「バーソは自由に」

 考え方はいろいろあるから面白い。

 ユダのイエスを裏切る気持ち。太宰治の『駈込み訴え』。 


 Hey Jude, don't make it bad (ヘイ ジュード 悪く考えるなよ)
  Take a sad song and make it better (悲しい歌でも ましにしろよ)


これは『ヘイ・ジュード』(Hey Jude)の歌い出し。ビートルズの名曲の一つだ。

ポール・マッカートニーが、ジョン・レノンの長男5歳のために作詞・作曲。
(長男は愛称がジュールだが、普遍性を持たせるためにジュードとした)
ジュードは、あのイスカリオテの“ユダ”を思い出させる英語名でもある。

ジョン・レノンは、36年前の1980年、ファンだった男に射殺された。
(男の名はMark David Chapmanで、チャップマンとは古英語では商人の意)
イエスも、自分のファンであったはずの十二使徒の一人から裏切られ、殺された。

jud4l.jpg
ポール・ギュスターヴ・ドレ『ユダの接吻』。これが合図となり、イエスが捕まえられる。

ユダがなぜ裏切ったかにについては、昔からいろいろな解釈がされている。
(1)貪欲で、密告代が目当てだった。(2)大きな目で見れば神の目的の中にあった。
(3)サタンがユダの心に入った。(4)イエスを救い主だと信じる気持ちが弱かった。
(5)イエスがローマ政府に対して革命を起こさないので幻滅して見放した… 等々。

太宰治がユダの告白を兼ねた訴えというスタイルで、裏切りの動機を書いている。
妻の美知子が太宰の口述を筆記した短編小説『駈込み訴え』。
現場での生録音のようにして、ユダの心の動きと揺れを表そうとしているようだ。



――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
駈込み訴え――――太宰治   初出:『中央公論』1940(昭和15)年2月

ユダが「旦那さま」と言って、祭司長の家で「あの人」イエスの罪を訴えている。
ユダは「あの人」への愛を語った後、すぐに「あの人」への憎しみも言っている。
                     
(抜粋省略引用。カッコ内はバーソ注釈)
1.あの人はいやな奴で、悪人だから捕まえてほしい。
「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。厭な奴です。
悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。私は、あの人の居所を知
っています。すぐに御案内申します。殺して下さい」


qpo1.jpg
ジョット・ディ・ボンドーネ『裏切りと報酬』。左の黒い悪魔サタンがユダに入ろうとしている。

2.とはいえ、あの人は非常に愛すべき人だ。
「あの人を抱きしめ、共に泣きたく思いました。あなたは、いつでも優しかった。
いつでも正しかった。いつでも貧しい者の味方だった。そうしてあなたは、いつ
でも光るばかりに美しかった。あなたは、まさしく神の御子だ」
「私には、いつでも一人でこっそり考えていることが在るんです。それはあなた
が、くだらない弟子たち全部から離れて、また天の父の御教えとやらを説かれる
こともお止しになり、つつましい民のひとりとして、お母のマリヤ様と、私と、
それだけで静かな一生を、永く暮して行くことであります」


3.しかしながら、あの人は意地が悪く、私ユダに感謝がない。
「私は群集からこっそり賽銭を巻き上げ、また、村の物持ちから供物を取り立て、
宿舎の世話から日常衣食の購求まで、煩をいとわず、してあげていたのに、あの
人はもとより弟子の馬鹿どもまで、私に一言のお礼も言わない。たまには私にも、
優しい言葉の一つ位は掛けてくれてもよさそうなのに、あの人は、いつでも私に
意地悪くしむけるのです」

4.あの人は女にうつつを抜かすような人間だ。
「あの人が、たとえ微弱にでも、あの無学の百姓女(マルタの妹マリア)に、特別
の感情を動かしたということは、やっぱり間違いありません。私の眼には狂いが
無い筈だ。ああ、我慢ならない。堪忍ならない。…私だって(女を)思っていたの
だ。町へ出たとき、何か白絹でも、こっそり買って来てやろうと思っていたのだ。
私は口惜しいのです。ジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ」


mara3.jpg
ピエール・シュブレイラ『シモンの家の宴』。マルタの妹マリアがイエスの足を高価な香油で
拭いている。しかしこの絵は同じようなことをしたマグダラのマリアと思われているようだ。


5.あの人はどうせ殺されるのだから、私ユダが殺したほうがいい。
「いずれは殺されるお方にちがいない。またあの人だって、無理に自分を殺させ
るように仕向けているみたいな様子が、ちらちら見える。私の手で殺してあげる。
他人の手で殺させたくはない。花は、しぼまぬうちこそ、花である。美しい間に、
剪らなければならぬ。あの人を、一ばん愛しているのは私だ。どのように人から
憎まれてもいい。一日も早くあの人を殺してあげなければならぬ」


6.あの人は発言が過激で、世間を騒がす予言なんぞを語っている。
「あの人は宮に集る大群の民を前にして、無礼傲慢の暴言を、滅茶苦茶にわめき
散らしてしまったのです。まだそのほかに、饑饉があるの、地震が起るの、星は
空より堕ち…ることがあろうだの、実に、とんでも無い暴言を口から出まかせに
言い放ったのです。なんという思慮のないことを、言うのでしょう。身のほど知
らぬ。いい気なものだ。必ず十字架。それにきまった」


7.あの人は私の裏切りを見抜いているので、だから銀30枚で売るのだ。
「あの人は死ぬる人のように幽かに首を振り、『私がいま、その人に一つまみの
パンを与えます。その人は、生れて来なかったほうが、よかった』と意外にはっ
きりした語調で言って、一つまみのパンをとり、腕をのばし、あやまたず私の口
にひたと押し当てました。それがあいつのせめてもの腹いせだったのか。あいつ
は私に、おまえの為すことを速かに為せと言いました。私はすぐに走り出て、夕
闇の道をひた走りに走り、ただいまここに参りました。はい、私は、金が欲しさ
にあの人について歩いていたのです。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴ら
しい。いただきましょう。私は、けちな商人です。はい、有難う存じます。はい、
申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ」


Jacop9.jpg
ヤコポ・バッサーノ『最後の晩餐』1546  問題:裏切者のユダはどの人か?(※答えは最後)      
               
       ____________________

               
ユダはイエスへの熱い愛情を語りつつも、イエスの薄情さや傲慢さを訴えている。
彼の愛情の裏側には恨みがあり、そこには嫉妬という暗い炎が燃えているようだ。

そして最後は、結局は自分は商人だからご褒美が欲しいのだと卑屈に言っている。
ユダは使徒たちの会計係をしていたが、商人であったという記述は聖書にはない。
太宰がユダを商人としたのは、シェークスピアの『ヴェニスの商人』に出てくる
ユダヤ人の金貸しシャイロックの“守銭奴”イメージと類型させるためではないか。

太宰が考えるユダの性格には、ナルシスト的な誇大な自信過剰があり、一方的な
恋愛感情や被害者意識もあったようだ。これはストーカーの心理とよく似ている。

警察庁の統計によれば、ストーカーに占める精神障害者の割合は、わずか0.5%。
とかく自己中心の思考をする人は、容易にストーカーになる可能性がありそうだ。
相手の立場になって考えることをすれば、自分の行為が是か非かは分かるのだが。

                 

最後のほうで、夜なのに小鳥がピイチク啼く声がユダにはうるさく聴こえる独白
が突然出てきます。これはユダの心の中を表すメタファーのようで、さすが文豪
の文章術だと感心します。とても面白いですよ。ぜひ、一読することを勧めます。


・短いので20分ぐらいで読めます。→青空文庫
・短縮版の朗読『きくドラ』なら7分で聴けます。→YouTube


問題の答え――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※ヤコポの絵では、おそらく、手を挙げて、「裏切者は私じゃない」と身振りをしている人物がユダ。
画面左上の、左から二人目の緑服の男は手を振って、「違う、違う」と否定しているように見える。

イエスの前にいるのはヨハネで、居眠りをしているのと若すぎるのが気になる。そうなったわけは、
当時は寝椅子に左ひじを掛け、傾き姿勢で座り、右手で食事をとったので、イエスの左のヨハネは
イエスに寄りかかるように座っていた。ヨハネ13章23節では「イエスの胸に寄り添って席について
いた」となっているのを、画家は、ヨハネが胸に寄りかかっている⇒横になっている⇒寝ていると
解釈したようだ。顔が少年なのはダ・ヴィンチの『最後の晩餐』の絵の影響もあるのではないか。
ダ・ヴィンチの絵では、イエスの左隣の人物は色白で優しく、どう見ても若い女性の顔をしている。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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愛しさ募って憎さ〇〇倍?

ユダの行動って、よくある人間感情の典型ですよねぇ。

>イエスへの熱い愛情を語りつつも、イエスの薄情さや傲慢さを訴えている。
 彼の愛情の裏側には恨みがあり、そこには嫉妬という暗い炎が燃えているよう だ。

まさに、この通りだと思います。
ただ、イエスが『その人は、生れて来なかったほうが、よかった』と
言ったのは人間的で笑えます。
ユダの密告がなければ、迫害され十字架という
センセーショナルな物語は残らなかったでしょうから。

ユダは、必要悪としての役割を全う。
イエスという存在を輝かせた、という意味において、
立派に12使徒の一人を演じたと思います。
イエスが長生きして大往生したとしたら、
聖書はベストセラーにならなかったでしょうから。

太宰の『駆込み訴え』1~7のユダ心理。
さすがのバーソ要約ですよねぇ。
ナルシスト、ストーカー、それでいて自虐的なユダ人物像が、
よ~く解りました。(*´ェ`*)

2017/02/11(土) |URL|風子 [edit]

誘導

バーソ様
おはよう御座います。

ビートルズねたかと思いきやユダへの誘導だったのですね。
このユダとイエスの関係は人間のいやらしさが凝縮されていますね。
お互いに計算でしかない。イエスにしても同様ですね。
やはり人間は罪深き存在です。

愛新覚羅

2017/02/11(土) |URL|aishinkakura [edit]

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2017/02/11(土) || [edit]

Re: タイトルなし

皆さま、コメントありがとうございます。
ちょっと出かけてきますので、
お返事は夕方ぐらいになります。
少々お待ちくださいませ。
いつもありがとうございます。(^^♪

2017/02/11(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

おはようございます

青空文庫読んできました。
キリストへの愛憎半ばしたユダのぐだぐだした弁解ですね。
訴えの動機に女性への嫉妬もあったとは知らなんだ。
ユダは神から遣わされた人物という視点もあって興味深いです。
いつも感心するんですがバーソさんは日本文学をよく
読んでおられますね。太宰治、芥川龍之介、宮沢賢治、
夏目漱石・・・。
いつだったかダヴィンチの「最後の晩餐」でユダはどれかが
話題になっていました。
今、スコセッシの「沈黙」が上映中ですね。
文江・・・、じゃなかった踏み絵のシーン、原作とどう違うのか
見てみたいです。

2017/02/11(土) |URL|エリアンダー [edit]

愛人を殺害した女性犯罪者が、よくこんな自白をするそうです。
「私は死ぬほどあの人を愛してました。なのに、あの人はあれこれと他の女に手を出しました」
「だから私はあの人を殺しました。殺してしまえばもうどこにも行く事はない。永久に私一人のものです」
それがユダのホンネでしょうね。その証拠にイエスの後を追って自殺していますから。
当時は同性愛は一般的な風習で、ソクラテスは何人もの男の愛人を抱えていたそうです。
彼が訴えられて処刑されたのは、嫉妬が原因ですね…イエスの場合も事情はよく似てると思います
愛する者を独り占めしたいと言う人間の情念は、今も昔も変りませんね(笑)

2017/02/11(土) |URL|sado jo [edit]

Re: 愛しさ募って憎さ〇〇倍?

風子さん コメントありがとうございます^^)
> ユダの密告がなければ、迫害され十字架という
センセーショナルな物語は残らなかったでしょうから。

 そうなんですよね。イエスは単に立派なことを語った偉人だったのではなく、その死は身代わりに死んだ自己犠牲の死で、それにより、人類の罪を贖ったとされています。だから信者はイエスを崇め、神様扱いをするわけで、そこにキリスト教の真髄があります。
 聖書の神による贖いのストーリーを思うと、ユダは気づかずして、立派に自分の役割を果たして神の目的を果たした。大きな目で見れば、イエスも他の使徒たちもローマの官憲も、そしてイエスを殺せと叫んだユダヤの群衆も、みんな自分の役割を果たしたと言えるのでしょう。
 神の視点で見れば、人生は完璧。確かに「ユダは、必要悪としての役割を全う」したと思います。

 1~7の要約をほめていただいて、感謝です。雨とアラレです。(笑)
 原文は口述を筆記したものだそうで、そのせいで繰り返しが多く、冗長であったり、褒めたり、けなしたりして脈絡がおかしくなったりしてそれがいかにもユダの心の揺れを表しているようで、なかなかの臨場感を出していると思いました。文豪のイマジネーションとはたいしたものですね。

2017/02/11(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 誘導

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
> このユダとイエスの関係は人間のいやらしさが凝縮されていますね。
お互いに計算でしかない。イエスにしても同様ですね。

 そうですね、ユダは悪人の代表みたいなもので、普通は、貪欲で、狡い人間だろうと思われています。聖書を読む限りでは誰でもそう思うと思います。この太宰の本を読んで、ユダの言う通りのことが真実だったと思えば、そう思えるでしょうね。

 ただ、これは太宰が想像した話なので、ユダならばこう思ったのではないかということで、おおむね悪意を持って状況を見た場合の事が書かれていると思います。イエスがユダに意地悪をしたなんて考えられないのですが、ただユダがひがみや嫉妬などを持っていれば、なんでもないことを悪く解釈するのではないかと思います。

 『ヘイ、ジュード』の文字を宣伝のために、どこかのウインドウに書いたら、直訳では「おい、ユダヤ人!」」の意なので、ガラスが割られて抗議されたなんてこともあったようです。事実は中立で善でも悪でもないのに、それを自分の思考によって勘違いして悪だと解釈する、というようなことが人間にはママありますね。要注意です。

2017/02/11(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

鍵コメtさん コメントありがとうございます^^)
 おー、面白かったですか。え~、ほんとですか。私に対しては、ちょっと珍しい感想に感じますが。でも、そうでしょう、本当でしょう。(笑)

 ユダはイエスに従ったということは愛情があった。しかし裏切ったということは憎しみがあった。とすれば嫉妬による憎しみという愛情のパターンがあり得るわけで、そうだとすれば、ストーカーのような偏った妙な感情があったとも言えそうです。

 イエスを売って得た銀30枚とは労働者の90日分に相当します。現代的に言えば、たった3か月分ほどの給料でイエスを売って悪名を得たわけですから、あとで後悔して自殺して償っても全くワリが合いません。
 ストーカー殺人もワリに合わなくてもするわけでしょうから、愛情の裏返しの憎しみというのも、なかなか怖ろしいものですね~。

2017/02/11(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: おはようございます

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
> 青空文庫読んできました。
 いや、そうですか。青空文庫を読むとしたらエリアンダーさんかなと思っていましたが、やはりそうでしたか。さすがです。感心します。

> キリストへの愛憎半ばしたユダのぐだぐだした弁解ですね。
 ほんとですね。確かに、ぐだぐだしています。私はそのぐだぐだがなかなか面白いと思いました。特にこういう緊迫した場面では、人はこんな調子で話をしますよね。これは太宰のアイディアなのでしょう。 

> 訴えの動機に女性への嫉妬もあったとは知らなんだ。
 聖書にはイエスの妻のことが一切書かれていないこともあり、一般的にはイエスは独身で童貞だと思われています。なんせ聖い方ですから。

 でも当時のユダヤでは、ラビ(教師)と呼ばれるほどの人が30歳になっても未婚ということはほとんどあり得ないそうなので、ラビと呼ばれて尊敬されていたイエスが結婚しているのはごく普通のことだと言う学者がいます。スピリチュアルでは、マグダラのマリアがイエスの妻だったと言う人もいます。
 マグダラのマリアはイエスから七つの悪霊を追い出してもらった女として有名です。彼女はイエスが刑柱に架けられていた時に居合わせています。イエスが埋葬後に墓に行って、(復活したために)墓が空っぽだったのを見て使徒たちに報告しています。そして復活後のイエスに最初に会った人として記録されています。それほどの人ですから、イエスの妻だったと思われるのも無理はないのですが、初期教会の指導者がそういう記述は女性の立場を高めて都合悪いので削除したのだろうとも言われています。
(ちなみに、聖書にはマリアと呼ばれる女性が6人います)
 
 私の読んだ本は文豪の短編をちょっとだけです。エリアンダーさんに比べたら天地雲泥の差ですよ。『沈黙』は読んだことがありますが、映画は近いうちには見に行く予定です。面白そうな映画ですね。

2017/02/11(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

sado joさん コメントありがとうございます^^)
> 愛人を殺害した女性犯罪者が、よくこんな自白をするそうです。…殺してしまえばもうどこにも行く事はない。永久に私一人のものです」
 そうですか。戦前の阿部定事件を思い出します。定は、殺した男の足に「定、石田の吉 二人キリ」と書いたそうで、確かに二人きりになれたとしても、相手を殺してまでそうするというのは常人には考えられませんが、男女の愛情にはそうした異常な感情の高まりとでもいうものがあるのでしょうかね。定はたった懲役6年だったとかで、まあ、深く愛されても、切断されて、殺されるほうはたまりません。

> ソクラテスは何人もの男の愛人を抱えていたそうです。
彼が訴えられて処刑されたのは、嫉妬が原因ですね…イエスの場合も事情はよく似てると思います

 昔から同性愛はよくあったようですね。ギリシア・ローマの時代も、日本の戦国時代も、そういうことが普通にあったようです。もっとも、男色と同性愛とは違うという話もあるようですが。
 ただしユダヤの律法では、同性愛は死刑にされる重大な罪でした(レビ20:13)。初期教会でも悪徳とされていました(ローマ1:26)。現代では容認する教会もあるようですが。
 そういえば太宰は『走れ、メロス』も友人の約束を守ろうとする友情を美しいものとして描いていました。ユダが一方的にイエスに、それに近い感情を持っていたという話は、あり得ないわけではないですかね。

2017/02/11(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

英雄が英雄たり得るには都合の良い悪の存在が不可欠なのか

 何が可哀相って、悪役押し付けられたユダちゃんにございます。全知全能の神様の子供が、メシアとしての自分の存在を世に知らしめる為にユダと言う悪役を仕立て上げたと言うのは、余りと言えば余りではありませぬか。人々を救うと良いながら、極一部とは言え人を嵌めたのでございますよ。救ってやれるだけの力を持ちながら、悪人としての役割を「果させた」訳ですよ。何かとっっっっっっっっても不条理なんですけどー。
 わたしゃ至って俗物ですからね、ユダにこそ共感するんですわ。確かに偉そうな事を言っているけど、その実何か企んでるのか判らない人を疑うのは人の性。これが悲しい佐賀。龍造寺より造反児。鍋島家化け猫騒動、武士道は死ぬ事と見つけたり・・・であります(なんのこっちゃ)。
 拝啓キリスト様、ユダはんに悪役やらせずに救ってやれんかったんですかね。善人の儘、使途の一人にしてやれんかったんですかね。ユダはんがあまりに不憫でなりませんのや。え゛?実は口裏合わせとったん?ユダはん天国で女侍らせて豪遊しとるて?それ、詐欺師がアジトでしてはる事と同じですやん。

2017/02/11(土) |URL|miss.key [edit]

Re: 英雄が英雄たり得るには都合の良い悪の存在が不可欠なのか

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
> 全知全能の神様の子供が、メシアとしての自分の存在を世に知らしめる為にユダと言う悪役を仕立て上げたと言うのは、余りと言えば余りではありませぬか。
 うーむ、やはり、miss.keyさんだ。そう思いましたか。

> 救ってやれるだけの力を持ちながら、悪人としての役割を「果させた」訳ですよ。
 そうですね。まあ、普通ならそう思うでしょう。大局的に、かつ客観的、理性的に見れば、そうなると思います。

> 何かとっっっっっっっっても不条理なんですけどー。
 まったくですね~。よーく考えればそうなんですが、そこはキリスト教徒の信仰では、そうは思わず、ユダの裏切りを利用してイエスに死がもたらされるようにしたのは、全人類を救うためにした神の大きな愛による救済計画の一部だとされているのです。
 
> ユダはんに悪役やらせずに救ってやれんかったんですかね。善人の儘、使徒の一人にしてやれんかったんですかね。
 聖書の神は悪には厳しく、罪を気軽に赦したりはしない神です。許すためには「贖い」が交換条件として必要です。
 贖いとは、買い求める。ある物と引き換えに別の物を得るの意です。あんパンを買うためには約百円のお金を支払うようなものです。
 つまり基本的に「罪の報いは死」という厳正な原則があります。そして「命には命、目には目、歯には歯」の公正の原則もあるので、人類の罪の結果である死は、だれか無実の人間が身代わりに死ぬことで買い戻さないと、つまり贖わないと人類の罪は赦されません。

 理屈としては正しいようですが、大体が人類の罪とは、最初の人間アダムがエデンで禁断の木の実を食べたことが死に値する罪で、その罪を全人類が遺伝により受け継いでいるために全人類は罪の下にあり死ぬとされているわけなので、そんなことは気にしないで神が思い切って恩赦を実行すれば、いっぺんに解決する話なのです。がしかし、神は愛の神でもあるが公正の神でもあるので、そうはしないのだとされています。

 ところで人間は自由意志を持っています。これは最大の特権です。
 なのでユダが裏切ったのも、アダムが罪を犯したのも、みなその自由意志を神が認めているので、悪い行動でも神は止めようとはしなかったのです。そういうわけでユダの裏切り事件は、ユダが自由意志でイエスを裏切っただけの話だ、となるのですね。冒頭のポール・ギュスターヴ・ドレの絵を見てください。まあ、ユダの顔の悪いこと。(笑)

2017/02/12(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

今回は、私には、ちょっぴり難しかったです。

バーソさん、私は最近、人嫌いが加速しています。
私のスタンスは
人とは50パーセントで接したい。
そんな気持ちです。

きっと職業病だろうと思われます。


2017/02/12(日) |URL|森須もりん [edit]

Re: タイトルなし

森須もりんさん コメントありがとうございます^^)
> バーソさん、私は最近、人嫌いが加速しています。
私のスタンスは
人とは50パーセントで接したい。
そんな気持ちです。

 ともあれ、50パーセントで接したいというのは、必要最低限にするということで、それでいいのじゃないですか。
 すべての人に100パーセントで接しなければいけないというわけではないでしょうし、ゼロパーセントじゃなければいいのじゃないですか。 去る者は追わず、来るものは拒まず、愛想のいい人には愛想よくし、そうでない人には50パーセントで応対する。自分のそのときの気持ちのままに生きる自然体でいいように思いますが。

 職業病ということは、仕事の経験によって達観することが求められていると考えたらどうでしょうね。そう思えば修業とは必要なもので、また厳しいもので、そんなものだと思えます。

2017/02/12(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2017/02/12(日) || [edit]

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2017/02/13(月) || [edit]

太宰は嫌いだった

家臣は四百人からいた
討ち入りに参加したのは
約一割
では残りの侍はいかな心境であったのか・・
バーソさんお早うございます
捻くれ者のおいらは餓鬼のころから捻くれ者でした
ただ
学校に上がる頃には戒めもひとつだけ持ちました
『殺』を禁句にしたのです
由って「殺す」を平気で口にする奴は
認めなかったのです

吉良の殿様は地元ではヒーローでした
勿論明智のお殿様もです・・・
であった相手が悪かったのでしょうか?

キリストもユダも一方通行
恋とは
相手を求めて
自分だけを考えること(欲)
愛とは
ひたすらに相手を慈しむこと(母の眼)
『恋愛』とは恋と愛がバランスをとること
このバランスが崩れるとそこに
嫉妬が入り込む・・こうなると後戻りはできません
結果は包丁でブスッとです
えっ!、バランスはどう取るのか?ですか?
それが分かればおいらはここには居りません
黄泉の国でお寝んねをしております
つまり
永遠のテーマでございます

とりあえずは
討ち入りに参加しなかった
赤穂浪士という手もありそうです
映画「七人の侍」の勝者はおいらのような
水のみ百姓でした
あはは
(それにしても博識にはまたまた驚かされました)
(あはは)。

2017/02/13(月) |URL|はしびろこう・ウナ [edit]

Re: タイトルなし

鍵コメさん コメントありがとうございます^^)
 少し補足をします。
 私が太宰のこの本をとり上げたのは、まずユダの告白的な訴えという形式でうまく書いてあるその文体・文章術が面白いと思ったのです

 聖書を信じていようといまいと、普通はイエスがユダに意地悪をしたとは夢にも思いません。ですので太宰は、こういうユダの心理かもしれない可能性を、本に書くアイディアとして思い付いたのではないでしょうか。私はそう読みました。聖書を神からの霊感の書とは思っていない人、そして女性関係のもつれがいろいろあった人が読むと、こんなふうにも読めるのかと思い、それも面白かったのです。

 一方、ユダは裏切り者の代表のような人物です。冒頭の絵を見ても分かる通り、ユダは非常に性格の悪い人間だと一般に思われています。ナルシスト的でねじくれた性格の人は、なんでもない中立の状況でも、ひねくれて悪いように解釈し、相手を恨んだりすることがあるので、太宰はそういう人の場合の心理推測をしたのではないでしょうか。ですので結論では私は、「太宰が考えるユダの性格」は「ストーカーの心理とよく似ている」とまとめたのです。
 
 問題になるのは、ユダが裏切りをすることを神が予知していながら、神が人類を救済するために利用したのか、という話は難しい問題です。それについての説明は少し時間をくださいな。すみませんね~。

追伸
 3っつ下に続きを書きました。

2017/02/13(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

鍵コメsさん コメントありがとうございます^^)
 いつもありがとうございます。そうです。人は昔も今も同じだと思いますね。人の悩みや苦しみのことについては永遠に謎として続きそうに思えます。

 嫉妬は女偏が付いた漢字ですが、女の独占物ではありません。男にももちろんあります。自分の愛する相手から自分が思うほどの愛が返ってこないときには恨みに転じるのでしょうか。
 でもだからといって相手を殺すほど憎むというのは、その自分の愛は利己的なものだったということが明らかです。ストーカー殺人者は、そういう理屈が分かってないのでしょう。本当に困ったものですね~。

2017/02/13(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 太宰は嫌いだった

はしびろこう・ウナさん コメントありがとうございます^^)
 太宰と山崎某と、このところ嫌いな人間が続いて、すみませんね。
 作家が殺人事件の小説を書いても、別に殺人が好きなわけではないのと同様に、私も単に面白い文章としてとり上げているだけですのでね。

 恋は自分だけを考えること。愛は相手をひたすら慈しむことですか。
そうですね。この「ひたすら」というのがいいですね。一方的に、ただただ相手の益を望むというのが本当の愛だ、私も思います。
 恋と愛のバランスが崩れると嫉妬が入り込むですか。なるほど。ウナさんは、かなりそういう男女関係にも詳しそうですね。
 
> キリストもユダも一方通行
 イエスはひたすら他者を愛していたのでしょうが、ユダは一方的に利己的にイエスだけを愛した、そこに問題の根源があった、と太宰はこの書では書いているようです。
 聖書からはそのへんの真実は分からないのですが、なにしろイエスに従ってきた弟子が裏切るのですから、単なる金のご褒美が欲しかったから裏切ったではちょっと理由が薄弱かもしれませんね。

 「忠臣蔵」は主君への忠義を命より大事にせよという考えが好きな人が大勢いて、それと悲劇話が好きだというのが原因で、以前は毎年の年末行事になっていましたが、討ち入りに参加しなかった侍たちの心理や生き方にも確かに要注目です。

 切腹した四十七人のほうが幸せだったのか。それともまわりから白い目で見られても家族もろともに生きながらえたほうが良かったのか。これはいま上映中の『沈黙』のテーマ、神への忠誠を選ぶか、人の命を選ぶかの話とも似ていそうです。
 ウナさんもいつも頭の回転が鋭いので感心させられています。

2017/02/13(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

鍵コメさん 返信コメントの続きです^^)
 補足の続きです。

 なぜ神は沈黙しているのか。なぜ神は人間の苦難を救わないのか。
 これは永遠の問題として、聖書中の預言者ですら悩んで考えてきて、正解が出ない難問のようです。なので、神は死んだと言う人もいます。

 ともあれ聖書の答えは、信者は死んだら天に行って救われる、です。
 聖書巻末の書である『黙示録』には、神の予定の時が来たら最後の審判があり、その後に「新しい天と地」が実現する、と書かれています。聖書は「定めの時」に神は人類を苦難から救う、というのが一応答えと言えます。
 
 完璧な解決に至るには、まずは人類の罪を除去する必要があります。
 人類史の最初にアダムが罪を犯したため、この世に死と苦しみが入ってきました。神はそれを解決するためにイエスの死による「贖い」を考えたという話が、キリストの十字架に象徴されている教理です。
 贖いとは買い戻すという意。「無実のイエスの命」が神の前に差し出されることにより、「有罪である人類の命」が罪の報いである「死」から買い戻される(=商取引のようなもの)です。神がひと思いに恩赦をしないのは、神の公正の原則も全うされなければいけないからです。

 「贖い」は人類を救済する神の目的ですが、それをするためには、イエスが犠牲の死の道を自発的に歩み、さらにはそのイエスを裏切る者やイエスを捕まえる者、裁判をする者、刑執行をする者などが必要になってきます。
 そうしたことも当人や関係者たちの「自由意志」で、あるいは単なる職務などでそうしているわけですが、それらは大きな目で見れば、みな全知全能の神の目的のうちにあることになります。
 なので神がその目的のためにユダを無理やり裏切らせたのではなく、ユダ自身は自由意志でそうしたに過ぎないのですが、そうしたもろもろの事柄を神は予知できるので、あらかじめ預言者を通して聖書に記述したということになります。
 予知のギリシャ語はプログノーシス。前+知識の意ですが、神は全能でもあるので、目的が果たされるように物事をすべての作用をうまく働かせることもできます。結果的に見れば、神は人間の悪や罪さえ利用したと言えるかもしれません。ただ厳密に言えば、利用したというよりは、神の目的遂行に関係する人たちが自由意志で決定し、行動するのを、全知の神は予知し、容認したというほうがより正確だと思います。

 神はすべての人の歩みや運命や救いまでも予定しているのだ、という説が一部の教派にあります。「予定説」です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%88%E5%AE%9A%E8%AA%AC
 しかしながら、この「予定説」が正しければ、神はこの世に悪や苦難が生じることをすべて承知していながら、それでもあえて地球に人間を造ろうと思った愚かしい神だということになります。ですので人類史はすべて予知されていて、神があらかじめ脚本を書いた通りに単に再演されている劇ではないのです。
 イエスは、求めよ、さらば与えられん、と人類に救いの手を差し伸べています。誰でも渇く者は来なさい、命の水を値なくして受けなさいとも勧められています。永遠の命の見込みはすべての人の前に差し出されています。
 人は自由意志により、死への「広い道」を歩むことを選べますが、命への「狭くて細い道」を歩むことを選ぶこともできます。その選択は人にまかされています。その結果は人間が自分で負うことになっているので、偽善者として神から裁かれると言われているパリサイ人たちでも、謙遜で悔い改める人は救いの側に入れられます。

 そういうわけで聖書的に言えば、神は予知はしているものの、被造物の「自由意志」を最大限に尊重しているとしか言いようがありません。 有能なみ使いの一人が神に反逆してサタン(逆らう者の意)になったのも、最初の完全な人間アダムが神に離反したのも、また、人類の多くが神から離れたのも、すべてそれは神が「自由意志」を与えたのが原因だと言っていいでしょう。
 なので神の側ではない立場から極言すれば、神はただ沈黙していると言ってもいいでしょう。ただし神の側に立つ人は、いや、人々が悔い改めて救いに入れるよう、神は温情により辛抱しているのだ、そのおかげで個々の人間は罪深いのに、すぐ裁かれることなく、生きていられるのだと言うでしょう。

 と、聖書の論理を長々と書きましたが、じつは精神世界では以上の解釈は採っていません。
 非常に簡単に言えば、この地球は善も悪もある二元論の世界であり、神のいわば分身である人間は、善も悪も熱さも寒さも喜びも悲しみも、すべてを自由意志で体験するために生まれてきたと考えられています。

 このことは拙ブログでも少し書いてきたのですが、それをここで説明すると非常に長くなりますので、ここまでにしたいと思います。

2017/02/13(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

呪いでしょうか

「誰だ」っていうと
「私だ」っていう。

「なんで」っていうと
「胸に手を当ててみろ」っていう。

「もうやめて」っていうと
「やめない」っていう。

そうして、あとで
苦しくなって、

「ごめんね」っていうと
「許さない」っていう。

呪いでしょうか、
いいえ、自業自得さ・・

2017/03/06(月) |URL|ばく [edit]

Re: 呪いでしょうか

ばくさん コメントありがとうございます^^)
 あははは・・・うまいっ。考えましたね。
 ざぶとんを八枚さしあげましょう。(^^)/

 真似しました。

のろいでしょうか
「誰だ」っていうと
「おまえだ」っていう。

「なんで」っていうと
「胸に手を当ててみろ」っていう。

「もうやめて」っていうと
「やめない」っていう。

そうして、あとで
苦しくなって、

「ごめんね」っていうと
「許さない」っていう。

のろいでしょうか。
そう、世界のうちに おまえほど 歩みの のろいものはない。
どうしてそんなに のろいのか♪ カメさんよ・・・
(^^;)

※個人差があるようです。
https://www.youtube.com/watch?v=hyUmGHdK9e8

2017/03/06(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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