう思いました。
こういうモーゼみたいな人っているんです。
「12日以降いつでも連絡してください」
「12日は都合で連絡できないんです」
「だからあ12日以降ならいつでも」
「13日でもいいですか?」

拡大解釈と言えば、ホテルの部屋や病室には13号室や
4号室9号室ってないことが多いですね。
欧米が13を嫌う理由は納得できますが、日本の4号室9号室って
「死」「苦」のだじゃれからくるから情けない。(笑)

ちょっと前に、「ユダヤ教徒の結婚事情」というNHKの番組を
見ましたが、男は奇妙な帽子を被りひげを蓄えている人が多かったです。
専門の見合い業者の手で見合いをし、3回の以内のデートで結婚を
決めなくてはいけないとか他にも戒律や宗教の縛りがたくさんあって
めんどくさい、ユダヤ人でなくて良かったと思ったものでした。

2017/09/02(土) |URL|エリアンダー [edit]

輸血-悩ましいですね

バーソさん
kenichi2409です。

ユダヤ人は「義に過ぎる者」...
=>
ユダヤ教は「義に過ぎる者」...
でした。
ソソッカシクてすみませんでした。

輸血問題はイロイロありますね。
小生も過去にイロイロありまして。。

国民の象徴である「天皇陛下」がどのように
されているか、気になって調べた事があり
ますね。
※日本の最高度の治療を施されますよね。

日本の天皇は2000年以上歴史があると
言われているので「血の使用」は宗教的な
観点が絡むみたいですね。


●平成15年1月18日の手術後の
 皇室医務主管発言要旨
今上天皇の場合は「自己血」で手術をされた
そうですね。

●天皇陛下お誕生日に際し(平成3年)
「血友病の人が輸血によってエイズに感染」
と心を痛めているとご発言。

●皇后陛下お誕生日に際し(平成15年)
皇后陛下は「輸血血液の問題等,これからの課題」
とご発言

そんな訳で小生も悩ましい所です。
※上記の3つの記事は「宮内庁」より検索

単なる大量出血なら「リンゲル液」か「生理食塩水」
「電解質液」・「カントン・プラズマ」で済むの
でしょうが。

医学界の良心(進歩)に期待する所ですね。



2017/09/02(土) |URL|kenichi2409 [edit]

Re: ユダヤ教とキリスト教

kenichi2409さん コメントありがとうございます^^)
 聖書の理解がある人とのやり取りは話がしやすいですね。
 すべてごもっともです。サタンが復活するなんていうと、キリスト教徒が白目をむきそうです。死んだら罪から放免されるですか。そうですね。しかし「霊に対する冒涜の罪」というものがあるなら、サタンには適用されないのでしょうかね。後の世でも赦されない罪とされていますから。

 私は別の意味で、サタンというものが存在するなら、サタンも復活するだろうと思っています。なぜなら真の神であれば最高レベルの無条件の愛を持っているはずで、無条件ならサタンも赦されないといけません。

> であれば、「三つ子の魂百まで」を何とか嘘の教え
であると言って欲しいですね!

 大体がアダムの罪を子孫が受け継いでいるとする原罪の教理は、パウロの考案ですが、じつに論理的におかしな考え方です。エゼキエル書に「子は親の罪を受け継がない」とあり、これが道理であり、常識というものだからです。

 天皇陛下は自己血使用でしたか。そうでしょうね。平民の血が混じるのは問題でしょうから。
 輸血には医学的な問題がいろいろあるというのは、その通りだと思いますね。リンゲル液とかの代替液のほうが良い場合も多そうです。
 がしかし輸血は聖書的に罪だからいけないと言われると、それはまったく違うと言いたくなります。聖句でも何の文章でもそうですが、その文脈や意図や社会背景を意識しないと解釈を誤ります。

 私は創世記9:4の「血を伴う肉を食べてはならない」に言及してなかったので、それを補足しておきます。その聖句は全人類に当てはまると言われていますが、まったく違います。
 もしそうなら、文脈では「子を生んで多くなれ(1)」と命じられていますが、パウロもイエスも独身を勧めていますから、矛盾することになります。現代の独身者や子を生まない夫婦も、この聖句に違反していることになります。
 「陸と海のあらゆるものを食べて良い(2,3)」とも言われていますが、これはモーセの律法と矛盾することになります。
 なので、これはノアとその家族に言われたことであり、次に新しい(モーセの)律法が与えられるまでの期間だけに当てはまる戒律なのです。

 それに4節の意味はよく見ると《まだ命(魂)が残っていて、血が滴っているような肉は食べてはいけない》、つまり、まだ命が残っている肉を食べてはならないと言っているだけです。今でいえば、包丁を入れてもまだ少し動いているような「活き作り」とか「踊り食い」のような残酷な食べ方が禁じられているのです。肉の生食は寄生虫感染の問題もありますか。

 大洪水後に初めて肉食が許されたのですが、その場合は残酷な食べ方をしてはいけないと言われているにすぎません。「子やぎの肉を母の乳で煮てはいけない」というのと同じ趣旨のことが言われているだけです。

2017/09/03(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: こんばんは

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
 「12日以降」の会話。これはエリアンダーさんが実際に体験したことでしょうかね。こういう人は時々いますね。婉曲話法が通じません。ネガティブ話法も通じません。こういう《生真面目な》しかし頭のあまり良くない思考の人が聖句の拡大解釈をする人になるのでしょう。

 13や4が忌み数字。駄洒落ですから確かに愚かしいです。私は大学では野球部にいましたが、背番号が4だったですよ。私の守備がセカンドなので、主将がその数字を割り当てたのです。でも私は全然気にしなかったですね。子供の頃から、迷信や縁起担ぎ、ゲン担ぎ、ジンクス、魔除けなどは信じないほうでしたから。

 そういえば結婚式にも忌み言葉というのがあります、と書いていたら、面白い話を思い出しました。ある人が友人の結婚式で「逃げた女房にゃ未練はないが・・」と歌ってヒンシュクを買ったというのですが、春風亭柳昇の落語『結婚式』も思い出しました。「新郎は小さいときから非常に勉強が好きで、小学校など普通六年やるところを、八年もやりました」「新婦花子さんは、私の学校を首席で卒業なさいました方と、一緒に卒業なさいました」。

 ユダヤ教はこまかな戒律が非常に多いのですが、キリスト教にもあります。例えば聖書は「すべての男の頭(かしら)はキリスト、女の頭は男、キリストの頭は神である」(コリント第一11:3)と序列を定めています。そして10節では女性に禁則が命じられています。それは「女は、み使いも見ているのだから、頭にかぶりものをせよ」です。
 頭にかぶりものをするのは、女が男より下位にあることを認めているしるしになる、それは天のみ使いも見ているほど重要なことだ、大体が女の髪の毛が長いのはかぶりものの代わりなのだ、と言われているのです。

 カトリック教会では、女性の信者が白いベールのようなかぶりものをしているのはそのせいなんですが、ヒゲを剃ってはならないという戒律と同様に、そんな教えにどんな意義があるのかと思います。聖書には、いい教えもありますが、そうでない教えもあるのですね。

2017/09/03(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

実は・・・

もをぜ「髭剃るのめんどいわぁ。毎朝毎朝時間あらへんのにやっとれんわ」
やはべ「別に無理して剃らんでもええやん」
もをぜ「そら楽やな」
もをぜ「今神託があった。民衆よ、今日から髭剃ったらあかんでー。剃ったら神罰が下るでー」
民衆「何やそれー」

いえす「最近不景気やわぁ。誰も騙されんから全然儲からへん。」
がっど「そない不浄な金に執着せんと、清貧でやったらええやん」
いえす「なるほど、そらそうやな」
いえす「今神託が下りた。金は不浄なもんやから持ってたらあかんで。罪から逃れる為にわいに預けいやー」
民衆「その嘘、ホンマかねー」

むはん「神さん、わい、豚肉嫌いやねん。せやのに、母ちゃん体にええ言うて豚肉ばかり料理すんねん。どうしたらええ思う?」
あっら「嫌なら食わなええやん」
むはん「こら助かるわ」
むはん「今神託が下りた。民衆よ、今日から豚肉食うたらあかんでー」
民衆「ブーブー!!」




2017/09/03(日) |URL|miss.key [edit]

Re: 実は・・・

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
 あはは、オチの「ブーブー」がトンでもなくいいです。私もブーたれずに頑張りたいと思います。いや、ほんと。(^_-)
 
 こういうオモロイ話をされたら、当方としては、ただただマジメな話で答えざるを得ません。で、聖書の話ですが、現代人が見て、これは道理にかなってないと思える戒律や戒めがなぜ制定されたかと言えば、当時の社会状況では適切だったか、政治指導者と宗教教団に都合がよかったためだろうと思います。
 昔は民主主義ではなかったので、民衆のことより、支配階級の益と存続が常に優先されたのでしょう。

 「清貧」の教えとは、経済的に貧しくても、精神的に清ければ神の目から見て尊いのだという教えですから、上位にいる者が下位にいる者に気を遣わずに裕福に暮らしていくには非常に都合のいい教えです。

 何かの教えを、単なる偉い人間が言うと反論されますが、神からの託宣だと言われると受け容れざるを得ません。古代イスラエルの律法時代は、大祭司が「ウリム」と「トンミム」という《籤》を用いて、神の回答はイエスかノーを判定したようです。黒と白の碁石のような物で、神のご意思を伺ったわけです。今風にいえば、イエスだったらピンポーン、ノーだったらブーブーだったのです。

 西暦前7世紀にエルサレムの神殿が古代バビロニア帝国に破壊されたときには、もはやその《籤》はどこかに行ってしまったようです。
 ということは、その頃から神は沈黙を続けていると言えます。

 とかく新興宗教には、自分には神から直接神託があったとか、自分はイエスや釈迦の生まれ変わりだと称するカリスマ的リーダーが必ずいますが、そうしたものの真偽を判断するのは簡単です。聖書は《その予言が当たればホンモノだ》と言っています。当たらなければ間違いなくニセモノです。そして、その教団が金(献金・お布施)を多額に要求しているかどうかでも見極められると思いますね。

 ところが人が簡単に騙されるのは、その指導者が極めて誠実そうに見える場合です。聖書は「サタン悪魔は光のみ使いに偽装する」と述べている通り、そういう人は自分を立派な人物であるように見せかけるのが上手なので、これは気を付けないと自分の人生を破壊されますね。

2017/09/03(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2017/09/05(火) || [edit]

Re: お願い

鍵コメさん コメントありがとうございます^^)
そちらのほうにコメント入れました(^^ゞ

2017/09/06(水) |URL|☆バーソ☆ [edit]

表題が…???

今回も懲りずにキツーイことを言います。
表題「子やぎの肉を母の乳で煮るのは禁止律法の拡大解釈」を分解すると、主語が「子やぎの肉を母の乳で煮るのは」であり、それを受ける述語は「禁止律法の拡大解釈」となります。
これではおかしなことになります。
最も短い語句で訂正するとすれば、「子やぎの肉を母の乳で煮るのは禁止、その律法の拡大解釈」となりましょうね。

この戒律の趣旨は「当時の異教徒の雨乞いの儀式か、豊穣のための魔術的儀式であったので、聖書の神はそのような慣習を禁じたという説」を小生としては支持したいですね。
乳(牛乳)を飲む食文化は、今日キリスト教社会のベジタリアンでも禁忌とされておらず、牛を神と崇めるヒンズー教徒であっても牛乳は飲みますし、殺生を極端に避けるジャイナ教徒も同様です。
こうしたことから、紀元前のユダヤ教成立時点で多く飼われていた山羊(それより羊が多かったのではなかろうか?牛は貴重ではなかったか?)の乳を飲むことは一切の抵抗がなかったであろうと、小生には思われます。
「子やぎを害する」という説に立つと、これは多神教の日本文化に際立っているのですが、幕末に面白い逸話があります。以下、紹介します。
 米国が下田に領事館を置き、初代領事ハリスが幕府に牛乳の提供を申し出たのですが、幕府は、「牛は、農耕、運搬のためにのみ飼い置いており、養殖は全くしておらず、まれには子牛が生まれるが、乳汁は全て子牛に与え、成育させるがため故」と理由を説明し、「牛乳を給し候儀一切相成りがたく候間、断りおよび候」と拒否し、ならば雌牛を提供してくれという申し出に対しても、同様に断固として拒否しています。
 ところが、その1年半後、ハリスが重い病に臥したため、幕府は、何としてもハリスを死なせてはならぬと、あれほど望んだ牛乳であるから、どれだけかの効果はあろうと牛乳を差し出し、それ以降、各国領事館へも牛乳が販売されるようになったとのことです。(引用ここまで)
 各国、各地域の宗教文化って面白いものですね。それが拡大解釈されたり、日本のように反故にしていったりして、最後には、どう考えたって原文とは真逆になってしまったりもする。「電動シェーバーも二枚刃式なら剃っているのではないという敷衍解釈」、これは傑作でもあり、また、困ったものですねえ。日本の憲法9条解釈みたいです。
それと、小生も読み進めていくに直ぐに思い浮かんだのですが、日本の「親子丼」は絶対に許せないものですね。多神教徒にあるまじき重罪です。でも、小生も食べます。「いただきます」「ごちょそうさま」と言えばいいんだからと。

最後になりましたが、神とモーセのジョーク仕立ての会話は傑作ですね。思わず吹き出してしまいました。

2017/09/06(水) |URL|永築當果 [edit]

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2017/09/06(水) || [edit]

Re: お礼

鍵コメさん コメントありがとうございます^^)
 あらー、さぞお忙しいでしょうに、ご丁寧にありがとうございます。
 分かったのですか。あれれ、なんで分かったのでしょう。(@_@)
 お恥ずかしいです。(^_-)
 ではまたー。(^^♪

2017/09/06(水) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 表題が…???

永築當果さん コメントありがとうございます^^)
> 今回も懲りずにキツーイことを言います。表題「子やぎの肉を母の乳で煮るのは禁止律法の拡大解釈」を分解すると、主語が「子やぎの肉を母の乳で煮るのは」であり、それを受ける述語は「禁止律法の拡大解釈」となります。これではおかしなことになります。最も短い語句で訂正するとすれば、「子やぎの肉を母の乳で煮るのは禁止、その律法の拡大解釈」となりましょうね。

 主語は「子やぎの肉を母の乳で煮るのは」ではなく、「律法の拡大解釈」で、それを修飾するのが「子やぎの肉を母の乳で煮るのは禁止」としているつもりです。述語はありません。
 なので、少し言葉を補って、より厳密に書けば、こうなります。
 「子やぎの肉を母の乳で煮るのは禁止するモーセの律法の拡大解釈」

 あるいは、ごく普通の言い方をすれば、こうなります。
 「子やぎの肉を母の乳で煮ることを禁止する律法の拡大解釈」

 最初は上記のように書こうかと思ったのですが、これでは説明的で間延びしたお役所言葉みたいです。今回の話は、子やぎの肉を煮る話が主ではなく、律法の拡大解釈の話がメインです。なので、その辺のニュアンスを「~で煮るのは」という言い方に込めているつもりですね。こういう短縮的な言い方は、巧くはないですが、たまにあります。

 言葉が足りないのは承知していて、語調も考えて、ちょっと引っ掛かるように、あえてそうしているのです。いや、良くないと思うかもしれないですが、私のブログなので、私の範疇のことです。

 「子やぎの肉を母の乳で煮るのは禁止、その律法の拡大解釈」の修正案ですが、これはいただけませんね。語調が悪く、キャッチフレーズになっていません。せっかくですが。


--------------------------------------------------------------
> 今回も懲りずにキツーイことを言います。
 これで私のブログへの悪口は4回目ですかね。同義語は「キツーイ」とか「辛口の」「批評」「批判」で、前回は抑えめの「指摘」でした。

 永築さんに私も、まず二つの点を「指摘」したいと思います。
●「批評」とは、プロが、下位の者に対してする行為です。

 Wikipediaに、こう書いてあります。「評論家あるいは批評家とは、評論や批評を仕事としている者」。
 なので、批評していい人とは、ある分野の才能を十分に有し、それなりの実績を示し、それが世間的に認知されている人です。いわゆる「評論家」という肩書を持っている人か、その分野で長年メシを食っているような「プロ」と呼ばれているような人です。
 そのような人は、誰でもやたらに批評しているわけではなく、例えば何かの賞の審査委員をしている時とか、プロの新人の作品に対して、新聞や雑誌などの批評欄などで、そういう批評行為を報酬をもらってそうしています。

 しかし専門のプロであっても、ネットのブログ記事に対して「批評」「批判」という言葉を使って、それをするなら、それは本人の思い上がりと他者に対する無礼を示している以外なにものでもない、と一般には思われるでしょうね。永築さんは、そう思ったことはないのですか。

●「添削」とは、教師が、下位の者に対してする行為です。

 Wikipediaには、こう書いてあります。「添削は、教師が学習者(児童・生徒・学生など)の答案や作文、レポートなどを点検する際に行われる学習指導の1つである」。
 自分より下位の立場にはない大人の誰かに、あたかも教師が自分の生徒か児童に対するように文章の《添削指導》をするなんて無礼な人は、世の中に居ると思いますか。プロの作家でもプロの評論家でも、そんなことは常識として、しないと思うのですがね。

 頭のいい永築さんがこの二つを理解してないのが、どうも私には理解できません。不思議です。


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 永築さんは、いや、そんなつもりはなく、親切で教えただけだ、あるいは単に提案したにすぎないと思っているかもしれません。

 だったら、鍵コメにするか、メールフォームを使うべきでしたね。
そして、できるだけ相手の感情を傷つけないように気を使った、もっとやわらかい言い方をすべきでした。
 今回の「キツーイ」という言い方自体に、そういう他者への親切とか気遣いが表れていると思いますか。いいえ、それどころか、相手をへこませてやろうという、上から目線の意識がよく出ていると思えるのですがね。

 私は、永築さんの一番最初のコメントを見たとき、この人はケンカを売ってきたのか、ブログ版の道場破りか、一体なんなんだろう、と思いましたね。何かのことで私に恨みでもあるのだろうか、と今でも訝しく思っているのですが、私はそちら様にはコメントを書いたこともなく、拙ブログ上で激しく言い争いをしたこともなく、私には思い当ることが全然ないのですね。

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 今回は冒頭に「懲りずに」とありました。
 どうもまだ理解してないようなので、念のために申し上げておきますが、大抵の人なら、批評、批判や添削指導をされたら不快になり、怒るとは思わないのですかね。普通のひとなら、余計なお世話だ、自分は何様だと思っているのか、偉そうにして、思いあがるな、と怒って激しく言い返すんじゃないですか。
 ご承知のように、ちょっとした異論や提案であっても、また誉め言葉のつもりの(分析的な)感想であっても、プライドを傷つけられたと感じて腹を立てる人はけっこういますよ。中には感情を害してコメント欄を閉じたり、ブログを休んでしまう人さえいますからね。

 むろん、学生時代からの飲み友達のように、互いにごく親しい間柄なら、この言い回しはこうしたらどうか?と率直にアドバイスすることもあるでしょう。しかし、そうであっても、「親しき仲にも礼儀あり」との格言がありますね。

 永築さんは頭がいいようなので、ひとの文章を分析批評し、添削指導をすることが楽しいのでしょうかね。「物凄い指摘」が入ったときには「コメント返しで逆指摘」しているそうですが、そういったことは楽しことであり、うれしいことなんでしょうかね。そうだとしたら、これは大きなお世話ですが、あまりいい趣味だとは思えませんが。

 むろん私の記事のいい点も気付いて指摘していただいて、それは有難いことで、うれしいのですが。


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 こういう話は二度としたくないので、もうひとつ言わせていただきますよ。
 たとえば、玄人の画家と美術評論家は、全く別次元の人です。前者はプロとして描くことででメシを食っている人ですが、後者は絵を描く能力に欠ける人で、ただ分析批評だけがうまい人に過ぎません。
 コロンブスがユニークなアイディアでタマゴを卓上に立てたら、その方法は簡単だと難癖をつけた人がいました。これは《コロンブスのタマゴ》の逸話として有名ですが、ひと様のアイディアなり文章を上から目線で分析批評できるのは、自分でもそれと同等以上のものを持っている人に限ると思うのですが、どうでしょうね。

 何かを創意工夫し、新しいことを産みだすのはかなりの才能が要ることですが、それを批判するのはじつに簡単なことです。野球ファンなら、プロ野球選手の打撃フォームが悪いという批評はできるでしょうが、自分が打席に立てば、ボールにかすりもしないはずです。
 批評は誰でもできるので、いまでは「一億総評論家時代」とか「一億総ツッコミ時代」などと揶揄されていますね。


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 私のリンク先に小説ブログを書いている人がいますが、プロではないとしても、まあさすがに文章力は見事なもので、私は遠く及びません。その人から何か修正提案を言われたら、私はすぐ、恐れ入りましたとなると思います。

 ですが、大変失礼ながら永築さんのブログを少し拝読しただけで言うのはナンですが、今まで読んだ限りでは、印象に残っているフレーズはまったくなかったですね。内容の良さはあるだろうとは思いますが、何しろ私の詳しくない分野なので、よく分かりません。
 なので文章技術についてだけ、私も長年書くことでメシを食ってきた人間なのでプロの目線から少し言わせていただきますが、巧さや冴えや光る言葉や文体のアイディアなどは全然感じられなかったですね。単にごく普通の語彙を使った、平凡な文章構造に見えました。対話調の文体にしても、ただ対話調にしているだけに見えました。もっとも全部を読んだわけではないので、他の箇所には沢山いい点があるのかもしれませんが。

 ついでに申し上げておきますが、じつは、以前の「では」と「でぃ」の指摘は、私の校正不足でした。おかげさまで気づかされて良かったのですが、でも永築さんの修正案は、私としては言い回しの語調(テンポ)が自分の感性とは合わなかったのです。
 しかしまあ芝居ではセリフを言うときにちょっと長めに間を置くこともあるからと思うようにして、その前後の言い回しを微修正し、永築さんの添削指導を譲歩して受け入れたのですが、正直に言わせていただくと、あの直した最後の文章は今でも少し気持ち悪いのです。だいぶ経ちましたし、そんなにこだわっていないので、もういいのですが。


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 以上は、永築さんの真似をした、私の初めての「辛口の批評」です。いや、今後のことも考えての助言、もしくは提案です。何度も同じことを言いたくないので、くどくどと、かなり長めに感想を書きました。

 楽しかったですか。いや、きつく言い返してやろうと思いましたか。ともあれ、かなり不快に感じたんじゃないですか。
 そうなら、その不快感は、永築さんが今までに批評・批判した相手のほうもまた同じ感情を抱いた、ということをぜひとも知っておいたほうがいいでしょうね。私は、この返コメは、それがわかるように書きました。

 このくらいのことは、普通は、大人の常識でわかるはずなんですが、いまだわからないようなのが本当に不思議です。


 以下は、私の長年の友人のブログ『夏への扉』からの引用です。

 人に忠告することは実に楽しいことなので、
 ときには本当に他人のためを思って忠告することさえある
  ・・・・・ルナール(作家)


 長々と失礼しましたね。(^_-)


2017/09/07(木) |URL|☆バーソ☆ [edit]

誠に失礼しました

バーソ様のこのブログが実に素晴らしく、夢中にさせられました。“こりゃあ、きっと筆達者な大先生の手になるものにちがいない。この大先生に自分の存在を認めてもらいたい。”とばかり、“はい、先生、自分はこう思います。”と手を挙げて意見を言う悪餓鬼、それが小生でした。
小生、幾つになっても好奇心旺盛な、まだ子供の心を持ち備えているようで、それは長所でもあり、短所でもあることを改めて思い知らされました。
度々のご無礼の段、お許しください。臥してお詫び申し上げます。
ご指摘の数々、ご無理ごもっともなことばかりです。他人の心をひどく傷つけてしまっていたことがよく分かりました。小生、このご指摘に不快感を感ずることはなく、ただただ申し訳なさでいっぱいです。
小生の、そのやることなすことにビックリされ、時々変人だと言われるのですが、いまだ大人の常識さえ分からない変人であることも今回はっきりしました。
今後は、相手にきちんと敬意を払うことを胆に銘じて行動することとします。バーソ様にはコメント返しに長時間お手を煩わせ、小生ごときに良きご指導をいただきましたこと、深く感謝申し上げます。

2017/09/07(木) |URL|永築當果 [edit]

Re: 誠に失礼しました

永築當果さん コメントありがとうございます^^)

 私は「ご無理」は全然言ってないつもりですが、
 しかし今回は、普通なら、ひと様に絶対に言わないようなことを書きました。ちょっと心配しています。
 「臥して」いるとのこと。大丈夫でしょうか。

 スポーツには、いい言葉がありますね。
 ノーサイドです。

 永築さんは、知的好奇心が旺盛で、なかなかの知識人で、貴重な存在です。
 できれば、このノーサイドの精神でお願いできれば有難いことだと思っています。(^_-)


2017/09/08(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2017/09/08(金) || [edit]

鍵コメさん コメントありがとうございます^^)
 あらー、いつも優しいお言葉を。ほんとうに褒め上手ですね。
 おかげさまで、これでまた一週間は、いや、二週間は・・・(笑)

 胡椒といえば、十代目柳家小三治が得意とした落語の『棒鱈』を思い出しました。
 小三治は、一度、ビクターが主催するスピーカー実演コンサートで、司会をしていたのを見たことがあります。かなりのオーディオマニアですね。

2017/09/08(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2017/09/08(金) || [edit]

Re: タイトルなし

鍵コメさん コメントありがとうございます^^)
 そちらにコメントを入れましたよ。(^^♪

2017/09/08(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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