「バーソは自由に」

 考え方はいろいろあるから面白い。

 ニール・D・ウォルシュの「小さな魂」と「友好的な魂」の話。 

悪い人を赦すことは、自分が選んだ人生だ。

28年間も孤島で暮らしたロビンソン・クルーソーは、何が一番楽しかっただろうか。
(29年体験の小野田少尉は「楽しかった事は今の今まで一度もありません」と述べた※1)

ロビンソンは漂流25年目に、殺される寸前だった近隣の島の若者を助けた。
彼の言葉は理解できなかったが、ロビンソンの耳には非常に心地よく聞こえた。
というのも、じつに四半世紀ぶりに聞いた人間の声だったからだ。

若者フライデーは、命の恩人であるロビンソンに絶大な忠節を誓い、従僕になる。
ロビンソンは、フライデーと共に暮らした3年の歳月について、こう言っている。
「もしこの世に完全な幸福があるとすれば、まさにこれこそ、その幸福であった」

良い人間関係は祝福だが、悪い人間関係は運命の呪いかのように感じるだろうか。
身近にイヤな人間がいて、厳しく当たってくる場合は、どうしたらいいだろうか。

kurous.jpg 出典

ニール・ドナルド・ウォルシュ著『神との対話③』吉田利子訳(サンマーク出版)には、
どうしてそうなるのか、どう思ったらいいか、が感動的な例え話で記されています。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
小さな魂と友好的な魂の“約束”。
場面は、見えない霊の領域。神※2が自分の分身である小さな魂(soul)と話をしている。

神性のどんな部分を体験したいか選んでいい、と神から言われ、小さな魂が答えた。
「それじゃ、私は完璧な赦しという神性を体験したいんです」

小さな魂は、神の特質を知識では知っていたが、体験では知っていなかったからだ。
“百聞は一見にしかず”とか “Seeing is believing” という格言と似たような話です。

ところが周囲を見回すと、神が創造した魂は皆、完璧だった。悪い魂などいない。
赦すべき相手がいないので困っていると、群集の中から一つの魂が出てきた。
「あなたの次の物質的な人生に出かけていって、※3
なにかをするから、それをあなたが赦せばいい」

しかし小さな魂は、こんな完璧な存在が悪行をするために、わざわざ霊のからだを
もろくて不自由な人間の肉体に変えるのは何故なのか、理解できなかった。

smallul.jpg 画像:amazon

友好的な魂は、あなたを愛しているからそうするのだ、と説明する。
すべての魂は神の一部で、互いの一部。あなたがいなければ、私も存在しない。
 私たちは、神の偉大な神性を“体験”しよう、とみんなで決めている。
しかし何かで有ることを知るためには、何かで無い状態を知らなければならない。
 たとえば暗いということを知らなければ、明るいということは分からない。
 それが宇宙に、上/下、暑さ/寒さ、楽しさ/苦しさ、善/悪…と相対性がある理由。
だから、
「あなたが、或ることを選ぶためには、
それと反対の何かか誰かが、宇宙のどこかに現れないといけない」
だから、
 そういう対極性がある世界は、神からの贈り物であり、
 人が出会う悪人と思える人たちは、じつは神の特別の天使なのだ。

友好的な魂はひとつの交換条件を持ち出す。小さな魂はワクワクする。
「代わりに、頼みたいことが、ただひとつある」
「なんでもします! 何でも!」


「私があなたを襲い、暴力を振るうとき、想像し得る限り最悪のこと
をするとき――その瞬間に――本当の私を思い出してほしい」
「忘れませんとも!」 小さな魂は約束した。
「いまと同じように、完璧なあなたを見ます。
本当のあなたを、いつも思い出します」



(ニール・ドナルド・ウォルシュ「人生の目的」エックハルト・トールとの対談より抜粋)

魂レベルから見れば、愛のゆえに悪役を演じてくれている魂がいるという話です。
私はいつも、最後の「忘れませんとも!」で目元がゆがみ、涙がドッと出てきます。
いつも忘れているから、申し訳ないと思うから、人生に感謝したくなるからです。

この例え話は、作り話に過ぎないと思うでしょうか。
それとも、そういうこともあるかと思うでしょうか。
どうすれば “より良い自分になれるか” の視点で考えてみるのはどうでしょう。

                 

☆著者のニールさんは、このメッセージが世界中に広まることを望んでいます。
(大文字部分は本文からの引用で、その他の部分は私が趣旨をまとめました)

補――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1:小野田寛郎。情報将校として太平洋戦争に従軍して遊撃戦を展開。戦争終結から
29年目にしてフィリピン・ルバング島から帰還を果たした。大正11年生まれ。91歳没。
※2:ニールに現れた“神”は、霊の次元の領域に大勢いる、高次元の霊的存在の一人。
ニールの守護天使かハイヤーセルフかもしれない。誰が語っているかを詮索するより、
メッセージの内容が自分のハートにしっくり来るかどうかを考えたらどうでしょう。
※3:
これは輪廻転生のこと。神が完璧なら、70年か80年生きたらそれで終了という
人間を創るはずがない。人は何度も生まれ変わり、何度もチャンスを与えられるはず。
どんな人間に生まれ変わるかは、魂に、すなわち個々の人にまかせられているはず。

☆著名なバーシャルは滅多に本を勧めないが、この『神との対話』は強く勧めている。
 https://www.youtube.com/watch?v=KPI9ylSCmRE
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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こんばんは^^

なるほど。
ひどい仕打ちを受けた時に
その人を許せるかどうかが
問われているわけですね。

たしかに、人を許すと、
少し自分の心が広がった
ような感覚があります(^^)

人生といのは、ある意味
神様からの試験を受けているような
ものかもわかりませんね( ^ω^; )

2016/08/27(土) |URL|坊主おじさん [edit]

休みます

バーソ様
おはよう御座います。

申し訳ありません。
今回は難しすぎます。
コメント1回休みます。

愛新覚羅

2016/08/27(土) |URL|aishinkakura [edit]

Re: こんばんは^^

坊主おじさん コメントありがとうございます^^)
> たしかに、人を許すと、
少し自分の心が広がった
ような感覚があります(^^)

 そうですね。ありますね。そして、いい気分になります。
 私は以前、聖書を学んでいるときは、許すことは“愛”の行為だと考えていました。だから、なにか悪いことをしてくる相手を許すことは、相手より自分が霊的に倫理的に高みに立っているような錯覚ないしは優越感を感じていました。ですが、それは“愛”ではなかったのですね。単なる自意識の過剰というか自己満足であったようです。

 このたとえ話にあるように、悪人とはじつは自分の弱点欠点を直すために自分に現れた天使であって、自分がより良い人間になれるヘルパーさんだと思えば、相手を赦す優越感なんて、とんでもない。感謝しなければいけないのですね~。
 そうは言っても、なかなかそうは思えないのが現実ですが、そういうことがあると思うだけでも、自分の心が広がって益があるような気がしますね。

2016/08/27(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 休みます

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
> コメント1回休みます。
 あ~、わざわざすみません。無理もありません。今回は誰でも興味を持つ一般的な話じゃないですからね。
 私は影響を受けやすい人間で、いい本を読んだりすると、しばらくそのことを考える傾向があります。このたびがそうで、いまはダジャレが出にくい心理状態になっています。(笑)
 どうぞ遠慮なく、いつでもおやすみくださいね。コメントは書きたいときだけで結構ですからね。そのほうがこちらも気が楽ですから。いつもありがとうございます。(^^♪

2016/08/27(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

おはようございます。

難しいことは、わかりませんが・・・。
人間界は、修業の場であり、より良い魂になるためにあるのでしょうか?

生きることは、死があることを感じ、病は、健康のありがたさを知り、老いて行くことは、人のさみしさを知り、自身の身に起きたことが全て、学びとなります。

最悪の事態になったのならば、魂のやりなおしの命題が課せられているのでしょうね。

人間界で、受け止められないことも魂の世界では、ほんの瞬きの出来ごとなのかも知れませんね。

正しく生きることは、難しいことですが。

2016/08/27(土) |URL|Miyu [edit]

毎回、泣かされる大好きな話

読むたびに、毎回、泣きます。
600万人のユダヤ人、アメリカ先住民、ポルポト大虐殺など、
歴史の汚点を顧みるとき、約束を忘れられないでいられるだろうかと
自分のことのように感情移入して泣くわけです。

恐怖に慄き、泣き叫び、憎悪をむき出しにして息絶える
自分を想像すると、さらに悲しい。

>いつも忘れているから、申し訳ないと思うから、今の人生に感謝したいからです。

まったく同感です。
小さな魂の話で、泣ける自分は好きです。
あとは日常、どれほどの想いで、その意識を隣人に向けられるか、
でしょうね。

>ニールに現れた“神”は、霊の次元の世界に大勢いる高次元の霊的存在の一人。
ニールの守護天使かハイヤーセルフかもしれない。

これも同感、私もそう思っています。

2016/08/27(土) |URL|風子 [edit]

Re: おはようございます。

Miyuさん コメントありがとうございます^^)
> 人間界は、修業の場であり、より良い魂になるためにあるのでしょうか?
 そう考えている人は多いようですね。そう考えたほうが自分の成長になりそうです。

 ただ、人生に善だけでなく悪もあるのは、悪という善の対極的なものがないなら善とはどういうことかが分からないからのようです。漆黒の宇宙空間に浮いているときは、比較基準がまわりに無いので、どちらが上だか下だか分かりません。下降があって初めて、上昇していることがわかるのです。
 この地球には何でも対極性、二元性の状況がありますが、人間はどちらでも何でも自由に自分で選択して、それを体験できるのがいいのですね。

 だから、基本は何をしても自由だという状況の中で、自分はどうすることを選択するか、ひとの迷惑を顧みず勝手なことをするか、ひとのためになることを優先するか、それが人間にいわば求められているのであり、そこにその人の“本質”が表れるのですね。

> 最悪の事態になったのならば、魂のやりなおしの命題が課せられているのでしょうね。
 そうです。何度でもやり直しができると思えば安心できますね。有り難いことです。

2016/08/27(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 毎回、泣かされる大好きな話

風子さん コメントありがとうございます^^)
> 読むたびに、毎回、泣きます。
 はい。私もこのたびこの記事を書くために、この本の当該箇所を何度も読み返し、そのたびに涙が出てきました。今この返信を書いているときもそうで、鼻水も出てきます。

> 600万人のユダヤ人、アメリカ先住民、ポルポト大虐殺など、
歴史の汚点を顧みるとき、約束を忘れられないでいられるだろうかと
自分のことのように感情移入して泣くわけです。

 そうですね。でも、現実に悲惨な目に遭ってるひとに、この「小さな魂」の話をしたら、かえって怒らせてしまいそうです。この話は災難が自分に降り掛かってないときに知ったほうがいいのかもしれません。

> 恐怖に慄き、泣き叫び、憎悪をむき出しにして息絶える
自分を想像すると、さらに悲しい。

 私の場合は、悲惨な目に遭った時にこの話を思い出し、必死に耐えようとする助けには十分なりそうだと思いますが、でも同時に、そのような状況を嘆く気持ちもまた強く出てきそうです。というか、なるべくならそんな目には遭いたくないものです。もう理由は分かりましたから、神よ、実地研修はご辞退しますという気持ちです。(笑)

> 小さな魂の話で、泣ける自分は好きです。
 はい。私もそうです。

> あとは日常、どれほどの想いで、その意識を隣人に向けられるか、
でしょうね。

 そうですね。これが一番の問題点。多少意識しているぐらいでは意味がなさそうです。かなり強く意識するためには、いつもいつもこういうことを考えている必要があるのでしょうか。手持ちの本を読み返したくなりました。

2016/08/27(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

僕は、どうやら悪役を演じる魂ではないかなぁ。
多少なりとも、自分の内に悪を抱え込んでいる。
少なくとも、自分の内には小さな魂しかいないと、
思い込むことはできない。
自分を特別な人間だと思えない、ってことかな。

僕は、生まれてから、死ぬまでの生の外側に、
生きる理由を求めない、って思っていて、
それは、自分のことが分からず、自分が何を考えているのか、
何を欲しているのか、最後まで分からないことと引き換えだと思っています。
せっかくの自分の体験を、
「それじゃ、私は完璧な赦しという神性を体験したいんです」
そんなひとつのパターンに還元するのはもったいないでしょう?

2016/08/27(土) |URL|青梗菜 [edit]

Re: タイトルなし

青梗菜さん コメントありがとうございます^^)
> 僕は、どうやら悪役を演じる魂ではないかなぁ。
 そうなら、じつはこのたびの人生は悪役をする完璧な愛の天使として生まれてきたと言えそうですし、あるいは誠実さの謙遜な表明とも言えそうです。人は誰でも自分に正直であれば、自分の中に多少なりとも悪があることを認知しているものです。パウロも、自分に内在する悪い心と戦って、いつも勝てない惨めな自分がいると告白しています。(ローマ7:15,16)

> 僕は、生まれてから、死ぬまでの生の外側に、
生きる理由を求めない、って思っていて、
それは、自分のことが分からず、自分が何を考えているのか、
何を欲しているのか、最後まで分からないことと引き換えだと思っています。

 それはたぶん、頭のいい人の特長のひとつじゃないかな。人生の真理は自分で理解できるはずだと思っているし、そもそも自分で理解していくのが尊いのだと思っているせいじゃないですか。それでいいと思いますね。そういう人生の選択なのでしょう。
 ただ、「ホレイショー、天と地の間にはお前の哲学では思いも寄らない出来事がまだまだあるぞ」(シェイクスピア)とも言われています。

> せっかくの自分の体験を、
「それじゃ、私は完璧な赦しという神性を体験したいんです」
そんなひとつのパターンに還元するのはもったいないでしょう?

 完璧な赦しというひとつの課題でも、それをマスターできる人は、古今東西でイエスと数人だけしかいないのじゃないですか。人生一度だけでは自分が選んだ一つの課題でさえうまく消化できないので、それゆえ輪廻転生が何百回もあるのでしょう。そうでないと話の辻褄が合いません。何度も生まれ変わるたびに、人は善人になったり、悪人になったりを繰り返し、そうして自分が誰なのかを探って(思い出して)いるのだろうと思いますね。

2016/08/27(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

コメントは久しぶりですが、記事は毎回読ませていただいてました^^友達に貸してた、ゲーリー・ズーカフの『魂の対話』が戻ってきたのですが、予備の本があったのでそのままあげちゃいました。
他にオススメの本を聞かれたので、ネットのお友達(バーソさんだけど名前は言ってないです)が推薦してる本があるよ。。っていうことでこの本を教えました。読んでみるって言ってました^^

2016/08/27(土) |URL|koto [edit]

Re: タイトルなし

kotoさん コメントありがとうございます^^)
 お久しぶりです。お元気のようですね。私のほうは、時々足跡を残していると思いますが、RSSリーダーで更新記事は全部読んでいますよ。

 ゲーリー・ズーカフの『魂の対話』。あ、そうそう、そんな本がありました。探したらすぐ見つかりました。kotoさんからコメントがあったというのも、偶然ではないのでしょう。読んだほうがいいと言われているようです。
 今日は『神との友情(上)』を読んでいたのですが、次は『魂の対話』を読んでみますね。もう内容はほとんど忘れています。

 このたびは久しぶりに精神世界のカテゴリで書きました。私は幽体離脱とか臨死体験などの霊的な体験がないので、いつもながら単なる本の紹介記事です。この種の本はいろいろ読んできましたが、やはり『神との対話』が一番自分には合ってます。私の考える神のイメージとぴたり同じで、波長の合う本です。友だちの方にも合うといいですね。

2016/08/27(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

>「私があなたを襲い、暴力を振るうとき、想像し得る
限り最悪のことをするとき――その瞬間に――本当の
私を思い出してほしい」
感動的ないい話です。
過去の出来事で許せなくて心に棘が刺さっていることが
あります。
もうそれは許したと思っても棘が取れない。
これは本当には許していないからでしょうか。
高校時代に楽しみにしていた弁当箱を開けると
誰かに食べられて空っぽ、空弁当箱に300円入っていたこと。
いまだに許せん。(笑)
映画「ベンハー」は憎しみ、許し、再生の教科書的な
映画でした。宿敵メッサラを許す場面は感動的でした。
輪廻転生という概念がキリスト教にもあるのかと思い
検索してみました。もともとユダヤ教にはあったのですが
現在のキリスト教ではそういう概念が存在しないと
書いてありました。どうなんでしょうか?

2016/08/27(土) |URL|エリアンダー [edit]

Re: タイトルなし

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
 ああ、感動的ないい話と思っていただけましたか。うれしいです。弁当箱が空っぽだった話。高校時代の300円なら、現在の価値計算ではかなりの金額のはず。もう忘れたほうがいいでしょう。(笑)

 映画『ベン・ハー』は観ました。チャールトン・ヘストン主演。ミクロス・ロージャの勇ましい音楽と4頭戦車のシーンを覚えていますが、宿敵メッサラを許す場面は覚えていません。エリアンダーさんは、そういう人間の精神性のことをよく記憶していますね。

> 現在のキリスト教ではそういう概念が存在しないと
書いてありました。どうなんでしょうか?

 今のチベット宗教などの「輪廻転生」の概念は“親の因果が子に報い”と似ていて、“本人の因果が本人の次の人生に現れる”という倫理的な「原因→結果」論です。
 ですが本来の考え方は、どのような状況に生まれ変わるかは本人(魂)が選んでいるので、この「小さな魂」が完璧な赦しという体験をするために人間になりたいと言っている通り、輪廻転生により、過去の人生の失敗を引きずることなく、人には新しいチャンスが与えられるのです。

 そうすると、人は今の人生で失敗しても次の人生でやり直しがきくことになり、わざわざ教会に行って寄付をしたり懺悔をしたり祈ってもらったりして、教会に救いを求める必要がなくなります。初期の教会は、それでは信者が減って困るので、聖書から輪廻転生がある記述を削除したと考えられています。正確にはコンスタンチン大帝が開催した西暦325年の公会議で、その教義が異端であると定められ、信じていた者たちは迫害され虐殺されました。

 しかし削除漏れがあって、残っている聖句もあります。マタイ17:10-13です。
彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。
言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」
そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った

 洗礼者ヨハネとは戯曲「サロメ」で有名な人ですが、イエスは、ヨハネは預言者エリヤの生まれ変わりだと言っているように思えませんか。

 他にもこんな聖句があります。
イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」ヨハネ8:58
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」ヨハネ3:3


 面白いことに、いや、悲しむべきことに、誠実で神聖なはずの宗教指導者でさえ、まずは自分たちと組織の存続が第一の関心事なんですね。困ったことです。

2016/08/27(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

バーソさん、こんばんは!

どういう状態だったら、赦したことになるのかが、
わからなくなります。
耐えることは、赦すことと近いような気がしますが、
イコールではない、のかなぁ。どうかなぁ。
ストレスを感じても、なにも感じなかったフリをする。
その人を恨んだりはしていないし、仲良くしていこうと思うけど、
ストレスをすっかり処理できた、というわけではない。
そういう場合は、赦した、とは言えないのか、言っていいのか。
自分と違うものを受け入れられないことに、
がっかりしたり、いやいやそれでいいんだ、って思ったり。
葛藤は続きます。

2016/08/27(土) |URL|プラトニックまいまい [edit]

けっきょくすべてはフラクタル

おはようございます。

なかなか良さげな本を使っていらっしゃるといつも感心して読んでます。

神との対話は半年前に三冊購入したのですがなかなか読み進められないのが現状です。

ネットとかで評価を見てるとラムサと語っていることとだいたい内容は似かよっているとのことで、ラムサは全部読んでしまったので「じゃあ読まなくってもいいじゃん」と気がついたいうのもあって読み進めてはいないです。

でも本当はたんに読書が嫌いなだけかもしれません(笑)。

2016/08/28(日) |URL|通りすがり [edit]

Re: タイトルなし

プラトニックまいまいさん コメントありがとうございます^^)
 おー、さすがにまいまいさん。毎々、いい考察をしてますね~。

●「許す」とは、国語辞典によれば、過失や失敗などを責めないでおく。咎めないことにする。警戒や緊張状態などをゆるめること。

●聖書では、ギリシャ語のアフィエーミという語は字義通りには「放免する」の意。つまり違反者に対してその過失のゆえに憤慨するのをやめ、返報する権利を一切放棄することを意味する。ヘブライ語の動詞サーラハ(許す)は、神が罪人を赦すことに関してのみ用いられている。

●仏教的には、「許す」とは過ちを謝るなり金品などで保証してくれたらなどの条件付きの行為だが、「赦す」には過ちを犯した人間を無条件に受け入れることだそうですが、「赦す」のほうは、上位の者や神からの免罪というニュアンスがあるように思います。恩赦など。

 先ごろタレントの息子が旅館の従業員を強姦致死した容疑で捕まり、母親がテレビで会見で、こんなことを言ってました。「息子は死にたいと何でも言っていた。こんな大変なことをした時にこういうことを言ってはよくないかもしれないが、私はこれからも母親だ、お姉ちゃんも同じだ、と息子に言った」。この子への愛情は親として当然で、息子の罪はむろん許してはいないが、過ちを犯したとしても息子のことは見棄ててはいないということでしょう。

 イエスは刑柱に架けられて死ぬ直前に神にこう祈っています。「父よ、これらの者(ローマ兵や隣の刑柱上の罪人)をどうぞお赦しください。彼らは何をしているのか自分ではわからないのです」。普通の人間は、なかなかこんな心理状態にはなれません。

 「耐える」という状態は、つらい感情を抑えて、無理して我慢していることで、心の内部には恨みや怒りが残っていそうです。ストレスを感じている間は、その精神状態が持続していて、気持ちがすっきりしてないわけで、完璧には許しているとは言えないのかもしれないですね。
 それがイヤで自分の感情を変えたいのであれば、ただ、自分が違う感情でいることを選択すればいいだけの話です。簡単でしょう。
 でも、葛藤が続いたって、いいじゃないか、人間だもの、と居直る方法もありますかね。(笑)

2016/08/28(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: けっきょくすべてはフラクタル

通りすがりさん コメントありがとうございます^^)
 『神との対話』を3巻お持ちでしたか。私は例の『良心の危機』であの組織に対する疑念が間違いないことに確信を持ち、さらにこの本で目から大きなウロコが剥がれ落ちました。神に対する概念がすっかり変わり、人生が完璧に一変しました。私にとってはバイブルのような本です。

 私もラムサの本は全部持っていると思います。なかなか面白い本です。内容は『神との対話』と似通っているか? そうですね。私はそうは感じたことはないですが、だいたい精神世界の話は似ている部分が多く、キリスト教系の人が書いた本は特にそういう傾向がありますね。世の中は、極小の世界も極大の世界も、見えない領域も見える領域も、おっしゃる通り基本的にフラクタルの原理が働いているようです。

 ラムサは輪廻転生の実例。3万5千年前、レムリアの地(水没した)に実在して、かなり長寿だったという話ですが、『神との対話』の著者も、その時代に愚かな人間たちのせいでそういう地球破滅的なことがあったと書いてあります。また、神が直接創造したのは人間であり、その他はみな人間が考え、感じて存在させることで創造したと言っていて、これも『神との対話』と同じです。『神との対話』のほうが神の概念についての説明や現実の生活に適用する教えに多くのページが割かれているような気がします。こちらのほうがとっつきやすいように私は思います。ぜひ時間を作って読まれるといいですね。

2016/08/28(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

人を許せるか

 許す・・・難しい。
 嫌いな人は嫌い。どうしても合わない人は合わない。居るのよ、現実には。しゃーないから嫌いな奴は嫌いとして存在そのものには目を瞑ろう。関わって来たら徹底的に排除するけど。なんと言うか、無理に関係を構築しようとするからごたつくんだと思う。完全に関係を絶って関わり合いを持たないのも人の知恵。例えば・・・良い例え、良い例え・・・あ、ゴキブリだ(笑
 ゴキブリは見つけたら即殺す。そこに善悪なんてない。どんな善人だってゴキ見たらコックローチぶちかます。それをして寛容の無い人だなどと言うのは筋違いってもんだ。でも、全く関係の無い山の中でカサコソしてる分にはどうでも良いでしょ。好きにしててなもんです。まさか山の中にまで殺虫スプレー持って乗り込むの?それこそ悪魔の所業ってもんだ。
 でもこれって、神様がやってる事だったりするよなぁ。

2016/08/28(日) |URL|miss.key [edit]

Re: 人を許せるか

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
> 無理に関係を構築しようとするからごたつくんだと思う。完全に関係を絶って関わり合いを持たないのも人の知恵。えば・・・良い例え、良い例え・・・あ、ゴキブリだ(笑
 なるほど、これは実際的な知恵ですね。そうそう、なるべく無用な争いを避けた剣豪の一刀斎だったかの方法が良い。しかし降り掛かる火の粉は元から絶たねば駄目。緊張感を断ち切るためにはキンチョール。特に頭のいい人や腕力のある人は、この必殺仕置き人法がいいかな。

 でもですよ、相手がゴキブリなら、そうできますよ。人間はそうはいかない。ゴキブリのようなイヤなヤツが上司だったら、お得意だったら、年長だったら、気軽にコックローチを吹きかけるわけにはいきません。
 人間社会の階級制度とか上下関係というのは本当に悪ですね。そして上下関係などがなくても、悪いヤツはすぐ自分が上位になりたがり、ひとを見下そうとしたがります。人間の高慢や尊大という特質も困ったものです。そういう態度は人間として非常に恥ずかしいことだと何故理解できないのか不思議です。
 適者生存、弱肉強食が正しいとする進化論教育がそうした行動を是とする原因のひとつであるような気がしますが、やはり親切心や優しさ、謙遜さなど、基本的な倫理観を学校や家庭できちんと教えることが大事だと言いたくなります。

> まさか山の中にまで殺虫スプレー持って乗り込むの?それこそ悪魔の所業ってもんだ。
 でもこれって、神様がやってる事だったりするよなぁ。

 あら~、いやいや、この点については賢明なるmiss.keyさんの考え違いですよ。世界の悪行や問題はいっさい神に関係ありません。すべて人間が諸悪の原因です。人間が人間を傷つけ、人間が地球を破滅に導いているのです。人間の邪悪な心は悪魔のようなもの。神は邪悪なことなど何もしていません。神にそんなことを言ったら罰が・・・当たることは全く無いですし、地獄なんてものも無いですが、誰でも人間がした行為の結果は、人間に降り掛かることになっています。これは宇宙にある“原因結果の法則”です。
 人間用の強力ファブリーズがあったらいいですね~。あ、それはまず自分に振りかけろ、ですか。おお。やっぱりね。(^^ゞ

2016/08/28(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

はじめまして

わたくしは、ご紹介になられた本など
読んではいないのですが、
やはり、涙が出そうになりました。

それはきっと、
誰かに酷い事をされた経験、
というよりも
自分が誰かに何かしでかしてないか、
という恐れから来るのだと思います。

同時に、
他人との諍いであればまだしも、
身近な、
例えば親に
理解しやすい愛情を与えられず
虐待を受けてきた子供達が
そのような心持になれるか、と考えると
自己容認もままならない中
そこに至ることの難しさを想うと
ため息が出ます。

ふと、ヨブ記を思い出しました。


2016/08/28(日) |URL|えるて [edit]

Re: はじめまして

えるてさん コメントありがとうございます^^)
 はじめまして。よろしくお願いします。コメント、うれしいです。
> 読んではいないのですが、
やはり、涙が出そうになりました。

 そうですか。うれしいですね。似たような波長を持っている方のようだとブログを拝見して思っていましたが、書いている内容を見ると精神性が高く、私には敷居が高く感じていました。
 
> それはきっと、
誰かに酷い事をされた経験、
というよりも
自分が誰かに何かしでかしてないか、
という恐れから来るのだと思います。

 いいお言葉だと思います。まず他者のことを気遣う。誰かひと様に迷惑を掛けてないか。じつは人間は気づかずして、迷惑を掛けていることがけっこうあるのですよね。だからつらくなり、申し訳ないと思うのでしょう。

> 例えば親に
理解しやすい愛情を与えられず
虐待を受けてきた子供達が
そのような心持になれるか、と考えると
自己容認もままならない中
そこに至ることの難しさを想うと
ため息が出ます。

 親子の関係というのは簡単でもあり、難しい場合もありますね。親が子に愛情を示さない。子は親に愛情を感じなくなる。そんな例は珍しいのでしょうが、ありますね。
 私は子供の頃、それに近い体験が少しあります。ですから結果として親に対して愛情を感じなくなったという心の責めを、だいぶ時が経ってから感じることがありました。今は自分と母親の人生はそういう課題だったのだろうと思い、吹っ切れましたが。

 ヨブは「彼ほど廉直で悪から遠ざかり神を畏れていた人は地上にはいない」と特筆されています。でも神の許可を得てサタンの虐待を受けました。ヨブは天上での神とサタンの会話を知らないので、原因が分からず、ずいぶん悩むものの、神への信仰を捨てません。
 そのときにヨブの妻が語った言葉がすごい。「神を呪って死になさい」。ヨブが苦難に遭っても全然信仰を捨てなかったので苛立ったのかもしれませんが、ヨブの妻は『小さな魂』の話を聞いても感じないようなひとだったのかもしれません。
 でもヨブのそのときの返事がいいですね。「あなたは愚かな女の一人が話すように話している」。愚かな女だとは言わず、愚かな女の一人のようだと比喩で言って、トーンをやわらげています。

 ヨブという人物は相当人間ができていたのだろうと思えます。私とはだいぶ違います。ヨブの人生は、最後は持ち物は2倍与えられたりしてハッピーエンドで終わりますが、最初に殺された子供たちは(ヨブの時代には)甦りません。人生は長い目で見ないといけないのでしょうね。

2016/08/29(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

うむ、これは、旧約聖書の大家、関根清三さんが言われることに近いな。
人が本当に自分の罪を悔い改めるのは、赦されているという意識があってはじめて起こる。
だから、旧約聖書の神も単に裁きの神ではなく、赦しが先行している、裁いて赦す。のではなく、初めに赦しありきと。
関根さんは東大倫理に赴任してきましたが、なんで倫理で、旧約聖書読まないといけないかーヘブライ語まで学べ、という、反発して授業に出なかったのですが、今になって分かりますね。

2016/08/29(月) |URL|oki [edit]

Re: タイトルなし

okiさん コメントありがとうございます^^)
 またまた真摯な話題を提供してくださって、うれしいですね。
 関根正雄なら知っていて分冊の旧約を持っていますが、関根清三という人は知らない名です。東大の教授で旧約の大家ですか。授業に出なかったとはもったいない。

> 人が本当に自分の罪を悔い改めるのは、赦されているという意識があってはじめて起こる。・・・旧約聖書の神も単に裁きの神ではなく、赦しが先行している、裁いて赦す。のではなく、初めに赦しありきと。
 なるほど。神学者や宗教指導者の中には、神のいろいろな属性の中から“赦し”、すなわち愛を強調する人が多いですね。これは教えるテーマの定番のようです。
 でも「初めに赦しありき」というのは、至極常識的なことを言ってるような気がしますね。裁くというのは赦して無いからそうするわけで、赦しが裁きに先行するのは物事の順序として当たり前のように思います。

 ちょっと検索したら、著書の『旧約における超越と象徴』が第七回和辻哲郎文化賞を受賞しています。内容を全く知らないで勝手な想像で言いますが、タイトルに出てきた「超越者」という概念は旧約の神でしょう。そうであるなら「超越者」とは、裁きも赦しも、そうした概念・行為そのものを超越している存在であるはずです。
 すなわち、人間のように他者に腹を立てたり、我慢したり、赦したりといった精神・行動からは超越しているはずです。これは言葉遊びをしているわけではなく、実際にそうであるはずです。

 というのは、神と人間の質の差は、スーパーヴァージョンの人間と一般人類の差ぐらいではありません。神から見たら人間は「桶のひとしずく」や「バッタ」のようであり、「無きに等しい者」すなわちゼロのようだと言われています(イザヤ40:15,17,22)。旧約では、それほどまでに神は人間を遥かに超越した至高の次元の存在だとしています。

 ごく普通の人間なら、水の一滴のちょっと妙な現象、もしくはバッタ一匹のちょっと愚かしそうな行動を見て、いちいち怒り、悔い改めて改善しないなら永遠の罰を与えようなんて思うことはまずありません。
 水やバッタに対して、一時はおまえの愚かさで感情を乱されて怒ったが、しかし私を信じて悔い改めるなら赦してやろう、どうだ、愛があるだろう、私を敬え、私のために死に至るまで忠実を誓え、なんてことを言えば異常な人だと思われるだけです。

 ですので、そもそも神が“怒る”という考え方がおかしいのです。
 神は怒るはずがないのです。神は人間が何をしても感情を害することはないのです。人間は他者に怒るので、(旧約の)神も怒るのだろう、そして悪人に対して罰を与えるのだろうと推測したのでしょうが、宇宙の創造者は人間とは違うのです。聖書の神は人間の罪を怒るが、しかし悔い改めた人(正確に言えば信者だけ)は愛によって助ける、なんて教えは、教会を利するだけ、愚かさの極致です。

 神は愛であるとよく言われます。その通りです。地球を見れば分かります。その神の愛が、人間が抱く愛と違って、博愛であり、無条件の愛であるなら、弱小な人間のすることにいちいち怒り、赦さない、なんてことはあり得ません。無条件なのですから。

 真面目な信者は、そう言われると反論したくなり、不快になるでしょうが、愛という概念と裁き(や赦し)という概念は矛盾していて、相容れないものです。聖書を研究している人は皆、根本的なところで大きな考え違いをしてますね。(神は当惑していると思いますよ(笑。)

2016/08/30(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

実際に許すべきことがある相手を許すのは、
かなり難しいことだと感じます。

変なコンプレックスを持っていたりすることで、
悪意を持って意図的にこちらに害を与える人もいて、
その影響で、自分の人生にネガティブな影響が現在進行中の場合、
一応、相手の人生に思いをめぐらしたりして、
相手がそうせざるを得ないような心理的な問題を理解しようと努めたりしても、
やはり、相手に対するネガティブな気持ちはなくなりません。

しかし、実際には、許すべきことがない相手を許すのは、
とても簡単なことです。
そういう場合は、こちらが自分の勝手な都合で、
正当な理由もなく相手に対して不愉快になっているだけなので、
実際には、自分が許されるべき立場です。

2016/08/30(火) |URL|Korva [edit]

Re: タイトルなし

Korvaさん コメントありがとうございます^^)
> 変なコンプレックスを持っていたりすることで、
悪意を持って意図的にこちらに害を与える人もいて、
その影響で、自分の人生にネガティブな影響が現在進行中の場合、
一応、相手の人生に思いをめぐらしたりして、
相手がそうせざるを得ないような心理的な問題を理解しようと努めたりしても、
やはり、相手に対するネガティブな気持ちはなくなりません。

 そういう経験があるようですね。私もけっこうあります。何をされても、ただただ我慢して忍耐するというキリスト教の精神を徹底しようと思っていたせいと、生来がおとなしい性格で、喧嘩に弱いせいもあります。Korvaさんもおおむね同じようなタイプじゃないですか。(^_-)

 「変なコンプレックス」とありますが、まさにその通りで、こちらに意図的に害を与えてくる人の原因は大抵「コンプレックス」ゆえなんでしょう。自分に引け目があるので誰かに引け目を負わせようとする意識が(その人は気づいてないかもしれないですが)あるのでしょう。大体が知能の弱いひとほど、そういう傾向がありますね。あ、いや、頭のいい人でもそういう人がいますね。自意識や自尊心が強すぎるというのも問題でしょうか。
 いずれにせよ、自分のネガティブな気持ちを持続するのは自分が損をするだけなので、相手を変えようとするのではなく、自分の感情を入れ替えるのがいいのでしょう。感情とは環境や状況で自然発生するものではなく、自分で選択するものですから。だから同じ状況で違う反応をする人がいるのですから。

 人間の最大の弱点は“不安”なんでしょう。不安があるから、金を貯めよう、他より上になろう、というような気になるのでしょう。内心に不安が強い人ほど強そうにふるまう。弱い犬ほどよく吠えると言われている通りです。だから階級制度が強い組織では、すぐ目下の者に威張り散らしたりします。昔の軍隊にはそういうことが顕著であったようですが、今でもそのようなことはありますね。人は自分の弱さを認識してないといけません。自分の弱さを認識できている人が真に強い人と言えるのでしょう。と偉そうなことは言えませんが。(笑)

2016/08/30(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2016/09/01(木) || [edit]

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2016/09/02(金) || [edit]

こんばんは。

最近、以前に挫折した神との対話を再び読み始めました。ラムサに似ていると言われていましたが全然似ていませでした(笑)。

最近悩んでいたことの答えやヒントを得ることができました。読むペースは非常に遅いですが投げ出さずに読みたいです。

2016/10/11(火) |URL|通りすがり [edit]

Re: タイトルなし

通りすがりさん コメントありがとうございます^^)
 なんでも読書というのは、あまり波長が合わないと途中で飽きます。ピタッと合うと、どんどん読み進めていけます。どんな話も、自分に合う合わないがありますね。人間の関心事はみな違うのです。でも、それでいいのですね。みんなが同じことを考えていたら、個人個人が存在する意味合いがなくなりますから。

> 最近悩んでいたことの答えやヒントを得ることができました。
 なにか自分にピンと来たフレーズがあれば、それが現在の自分に必要な言葉だったということは日常でよくあるものです。『神との対話』の本には、神はいろいろな方法で――たとえば本の中のフレーズで、ふと聴いた音楽の歌詞で、誰かがしゃべった言葉で――人に語り掛けていると書かれています。それにふうっと気づく人もいるし、全然気づかない人もいる。気づく人は、心が神の方向を向いている人なんでしょう。
 『神との対話』は、聖書の神を信じていた人にはピタリ合う本です。いかに今までの概念が間違っていたかに気づいて驚き、かつ目が覚めると思います。また時間がつくれればいいですね。

2016/10/11(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんばんは。

この神様は話し方こそ過激ですが腑に落ちる納得する話し方をされる。人生における多くの面で誤解していたこと間違っていたことに気が付かせてくれる。

この本を読み始めた動機は私の大嫌いな方々がこの本を批判していたからという単純なものですが、投げ出さずに最後まで読みたいですね。

まだ全部は読めてはいませんが素晴らしい本だと思います。少しづつ読んでいきたいです。

2016/11/04(金) |URL|通りすがり [edit]

Re: タイトルなし

通りすがりさん コメントありがとうございます^^)
> この神様は話し方こそ過激ですが腑に落ちる納得する話し方をされる。人生における多くの面で誤解していたこと間違っていたことに気が付かせてくれる。
 あ、そうです。まったくその通りで、従来のキリスト教信仰の視点で見ると、とんでもないことを言ってるようですが、理性的に納得でき、眼から大きなウロコがはがれ落ちます。
 この本は、一般のキリスト教信者からも、おそらく反対されているはずです。神の概念がまるで変わります。神は横暴でなく、厳しくもなく、崇拝も金銭も奉仕も要求してないことが、理性的にも感情的にもよく分かります。
 私にはバイブルのような本です。ぜひこのまま読み進めることを勧めます。

2016/11/04(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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