「バーソは自由に」

 考え方はいろいろあるから面白い。

 月の「沙漠」と「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」の類似点。 

桜散る、桜散る、もう君が見えないほど・・・の時節になった。
無情を感じ、甘い気分が恋しい今日この頃。
デザートに桜餅と渋茶か、洋菓子ならサバランと紅茶がほしくなる。

デザートといえば、サバクも英語でザートと言う。
その違いをまず。(赤色はアクセント位置)
●砂漠(desert)は、[de-・sert ]で、見捨てられた土地の意。
 人が住むことができない乾燥地帯なので、人に見捨てられている。

●デザート(dessert)は、[des-・sert]で、食事を下げるの意。
 食事を下げた後に出てくる茶菓・果物がデザート。発音はディートに近い。
 ※スペルの違いの覚え方:「デザートは“s”が余計に別腹に入る」。

snowpak.jpg
(フリー画像:著者snowpeak)

で、今回は、童謡の『月の沙漠』はアラビアの砂漠ではなく、日本の砂浜が舞台で、
しかもサバクという言葉にはじつに深遠な意味があるという話です。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
月の沙漠 作詞:加藤まさを 作曲:佐々木すぐる

「沙漠」という字は、石偏の「砂漠」ではなく、さんずいの「沙」。即ち水辺の砂浜のこと。
王子様とお姫様を乗せたラクダが2頭、海水に濡れたみずみずしい砂浜を渡っていく。
kite5.jpg大正12年、作者の加藤は千葉県の御宿(おんじゅく)
で肺結核の療養をしているときに、この詩を書いた。

彼の作品には「悲しみと死の匂いがあり、この詩にも
現実から逃避したい何かがあったのでははないか」と
評する人がいる(※)。

そう言われて見れば、恋する男女が駆け落ちをして、
死出の旅路を歩む、いわゆる心中(しんじゅう)物語
を描いているように思える表現が各所にある。
(わたしの愛唱歌シリーズ第1集郵便切手:加藤まさを原画)

1 
 月の沙漠を はるばると
 旅のらくだが 行きました
 金と銀との くら置いて
 二つならんで 行きました

 「はるばると」=非常に遠いの意。旅の目的地は相当遠い所だと冒頭で匂わしている。
 「金と銀とのくら」=高貴な人の意か、あるいは恋愛を美化しているようにも思える。

2 
 金のくらには 銀のかめ
 銀のくらには 金のかめ
 二つのかめは それぞれに
 ひもで結んで ありました

 「かめ」=水は砂漠では命と同義なら、かめは命を入れる器、すなわち体のことか。
 「ひもで結んで」=愛し合う男女が一緒に水に飛び込むときの定番スタイルだろう。

3 
 先のくらには 王子さま
 あとのくらには お姫さま
 乗った二人は おそろいの 
 白い上着を 着てました

 「おそろいの白い上着」=落語『品川心中』では、女郎のお染に無理心中をすること
 を承知させられた金蔵が、二人分の死装束の白無垢と安い脇差を買う場面がある。

4 
 ひろい沙漠を ひとすじに
 二人はどこへ いくのでしょう
 おぼろにけぶる 月の夜を
 対のらくだは とぼとぼと
 砂丘を越えて 行きました
 だまって越えて 行きました


 「沙漠をひとすじに」=目的地はひとつに定まっていると言いたいようだ。
 「二人はどこへ行くのでしょう」=この問いかけは、言わずもがなでしょうの意か。
 「おぼろにけぶる月の夜」=普通なら月が煌々と照ってる情景を描くところだろう。
 「とぼとぼと」=この意気消沈した歩き方は、二人の心の中を表している。
 「だまって越えて」=デートならおしゃべりが弾み、死への旅なら無言だろう。

結びの言葉は「行きました」で、この言葉だけ繰り返されていることに着目すると、
じつは「逝きました」と言っているようにも思えてこないだろうか。

 ここでYou-Tubeはいかが。→石原裕次郎アカペラ倍賞千恵子(二胡)張濱
katoumasao5.jpg
(御宿中央海岸の月の砂漠記念像)

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
イエスの最期の言葉は「サバク」に関係がある。

刑柱上のイエスが大声で叫んだ言葉がヘブライ語のままで知られている。
 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイ27:26)
 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と訳される。

面白いのは、この「サバク」というヘブライ語が「見捨てる」という意味なのだ。
「エリ(神)・エリ(神)・レマ(なぜ)・サバク-タ(見捨て-タは完了形) ニ(私を)」

「砂漠」の英語 “desert” は、「見捨てられた土地」という意味の名詞だが、
この動詞は「見捨てる・逃亡」という意味で、ヘブライ語の「サバク」と偶然にも同義。

なぜ神の子イエスがこんなことを父なる神に言ったのか、と疑問に思われているが、
その解釈は、やはりイエスも人の子で、信仰が一時的に薄れたのだろうという説と、
旧約聖書の詩篇を引用したに過ぎず、イエスは預言を成就したのだという説がある。

イエスは十字架ではなく、一本の杭に架けられたという説もあるが(下図)、
死んで墓の中で見捨てられたような状態から、3日目に復活したとされている。
復活の物理的証拠はないが、論理的証拠なら十分にあり、否定は難しい。

jsas8.jpg
(杭殺刑:ユストゥス・リプシウス De cruce 1595)

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
人をさばくなら、自分がさばかれる。

イランの王政時代、「SAVAKU」という秘密警察が多くの反体制派を裁いて殺害した。
闇の必殺仕置人が極悪人をばっさり裁いてほしい、と思うことがあるかもしれない。

だが人を裁く人は、自分は義人であることを誇っているという一面もある。
そして人を裁くなら、裁く自分が人から見捨てられることもあり得るのだ。

 「人を裁くなかれ。人を裁くそのはかりで自分が裁かれるからである」
 ―――イエス・キリスト

 「裁くのをやめる。それだけで、人は幸せになれる」
 ―――ジェラルド・G・ジャンポルスキー(精神分析医・スピリチュアル作家)

                 

というようなわけで、「サバク」という言葉にはちょっと面白い意味がありますが、
たとえ道ならぬ恋に落ちたとしても、たとえひとや神に見捨てられたと感じても、
「ちょいと西の方に出かけてきます。帰ってくるのはお盆の十三日でして」などと
馬鹿なことを言って、すぐ白い服を着たりしないようにしたいものでありますね。

旧約聖書に「砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる」という
預言的聖句がありますが、不毛の砂漠にも花が咲き乱れることがあるようですよ。

sabak74.jpg(出典)
世界一の乾燥地帯である南米アタカマ砂漠がエル・ニーニョ現象で花畑に変身。 

参考―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※広田健一著『童謡の謎2』祥伝社
※Wikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E3%81%AE%E6%
B2%99%E6%BC%A0
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
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( ̄▽+ ̄*)☆バーソ☆様おはようございます。

( ̄▽+ ̄*)さばく、将棋でも、自らの駒を、相手の駒と交換することを、さばく、などと申します。駒の損得だけなら、損をしたように見える手でも、結果としては、トクをするような交換を、さばく、なんて言います。この記事を読んだ後だと、駒が死んで生まれ変わったようにも感じたりします。

 さだまさし、いいなぁ。いいですね~☆

2016/04/09(土) |URL| 匠石 戒丘 [edit]

悲しい歌なのですね

バーソ様
おはよう御座います。

月の砂漠が御宿で作られたということまでは知っていましたが内容は知りませんでした。
悲しい歌なのですね。
さて裁く方ですが、最近は裁判人が話題になっていますね。面白そうだし暇人なのでやってみたい気もしますが殺人事件裁判はお断りです。

愛新覚羅

2016/04/09(土) |URL|aishinkakura [edit]

おはようございます

「月の砂漠」、童謡らしい童謡だったので皆さんと同様、
動揺しています。(笑)
そういわれれば情死の道行にイメージが被さりますね。
砂漠は死と紙一重の場所なので、映画や小説にしやすい
のでしょう。「シェリタリング・スカイ」や
「イングリッシュ・ペイシェント」が思い浮かびます。
そうそう「アラビアのロレンス」もね。

>「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」

「クオ・ヴァディス」という映画(小説だったか?)にネロの迫害に
逃れるペテロがイエスの幻を見て、「クオ・ヴァディス・ドミネ
(主よ、どこにかれるのですか?)」と訊くとイエスが
「汝が捨てしローマに」と答えたシーンが焼きついています。

2016/04/09(土) |URL|エリアンダー [edit]

バーソさん、いつも楽しい内容ですごいなと思ってます。最後のアタカマ砂漠の花には驚きました。砂漠が一挙に花畑になってしまったんですね。この花たちの今後がちょっと気になりますが、。種を残してずっと生き延びるのでしょうかねえ^。
イエスキリストの復活についてちょっと伺いたいと思いまして。3日目に復活したというのは普通の人の目でも見える状態になったということなんでしょうね。霊的な人だけに見えたんじゃなくて。キリスト教の信者にとってはこの復活というのが信仰のベースになるものだと思います。普通の感覚では信じられないことですが、秋田のマリア様の涙とかファティマの件とかこの現実の世の中にも奇跡と呼ばれることが多々あるのでイエスの復活も本当にあったことなのだろうと思います。このイエスの復活についてバーソさんなりの印象とか観点とかあるかと思われるのですが、文章にできる部分があればお願いします。^^

2016/04/09(土) |URL|天安 [edit]

Re: ( ̄▽+ ̄*)☆バーソ☆様おはようございます。

匠石 戒丘さん コメントありがとうございます^^)
 将棋の「さばく」。字は「捌く」と書くように思えますが、刀捌きなんていう言い方を思い出します。持ち駒を大胆に切るような人は、先が読める人で、穴熊囲いなんかしない人じゃないでしょうか。私は一度も穴熊はしたことがないですね。大体、職場の昼休みにする将棋には合いません。大体、猪突猛進の棒銀一本槍です。将棋にも性格が出るのでしょう。

 将棋は戦争ゲームではなく、マネーゲームだと言った人がいます。言われてみれば、玉、金、銀、銅、香車など、宝石貴金属香料の名前です。相手の駒は自分の物として使えるのですから、戦争の捕虜とは違います。相手の駒が死んで自陣で生まれ変わるとすれば、なるほど、復活のようにも思えますね。

2016/04/09(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 悲しい歌なのですね

aishinkakuraさま コメントありがとうございます^^)
 御宿で作られたということをご存知でしたか。そういえば同じ千葉県でしたね。

 裁判員裁判。面白そうでもあり、難しそうでもあり、悩むところですね。私は殺人事件で、故意で残虐で証拠が確実だと、どうも死刑に票を入れそうです。長年、偽装をして不当に利益を上げた企業には、1週間程度の業務停止などではなく、高額の懲罰金を課してほしいと主張しそうです。

 ですが、密かにやっていて、しかも誰にも迷惑をかけてないような犯罪については、モラル欠如で悪いのは間違いないですが、そんなに厳しく糾弾したいとは思わないでしょうね。
 それよりも、多額な金を賄賂に貰ったり、地球何週分のガソリン代を請求する政治家のほうがよほど悪いと思うのですが。
 野球の清原にしてもバドミントンの選手にしても、愚かなことをしたものです。金がありすぎるのも困ったものですね。

2016/04/09(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: おはようございます

エリアンダーさん コメントありがとうございます^^)
> 童謡には同様に動揺していますか。ああ、言おうと思っていたのに、先に言っちゃあ困ります。

 すぐ映画のタイトルが出てきますね。『アラビアのロレンス』以外は観ていませんが、検索してみると、両方ともラブストーリー。砂漠で生まれたイスラムの教義とアメリカの物質主義、坂本龍一の音楽ですか。もう一本は官能的な不倫を描きながら愛の尊さを教えている、愛を求めすぎると不幸を呼び込む。一度観てみたいものです。

 『クオ・ヴァディス』のセリフも、まあ、よく覚えていますね。私はこの本は中学のときに読んで教室で感想を言わされた記憶がありますが、その頃はこのセリフは印象に残らなかったですよ。映画はロバート・テイラーとデボラ・カー。美男美女の取り合わせ。余計に美しい話になりますね。

このセリフはヨハネ福音書13章36節に基づくものです。

 シモン・ペテロがイエスに言った、「主よ、どこへおいでになるのですか」。イエスは答えられた、「あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来ることになろう」。

 ペテロがむきになって「あなたのためには命を捨てます」と言うと、イエスは「よくよくあなたに言っておく。鶏が鳴く前(早朝)にあなたは私を三度知らないと言うであろう」と言います。そしてイエスが捕まったあと、「おまえもイエスと一緒にいただろう」と女中たちから咎められたとき、実際に三度も「イエスなんか知らない」と言うのです。
 そんな信仰の持ち主だったペテロも「天国の鍵」をイエスから与えられて一番用いられたわけですから、ペテロには失敗もいい経験だったようです。こういう話もあるのが聖書のいいところです。

2016/04/09(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

天安さん コメントありがとうございます^^)
 大賀蓮といって、縄文時代の蓮の花が咲いたという話がありますから、乾燥した土中では種は生命をずっと保存しているのでしょうか。

●イエスの復活した体については特異な点があります。
復活したイエスに会った人々が最初はイエスとは分かりませんでした。つまり外見が生前のイエスとは違っていて、声や話し方やその内容でやっとイエスと分かったのです。

●トマスという弟子は、イエスの体に釘や槍の穴を見なければ信じないと言いましたが、イエスはトマスに現れて、穴を見せて、指を差し込みなさいと言ったところ、トマスは驚嘆して「わが主よ、わが神よ」と叫んでいます。なので、この場合にはイエスは体に穴を開けるという奇跡を行なったようです。

●イエスは鍵の掛かった部屋に入ってきています。なので霊でもあり、肉体でもあったようです。旧約に出てくるみ使いがそうです。本来は霊的な体の持ち主ですが、地上に来た時には肉体を付けて、食事をしたり結婚さえしたりしています。

●初期クリスチャンはひどい迫害を受けましたが、強い信仰を示して殉教死しています。皇帝ネロは闘技場でライオンに食わせたりしましたが、イエスの弟子たちは怖がらずに賛美を歌いながら死んでいったという目撃者の記述が残っています。迫害にあって町を追い出されたときには「それゆえ散らされた人々は福音を宣明しながら全土を回った」と記述されています。「やむを得ず」ではなく、「それゆえ」一所懸命に伝道したということは、イエスの復活については強い確信を持っていたわけです。
 人が死ねるのは、これは真実であると自分が確信を持っている場合だけです。嘘のためや自分で半信半疑と思っていることのために死ぬことなどできません。むろん愚かな盲信者や狂信者はそうするかもしれませんが、記録によると、文化の町アテネでは当時の著名な人々や裁判官も信者になったと書かれています。(使徒17:32-34)

●使徒パウロの論述です。

(コリント第一15:3-8)
キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパ(ペテロ)に現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。・・・そして最後に、わたしにも、現れたのである。

 復活の目撃証人は5百人以上いて、まだ生存している人もいる(=確かめようと思えば確かめられる)と言い、最後に自分にもイエスが現れたと述べています。この場合の現れたというのは幻でイエスに会ったという意味ですが、パウロはそのときの衝撃を「目からうろこが落ちた」と言っていて、これがこの慣用句の語源になっています。

(同14-19)
・・・キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。・・・この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

 キリスト教の教義はイエスの復活が基盤です。それが嘘だったら、嘘の話からキリスト教がこんなに普及するはずはないとも考えられます。

●安息日は、ユダヤ教時代は長い間、土曜日でしたが、キリスト教時代になって日曜日に変わりました。キリストが復活が日曜日だったからです。安息日というのはユダヤ教徒にとっては非常に重大な日で、静かにして働いてはいけない日なのに、ちょっと働いたために石撃ちの刑になった人もいたほどです。なので、その日が変わったということは、よほどのことがあったということです。当時、キリストを信じる者は、ユダヤ教の一派だとか異端だと思われていたほど非常に少数でした。

 イエスの復活については、いい本が出されていますよ。私の読んだのは翻訳ものでしたが、かなり説得力がありました。書名は思い出せませんが。
 私はイエスの復活については疑っていませんが、しかしイエスを信じれば救われるという教会の教えについては疑問を持っています。
 以上、簡単ですが。

2016/04/09(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

「ようこそ、月の沙漠の御宿へ」
御宿の海岸沿いの道には、月とラクダをデザインしたオレンジ色のぼんやり外灯が並んでいたのを思い出しました。今はどうなってるのかなあ。

去年の夏、一宮(九十九里)の海岸に行ってみたら海岸が激烈に狭くなっていたので驚きました。水面が上昇してますね。月の沙漠もそのうち消えるのでしょうか。
地中海もいずれ干上がる傾向のようで。

地中海は以前、干上がったことがあるそうです。でも今はまだ、なみなみと水を湛えている。
干上がり、また満ちる。復活とは巡りなのか。

例えば戦争中、多くの死体を見てきた人は、
イエスの復活を思う時、
戦場でぐちゃぐちゃになって死んでる友が起き上がってくるところと重ねるのかどうか。
その友が復活するなど有り得ない。
同様に、
十字架刑の苛烈さを考えれば、イエスが復活するなどとは、思い至らない。
しかし、復活したという。命を掛けてその復活を伝えようとする者達がいた。
すると、何かがあったと思わざるを得ない。通常の思考からは全く思い至らない出来事がイエスにあった。

復活は通常の巡りを遡行するものなのか、
否、そもそも復活とは通常の巡りである。
そんな風に私は思うのです。

2016/04/09(土) |URL|小奈鳩ユウ [edit]

Re: タイトルなし

小奈鳩ユウさん コメントありがとうございます^^)
> 干上がり、また満ちる。復活とは巡りなのか。
福島県の三春の滝桜は樹齢千年超だそうです。
咲いて、散る。そのことを千回以上も繰り返しています。
自然界が同じようなことの繰り返しになっているのであれば、
人生も繰り返しのはずで、だから輪廻という思想もあるのでしょうか。
輪廻は人生の不公平という不都合をひとつ消す考えでもありますし。

しかし歳歳年年 人同じからず。万物流転とも言われます。
同じような繰り返しに見えて、個々の事象を見れば、
一つひとつはみな異なっているのでしょう。

人間の復活については常識的・科学的にはあり得ません。
が、数日経って棺おけの中から甦ったという話がたまにあります。
臨死体験も一時的に死んですぐ復活した話とも言えるでしょう。

イエスの復活については、私の考えですが、
霊の体で復活して、肉体を一時的に身に付けたのではないでしょうか。
人間を神様扱いする思考は、安っぽい新興宗教の特徴でもあり、
私はかなり好きではないのですが、イエスが復活しなかったとすれば、
話の辻褄が合わず、歴史的にもいろいろ矛盾が生じてきます。

むろん聖書自体も後代に加筆削除訂正などがあったでしょうから、
その記述を文字通り素直に読むことはできませんが、
ただ人為的な全くの嘘を基にした話がこんなに2千年も続いていて、
しかも全世界に普及し、多くの人々に影響を及ぼしているというのは、
復活という奇跡も信じざるを得ないようにも思います。

日ごとのパンを祈り求める気持ちと人間の復活を信じる気持ちとは、
かなり近いところにあるような気がするのですが。

2016/04/09(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

バーソさん、詳しいコメント、感謝です。
サウロがパウロになったのも、イエスと(霊的に)会ったからでしたよね。パウロの話はそのあたりのことを言っているのでしょうね。
また、バーソさんのスタンスというか立ち位置というのがわかって、これもうれしいです。「キリスト教徒」と「キリスト者」とはちがうものですからね。わたしもキリスト教についてはあんまり関心はありませんが、イエスの生き方とかブッダの生き方とかには深い関心があります。

2016/04/09(土) |URL|天安 [edit]

イエスの復活については、宗教の領域で、
僕が神にアプローチしても、
引き返す地点になりそうです。

世の中には、説明できないこともあります。
説明できないことなのに、人は説明してしまいます。
説明を求めているから、信じてしまいます。

分からないことは分からない、
秘密は秘密、空白は空白で、
放置しておくこと、
それは、きっと、考えることよりも、
信じることよりも難しいな。

2016/04/09(土) |URL|青梗菜 [edit]

六文でいいよ

西方浄土へ駱駝に乗って 一路西へと沙漠を行けば やがて見え来る花畑
その真ん中に流れる水は あちらとこちらを分かつ川
黒い衣装の渡し守一人 粗末な小屋の椅子に腰掛けて 客はまだかと目を凝らす
一昨日は若い男女が二人 昨日は老いた男が一人
舟出の時刻は毎日違う 今日は少し待つとしよう
自分で客と気づかぬ事には 乗れといっても乗らぬもの
ここは時間のよどむ岸 幸い酒なら幾らでもある 納得するまで飲むが良い
渡し賃はわずか六文 飲み代の釣りでも十分足りる
千年前には英雄が二人 二千年前には詐欺師が一人 今は暫く待つとしよう

2016/04/09(土) |URL|miss.key [edit]

バーソさん、こんにちは^^

最初に、事実に基づく物語があって、
単にそれを、事実として知るというケースのほかにも、
心情的に信じたいことがあって、
それを信じるためには、単なる物語でも、
事実として扱うほうが、自我にとって都合が良い場合は、
それが広く信じられることも珍しくないようです。

私は、超自然現象には肯定的なので、
イエスの話は前者かなとは思いますが、
人間の心理を考えると、後者でもまったく不思議ではありません。

普通の人間は、
善悪優劣に基づく価値観を完全に捨てることは不可能で、
現実から、その価値観に基づく自己肯定感を得られない場合、
自分を善であり優であるとするための物語が必要で、
宗教やスピリチュアリズムは、
そういう人たちにそういう物語を提供してますが、
そういうものから自己肯定感を得ようとする場合、
人は容易に、「裁く人」になるなと感じます。
事実に基づくかどうかに関係なく、
単に自分の自我に都合の良いことだけを信じる人間になり、
それに反する考え方をする人は、事実に基づく考え方をしているだけでも、
悪・愚・劣だと、裁かれることになります。
人は信じることから自己肯定感を得ようとすると、
そういう醜悪な存在になるように感じます。

あまり記事に関係の無いようなコメントになってすみません^^;

2016/04/10(日) |URL|Korva [edit]

Re: タイトルなし

天安さん コメントありがとうございます^^)
 サウロがパウロになった話を知っているとは、天安さんはかなり詳しそうですね。 
 以下は言わずもがなでしょうが、彼は著名なラバン(師)であるガマリエルの足下で学んだ知識人です。サウロはユダヤ名、パウロはギリシア語名、ローマ市民権も持っていました。パウロがいなければキリスト教の教義は完成しなかったでしょう。アダムから罪が入って自動的に全人類が罪人になったが、イエスの贖いで全人類(ただしキリストを信じる者のみと限定されている)が救われるという教義を説いたのは彼だけです。つまり有名な原罪と贖いの教義はパウロだけが「ローマ人への手紙」の中で論じているのです。

 神を求め、救いを求める宗教的な思考というものは、人間に普遍的について回るものだと思っているのですが、では宗教組織が必要かというと、それは別の話で、人間が多数になり、組織になるといろいろ問題を起こすのが古今東西、世の常だと思っています。イエスの生存中も使徒たちは誰が一番偉いかと何度も争っています。人間の醜い一面で、私はこんなふうには絶対なりたくないと思っています。

2016/04/10(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

青梗菜さん コメントありがとうございます^^)
> 分からないことは分からない、
秘密は秘密、空白は空白で、
放置しておくこと、
それは、きっと、考えることよりも、
信じることよりも難しいな。

 そうですね。難しいでしょう。なんたって人間は考える葦ですから。考えない人間は人間ではないとも言えますし。
 伝道の書を思い出しました。3章9~15節です。


  神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
  それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで
  見きわめることはできない。

 永遠とか神とか不思議なことを知りたいと思うのは人間の本性でしょうが、見極めることはできないことだと言われています。ではどうするのがいいのか。

  人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに
  良い事はない。またすべての人が食い飲みし、
  そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。

 分からないことは分からないままにして楽しく暮らせと言っているようです。では分からないことを知ろうとするのは良くないのか。

 
  わたしは知っている、すべて神がなさる事は永遠に変わることがなく、
  これに加えることも、これから取ることもできない。
  今あるものは、すでにあったものである。
  後にあるもの、すでにあったものである。
 
 どうも、分かろうとしてもそんなに目新しいことはないよと軽くいなされているようです。そもそも人間の考え付くことというのは、大抵は古人がすでに考えていることですから。
 とはいっても夜空に輝く無数の星々を見たときに、永遠の時と無限の空間の原因を思うのも、これまた人間の性。人生の大いなる一興なのでしょうかね。

2016/04/10(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: タイトルなし

Korvaさん コメントありがとうございます^^)
 いや、まったく同感です。私もそう思います。
 イエスの伝記なり訓話には、かなり良い方向に尾ひれがついているだろうと思います。イエスを神様として崇拝する精神にはちょっと同意できかねますが、偉人として賢人として敬意を払うことはいいことでしょう。自分がいいと思うということは、自分もそうなりたいという意思があるからです。

 スピリチュアルでは霊界のイエスに会って話をしたという著述家が何人もいて、マグダラのマリアはイエスの妻だったと言われています。聖書には、復活したイエスに最初に会ったのはマグダラのマリアだと書かれていますから、それも興味深いことです。イエスには妻がいないとしたほうが、神聖な雰囲気を作りやすかったのかもしれません。

> 宗教やスピリチュアリズムは、
そういう人たちにそういう物語を提供してますが、
そういうものから自己肯定感を得ようとする場合、
人は容易に、「裁く人」になるなと感じます。
事実に基づくかどうかに関係なく、
単に自分の自我に都合の良いことだけを信じる人間になり、
それに反する考え方をする人は、事実に基づく考え方をしているだけでも、
悪・愚・劣だと、裁かれることになります。

 そうですね。私はそういう世界にいたことがあるのでよく分かります。教団内には、自分たちは神の側、そうでない人は「世の人」と呼んで蔑む傾向がありましたね。

 私は聖書についてはすべて善意に肯定的に見ようというところがありました。だから客観的・人間的に見ればちょっとおかしいように思えても、本当は神から見て正しいことなのだろう、と思うようにいつも自分に言い聞かせていましたね。
 そしていつも人を無意識に裁く傾向もありました。人とは他人と自分のことです。何かの行為があると、それは聖書的に正しいのか間違っているのかという判断がすぐ心の中に浮かんでくるのです。聖書を知ってからは、ひとと自分の欠点、特に心の動機がよく見えるようになりましたね。

 聖書に9つの「霊の実」というのがあります。(ガラテヤ5:22)

 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」
 
 宗教の信者というのは、これらの特質よりも、「信仰」のほうを重んじる傾向があります。「義」や「認識」のほうを重んじると厳しい義人になり、偽善者になりやすくなります。イエスは悪人を厳しく叱責しましたが、聖書を読む限りでは、そんな自称義人たちとはまるで違うと思いますね。

2016/04/10(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

Re: 六文でいいよ

miss.keyさん コメントありがとうございます^^)
うーむ、こういう文章を書かれると私はお手上げ、上げっ放し。
\(~o~)/
調子よく気の利いた文章が書ける人はいいなあ。返事に困った。

「千年前には英雄が二人」とは誰のことですか。平安時代から鎌倉時代に英雄が居たかな。イスラエルならダヴィデ王かソロモン王。欧州ならカール大帝あたりか。いや、次の文章に至るための前段ですか。
「二千年前には詐欺師が一人」。
 これはイエスのことですか。うまい言い方をしますね。miss.keyさんなら、さもありなんという感じもしますが。ま、いろいろ異なる意見があるのもいいことでしょう、と軽く受け流します。なんたって会ったことがない人ですし。

 山頭火がこんなことを書いています。

 家庭は牢獄だ、とは思わないが、家庭は砂漠である、と思わざるを得ない。
 理解してない親と子と夫と妻と京大と姉妹とが、同じ釜の飯を食い、同じ屋根の下に睡っているのだ。彼らは理解しようと努めずして、理解することを恐れている。理解は多くの場合に於て、融合を生まずして離反を生むからだ。
 泣きたい時に笑い、笑いたい時に泣くのが私の生活だ。泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑うのが私の芸術である。

 真実は慈悲深くあり同時に残忍である。神に真実があるように悪魔にも亦真実がある。
 
 高下駄を穿いているときは、その高下駄の高さほど背丈が高いということは解かりきった事である。しかもこの解かりきった事を忘れていたために、多くの悲喜劇が屡々演ぜられた。

 酔わないうちに胃が酒で一杯になった、ということは悲しい事実である。

 山頭火の句はあまりよく分かりませんし、芭蕉のような叙情感がないとも感じますが、この人の精神レベルはたいしたもののようですね。

2016/04/10(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは初めてコメントします。沙という字の字源をたどると本義は川水の中の細かい石礫という意味ですが,

長い長いときをへて「河の中の石礫は淘汰されていく」ことを言います
砂とは細かく微塵に碎石された沙のことをいいます。
ちなみに沙と言う字を字解すると水と尐(少)ないという字でできております
漢字の母国では,沙場ということばがあり,それはすなわち戰場です
戰爭とは思えば,淘汰ですね。
トツゼンしつれいいたしました

2016/04/10(日) |URL|Xuan [edit]

Re: タイトルなし

Xuanさん コメントありがとうございます^^)
 お名前はスアン、シュアン、スァン、ズアン、あるいはフアンと読むのでしょうか。女性の方でしょう。日本人では沙の字が女性の名につくと、きれいなひとのような気がします。^^;

 なるほど。沙は、水が少ない。河水の中の礫は淘汰されていく。納得します。
 検索したら、こんな漢詩が出てきました。


  酔臥沙場君莫笑  酔うて沙場に臥すも 君笑うこと莫かれ
  古来征戦幾人回  古来征戦 幾人か回る

 注釈を見ると、この沙場とは砂漠ではなく戦場のことであり、北方系の中国人がその意味で使っていたとありました。

 中国語は日本語と意味が違うというのはしばしばあることですが、おかげさまで一つ勉強になりました。
 ところでお名前、漢字を母国と言っていること、戦の字を戰と書いていることからすると、中国あるいは台湾の方なんでしょうかね。いずれにしてもよくコメントをくださいました。(^^♪

 追記:足跡を見たら分かりました。玄さんですね。ありがとうございました。

2016/04/10(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

名曲ですが、そんな意味が込められていたとは…。
深いですね。

2016/04/10(日) |URL|マウントエレファント [edit]

Re: タイトルなし

マウントエレファントさん コメントありがとうございます^^)
『月の沙漠』が初レコード化された昭和7年は満州国が出来た年で、人々ははるばる大陸に渡って一攫千金を得る夢を見ていたそうです。

 翌年は昭和天皇に5人目の子として初めて男児(現天皇)がお生まれになった年で、人々はその前、今度は男の子(王子様)か女の子(お姫様)かと気をもんでいて、その期待にこの曲が重なっていたそうです。
 何でもそうですが、物事の背景を知るのは面白いですね。

2016/04/10(日) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちは

月の砂漠は、
とっても悲しい気持ちになる歌だと
記憶しています。

歌詞をあらためて読ませていただくと
なるほどなあと思います。

私は、一か月前に、車を当てられました。
私の車は、止まっていましたが
私が乗っていたら今頃、死んでいました。

加害者が私の住む世界の人ではなくて
怖かったです。
修理すると言って強硬に車を持ち去りました。
警察は助けてくれませんでした。

そして、きょうのお昼、突然、修理して
戻してくれました。
連絡もとれない状態で、怖い一か月を
過ごしました。

<さばく><裁く>
裁けませんでしたが、それを超える恐怖感でした。

2016/04/11(月) |URL|森須もりん [edit]

Re: こんにちは

森須もりんさん コメントありがとうございます^^)
 駐車中に事故に遭いましたか。相手が怖い人というのが、また災難でしたね。1か月も掛かるというのはなんでしょうね。相当ひどい壊れ方をしたのでしょうか。お詫びの言葉や物品も無しでしたか。運転手が乗ってないときは、知らん顔して当て逃げされることがよくあるので、その点は良かったですが。

 警察が助けてくれない。彼らも怖いのか、なるべくなら面倒に巻き込まれたくないというお役所根性の表れか。まあ、困ったものですね。思うのですが、たとえ相手が誠実そうなお役所でもカメラかスマホを持っていって会話を録画か録音して、相手にそれを伝えておいたほうがいいかもしれませんよ。そうすれば、これは軽々しくは扱えないという思いが生じるのじゃないかと思います。

 私も去年でしたか、接触事故を続けて2度経験しました。一度あることは二度ある、このたびは怪我をしないでよかったと思って、しばらくの間よく注意したほうがいいですね。

2016/04/11(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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2016/04/11(月) || [edit]

Re: タイトルなし

mさん コメントありがとうございます^^)
 私は詩文を書く感覚と能力がなく、散文というか、散々文なら何とか書いている状態です。きれいな言葉を使って文章を書けるひとは羨ましいです。

 魂と霊の違い。面白いですね。混同曖昧化されていて、宗派によってけっこう解釈や定義が違い、用法も異なりますが、おおむねこういうものだと私は考えています。

●霊とは肉(物質)と対極にある存在やその次元を言う。すなわち、み使いや妖精や悪霊など、人間の目には見えないカラダ(存在・世界)のことを言います。聖書には「神も霊である」とか、「肉の体もあるのだから、霊の体もある」と書かれています。

 イエスの復活では、肉体は人類の罪を贖うために犠牲にされたわけなので、その肉体がそのまま復活したら話は贖いをしてないことになるので、肉の体ではなく、霊の体を身に付けて(=物質化・マティリアルゼーション・化肉)、弟子たちの前に現れたのだと考えられます。

 また聖書では、精神思考のことを言う場合があります。たとえば、この世の風潮や傾向を言うときに「世の霊」と言う場合があります。

●魂とは人間(や動物)の本質であり、個々の《私という自己意識》と言っていいかもしれない。その意識とは、単なる思考や精神を超えたもので、その源泉・主体であると言ったらいいでしょうか。たとえば人が何かを考えているときに、あ、いま考えている自分がいるなあと気づくことがありますが、そのような傍観的な主体意識と言ってもいいかもしれません。

 ただし聖書の「魂」は、人間(や動物)そのものを表す場合があります。例えばアダムは土の塵から造られ、命の息を吹き込まれ、そして「生きた魂(ネフェシュ)」になったと(原語直訳では)書かれていますが、ここは大抵の聖書翻訳では「生きた者に」になったと訳されています(文語訳では「生霊」と訳出)。
 また命を表す場合もあり、有名な「命には命を、目には目を、歯には歯を」の「命」は、原語では「魂」と書かれています。死ぬことは「魂が去る」と言われます。

●霊魂という言い方もあり、魂と霊はかなり同義のように用いられていますが、聖書では厳密には「霊・魂・体」と3つに分けられています。第一テサロニケ5:23に「また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り・・・」とあります。

 体は物なので滅びますが、魂も霊も永遠のはず。死後の霊の世界にはお花畑が待っているようで、それを期待しているのですが。

2016/04/12(火) |URL|☆バーソ☆ [edit]

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