「バーソは自由に」

 考え方はいろいろあるから面白い。

 続・バプテストのヨハネは「勇気を与える」人だった。 

今回の記事は、前回ブログの続きです。

というのは、前回のブログ「バプテストのヨハネは『勇気を与える』人だった」についての
コメント(疑問)をいただいたのですが、当方のうっかりミスで消去してしまいました。

それで、返事を前回ブログの『続編』として書かせていただくことにしました。

salome4_20120506134447.jpg

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
コメント(疑問)
タイトル:イエスの皮肉では?
深い洞察記事読み入りました。この部分には疑問が残ります。

「しかし興味深いことに、イエスはそのあとヨハネを最大限に称賛している。」
のところの11:11 「女から生まれた者の中でバプテストのヨハネより偉大な者は
起こされていません」 はその後に続く文を読むかぎり、
ヨハネに対するイエスの皮肉ではありませんか?

「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。
しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
「彼よ・り・は・・・」 だとすると今回の記事全体のコンセプトがずれてくるような
気がしますがどうでしょうか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
コメントの返事
コメントをありがとうございました。おかげで、思考が刺激され、意欲が増し、元気が出ます。
いまは何であれ元気が出るのはいいですね。

ご指摘は、マタイ11:11後半では「天の王国において小さい者のほうがヨハネより偉大だ」
と言われている、ということは、イエスは、ヨハネを劣る者としたのであり、
それゆえヨハネを皮肉っているのではないか、という疑問でしょうか。
であれば、そうではないと思います。以下、その根拠を列挙します。


1.イエスは、「天の王国」の民の価値や祝福を強調したかった。
●イエスは「例えならでは語りたまわず」と言われているように、
レトリック(修辞法)の達人でした(マタ13:34)。イエスの言葉は文字通り受け取るのではなく、
趣旨をつかまなければいけない場合が多々あります。

例えばマタイ19:24の「富んだ者が神の王国に入るよりはラクダが針の穴を通るほうが易しい」
という言葉は、文字通り受け取ると、富んだ人は絶対に神の王国に入れないということになります。
しかしもちろん、イエスは、そういう意味で言われたのではなく、富に執着があると難しい
ということを強調したいために、得意の誇張表現をしたに過ぎません。
信者には富んだ人もいます(マタ27:57)。
 
もしマタイ11:11後半を文字通りに受け取るなら、イエスは、ヨハネは偉大だと褒めておいて、
実は劣るとけなした、ということになりますが、真意はそうではなく、
天の王国の価値や祝福を強調したいために、イエスらしい独特の言い方をしたと思われます。
なぜそう考えられるか は文脈を見ると分かります。

●次の12節では、ヨハネが宣教を始めて以来、天の王国は人々の押し進む目標となっている、
と話が続いています。これは、天の王国は第一に求めるべき重要なものであり、
多くの人々が熱心にそうしている、という意味でしょう。
であれば、イエスは、ヨハネは偉大ではないと言いたかったわけではなく、
天の王国の民がいかに祝福されているかを強調したかった
、と考えられるのではないでしょうか。 
 
イエスの言葉を聞いた人々は「偉大なヨハネでも劣るとされる、天の王国の民とは
どんなに素晴らしいのか」と非常に驚き、関心を持ったと思われます。
新世界訳以外では激しい調子の訳がされ、王国を求める人の熱意が表されています。
「天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」口語訳
「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲うものがそれを奪い取ろうとしている」新共同訳
「天の御国は激しく攻められています。そして激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」新改訳


※補足:ものみの塔の解釈では、「天の王国において小さいほうの者も彼より偉大だ」を、
天の王国にヨハネは入れないとの意味だとしています。
新約時代の「油注がれた十四万四千人」しか天に召されないという教理があるからです。


salo.jpg

新改訳聖書の「注釈」では、「キリストの十字架以前の時代におけるバプテストの
ヨハネの偉大さも、十字架と復活及び聖霊降誕以後のすべてのキリスト者に与えられた
高い地位に比べたら、色褪せて見える」と説明されています。
 
これは、主イエスキリストを信じ、罪の赦しの恵みにあずかり、
「霊によって再び生まれた」クリスチャンは、どんなに小さい者であっても、
「女から生まれた」、つまり「肉によって生まれた」バプテスマのヨハネより偉大である
という意味なのでしょう(ヨハ3:3,Ⅰコリ15章参照)。

●聖書では、イエスを信じる者は罪の赦しを得、新しい命にあずかるとしています。
であれば、これほどに「幸いな人々」はこの世のどこを探してもいないことになります。
パウロは、キリストに関する知識の優れた価値にゆえに、一切のことを損とさえ考えています」
と述べました(フィリピ3:8)。そういう意味でも「天の王国の小さな者のほうがヨハネより偉大だ」
ということでしょう。

_ _ _

2.ヨハネは偉大だが、新約時代の人と比べると、偉大さも色褪せて見える。
●続くマタイ11:14-19では、イエスは、ヨハネこそ聖書で約束されたエリヤである
と高い評価をし、耳のある者は聞きなさいと言い、その評価を強調しています。

そして、人々がヨハネとイエスのことを、悪霊がいるとか 食い意地が張ってるとか
非難したことに対し、イエスは「知恵はその働きによって義にかなっていることが示される」
と述べて、ご自分とヨハネを同列に置き、両者の働きは義にかなっていると主張しています。
決してヨハネを偉大ではない とはしてないのです。

●ルカ7章の並行記述では、「天の王国において 小さいほうの者も、ヨハネよりは偉大です」
と言われた後、29節には「そして民のすべてと収税人たちは、これを聞いて、
神は義にかなった方であるとした。 彼らは、ヨハネのバプテスマを受けていたのである」
とあります。これは、ヨハネの弟子たちは、イエスの言葉がヨハネを皮肉ったものとは考えていなかった
という証拠ではないでしょうか。
 
●イエスはヨハネを預言者以上の者だと評価した後、「天の王国の小さな者」を
ヨハネの上位におきました。そして「すべての預言者たちと律法が預言したのは
ヨハネの時まで」だと述べました(マタ11:13)。これは、ヨハネを旧約時代最後の人と規定し、
新しい時代はイエスの時から始まったということです。
その意味で、「古い時代」の偉大な人は、「新しい時代」の小さい者より、言わば劣るのです。

●マルコ2:18-22では、ヨハネの弟子が断食を励行しているのに、イエスの弟子はなぜしてないのか
と聞かれたとき、イエスは花婿とその友人の例え話をし、
「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる人はいません」と述べました。
 
これは、イエスが登場してから、新しい契約の時代が始まり、「全く新しい救いの時代」が到来した。
ヨハネはメシヤの「準備の時代」の人であったのに対し、イエスの救いにあずかれる人は
メシヤの「実現の時代」にいる。
そういう意味で、天の王国では小さいほうの者もヨハネより偉大だ と言われたのでしょう。

表紙

3.愛の人イエスは、この世的な優越感を尊ばれない。
●神の王国では、地位的に偉大とか劣るという概念はないはずです。
弟子たちが誰が一番偉いかと言い争ったとき、偉くなりたいなら仕える者になれ
と言われています(マタ20:26)。優越性を重んじるという発想は、イエスには皆無のはずです。

●イエスは、神の王国では、幼子のような謙遜な者が最も偉大であるとか、
収税人や娼婦たちが先に入る、と言われました(マタイ18:4,21:31)。
神の王国では、世俗の競争原理など全くなく、この世的な価値観が逆転しているのです。

●イエスは、人に皮肉を言うタイプではありません。 偽善者を痛烈に批判しましたが、
「すべて労苦している人」や弱い人には、「温和で、爽やかな」愛ある言葉を述べたはずです。
「彼は打ち傷のついた葦を砕かず、くすぶる亜麻の灯心を消さず」とある通りです(マタ12:20)。
愛の人イエスが皮肉を言うことはあり得ないと思います。 最後になりましたが、
実はこれが、わたしの考える一番の理由です。
 
※デジタル大辞泉では「皮肉=遠まわしに意地悪く相手を非難すること。また、
 そのさま。当てこすり」と説明されています。


マタイ11:2-15は、解釈の分かれる箇所です。そして、解釈というものは人によって違い、
それぞれに言い分や根拠があるものです。
ご指摘のような解釈ができるかもしれません。
また気づいた点があれば遠慮なくコメントをください。ありがとうございました。


関連記事
スポンサーサイト

COMMENT FORM

  • URL:
  • comment:
  • password:

Reコメントをミス消去。ごめんなさい。


★★Reコメントをミス消去。ごめんなさい★★

※5/18、画像ファイル縮小中にレイアウトがくずれ、いったん全消去したりして改善されたものの、Reコメントが消去されてしまいました。再度申し訳ありません。googleのキャッシュをコピーして、19日にコメント送付しました。



★★コメント:ごめんなさい★★
「ヨハネのメッセージを聞いた人々は、イエスの言葉がヨハネを皮肉ったものとは考えていなかった」
私もそんなつもりで書き込んだのではありません。誤解を与えたのなら謝ります。

皮肉は言い過ぎましたね。「けなして」はないにしてもイエスは獄中のヨハネに「がっかりした」のではないのでしょうか?もちろん「がっかり」もまた言い過ぎかもしれません。イエスがネガティブに反応するなんてありえないでしょうから。

イエスからすると「信じる人が○、信じない人が×」。
「信じないものでなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20 27)
(ちなみに「見ないで信じる人」は◎でしょうか。)
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20 29) 

「獄中のヨハネ」=信じない人=「×」=「残念」「がっかり」だったのかなと。

いずれにしてもみんなを神の王国へ引き上げるために(神の王国に関心を持たせるために)意図したんだろうことは間違いないと思います



★★Reコメント、ありがとうございました★★

「◎・○・×」の区分けがちょっと面白かったので、自分だったらこう分けるかもしれないな、と思える区分けを考えてみました。別にたいして聖書的根拠のある論議ではなく、単なる感じ方程度の軽い話ですので、参考程度に流し読みしてください。


「◎の人」=見ても、見なくても、信じる人。

・マタ8:2-4 らい病人:「主よ、あなたは、ただそうお望みになるだけで、私を清くすることがおできになります」
・マタ8:5-10 カペルナウムの仕官:「ただそのお言葉をください。そうすれば下男は癒えることでしょう。…これを聞いて、イエスは言われた。…『私はこれほどの信仰を見たことがありません』」
・ルカ7:23,ヨハ20:29 「幸いだ」と賞賛されたバプテストのヨハネとトマス
・ヨハ1:45-49 見て信じたナタナエル:「フィリポは彼に言った、『来て、見なさい』。…ナタナエルはイエスに答えた、『ラビ、あなたは神の子です』」


「○の人」=信じようと努力する人。

・使徒8:31 エチオピアの宦官:「彼は言った、『誰かが手引きしてくれなければ、一体どうしてわかるでしょうか』。そして、乗って、一緒に座るようにとフィリポに懇願した」
・ベレアの人:「極めて意欲的な態度でみ言葉を受け入れ、それがその通りかどうかと日毎に聖書を注意深く調べたのである」
・使徒16:13-15 ルデア:「安息日に祈りの場所に集まっていた女たちに話し始めた。紫布を売るルデアという名の女が聴いていたが、エホバは彼女の心を大きく開いて」


「△の人」=なかなか信じきれない人。

・マタ13:20-21 岩地にまかれたもの:「み言葉を聞き、喜んですぐにそれを受け入れるが、自分に根がなく、一時は続きますが、み言葉のために迫害が生じると、すぐにつまずいてしまいます」
・マタ13:22 いばらの間にまかれたもの:「み言葉を聞きますが、この事物の体制の思い煩いや富の欺きの言葉がみ言葉をふさぐ」
・マタ14:28-31 水の上を歩こうとしたペテロ:「イエスは彼をつかみ、『信仰の少ない人よ、なぜ疑いに負けたのですか』」
・使徒17:32 アレオパゴスの人:「死人の復活について聞くと、ある者たちは嘲るようになったが、他の者たちは、『これについてはまた別の時に聞こう』と言った」


「×の人」=信じないと決めこんでいる人。

・マタ9:32-34 パリサイ人:「悪霊が追い出されると、口の聞けなかったその人はものを言った。…群集は非常に驚いた。…しかしパリサイ人たちは、『彼が悪霊を追い出すのは悪霊たちの支配者によるものだ』と言いだした」
・ヨハ5:44 神を愛してないユダヤ人:「唯一の神からの栄光を求めていないのですから、どうして信じることができるでしょうか」
・ヨハ5:46,47 聖書を信じてないユダヤ人:「モーセの書いたものを信じないのであれば、どうしてわたし(イエス)の言うことを信じるでしょうか」
・ヨハ12:37 かたくなな人:「イエスが彼らの前で非常に多くのしるしを行なってこられたのに、彼らは信仰を持たなかった」
・ルカ5:6-11 奇跡を見ても信じようとしなかった書士・パリサイ人:「彼が安息日に病人を治すかどうかを見ようとして、じっと見守って…彼を訴えるすべを何か見出そうとしていた。…その手は元通りになった。…ところが彼らは狂わんばかりに怒り、イエスに対して何を行なおうかと話し合いを始めた」


マタ19:16-26 イエスから「持ち物を売り、貧しい人に与え、それから追随者になれ」と言われ、去っていった青年は、救われないままでしょうか?

その後イエスは、「富んだ人が神の王国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」と述べたものですから、その青年も、聞いていた群集も、「いったい誰が救いを得られるか」と思ったのですが、そのような人でも、「○の人」になり得るのではないでしょうか。なぜなら、イエスは「人にとっては不可能でも、神にとってはすべてのことが可能です」と述べたからです。


2011/05/19(木) |URL|バーソ [edit]

Trackback

トラックバックURL:https://barso.blog.fc2.com/tb.php/24-62829d2c

back to TOP