「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 ものみの塔の「宇宙主権の論争」の教理は非聖書的だ。 


『宇宙主権の論争』は、ものみの塔協会(エホバの証人)の主要な教理である。

これはサタンが、人間は神の律法に従うより独自に歩んだほうがうまくいくと
唱え、聖書の神エホバの支配の権利と仕方に異議を申し立てたとする教理です。

推論と組立てがうまく出来ていて、私はJWとして長年信じきっていたのですが、
ここでは、その教理の間違いを聖書的に十分に説明しているつもりです。

nasa098.jpg

●「宇宙主権の論争」でGoogle検索すると、この拙論が1位か上位に現れます。
●ものみの塔の教理は、大抵は、米国の反JWサイトを参考にしたりして適切な
反論がなされていますが、「宇宙主権の論争」に関してだけは、きちっと聖書的
に反論しているサイトが見当たりません。この教理は反証が難しいようです。
無いのであれば、この拙論が本邦初(世界初かも?)の反論になるでしょう。
●もし誤りや意見、感想があれば、ぜひコメントをくだされば感謝します。


①―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
サタンがアダムに誘ったのは、神からの『独立/離反』であり、
エホバ神の「主権」の是非など全く問題視してない。


エデンで蛇(サタン)が人間を誘惑したときの微妙な言葉遣いに注目したい。
 創世記3:4,5 (新世界訳)※下線筆者
 蛇は女に言った、「あなた方は 決して死ぬようなことはありません。
 その木から食べる日には、あなた方の目が必ず開け、あなた方が必ず
 神のようになって善悪を知るようになることを神は知っているのです」


問題を解くキーワードは「神になる」ではなく、「神のようになる」である。
サタンは「神になる」と言ったのではない。「神のようになる」と言った。 
「ように」とは直喩だが、多くの聖書が新世界訳と同じ訳し方をしている。
 「汝等 神の如くなりて」・・・・・・ 文語訳(日本聖書協会) 
 「あなたがたが神のようになり」・・・新改訳(日本聖書刊行会)
 「ye shall be as God」・・・・・・・ジェームズ王欽定訳  
 「you will be like God」・・・・・・ 改定標準訳
 「you will like gods」・・・・・・・ 新英語聖書
 「you shall be as Gods」・・・・・・カトリック・ドゥエー訳
 「you become as・Elohim」・・・・Hebrew Interlinear Bible

「神のようになる」という言葉は、神のように偉そうにしたいの意。
「あなた方は必ず神のようになる」というサタンの言葉は、
エホバ神を宇宙を治める至高の神の立場から引きずり落として、
自分が神の代わりになるという意味ではない

そうではなく、神は神として置いておいて(すなわち神の主権は全く否定せず)、
自分も神のように偉そうにしたいという意味だ。
したがって「神のようになる」とは、エホバ神の『宇宙主権』を
問題視するどころか、疑問視さえしていない。
 例え:イソップの寓話には、百獣の王ライオンの皮をかぶるロバや、
 百鳥の王ワシの飛び方を真似するカラス、虎の威を借る狐が出てくるが、
 彼らは、本家の王の立場を否定し、王をのけ者にしようとしている
 だろうか? いや、全然してない。彼らは皆、王の立場を認めている。
 彼らは王に取って代わりたいわけではなく、自分も王のようになり
 ただ権威を振るいたいだけだ。


神の王権を否定してないとは、主権論争などしてないということだ。
サタンは、エホバ神が『主権者』であることを否定せず、それはそれとして、
あなた方も「神のようになり」、誰からも支配されずに自由に生きたらどうか
と、神からの離反を誘惑したにすぎない。
 例え:反抗的な部長が、社長の命令なんかに聞き従わないで自由に
 行動したほうが楽しいよ、と新入社員に離職もしくは独立を勧めたような
 話と同じ。部長が社長を蹴落とそうとして、社長の資格についての論争を
 社内に引き起こした話ではない。


聖書には、サタンがエホバ神の立場に取って代わろうとした記述は一切ない。

まとめ:サタンは『エホバ神の宇宙主権』の正当性を問題にしたのではなく、
単に『宇宙主権者からの離反/独立』をアダムに誘ったにすぎない。


najp]8g


②―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
西暦1世紀、荒野で、サタンはイエスを誘惑したが、その目的も
アダムの場合と同 じく、神からの『独立/離反』 である。


アダムもイエスも共に「神の子」であった(ルカ3:38, マタイ3:37)。
イエスが荒野で40日間の断食をした後、サタンがイエスに仕掛けた
有名な誘惑は、創世記でアダムに仕掛けたのとまったく同じ意図の誘惑だ。
 マタイ4:1-4
 「あなたが神の子であるなら、石をパンに変えるよう命じなさい」


ここでサタンは、イエスが「神の子」であることに異議を唱えているだろうか?

サタンはイエスが「神の子である」ことを否定してない。
「あなたが神の子である」と断じ、神の子ならば神の子らしく、
石をパンに変える奇跡を行なってみよ、と誘惑(挑発)したに過ぎない。

つまり、サタンの意図は、神だけができる創造力を神の子イエスも使って
「神のように」なること、すなわち神から離反して自由に生きることを勧め、
そうすれば(断食の空腹感もなくなり)楽になる、と誘惑したのだ。

イエスは、申命記8章3節のモーセの言葉を引用して答えた。
 「人はパンだけによらず、
 神の口から出るすべての言葉によって生きなければならない」


神の口から出る「すべての言葉」 とは、神の「命令・ご意志」という意味。  
人間はパン(日々の糧)を自分だけの力で得て、生きているわけではない。
神が、太陽や雨・空気・土壌・植物などに「食物が地に生じるように」と
口から言葉を発して命令したので、食用になる物(小麦など)が地に
実を結び、それを人はパンに加工して食べ、生きている。
(創世記1:29, イザヤ55:10,11)。


つまり、イエスがサタンにした返答の趣旨は、こういうことだ。
「私は『神の口から出るすべての言葉(=神の命令・ご意思)』によって
生きている。だから、断じて《神から独立/離反》して生きるつもりはない」 ※

まとめ:荒野でもサタンはイエスに《主権者からの独立/は離反》を誘った。
サタンは、最初のアダムにした誘惑を最後のアダムであるイエスにもしたのだ。

(創世記で主権論争が始まったのなら、また同じ誘惑を仕掛けないはず)



※この「人はパンだけによらず」の聖句は、通常《人はパン(物質食物)だけによらず、
霊的食物(聖書の教え)でも生きるべきだ》と解されている。
だが、イエスは、信仰を試みられる大事な時に、そのような凡庸陳腐な返答を
したのではない。(2月14日の拙記事「人が生きるのはパンだけによらず・・・」参照)

●荒野での誘惑事件とエデンでの誘惑事件とを結びつけたのは、おそらく拙記事が
世界初。サタンは旧約と新約の冒頭部分で登場し、人間(神の子)を誘惑している。
●なお、荒野での誘惑の2番目と3番目も、1番目と全く同じ意図の誘惑である。


③―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
サブテーマの『忠節論争』の記述はヨブ記にあるが、
最重要テーマであるはずの『主権論争』の記述が
創世記にはない。


ものみの塔は『宇宙主権の論争』には、サブ的な論点として、
神に対する人間の『忠節論争』もあったと言う。
確かにヨブ記には、集会が2回あり、サタンがエホバと会話し、
ヨブの神に仕える動機に関して『忠節論争』が2回あったことが
丁寧に記述されている(ヨブ1:6-12, 2:2-6)。

ところが肝心のメインの論点である『主権の論争』について、
エホバとサタンが論争をしたとか、天で集会があった
と書かれている箇所が創世記には全くない。

ものみの塔も『論争』の記述がないことを認めていて、
人は神の支配を受けないほうが幸福になる、
とサタンが「ほのめかした」という言い方をしている。

ヨブに関して『忠節論争』を仕掛けたのは、2回ともエホバ神の
ほうからだ。サタンは、それに対して少し言い返しているにすぎない。
(ヨブ1:9-11,  2:4-5 )

まとめ:ヨブ記には『忠節論争』の記述があるが、創世記には
『主権論争』の記述が無いということは、エデンでは『主権論争』
などなかったのだ。


utyuu7.jpg


④―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
箴言27章11節は単に道徳的に生きることを勧めているに過ぎず、
『主権論争』や『忠実論争』のことなど微塵も匂わせてない。


ものみの塔は箴言に言及し、2つの 『論争』 は今も続いていると言う。
 箴言27:11
 「我が子よ、賢くあって、私の心を歓ばせよ。
 わたしを嘲弄している者にわたしが返答するためである」


ものみの塔が「賢くあって」忠実・真面目に生きなさいと教えるのは
悪くない。だがこの聖句は、格言が列挙されているところにポンと
脈絡なく出てくるだけ。
決して『主権』や『忠節』の文脈で言われているのではない。

これは、父(教師)が子(弟子)を諭す一般的な教訓のひとつにすぎない。
一般的な聖句を拡大解釈して重要な教理の根拠にするのは犯罪だ。

悪霊たちはみな神を「信じておののいている」(ヤコブ2:19)。
サタンはその悪霊たちの一人。神を恐れおののいているサタンが
なぜ神を嘲弄できるのか。

ヨブ記の結末はハッピーエンド。ヨブの『忠節論争』は当時、決着が付いた。
 ヨブ42:12
 エホバは後に、ヨブの終わりをその始めよりも祝福された。

まとめ: 昔に決着がついた『論争』が今も続いているということはない。


utyuu15.jpg


⑤―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『宇宙主権の論争』の教理の矛盾を示唆する聖句は多くある。

1)エホバが宇宙の創造者なら、『宇宙主権』の専有権を持っているはず。
『主権論争』とは、つまりは誰が作者か?という問題である。 作品である
「被造物」が、作者である「創造者」に、やり方がおかしいと文句を言うことは
本質的にでき得ないはず。イザヤ書の「粘土と陶器師」の例えが人間によく
分かる理屈であれば、サタンやみ使いたちにはもっと分かるはずで、彼らは
十分すぎるほど認識している。―――イザヤ45:9「粘土がそれを形造る者に
向かって『あなたは何を作るのか』と言ってよいだろうか」


2)宇宙の創造者なら宇宙の法則(物理・倫理)の決定権も持っているはず。
人間は各々、信念や価値感が異なるので、何が正しいか正しくないか、
善悪の決着がなかなかつかないことがある。 しかし創造者であるエホバは
主権者として、倫理の法則の制定者であるはず。神の倫理権に被造物が
異議を唱えるのは、引力の法則はおかしいと言うようなものだろう。
―――イザヤ40:14「誰が神に公正の道を教え、知識を教え、真の理解の道を
知らせるのか」同33:22「エホバは裁き主、法令授与者」


3)愛と智恵の神なら『論争』 のために全人類が苦しむのを許すはずがない。
誰であれ人が苦しむのは神の「意思」であるはずがない。 ものみの塔が言う
「先生と生徒」の例えにならって言うなら、『主権論争』は倫理上の問題なので
決着をつけるためには時間が必要だと言って、生徒が何千年も苦しむのを許す
なら、その先生は愛がなく、智恵も教育指導能力もないと、父兄・学校・世間
から非難されることになるのではないか。―――ゼカリヤ2:8「あなた方に
触れる者は私の目の玉に触れているのである」


utyuu03.jpg

4)エホバが全知全能の神なら、未来を予知し、創る力を有しているはず。
サタンがイエスに、「またたく間に、人の住む地の全ての王国を見せた」ように、
全知全能の神は、サタンが支配する人類社会の未来をシミュレーションし、
3Dバーチャル映像で映し出せる力を有している。論争などしなくても、
瞬時にサタンを納得させられるはず(ルカ4:5)。 ―――イザヤ46:8-10
「終わりのことを初めから告げる者。『私の図り事は立ち、私は自分の喜びと
することをみな行う』」、啓示1:8「わたしはアルファであり,オメガである」


5)神が自分の『主権論争』の解決のために全人類を巻き込む必要はない。 
簡単な解決策は、1つの部族か国家をモデルケースとして選んで試すことだ。
実際、古代イスラエルは神の王国の地上モデルのような国だったが、神の主権
から離反したら失敗するという《判例》となり、決着が付いた。『忠節』論争
では、ヨブがモデルケースにされ、決着が付けられた。全人類は無関係だ。

6)ノアの時代、エホバは大洪水で世を裁き、主権者の権利を行使した。 
神はノアの大洪水で、当時の世を滅ぼし、罪を犯したみ使いたちも裁いた。
もしも『論争』があったとすれば、《サタンの支配は問題極めて多しゆえに
原告サタンの負け》と、裁判官(兼)被告エホバが『論争』裁判の途中である
にもかかわらず、勝手に「判決」を下し、悪霊たちだけに刑を執行したこと
になる。――--創世記8章、ペテロ第二2:4

utyuu01.jpg

7)裁判官(兼)被告エホバは、原告サタンの敗訴を最初から宣告している
聖書の冒頭に「サタンは頭を砕かれる」と判決が明記されている。ということは、
すなわち『論争』などずーっと続いてはいないことを示す。 大体、極めて賢い
原告サタンが、自分が負けると分かっている『論争』を仕掛けるはずがない。 
―――創世記3:15 「蛇の頭を砕く」、啓示20:10「悪魔は火と硫黄の湖に
投げこまれた」。
イザヤ43:11参照

8)サタンは人類社会を最終的に平和にしなければ『論争』に勝てないのに、
歴史上、人々を惑わし、苦しめてきたのは矛盾する。

『宇宙主権の論争』とは、サタンが、エホバ神より自分のほうが上手に人類を
導けると主張して『論争』を始めたという教理のはず。であれば、サタンは、
人類社会を 平和にしなければ『論争』に勝てないのに、一度もそうしなかった
のは極めて変だ。―――啓示12:9「悪魔またサタンと呼ばれ、人の住む全地を
惑わしている者」


9)エホバは「専心の献身を求める神」であり、『主権』を絶対視している。
「十戒」の最初の命令は、「あなたはわたしの顔に逆らって他のいかなるもの
をも神としてはならない」である(出エジプト記20:1)。人間には『神の主権』を
侵すなと命令しておきながら、み使いサタンには 『主権論争』を許したと
いうのは妙だ。それでは公正の神が強者に甘く、弱者に厳しいことになる。
―――イザヤ42:8「私はエホバである。私はわたしの栄光を他の誰にも
与えることをしない」


utyuu04.jpg

10)イエスも誰も『宇宙主権の論争』について、一切言及していない。
歴史の最初に本当に『主権論争』 があり、それが全人類に関係しているなら、
非常に重要な『論争』であるので、イエスをはじめとして、パウロ、ペテロ、
モーセ、サムエル、ダビデ、ソロモン、預言者たちが多少は論じているはず。
だが、誰も『主権論争』について言及してないどころか、示唆さえしていない。
これは致命的な証拠欠如だろう。

11)『主権論争』の教理は、神を 過小評価し、サタンを過大評価している。 
ものみの塔は エホバとサタンの関係を「先生と生徒」の《レベル差》の例え話で
説明するが、聖書的にはアインシュタインと赤子以上の《超レベル差》だろう。
一介の被造物にすぎないみ使いが、至高の神に対して知能才能で対抗できる
という発想は愚かしく、神を卑しめている。―――イザヤ40:18 「あなた方は
神を誰に例えることができるのか」


12)『宇宙主権の論争』の教理は、協会2代目会長ラザフォード時代に発表。
神は少数の真の信者のみに真理を啓示する、とする思考は新興宗教や
カルト教団の特長だ。非常に重要な教理ならば、公正な神がなぜイスラエル
会衆や初期のキリスト教会や人類全体に知らせなかったのか? 
エホバは重要な事を行なう際は、あらかじめ啓示してから行動する神であるはず。
―――アモス3:7「主権者なる主エホバは内密の事柄を自分の僕である預言者
たちに啓示してからでなければ何一つ事を行わない」

※この教理は他宗派からの借り物とのコメントをいただきました(5/25)。

13)宇宙では、神の意志に反することが起こるはずがない。
協会発行の『洞察』の「全能者」の項では、「エホバの全能性(almightiness)は,
何ものにも阻まれることなく目的を成就するその力のうちに表明されます」とある。
ならば、そもそも神の意志に反するようなことは、宇宙では起きるはずが無い。


――――――――――――――――――――――――――――――――――
以上は聖書に基づき、エホバが宇宙の主権者なる神で、
サタンがその対抗者であるという前提で
「宇宙主権に関する論争」の教理の正当性を論じましたが、
私は、神とサタンについては「ものみの塔」とは異なる概念を持っています。
 すなわち、
 すべてを包み込むもの――――に対極はあり得ない です。

“全知全能なる唯一の神に対抗できるほどの存在(被造物)が宇宙にいる”
とする考え方は、聖書的・論理的・道理的に変ではないですか。
つまり、エホバ神はイスラエル人が考え出した民族神だということです。



《補足》
私は、聖書の神エホバの属性は、人間の権力者が作り上げてきたものと考えて
います。愛と憎しみという相反する特質が両立しているのはおかしいでしょう。
以下の記事が参考になるかもしれません。
・「元始、女性は太陽であったが、後に男性が取って代わった
・「エホバは至高なる神か、宗教組織の神か。 」


☆星雲の写真はNASAよりお借りしました。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
関連記事
スポンサーサイト

COMMENT FORM

  • URL:
  • comment:
  • password:

初めまして。元JW1世です。私もFC2でブログ書いてますが
ブログ主さんもどうやら1世のようですね。

宇宙主権の論争は確かに他のサイトなどでは
きっちり論じられてはいなかったかと思います。
もともとセブンスデーアドベンティストの教理を
拝借して改変させた教理だとどなたかが
ネットで言っていたかと思います。

以下 セブンスデーアドベンティストの公式サイトから引用
http://www.adventist.jp/information/%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%A6%81/
8.おおいなる戦い

すべての人間はキリストとサタンの大いなる戦いに巻き込まれている。それは、神の品性と律法および宇宙に対する主権をめぐる戦いである。この戦いは、天において、選択の自由が与えられて造られた存在が、自らを高くすることによって神の敵サタンとなり、一部の天使たちを反逆へと誘い出したときに始まった。サタンは、アダムとエバに罪を犯させ、世界に反逆の精神をもたらした。この人間の罪は、人間のうちにある神のかたちをゆがめ、造られた世界の秩序を乱した。そしてついには世界的な洪水が起こり、荒廃状態を生じさせることになった。世界は、造られたものすべてが注目する宇宙的な戦いの舞台となった。この戦いをとおして神は愛であることが究極的に擁護される。キリストは、この戦いの中にある人間のために、聖霊と忠実な天使をつかわして、救いの道を歩むものを導き、守り、支えられる。
(以上)

自分は排斥組なのですが、排斥直後にネット仲間から
「もともと神は絶対的な存在なので
だれが宇宙の主権者なのか」などという論争は
必要ない」という話を聞いた時は
JWの教理を信じてしまった自分のふがいなさを嘆きました汗
うちの会衆の某姉妹なども
JWの宇宙主権の教理と悪を許している
理由の説明について感心して、JWになったそうです。
この教理、組織に人々を導くのに効果があったようですね。汗
こんな教理信じた私が馬鹿でしたorz

2011/05/25(水) |URL|Anastasia [edit]

Re: タイトルなし

Anastasiaさん、コメントをありがとうございました。

わたしも、ものみの塔の教理には間違いが多々あるが、「宇宙主権の論争」だけは、ものみの塔の一番優れた教理だと思っていました。結果、長年愚かな人生を送ってしまい、「汗、汗、汗」と書きたいような感じです。

セブンスデーアドベンティストの公式サイトは参考になりました。ありがとうございました。以前、「宇宙主権の論争」をネットで調べたときには、判事であった2代目会長ラザフォードが考えたものとあったので、さすが裁判関係者らしい教理だと思って感心していたのですが、これも借り物とは知りませんでした。

Anastasiaさんのサイトは、きれいなサイトですね。
いろんなことをよく考えられていることもよくわかりました。

どうぞ、これからも、楽しく「求道」を続けられますように。

2011/05/25(水) |URL|バーソ [edit]

はじめまして!
最近、この事に気づいて
ブログにも記事をアップしています。
とても素晴らしい内容で
感動しています(>_<*)

リンクでこちらのブログ記事も
紹介したいのですが…
よろしいでしょうか?

2012/01/07(土) |URL|まめちど [edit]

Re: タイトルなし

ユダヤ証人という言い方は初めて見ました。
聖書もよく読んでいるようですね。
元JWの方なら、喜んで相互リンクお願いします。
よろしくお願いします。
バーソ

2012/01/07(土) |URL|バーソ [edit]

初めまして

 初めまして。
 統治体の言論統一と言うか思想統一的な出版物と考え方に馴染めないのは従順さが無いからと悩みつつ、司会者方の人柄にひかれずっと研究生のまま6年近く時間を過ごしてる者です。
 司会者に何度勧められても、どうしても統治体出版物漬け生活をしたくなくて、頂いた出版物を素直に読まずに本棚に並べてるだけ・・・ が今回里帰りで一月近く研究と集会を休み改めてJWについて考えていたところ、多くの「元JW」ブログに出会い、ここにたどり着きそれを読むほどに自分の感じていた不信感が実は的を得ていた事に安心しました。
 ありがとうございます^^
 「宇宙主権論争」は最初っから疑問に思ってました。神のようになり地球を支配したいのなら何故人類を苦しめる?と。でもその反論は決まって「893は狙った人を誰かに襲わせ、自分が助けに行き信用させるような事をし、始めに親切にして、いったん手に入るとタコ殴りするでしょ。あれと同じ。必ず不幸になる」といういつの時代だ? と言うたとえ話をされますTT これが嫌で、質問辞めました。
144,000人もまだ足りないのか???と不思議でしょうがない。。
 ここで言って良い事かは判断出来かねますが、私は所謂「見える」人なんです。それが嫌で相談したら司会者の対応が冷たかったですね。長老には完全に引かれました。そういう人とは関わりたくないんでしょうね。今では「霊的な人」と言われてますが、最初に異質な目で見られたので(一応気を遣って対応してはくださいましたが)「霊的」って何?? と嬉しくもなんともないです、ええ。
 ちなみにコナン・ドイルの自動書記説はそっちの世界では有名な逸話です。JWに居たら心霊関係はご法度だから知らなくて当たり前ですが、見つけられてよかったですね^^v 
 こういった極端な思想統一をしたがる統治体の指導が嫌なんです。見える側から言ったら「全部悪霊」なんて言えませんから困ってたんですが。JW時代、そういった相談はありませんでしたか。
 長々とすみません。つい嬉しくて、長文しつれいしました。

2012/09/05(水) |URL|元研究生になりたい [edit]

元研究生になりたいさんへ。(^^)

コメント、ありがとうございます。
このようなコメントをいただくのがいちばんうれしいです。

わたしは元々宗教に関心があったのですが、聖書を学ぼうと思ったのは、
家に訪ねてきてくれた伝道者の人柄が感心するほど良かったためでした。
自分もそうなりたいと思って、30年以上も愚かしい人生を送ってしまったのですが、
でもJW研究期間6年ですか、早くJWの実体に気づかれてよかったですね。

JWの教理は、全体の文脈を無視して特定の聖句だけから説明していることが
多く、そのため、統治体の出版物だけとその引用聖句だけしか読まないと、
教えの矛盾やおかしさになかなか気づけないようになっています。

JWの研究は《聖書研究》ではなく、実際には《統治体出版物学習》で、
単に本文から答えを探すだけの学習方法ですが、これが効を奏しているのですね。

「十四万四千人」だけが天に行くという教理ほど根拠のないものはありません。
「十四万四千人」が他の「地的級」を支配するという教理も根拠なしです。
でもこの独自の教理は最近、破綻していることがはっきりしてきたようですね。
なにしろ統治体の成員に、肝心の「天的級」がいなくなり、
新しい自称「十四万四千人」が増えているのですから。

「宇宙主権の論争」については、JW関連サイトでも扱っているサイトが
なかなかないようで、かなり強力な教理のようです。
でも「最初から疑問に思って」いたんですか。たいしたもんですね。
わたしはJWの教理の中でもこの教理がいちばんすごいと思っていました(恥。

じつは、わたしの親族に、《霊》が見える人間がいて、《霊》の世界は、
全部が悪霊というわけでもない、ということは漠然と知っていました。

でも聖書が、そのような霊界との通信は大変な罪だとしていますので、
イエスが自動書記をしたなんてことは夢にも思わなかったですね。
JWなら、みんな《心霊》という言葉には、拒否反応と怖れを示すはずです。

ところで、いわゆる「見える人」だそうですが、すごい賜物をお持ちですね。
わたしもできればそういう能力を持ちたいものだと思っているのですが、
なにか特別な修行などをされたのでしょうか。先天的なものでしょうか。
非常に興味がありますね。
よかったら、またコメントをくださいませんか^^)。

2012/09/05(水) |URL|☆バーソ☆ [edit]

JWがエホバの宇宙主権と言いたいならば それでいいのではないかと
思うのです。JWパラダイムの中だけならば、その世界でお暮らしくださいと いうしかありません。こういうのを我が家では「丹波する」と言っております。(丹波哲郎が天極・地獄を見てきたんだからしかたがない の由来)個人的に聖書はバビロン捕囚後のイスラエル人の「アイデンティティー」を取り戻すためのもので あったような気がします 聖書は今を「生きる為の処世訓」でいいのではないでしょうか。

2012/11/04(日) |URL|milestone [edit]

milestoneさんへ。(^^)

深いコメントを、ありがとうございます。

宗教のある教えを信奉することについて、それは「丹波する」である、と見るのは面白いですね。真偽を明確に言うことは難しい《不可知的》な世界の話なのに、それを見た、信じると唱える人がいるなら、それをとやかく言うことはできないでしょうから。

「聖書は今を『生きる為の処世訓』でいい」と見る考え方も面白いですね。確かに、そう思えば、人生を生きるときにメリットがあるでしょう。

ただ、JWの教えは「今をあえて苦しく生きる為の処世訓」ではないでしょうか。

十分ご承知と思いますので詳細には言いませんが、奉仕を第一にせよと常に強調されるため、真面目で熱心な信者ほど、多大な自己犠牲を払い、過酷な生活をしています。

むろん、その教えに聖書的な根拠がある程度はあるか、あるいは根拠があるのだと組織が信じきっているのであれば、まあ、それならば仕方がないと言えるかもしれませんが、実際には全くそうではないですね。

「塔」の教えは誤りだともう十分証明されている状況で、組織はそのことを承知しているにも関わらず、今なお、それを隠し通そう、覆い隠そうとしています。それは、組織の存続のため、自分たち特権階級の存続のためにそうしているとしか考えられません。

被害者は真面目な信者です。そうした「塔」の問題点を、信者の多くは全然知らず、むしろJWであることを誇りにさえ思っています。

「宇宙主権」の教理についても、以前、私は、それが組織の優越性を示す一番の根拠だと考えていました。しかし今は、この教理の真偽は不可知なものではなく、偽りだと聖書的に論証できると考えたので、私なりの考えでこの記事を書きました。

最近、私は考え方が少し変わってきて、「その世界で(暮らすのがもし好きであるのなら)お暮らしください」と考えるようになりました。
教えの真偽・是非などにはあまり関心がなく、組織の考え方、生き方、交友、雰囲気が好きだという人もいますし、何を信じるか、どう生きるかは個人の自由だと思うからです。

「聖書はバビロン捕囚後のイスラエル人の『アイデンティティー』を取り戻すためのもの」という見方も面白いですね。またのコメントをお待ちしています^^)。

2012/11/05(月) |URL|☆バーソ☆ [edit]

サトリの先にあるもの

数年前から気になっていた 脳機能学者で 苫米地英人さんがいます
この人個人の行動性格については?がつく人物ではありますが 宗教について特に仏陀・キリストについては一目おいています 例えばこれです
「サトリの先にあるもの」http://www.tomabechi.jp/archives/50316486.html また 「超天才Dr.苫米地のスピリチュアルのウラ」http://www.youtube.com/watch?v=GC0gwROEf0Eなどを見ていただけると 精神世界を追い求めているパーソさんには楽しんでいただけるのではないかと思います
でも 苫米地さんは有名だからしっているかもしれませんね・・

2012/11/06(火) |URL|milestone [edit]

milestoneさんへ。(^^)

またのコメント、ありがとうございます。

苫米地英人さんについては全然知りませんでした。
動画を見たら、司会がうまいせいもあって、面白そうな人だと思いました。
記事の内容については、納得・共感・感心しましたが、
一部、私の中では疑問符が付く箇所もありました。
この短い文章だけではよく分かりません。
「スピリチュアリズム」の本は図書館にあったので予約しました。
面白そうな情報を教えていただき、ありがとうございます。

2012/11/07(水) |URL|☆バーソ☆ [edit]

よく私は妻から 「お父さんはすぐ 誰かの影響受けて・・」て言われます
本当にその通りなんです 誰かがそう言ってれば 「そうかな・・」と思います ていうことで またしても 今日 紹介するのは「聖書 パウロの生涯とイエスの実蔵」というサイトです その中でこのサイトの方が旧約聖書の意味するものについて書かれてあります 私は 「そうだなー」と思って影響されています このサイトで だいぶ 聖書に関して考えさせられました 
http://www.geocities.jp/todo_1091/bible/jesus/old-testament5.htm
http://www.geocities.jp/todo_1091/

2012/11/08(木) |URL|milestone [edit]

milestoneさんへ。(^^)

またのコメント、ありがとうございます。

実は私も、他に影響されやすいタイプなんです。
自分の人生はまさに、他の影響を大きく受けて生きてきたように思います。

人に説得されるのは嫌いだという人もいますが、私は大好きですね。
理知的な論理や偉大な知恵に接すると、いいことを知ったなあと思って、
いい気分になれます。頭のいい人は尊敬します。

以前は、聖書は霊感の書だから一字一句が神の言葉であると信じていました。
いいことを知れてよかったなあと思い、いい気分になっていたのですが、
一方からの情報だけを聞いたのが、間違いの元でした。

聖書にはおかしな箇所があると思ったことも結構あるのですが、
いや、これは《あばた》じゃない、《えくぼ》だ、と無理に思っていました。
(自分のいい気分が続くようにしようという意識が働いたのかもしれません)

ご紹介いただいた情報、膨大ですね。多分ほとんど同意できそうです。
時間を見つけて読んでみたいと思います。
ご親切に教えていただき、ありがとうございました。

2012/11/08(木) |URL|☆バーソ☆ [edit]

放置しっぱなし、っというのもなんだし、お言葉に甘えて論点の誤りを指摘してみたりする。


1.サタンがアダムに誘ったのは、神からの『独立もしくは離反』
  であり、エホバ神の「主権」など全く問題視してない。
> 問題を解くキーワードは、「神になる」ではなく、「神のようになる」である。

宇宙主権の論争に関するJW(エホバの証人)の解釈とは、確かこのようなものであったはずです。

神が語ったのは、善悪の知識の実を食べると「死ぬ」という事であり、これに対し、蛇は「食べても死にません」と言っているに過ぎないという事。では食べた結果どうなったのか。アダムは確かに死に、蛇が偽り者であったという事が証明されました。ところがアダムはすぐに裁かれて死んだわけでは無く、従って、

・神はなぜアダムをすぐに裁かれなかったのか
・アダムを滅ぼしてすぐに別の完全な人間を起こす事でも十分ではなかったのか
・結果として全人類に死が入り込んだが、これは公正な神にとってどんな意味があったのか

といった問題点が、この短い文章内に見出されるに至るわけです。
「10)イエスも聖書筆者も『宇宙主権の論争』について、いっさい言及していない。」
というのはある意味真実ですが、聖書はこれらの疑問に回答を与えていないという事実があるのみ、と言い換える事もできるでしょう。そして、これらの点を説明するために用いられた論法が、

・ここで問題となったのは、人間に対する神の支配権の問題である
・その結論を出すには、人間が様々な政治形態を試行錯誤したり、科学技術が発達するための十分な時間が必要であった

というものであるわけです。この考えはまた、

・神が本当にいるならば、なぜ悪が放置されているのだろう

との問い(ハバクク 1:2-4がその類似聖句)に対する回答を示すものともなり、同じような疑問を抱き続けていたクリスチャンにはまさに福音と映ったようで、この副次的な考えのほうに惹かれてJWとなった人も多いようです。

結論から先に申し上げると、サタンの野心について論じるSDAの「おおいなる戦い」(The Great Controversy)の批判にはなっているのでしょうが、人間の支配権について論じるJWの「宇宙主権の論争」(Issue of Universal Sovereignty)の批判にはなっていないのだと思います。つまるところ、「神のようになる」という言葉に執着してしまった結果、バーソさんの考察は論点を完全に見誤ったものとなってしまったかのように映ります。



12)『宇宙主権の論争』の教理は、協会2代目会長ラザフォード時代に発表。
> ※この教理は、他宗派からの借り物であるとのコメントをいただいた(5/25付け)。

双方の源流を調査してみました。JWの方では、1926年から1931年にかけて、『ものみの塔』誌上で集中的に扱われ、その時に教理となったようです。一方、SDAでは、エレン・G・ホワイトの1858年の著書ですでに論じられているらしく、早さの点では明らかに後者が先、借り物との主張はその意味では正しいようです。ただし、双方の論点の帰結が全く同一であるかどうかについては全くの別問題であり、この点、SDAは神に対するサタンの挑戦という認識に留まっているに過ぎず、JWの主張するような人間の支配権の問題としては扱っていないように見受けられます。



11) 『主権論争』の教理は、神を 過小評価し、サタンを過大評価している。

「エホバ対サタン」という構図しか考えておられないようですが、実際のところは、「ミカエル対サタン」ではないのでしょうか。これならヨハネ黙示録の記述とも調和するはずです。

ミカエル=み使いの頭(ユダ書 9節、新約聖書中で「み使いの頭」に言及するギリシャ語は常に単数形)。これは唯一無二の地位であり、他の被造物に先立って創造された初穂、神のひとり子との説明ともなる。従って、地上に来られる前のイエス・キリストの天での呼び名、というのがJWの見解です。



1) エホバが宇宙の創造者なら、『宇宙主権』の専有権を持っているはず。
2) 宇宙の創造者なら、宇宙の法則(物理・倫理)の決定権も持っているはず。

なぜ“宇宙”主権なのか、という問いに対する答えを私自身は持ち合わせていなかったのですが、ネット上からは、サタンの反逆は大勢のみ使いを巻き込む大規模なものとなったから、とする主張を見つけることができました…が、これはSDAの主張と一致するものの、軽く検索をかけてみた限りでは、近年のJW出版物から同様の主張を見出す事はできませんでした。しかしよくよく考えると、universal のもう1つの辞書の定義、「普遍」の方が実は日本語的には正しいのではないかと思うようになりました。試しに普遍を和英で逆引きしてみると、universal の文字がずらずらと…



3) 愛と智恵の神なら、『論争』 のために全人類が苦しむのを許すはずがない。
4) エホバが全知全能の神ならば、未来を予知し、創る力を有しているはず。
5) 神が自分の『主権論争』の解決のために全人類を巻き込む必要はない。

もし仮に、アダムが即座に処罰されていたとしましょう。私もあなたも、今この世には存在しなかった事になりそうです。それこそが神の究極の愛であると主張されるのであれば、これらの件に関しては誰も反論する事はできないものと思います。そう、神でさえも。

なお、アダムは欺かれなかったが女は欺かれ、と聖書にはあり(テモテ一 2:14)、この点、今日の世界の苦しみはアダムの判断で十分回避可能であった、と言い換える事すらできそうです。



9)エホバは「専心の献身を求める神」であり、自分の『主権』を絶対視している。

「専心の献身を求める神」?と疑問に感じたのですが、古い資料から、過去にJWが実際に用いていた表現である事を確認しました。新世界訳聖書、日本語版が発表された1985年以降は「全き専心を要求する神」という表現で統一されています。

その同じ神は、愛と公正の神でもあり、各自が自由意志を行使する事をも尊重している、言い換えれば、神は自由意志を行使して従う事を願っておられる、というのがJWの主張です。というよりも、神の主要な特質は、愛、公正、知恵、力の4つであり、神はこの4つのバランスを保ちつつ物事を適正に扱う~という理論が、JWではかなり以前から定着している事は、資料を調査すればいくらでも証明できます(調査可能な範囲内だと、塔70 2/1 P75、など)。

なお、主権を絶対視しているというのが事実であるならば、被造物の思考力を奪って自分に従うだけのロボットとする事も可能でしょう。そうすると、自由意志を持たないサタンの反逆などはじめからありえない事になります。神にはそうするだけの力があるはずですが、どうやら現実はそれとはかけ離れているようです。



6)ノアの時代、エホバは大洪水で世を裁き、主権者としての権利を行使した。

この時代、人間の女と堕落したみ使いたちとの間に生まれたネフィリム(巨人:七十人訳)が地上に溢れたと聖書にはあります。そうした状態をリセットする意味で大洪水を起こし、また、再びそうした事態が起こらないよう、み使いが人間に干渉する事が制限されたようです。つまり肝心のこれら堕落したみ使いに対する判決は、まだ据え置かれている状態であったといえます。

人類の大半が滅ぼされた事の是非については…すみません、この点については正直お手上げです。ネットで調べるといろいろな見解はあるようなんですけどね(非公式なもののようですが)。み使いの血を受け継ぐネフィリムの子孫が生き残るとイエス1人では贖いきれなくなる、みたいな。ただ、この問題を突き詰めると、神の裁きを疑問視、ひいては神の公正さに対する疑念にすら繋がるわけで、そうした疑念に囚われる事自体が神への信仰からの乖離へと繋がり、まさにサタンの思うつぼ、というような解釈に、JW的にはなろうかと思います。



7)裁判官(兼)被告エホバは、原告サタンの敗訴を最初から宣告している。

基本は、人間に対する神の支配権の問題が争われているのであって、この回答を示せるのは神でもなければサタンでも悪霊でもみ使いでもなく、あくまで不完全な人間の行動如何、という事なのですよ。つまり、あなたは来たるべき神の王国を選ぶのか、それとも現存のサタン体制を選ぶのか、ということです。これは、全人類を神から引き離す事に成功するならば、サタンが勝利する事もできる、という事をも意味しています。



8)サタンは人類社会を平和にしなければ『論争』に勝てないのに、歴史上、人々を惑わし、苦しめてきたのは矛盾する。

死すべき不完全な人間とは違い、サタンはその誕生時からすでに、完全な思考力を有する被造物として常に存在し続けてきました。そしてまた、自身が滅ぼされる未来が避けられない事をも理解しているので、人類の多くを道連れにしようと躍起になっている、というのがJWの見解だったはず。

というか、人類社会を平和にうんぬんよりも前に、「食べても死にません」が真実である事を証明してしまえば済む話だったのではないのでしょうか。しかしサタンにそんな力などはじめから無かった、女は欺かれたのです、という聖句の真実さがここにあります。であるならば、今日でも人々を惑わす事に何の不思議があるのでしょう。

2014/08/14(木) |URL|風来坊 [edit]

風来坊さん ありがとうございます^^)

冒頭の「放置しっぱなし、っというのもなんだし」という言い方、「風来坊」という部外者のような名前、「専心の献身を求める神」の言葉にちょっとこだわってみせたことなどに、少しく興味を感じましたよ(笑)。

「主権論争」についての私の見解は記事の最後に書いた通りで、《すべてを包み込むもの--神--には対極はあり得ない。》です。つまり、造られた陶器が、造った陶器師に対して、誰が創造者か?とか、誰に仕え、従ったほうが幸せか?といったような論争をふっかけることなど、あり得ない!です。これは聖書が言ってる論理です。

過去、教理の議論は飽きるほどしました(負けたことはないが、勝ったことも無し)。
議論は互いに言いたいことを言って噛み合わず、平行線のままで、大抵 無意味です。
とは言いつつも、せっかく長文をいただいたので少しだけ反論させていただきます。


1.《イエスも聖書筆者も『宇宙主権の論争』について一切言及していない」というのはある意味真実ですが、聖書はこれらの疑問に回答を与えていないという事実があるのみ、と言い換える事もできるでしょう》について。

=逆に、そんな重要な「論争」が本当にあったのであれば、イエスや聖書筆者が回答を与えないはずは無いと考えることもでき、そう考えるほうがより聖書的ではないですか。
 神は、その重要な教理の啓発を、近世になって初めて自分たちの教団にのみ与えたのだとする主張は、新興宗教やカルトに特有の典型的な独善思考というものでしょう。


2.《サタンの野心について論じるSDAの「おおいなる戦い」の批判にはなっているのでしょうが、人間の支配権について論じるJWの「宇宙主権の論争」の批判にはなっていない。・・・SDAは神に対するサタンの挑戦という認識に留まっているに過ぎず、JWの主張するような人間の支配権の問題としては扱っていないように見受けられます》について。
=SDAのその教えについてよくは知らないのですが、SDAもJWも、結局は同じようなことを主張しているのではないでしょうか。→ 参考:http://www.adventist.jp/information/%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%A6%81/
 SDAの言う「神へのサタンの反逆」というのは、サタンが神の支配下にはいたくないと考えて行動したということでしょう。つまり、サタンは、神の支配から離れたほうが自分は幸せになれるのだと考えて、み使いらと人間をついでに惑わしたということです。
 それを人間の側から見ると、人間は神とサタンとどちらに従ったほうが幸せなのか?という「主権論争」と同じになるのではないですか。JWのほうが多少 話を発展させているようですが、論点は結局、同じことになりませんか。
 拙記事で「反抗的な部長が社長の資質を疑って社内論争を引き起こした話ではなく、社長の命令なんか聞かないで独立したほうが楽しいよ、と新入社員に離職を勧めたようなもの」と書きましたが、これも新入社員の側から言うと、この反抗部長に従ったほうが得策か、あるいは社長に従うのが良策か、という二者択一の問題になりますね。その際、では反抗部長に会社をまかせて結果を見てみよう、とは普通は絶対にならないものです。


3.エホバは「食べる日に死ぬ」と言い、サタンは「死ぬことはない」と言ったについて。
=アダムは「食べる日」にはすぐ死ななかったので、サタンは真実を言ったのであり、エホバのほうこそ嘘を言ったのねと解釈することも可能でしょう。というより、素直に聖書を読めば、創世記ではそう解釈するほうが自然でしょう。
 いや、神は愛のゆえにアダムをすぐには死刑にしなかったのだとする考えは、麗しい考えですが、エホバの重い言葉を軽くしてしまうという欠陥がありますね。
 「食べる日」とはじつは千年の意だとする説明は、後代の詩篇にある のどかな比喩的表現から作りだした言い訳で、かなり苦しいと思ったことがありませんか。
 アダムは「その日」が「千年」の意とは全く思わなかったでしょうし、サタンだって、神が「食べる日には」と述べた言葉を前提にして、その会話の流れでエヴァに「(その日に)死ぬことはない」と言ったはずです。
 現代の裁判なら、「その日」とは1000年の意だとする論議は、全く通らないでしょう。


4.神が人間に「自由意志」を与えたとされることについて。
=神が人間に自由意志を与えたことと、いろいろな戒律を与えたことは矛盾しています。
 例えば、公園のワンマン運営者がいて、この芝生に入るのは自由ですと看板を出しておきながら、誰かが入ったら罰を与えるというのなら、それは矛盾しているでしょう。
 ですので、神が「自由意志」を人間(あるいはみ使い)に与えたのであれば、その神が被造物に行動規範や罰などを与えるのは矛盾する行為なのです。
 いや、旧約には様々な律法があると思うかもしれませんが、その中には真の神が与えたとは思えない、おかしなものが多くないですか。敵を老人も子供も家畜も皆殺しにせよ、だが男を知らない女だけは生かしておけなんて命令は、従軍慰安婦の話より はるかに酷くないですか。
 黙示録には「最後の裁きの日」の光景描写がありますが、これを比喩的象徴的表現だと思わないで読むなら、スティーブン・キングのホラー小説より残酷無慈悲ですよ。


5.《もし仮に、アダムが即座に処罰されていたとしましょう。私もあなたも、今この世には存在しなかった事になりそうです》について。
=神が究極の愛と知恵の神であれば、そもそも人間(やみ使い)を罪を犯しやすい性格には造らなかったでしょうし、罪を犯しやすい環境にも置かなかったでしょう。蛇の登場の際にも、何らか注意や制限をしたはずです。でも、そうしなかったのは、人間に自由意志を与えたからだとされています。
 聖書では「神は偽ることができない」とされています。ならば、人間も自由意志がありながら、義のほうを選ぶように造ってくれればいいのにと思ったことがないですか。
 アダム一人の原罪のせいで、神が人類の子孫末代まで罰を与えたという話は、アウシュビッツより酷い話です(これはローマ書5章の論議がおかしいという意味です)。


6.《そうした状態をリセットする意味で大洪水を起こし、また、再びそうした事態が起こらないよう、み使いが人間に干渉する事が制限されたようです。つまり肝心のこれら堕落したみ使いに対する判決は、まだ据え置かれている状態であったといえます》について。
=パソコン不調のとき、リセットしてもまた同じ故障が起きると分かっていてリセットする人はいないでしょう。同様に、リセットしてもすぐ世界が悪くなると分かっていて、神がこの世を大洪水でリセットしたのだという考えはおかしいですね。
 洪水後にまた、バベルの塔事件や紅海を分ける奇跡など、神はいちいち人間の世の事柄に関与しています。もし人間一人ひとりが「主権論争」に関係しているのであれば、神は人間の世界に干渉してはいけないはずじゃないでしょうか。
 サタンは、神が手を出すのは早い、結論を出すには、人間が様々な政治形態を試行錯誤したり、科学技術が発達するための十分な時間が必要なのだと言って怒るところではないですか。
 サタンと配下の者らに対する判決は、創世記3:15ですでに下され、蛇は頭を砕かれると明確に宣告されています。論争があったとしても、決着は人類の歴史の最初についているのです。ただ、判決の実際の刑執行については将来の話になるのかもしれませんが。


7.《基本は、人間に対する神の支配権の問題が争われているのであって、この回答を示せるのは神でもなければサタンでも悪霊でもみ使いでもなく、あくまで不完全な人間の行動如何、という事なのですよ》について。
=「忠実」問題はヨブに関して争われ、結果が出て、終了しました。今から3千年以上昔の たった一人の異邦人に関わる出来事だけで、「忠実」論争の決着は一応着きました。
 ならば「支配権」の問題だって同じことが言えませんか。とっくの昔、ノアの時代に完了したのだ、と考えてもいいのじゃないですか。あるいは、イエスの義なる行為で「主権論争」の決着がついたと言ってもいいのじゃないですか。
 ノアの時代を考えても、神は「人の心の意向はその年若いときから悪いから、二度と再びあらゆる生き物を撃つことはない」と言いました。これは人間の支配が失敗した、すなわち「主権論争」ではサタンの負け、ということを神が宣言したことになります。
 そうではない、違うと言うのであれば、今から4千年前のノアの時代に神が全人類を裁いたのは、あまりに時期尚早すぎるということになります。サタンは、余計なことをしてくれるな、やりにくいじゃないか、と怒ってるんじゃないですか。


8.《サタンはその誕生時から完全な思考力を有する被造物として常に存在し続け・・・自身が滅ぼされる未来が避けられない事をも理解しているので、人類の多くを道連れにしようと躍起になっている、というのがJWの見解だったはず》について。
=時々、ニュースを見ていると、代議士や大臣が愚かなことを言って、後でお詫びをしたり、クビになることがありますが、そんなとき、そんなことを言ったらこの先どうなるかがどうして分からないのだろうか、と彼らの頭の悪さに驚かされます。
 本当に頭のいい人間は、愚かなことはまずしません。みすみす先に失敗がはっきりと見えていることを、あえてする人は、相当に頭の悪すぎる人です。
 では完全な思考を有する被造物サタンが、自ら滅ぼされることを十分承知していながら、神に反逆し、なおかつ人類を道連れにするなんて、そんな愚かしいことをするはずがないと思ったことがありませんか。サタンの完全な思考力を、あまりに過小評価していませんか。ニンニクを見たら退散するようなお祭りの悪魔と勘違いしていませんか。聖書に出てくるサタンは違うはずです。


9.《ミカエル=イエスは神の独り子》について。

=三位一体論に関わり、議論が果てしなくなるでしょうから、これは置いておきます。
いずれにせよ、ミカエルがエホバの代理執行者ならば、「ミカエル対サタン」でも「エホバ対サタン」でも同じことでしょう。


10.《universal のもう1つの辞書の定義、「普遍」の方が実は日本語的には正しいのではないかと思うようになりました》について。

=なるほど。そうかもしれません。ただ「普遍主権の論争」と言うなら、「普遍」という言葉自体が、既定の確定事実であり、論争されるはずがないことを示唆していますね。
意図的かどうか不明ですが、日本支部はおかしな翻訳をしてる場合もあるようです。日本語の「統治体」や「伝道者」という訳も、本来の英語の意味とは違うようですね。


11.《1985年以降は「全き専心を要求する神」という表現で統一されています》について。
=「専心の献身を求める神」という言い方と、趣旨は同じことではないですか。
こういうことにこだわるのは、「ものみの塔」心酔者の一つの特徴のように思いますね。
 神から見た人間は地のバッタのようだと言われています。もし私が神なら、バッタやアリや、犬、ネコに「全き専心を要求」したいなどとは微塵も思いませんね。そんなことはしないでいいから、彼らの好きな人生を楽しく自由に過ごしてほしいと願います。
 「全き専心」を神が本当に要求しているのであれば、ろくでもない神です。というより、それは、指導的立場にいる専横な人間が作った極めて愚かな考えです。
 それは、宗教指導者(や政治指導者)にとっては、例えば神権的という名の階級制度で人々を精神的に支配できる、非常に都合のいい教えにすぎないと思います。

     _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ 

私は、聖書は正典化されていく段階で、後代の人間(おかしな宗教関係者や未信者の政治指導者)の手が入り、本来の言葉に人間的な考えが多く混じりこんだと考えています。

ですので、聖書に何かの深遠な答えを求めようとする努力はあまり意味がなく、神はなぜアダムをすぐに滅ぼさなかったのか?とか、愛と公正の神がなぜ人類の不幸を放っておいたのか?といった疑問に対する答えは聖書からは導き出せないだろうし、ものみの塔が言う「来たるべき世界政府」とか「地上の楽園」なんてものは無いと思っています。

本当に「主権論争」があるのなら、聖書に明確に読み取れるように書いてあり、キリスト教やユダヤ教、イスラム教の最重要な教理として、昔から引き継がれているはずです。

それで、一つあなたに提案ですが、当ブログを攻撃論破したほうがいいと日本支部に言うか、あるいはご自分のブログに、この教理の擁護記事を詳しく書いたらどうでしょう。
そのほうが世間に多く知られて、ずっといいと思いますよ。ぜひそうなさってください。
もしブログを持っていないのであれば、簡単に持てますよ。持ったら教えてください。

2014/08/15(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

スッキリ

元jw2世です。私も原罪はおかしいし、なんでアダムとエバの罪をなすりつけるんだこのクサレ神!!と信じているフリしている頃から思っていました。すんごい愛情がない冷たいおバカなカミサマだな~エホバは。と。

こちらの記事でスッキリいたしました。案外、jw抜けても教会へ行ってしまい、結局原罪とか信じてるパーターン多いんですよね。

一家でjw脱出できて奇跡です。

2014/08/16(土) |URL|かれん [edit]

かれんさん ありがとうございます^^)

この長い記事をよく読んでくださいました。
「宇宙主権の論争」の教理については、真正面から反論しているサイトが
他にひとつあるだけです。他の教理については山のようにあるのですけどね。

「原罪」の教えは、よく考えたら神の愛を教えているどころか、
アダムの罪をその子孫末代まで人類全体に遺伝させ普及させているわけで、
神の陰湿な執念深さを表しているのですが、なかなか気づかないものですね。

「一家でjw脱出」できて、よかったですね。
モーセの時代の「エジプト脱出」に匹敵するほどの奇跡というか、幸福ですね。
私の場合も「jw脱出」が、人生でいちばんの良いことでした。

贖いを論じた過去記事です。
「キリストの「贖い」は、なぜすべての人を救わないのか」
http://barso.blog134.fc2.com/blog-entry-31.html

2014/08/16(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

摩訶不思議

なにか、面白いですね。証人側もアンチな方もある種の攻撃のしあいですね。宗教は例え盲目と言われようと、信仰ですからね。それは他の宗教にも勿論いえます。
見方を変えれば、全ての宗教が間違っているのでしょうね。

2015/11/14(土) |URL| [edit]

Re: 摩訶不思議

健さん はじめまして。コメントをありがとうございます^^)
> 宗教は例え盲目と言われようと、信仰ですからね
 信仰の定義は聖書にこう書いてあります。ヘブライ11章1節・文語訳
 「信仰は望むところを確信し、見ぬ物を眞實(まこと)とするなり」

 信仰とはそうあってほしいと望んでいることに確信を持っていることで、目で見えてないものを真実だと思うことです。その思い込みが強いと、信者からは立派な信仰だと言われ、不信者からは盲信と言われます。

 そもそも信仰とは科学的に証明できないのが当たり前。証明できないので、信じるという行為が必要とされています。
 やたらに信じるのは鰯の頭も信心からだと揶揄されます。でも素直に信じる心は純真な証拠でもあり、尊いと言うこともできます。

> 見方を変えれば、全ての宗教が間違っているのでしょうね
 難しい質問です。全てを調べた人はいないでしょうし、また、全てを調べても分かりようがないからです。
 宗教はたとえ真実ではなくても、生きるうえで役に立つ場合もあります。
癒されるとか気分がいいとか希望が持てるとか安心して死ねるとか、いろいろメリットがあれば宗教の存在価値もありそうです。
 ただひとつ言えることは、過度に寄付を要求したり、何らかの無料奉仕を過度に要求したり、会計報告を全然しないような教団は、日頃いくら立派なことを教えていても要注意でしょう。

2015/11/14(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

こんにちはバーソさん

コメント入れていいものやら迷ったんですが・・・・。

實はわたしも聖書には非常に興味を持っていまして,というのもわたしはもともとミッション系の大学で19世紀のキリスト教異端者の文學が専門で聖書や組織神學をまなびました。いまではすっかり漢詩オバハンになってますし,もとより信仰はありませんでしたので,東洋文明に魅せられていくうちすっかり遠ざかってしまいました

ところがヨブ記だけは,いまだつよい痕を残していまして
忘れられずその情景は頭に,時折蘇えってくるのです

それは。

 「わたしが大地を据えたときお前は何處にいたのか」
と。

この問いについて何かお考えとかお説はありましょうか?たいへん不躾で先輩に向かって躊躇するところもありましたが・・・・。

わたしにはもともと信仰はないところでただ純粋に文學的興趣,異端というおもしろさにひきつけられて,キリスト教を学んだので,やはり一定程度よりは深く進むことができませんでした。
わたしはけっして信仰と知的好奇心や学びは相容れないとは思いません。が,信仰によってあるいは,マニにおぼれたアウグステイヌスのように,間違うことによってこそ,識るふかい信實があることは,よくわかっております。
だからこそおたずねをしたくおもいます。こんなことひとにたずねようとおもったのははじめてですが。久しぶりにヨブ記との連想で思い出してあたまから離れなくなってしまいました。


この論考の最後にあります

「すべてを包み込むもの―――神―――に対極はあり得ない、です。」

とおっしゃいます。

これは東洋思想とまったくおなじです “相” のありかたです。

「大地を据えたとき,」とは,
何のことを言ってるとおもわれてらっしゃいますか?あるいは・・・・「いつ?」なんでしょう
どこにいたか,これもおなじです。

なにかおことばを頂戴できれば,うれしくおもいます。

もともと非常にスピリチュアル感性あふれるブログだと,日本流にいえば「ことだま」,でしょうか
ご縁があればぜひお話しをしたいと想っていました

失礼を申しましてたら,どうか晚輩の粗忽,とご寛恕ください

PS
(Xuanに深い意図はありません,わたしのブログは政治的主張の偏りが強いので攻撃もありますしご迷惑はおかけしたくない,という気持ちからだけです)

2016/06/30(木) |URL|Xuan [edit]

Re: こんにちはバーソさん

Xuanさん コメントありがとうございます^^)
 まあ、うれしい質問をありがとうございます。ブログを始めて、こんな霊的な質問をされる日を待っていました。当然ながらというべきか、私の知識の範囲内でお答えします。基本が字義訳の新世界訳を引用しますが、他訳でも意味は変わりません。

「わたしが大地を据えたときお前は何處にいたのか」ヨブ記38:4

●「大地を据えた時」とは、
4「わたし(神)が地の基を置いたとき」であり、地球創世の時でしょう。
 続く文脈では、神が工事現場の監督や設計士のように、世界を形造っていったことが義人法で比喩的に述べられています。
 その時とはまた、7「明けの星が共々に喜びにあふれて叫び,神の子(み使い)たちがみな称賛の叫びを上げはじめたとき」です。これは、9「わたし(神)が雲をその衣とし,濃い暗闇をそのくるみ帯とし」としたその時であり、それは創世記の1:12の記述を思い起こさせます。
 創世記で、神が「光あれ」「天の上の水と下の水が分かれよ」と言って地球を整えていった創造の七日間。神は創造物を見て「良い」と感想を述べました。当然、人間に関心を持つ天のみ使いたちも、その創造の時を熟視していたことでしょう。ペテロ第一1:12には「み使いたちは、実にこうした事柄を熟視したいと思っているのです」とある通りです。

●「お前は何處にいたのか」とは、その創世のとき、お前はどこにも居なかったではないか、生まれてもいないではないか、の意でしょう。
 ヨブは苦難の人として知られています。なぜ苦難に遭ったかといえば、サタンが神に対して、人間の忠実性について疑問を提出しようとしたときに、そのテストモデルとしてヨブが最適な人物だと思ったからです。
 ヨブはヘブライ人ではありませんが、当時の人類社会では世界一と言える「義人」でした。神はサタンにこう言っています。1:8「あなたはわたしの僕ヨブに心を留めたか。地上には彼のような人、とがめがなく、廉直で、神を恐れ、悪から離れている人はひとりもいない」。ダニエル14:14では、ノアとダニエルとヨブの3人が義人の代表とされています。
 
 つまりヨブは当時、地上ナンバーワンの義人であり、ヨブ自身も自分の義にかなりの自信を持っていました。
 ヨブが苦しんでいるときに、三人の友がやってきて、言います。ヨブは義人とは言えない、そもそもヨブ自身に問題があるから苦難が降り掛かるのだ、因果応報だ(仏教的な思考でしょうか)と非難し、攻撃します。
 ヨブは三人の友に対して自分の「義」を正当化していくうちに、やがて自分の運命を呪い、神への不信を口にするほどまでになっていったので、若者エリフが現れてヨブを諭し、ついには神自身が現れて、自分の義を主張しすぎるな、お前は地球の創世の時にどこに居たのだ、その時にはまだ生まれてないだろう、もっと謙遜になれと言って諭し、立ち直りを励ました、と考えたらいいのではないでしょうか。
 ヨブ記38章は、全体が質問形になっています。神はヨブに対して、お前が世界の創造の時に居合わせて、18「それをすべて知っているのなら,告げてみよ」と、くどいほど執拗に問い掛けています。聖書の中で、これだけ質問ばかりで成っている章も珍しいと思います。

 人間は義についての知識や関心があると、あるいは義人として、その人なりに真面目に歩んでいると、とかく独善的になり、高慢になりやすいものです。
 イエスはマタイ23章全体を費やして、当時の思いあがっていた書士やパリサイ人のことを、偽善者だ、まむしの子孫だ、災いだ、盲目の案内人だ、お前たちはゲヘナの裁きを逃れられない、と非常に強く叱責しています。
 或るみ使いは、自らの美しさにうぬぼれて、神に反抗する者サタンになったと記されている通り、高慢は非常に問題のある特質です。(エゼキエル28:12-17、イザヤ14:12-14)

 神の問い掛け=「お前は何處にいたのか」とは、いま人間どこに居るのか、自分の立ち位置を考えよ、人間は塵灰に過ぎない、人間は神のお陰で命を持ち、呼吸し、生きていられることを忘れるな、といった人類への問い掛けであると考えられないでしょうか。
 人間は、考える葦だが、宇宙より偉大だと言った人がいます。私たち人間に真の意味の謙虚さと真の智慧がないと、自分の考える義や浅い知恵を最優先し、他を見下す優越感の思想でまわりの人類社会を見て、結果としてついには世界を破滅させるようなことをしていっているのに、しかし、それに気づいていないということもありそうです。神は世界を破滅させませんが、人間は愚かさゆえに世界を破滅させ得るのです。
 謙虚さのない優越感は他者を誹謗します。他人を排撃します。それは争いを作り、平和を阻害します。人間は十人十色、百人百様の考え方を持っており、どれが絶対的に正義だとは言いにくいということをもっとわきまえるべきではないかと、そう思うのですが。

 質問の意図は、もっと深い意味があるのでしょう。私にはちょっと分かりかねますので、もう少し具体的に訊ねていただければ、また考えたいと思っています。どうぞ遠慮なくおっしゃってください。

 一般の教会では、ヨブがなぜ苦しみに遭ったのか、その理由があまり明確になっていないようです。この件では、《人間は、自分にご利益があるから神に忠実を示しているのか、それとも神に仕えるのが正当だから純粋に神に仕えているのか、その動機が問われている》とする「ものみの塔」の解釈は「セブンスデイ・アドヴェンティスト教会」と同じく、論理的で納得しやすいものです。ただし、ここにも宇宙主権の副次的論争があり、現在に至るまで続いているとする教理はおかしいと思っているので、この記事を書きました。
 
 私の考える神の概念は、聖書が述べるような人格神ではありません。笑ったり怒ったりせず、人間にご褒美をくれることも罰を与えることもないと思っています。神イコール万物、万物は神の分身である、とも言えるようなもの(意識、エネルギー)と思っています。

2016/06/30(木) |URL|☆バーソ☆ [edit]

ありがとうございました

まずお礼を申したいと思います


聖書の”そのもの”を検討する, キリスト者と非キリスト者というのは違いがはっきり出てきますそこが信仰,というわけだとおもいますが,その異なる立場をならすために,前提をていねいにつくってくださいました。論争ではなく,思うことを語り合えるスタンスをまず明らかにしてくださった,とおもいます。心から感謝します

まず乗り越えられたと心よりほっとしました

ていねいに答えてくださってからわたしの疑問そのもののおかしさを,キチンと指摘してくださいました,好くわかりました
具体的に入りたいと思います。

>「神は創造物を見て「良い」と感想を述べました。

その創造の時を “熟視” していたこと。
そのなかで,みつかいではなく,もちろん“神”そのもの ではなく, 一つの“ヨブ”という,子,というのか種というのか生命というのか・・・
いわば信仰のできあがる現場というものを示された。という物語,これが私にとってのヨブ記で,あります。

ここで,ヨブの義人かどうか,はまったく問題にしない,つまりヨブの人生とはべつに,ヨブという個別の人生の “個” 性を度外視したとき見えてくる物語と,ヨブの人生を通して伝えなければならない教えの喩えとしての物語と二つの物語を分けて考えたいと思います。

普通キリスト者はこういう設定を意味のないものとしてw,わたしのことを「救済してやらなければならない」というある種の使命感を抱く,――そのことがわるいとは全くおもいません ―― キリスト教にかかわらずすべての宗教の存在の意味の意義と義しさ(正当)はそこにこそあるとおもいますから,そして良き結果は教会内の宗派の正統性につながる ――
これは佛敎の言葉でまさにボデイサットバ(菩提薩埵)と「大乗」の關係という言いかたで言い表しますが ―― ,

しかしそれだと,こういう気軽な,「おもい」の会話は終わってしまい,「信じ」の会話に替わってしまいがちで,こういう話はなかなかできづらいとw

そしてこの二つの物語に違いを見るという素朴な問いは,いわばよそ者と,内部の者のちがいというつまらない垣根,に堕してしまいがちですから。そんな風に思います


さて
ヨブ記というのは,わたしはじつは心の底で・・・・・アブラハムの宗教の最初期にあった物語ではないかと・・・・ある種の混入があったのではないかと,実は思っています。
普遍性をもった,世界のあらゆる宗教,あらゆる “くるむ” もの,空,バーソさんのことばがおっしゃるところの
『神イコール万物、万物は神の分身である、とも言えるようなもの(意識、エネルギー)』

その『相対化の物語』,なのではないかと。
(相対化=絶対化,これはそもそも同じことを言っている,と私は思うのですが)

「宇宙主権の副次的論争」というのは,
この二つの物語,全人類が生きている世界に共通する普遍の物語と,固有の物語との間で起こる,齟齬の整合性の必要から生じるもので,「整合性」をもって義しさを主張する人には切実かもしれませんが,そうでない人には何の意味もない。

また,「その論争を力の専横に結び付ける人」には大切でも,自分の苦しい現実をすこしでもなんとかしたい,救われたいと切実に想う,神と本当の対話をしたくて祈りをささげているひとにとって
まずは何の意味もない。

つまり「ロジックで神と対話する人」には必要かもしれませんがね ,というだけのことかもしれません――
わたしはこういう人をそもそもキリスト者と呼ぶのかどうか甚だ疑問ではありますが ――

わたし自身は,といえば,キリスト者に言わせれば神と対話しないで,すませ,かつロジックを想像したい,と思ってる不埒な考えの人,という位置づけなりましょうか。


そこでおもうに
ロジックの破綻はどんな宗教にもあることですね,それだけ宇宙は途方もなく膨大であり人類の知の精はあまた蓄積されてきている。ことばをかえれば,それだけ “神” は偉大だということになる。

整合性の欲求は,そもそも「神の矮小化」から起こるものだ,とさえ言ってしまいそうです。

「整合性のなさを受け入れる」ところからはじまる。実はこのことが「信仰の発端」ではないかと・・・・

この理不尽なきびしい物語は,全く逆説的に「神の義しさをうたがってはいけない」という真理,
その命題の,二種の方角からのアプローチではないか

そう思っている,その言葉を端的にあらわした,それが
「わたしが大地を据えたときお前は何處にいたのか」 」ではないかと。

それがもう一つのヨブの物語の中では,名誉の失墜,神の怒り,サタンのためし, “自らの生まれた日にちを”のろう,ヨブ。 ありとあらゆる痛苦,がのしかかるヨブ。三人の友の矛盾このおかしな物語,


それは神が投げかける,「質問」「質疑」という おこないそのものをあらわすための
神の“行為” そのものを,行使するがための

前提をつくったにすぎないのではないかでは?
そんな風に思うのです

宗教書というのは本来,疑いにこたえる神との問答「対話篇」,という前提,質疑の形をとらないものはない,と

というか,そうでなければおかしい,教えを一方的に述べるものは本来宗教ではない,とさえ信じています。
わたしがヨブ記を忘れがたいものとして感じるのは,ほかの宗教書を渉猟してきて,経典,聖書の存在理由はまさにそこだと思うからなのでしょう


そこを知らしめる詩篇なり修辞が,私は好きなのですが
そこの機微をバーソさんは表してくださつてもいるのではないかと思います。

 
『神の問い掛け=「お前は何處にいたのか」とは、いま人間どこに居るのか、』
以下につづけてくださった文章です。



ところで
バーソさんはそして今も“信仰” はいまもお持ちですか?


『ここにも宇宙主権の副次的論争があり、現在に至るまで続いているとする教理はおかしい』


の部分ですが,
「副次的」だからおかしいとおかんがえですか?それとも「論争があることがおかしい」,とおかんがえですか?

もっといえば宇宙主権の論争そのものはおかしい,でしょうか?

わたしは,教会の結論をだす唯一つの存在だ,とする傲慢のことや,各教会が整合性をつかさどることで生まれる「権力」について,絶対おかしいとはおもいます,宇宙主権というのは人類共通の命でもあるわけです


言葉の普遍的な概念でいう,つまり宗派教派ぬきにつかわれることばとしての「宇宙主権の論争」,は, “論争” といういいかたは適切ではありませんが
「宇宙主権の吟味」そのものが
人類に最初に与えられた, “唯一” にして究極の自由ではないか,そんなこともおもいます,それはまさに

「考える葦」には,そもそも自由がある

とする立場です

わたしの考え方はそんな風です。


ちなみに
とうとつとおもわれるかもしれませんが
初期マルクス主義者の「神の否定」という「理念」は「宇宙主権の吟味」,とりもなおさずそれは “自由”なのですがそれを,解放したこと,だと想っているのです
ここで私が言うマルクス主義はもちろん
ルソーやパスカルと同じ自由思想と敵対するものではなく,教会を否定すれば本当の “社会ができる” と考えたマルクスということで。
レーニン主義者ではありませんし,マルクスの謂う “社会”はユートピアでもなく,社会主義国の社会でもないです 。

むしろ「よい世の中」といったようなニュアンスです



18世紀後半,19世紀のローマ教会キリスト異端者は独仏を中心にして,多くマルクスに衝撃を受けています
アメリカのプロテスタント教会の特殊性はじつは,その衝撃波の影響の外にあった,そんなことをおもっていますが・・・・。


PS
話は変わりますがくちばしをはさむつもりはありませんがw

「全き専心を要求する神」「専心の献身を求める神」原文はどうなってるのでしょうw

日本語は非常に不自由な言語で,そのためにこそ漢語を使うのですが,「漢字語(つまり中国語ですが)」と英語の翻訳はジツに精緻に嚴密になされていますが,実は現代「日本語漢語」ははなはだおおざっぱで,間違いも多い。
漢籍の素養ある明治時代の文人がつかっていた「漢語」の精緻さと厳密さ深さに及ぶべくもありません。
カタカナ語がかならずしも英語を正確に表してないのと同じで,どんどん粗雑になっています

本来「専心の献身を求める神」とかかれていたものを「全き専心を要求する神」と変えたところで,変った意味にも気づかない新人類は多いです。が,
バーソさんがおっしゃる「趣旨は同じことではないですか。」は,その言葉の厳密なちがいはさることながら,違いを無視しているのではなく,その程度の言葉の劣化でしょ,と言ってるのではないかと,拝察されますが・・・・w

わたしは内村鑑三を読んでそのことに打ちのめされた經驗があります
これは漢語を真面目に勉強せなあかんと・・・・。

2016/07/01(金) |URL|Xuan [edit]

Re: ありがとうございました

Xuanさん コメントありがとうございます^^)
 うーむ、難しい。こういう哲学的な文章と思考には、私の頭脳回路では付いていけないなあ、という印象です。正直に言って、(文章の中には言葉と言葉の間に省略された深い考えがあるように感じる箇所があり、それが)私の頭では洞察力が足りないためでしょう、ちょっと理解できない部分もあります。

 私は、聖書は自分の“救い”のために読みました。長年、キリスト教信仰にいましたが、聖書に明確に書かれてないことをロジックで思索するというより、書かれていることを疑わずに信仰することのほうを教えられ、そう信じて、自分なりに精一杯信仰生活に打ち込んできたつもりのせいもあり、形而上学的もしくは哲学的、深謀的には聖書を読んではいないのです。ただただ、ひたすら信じるという方向でしか読んでいません。こういう質問はうれしいとは思ったのですが、難しすぎると、難しいのです。(笑)

 聖書のエホバという「人格神」は、いまは信じていません。いまは精神世界で「空」とか「ワンネス」などと言われる神概念のほうを信じる、というより、受け入れるようになっています。神というものは厳密には分かりにくい。というより、もっと率直に極論的に言うと、漠然としていてもいい。人間は自分が受け入れやすく、信じられ、それによって平安なり希望なりを抱けるのなら、それでいいじゃないかと最近は思うようになっています。

 いま命を持ち、生きている―――そのことに自分では幸せだと思えているなら、それでさして疑問がないのであれば、その人には十分だろう、なにか問題ありますか、と思っているのです。そういう考え方は「鰯の頭」と同じかもしれませんが、宗教とは大なり小なり、まあ、そんなものじゃないかと思っています。

 創世記で、日の涼しき頃、神が人に語りかけた言葉があります。
3:9「ヱホバ神 アダムを召て 之に言たまひけるは 汝は何處にをるや」

 先回、ヨブ記38:4の質問をされたとき、この聖句をすぐ思い出したのですが、ヨブ記の神の質問がこれと同種の話であれば、私には率直に言って、頭脳的なabilityとcapacityがないですね。私の頭は、そのような哲学的な思索には向いておらず、さほど関心もなく、多岐に渡る周辺の知識の持ち合わせもないのです。マルクスなんて読んだことがありません。なんせ駄洒落を言って喜んでるような人種ですから。拙ブログは、Xuanさんが訪問して、好きだとコメントしているような哲学的思索ブログとは違うのです。すみませんね。

 本筋とは外れるかもしれませんが、思いついたことを述べます。
 神とは、人間のスーパーヴァージョンだという話があります。
 人間は自分の知恵で考えられる範疇で“神”のことを考え、神の概念をイメージします。自分の嗜好に合った神を教える宗教があれば、教義についての少々の齟齬は気にせず、“信仰”というツールを使って受け入れます。
 信じれば救われる。ただ、神とキリストとを信じなさい。ひたすら経文を唱えれば救われる。阿弥陀の御慈悲にすがりなさい、です。

 教団に所属していると、信者には、ロジックより、信仰という素直で従順で疑わないピュアな心が求められます。そのほうが簡単に救いの境地に入れるので、文句を言ったらいけないのでしょう。「整合性のなさを受け入れるところから始まる」は、その通りなんでしょう。

 ところが、そうではない独善的・排他的な宗教があり、信者の人生に極小・矮小の制約を掛けています。いろいろ独自の教理があり、他の類似教理は間違っていると主張し、それを盲目的に信じている信者がいます。
 おかしな教理についてはロジックで反論できるので、その呪法を解いてあげたいと思い、この宇宙主権論争について書いたわけですが、そもそも私はエホバもサタンも、それが人格的存在だとは信じていないので、あくまでも聖書の教えによると、という前提で、その教理には矛盾があると論じているに過ぎません。

出エジプト記20:5(新世界訳)
「あなたの神であるわたしエホバは全き専心を要求する神であり」

 この「全き専心を要求する神」の部分は、新共同訳では「熱情の神」、新改訳と口語訳では「ねたむ神」、文語訳では「嫉む神」と訳しています。嫉むと熱情とは同じような意でしょう。
 ヘブライ語ー英語行間逐語訳では「for I the LORD thy God am a jealous God,」、有名な欽定訳では「a jealous God」。
 ですので、原語は「妬む/ジェラシー」の意です。

以下は、ものみの塔発行の『洞察』の定義です。
●まったきせんしん(Exclusive Devotion)
 この表現は,エホバがいかなる対抗物も,つまり他のいかなる神々の崇拝も容認されないことと関連しています。ヘブライ語のカンナーは神に関してのみ用いられており,「全き専心を要求する; ねたむ」という意味があります。

●しっと,ねたみ(Jealous,Jealousy)
 聖書の用法によれば,「しっと[または,ねたみ]」という特質もしくは感情には積極的なものもあれば消極的なものもあります。ヘブライ語の名詞キンアーには,「全き専心を求めること,対抗するものを許さないこと,熱心,激情,しっと[義にかなった,あるいは罪深い],そねむこと」など様々な意味があります。ギリシャ語のゼーロスにも同様の意味があります。

 新世界訳は「妬む」という語感を嫌ったゆえなのでしょう、この部分を意訳(時々あるのですが)して、「全き専心を要求する神」としています。なので「専心の献身を求める神」でも、もともと意訳なのですから、どちらでも趣旨は変わらないのです。

 さて、本筋から外れていますが、本筋のほうは私の能力のせいで、ちょっと分かりかねるのです。というか、聖書からは人間の知りたいすべての答えは出ないと思っているせいもあります。
 ゴーガンも知りたかった「人は何処から来て、何処に行くのか」の問い。
 聖書は、非常に簡単に答えていると思います。すなわち、神が人を生んだ。人が生きていられるのは神のおかげ。人はパンによって、つまりパンを自分で得て生きていると思っているが、神の言葉(ご意志)によってパンが与えられ、生きているのだ。だから全面的に神に従って生きよ。死に至るまで忠実であれ、それが人間の本分だ。専心の献身もしくは全き専心ができれば、永遠の命という天の国で与えよう。

 ですが、誰かが天の国で永遠に生きたという証拠は、宗教の歴史の中で、キリスト教の歴史の中で、何一つないのです。証拠のないことを信じろ信じろというのが宗教です。
 と、そこまではいいのですが、信じる者は金を出せ出せ、無償で奉仕をせよ、死ぬまで神(すなわち教団)のために必死に懸命に働け、それがエホバに喜ばれることだ、尊いことだと言って、人間の“”自由”を縛っているので、これは大きな問題だと思っています。
 神を信じろというのは問題ないでしょうが、神に全き専心をせよ、そうでないと滅ぼすぞとか、ゲヘナの裁きに遭わせるぞ、最後の審判があるぞ、と脅すのが非常におかしく、はなはだ遺憾に思うわけです。

 「宇宙主権の論争」とは、人間は神に絶対的に仕えるべきか、自分の好きなように自由に生きていいのか、の究極的な問い掛けに関するとされる教理で、面白い教理です。
 私がこの教理をおかしいというより、嫌いな理由の一つは、神(上帝)を宇宙の主権者すなわち絶対専制君主というものに祭り上げる横暴な専制君主思想が嫌いなのですが、それ以上に、その神の地上の代理者(組織・機関)に死ぬまで従えとする、教団の神権的と称する厳格なヒエラルキーが嫌いなのです。
 階級制というのは、必ず優越感と蔑視感を生みだし、地上の楽園どころか、非常に醜い独裁国家のような世界を作り上げます。

 もう一つは、人間は自由意志を持つものとして、絶対に“自由に”生きていいはずだと思うからです。なぜかと言われれば、アダムが罪を犯すのを神が止めようとしなかったのは、人間の自由意志を尊重したからだとキリスト教は教えており、その“自由意志”というものが私の思考(嗜好)に合うという単純な理由からです。むろん自由といっても、他に迷惑を掛けない限り、ですが。

 宇宙ができ得ない悠久の思考力を持つ人間とは、じつに驚嘆すべき存在です。なのにどうして“考える”ことを、人間(の組織)によって制限されないといけないのか。人は自由に考えていいはずですし、本来的に自由に生きていいはずだ。それが人間の一番の素晴らしさではないかと私は思うのですが。おっと、考えると言っても、哲学的な思索は私の得意分野ではないですので、念のため。

> それは神が投げかける,「質問」「質疑」という おこないそのものをあらわすための神の“行為” そのものを,行使するがための前提をつくったにすぎないのではないかでは?  そんな風に思うのです
 そうかもしれませんね。神話学者のジョーゼフ・キャンベル(1904-1987)は「すべての神話上の英雄には基本的に同じパターン、すなわちヒーローズ・ジャーニー(英雄の旅)が見られる」としていて、拙ブログでも軽く紹介したことがあります。
 ヨブの話は、最後は神から祝福を受けたのですから、ある意味で悲劇のスーパーヒーローであり、そうであれば人類普遍的な一つの真理のようなものが含まれている書であるかもしれません。ヨブは中東ウツ(エドム)の人と書かれていて、アラブ人のようです。聖書はすべてイスラエル人が主人公なのに、非イスラエル人が主役なのは面白いことで、このことも普遍的な物語であることを示しているのかもしれません。

 ※私の明日出す予定の記事。どんぶり飯のうんちく雑学でも書こうと思っていたら、書いているうちに、「どじょうっこ、ふなっこ」の「こ」の話に少し転化してしまいました。(笑)

2016/07/01(金) |URL|☆バーソ☆ [edit]

バーソさんありがとうございましたそしてお時間取らせてしまって申し訳ないです

わたしの考えをきちんとつたえきれる言葉がない,なのに話をしてしまっている,そんなもどかしさをいつも感じますし,会話をすると必ずと言っていいほど自己嫌悪に陥るのですがwwどうも敬遠される言葉づかいをしてしまいます

畢竟わたしは信仰とはなんだろう,とおもっているだけなんですが,そして信じることにものすごくあこがれがありそのために宗教の周りをウロウロしているのです
信仰にも片思い宗教に片思いしているのですw

でも
この言葉をいただいたことで感謝しています

「イメージし」,「自分の嗜好に合った神を教える宗教があれば、教義についての少々の齟齬は気にせず、“信仰”というツールを使って受け入れます。

わたしは「思う」ことに恋してるんでしょう,そしていつも片思いに終わってしっまうのですが…w

夜中に孤独に考えてるひとがいる,ほんとうに考え込んでいて,こどくをかんじているとそうすると猫の鳴き声が聴こえたりすると瞬間ドキッとする。猫は考えないのだろうか

遠くにサイレンがひびいたりすると,今必死で何かをしなければいけないと動いてる人がどこかにいる。わたしはなぜ考え込んでいるんだろうと驚いたりする,そういうときに信仰があればなあと・・・・。
なぜ人は信仰すること,その意味をゼロから語ってくれないんだろう,信仰の発端はどこにあったんだろう,と

既存の宗教にも発端はあったろう,それはなぜ語られないんだろう,
なぜ宗教は,創世記から始まり,信仰心の始まり,0から1にすすむときの現場を語っていないんだろう,と。
そんなことを想うのです。

哲学ブログも思想ブログもわたしは好きじゃないんです。
哲学的思索のブログが好きなのではなく,自分の思索をしている痕が見えるぶろぐがすきなのです。
おおむね哲学思想というブログのジャンルには,ただ偉人の考えを述べてるに過ぎないブログが多い。そうではない,自分で考えたことを,「想い」を正直につづっている,そういうぶろぐがすきなのです

ふふ。そんなかんじです
いずれにしても何か深刻な頭が固いとおもわせるような,思わず身を引くようなことを書いてしまったのかもしれません
マルクスのハナシは余計でした。ただただ後悔しています。

アメリカのプロテスタントの面白さというのはあってちょっとくちばしっただけです。(物見の塔はもちろんカソリックでもプロテスタントもない,べつのなにかの集団だとおもっていますが。)

自由と教会は両立するか?,ということが言いたかっただけなのです。でもそのことについては十二分にお答えをいただけました




そう,全き専心を要求する神,
God answers the prayers only of the perfect
全き専心はPerfectか?completeか?とおもっただけです完美なのか,完全なのか?と

そして献身=Dedicationなら,・・・・これはまさに疑問に思う,祈りのことか,と。
Dedication to serve God and other people


わたしはどうも一方的に過ぎますねw
旧約はとくに神がどんな神かということをつたえがちですが。つたわってきている古いもののほうが,そのあとできるものより,人格や性格といった神の姿を語りがちだ,というのは,どの宗教にも共通します。そしてすこしすすむと,
信仰者の心をえがきだすようになる。古代佛敎も小乗から大乗というのもそういう経過をたどりました。


もうしわけない,とあやまるのもへんですが,わたし自身は小難しい論争をふっかけるつもりはなく,
信仰の經驗者に敬意を表してのことからでした。哲学を話題にするということの愚かさも ―― わたし自身はそーとーな頭でっかちというのか理屈っぽいオロカ者だという自覚はありますけれども,そういうおなじように深刻な理屈っぽい人と会話をしても,自分のことばでもって想いとともに語れる人はなかなかいませんのも事実です。わたし自身も語れないからこそ避けられるのですが
この言葉づかいではどっちからもらわれる忌み嫌われる蝙蝠みたいなものですね^^;
もうしわけなかったです
それでも,想いを話題にすることが好きなんで自分はたのしく会話させていただきました。ほんとうにどうもありがとうございました。

2016/07/02(土) |URL|Xuan [edit]

Re: タイトルなし

Xuanさん コメントありがとうございます^^)
 ひょっとしてご気分を害してしまったのではないかと危惧していますが、私の言いたかったことは、ただただ自分にはそのような深遠な問いを扱えるだけの能力が不足しているということです。Xuanさんがhさんのブログに書いたEU離脱問題に関するコメントを見たら、ウワワワ~と怖気を振るってしまうほど私は次元が違う人間なんです。

 ある本にこういうことが書いてありました。人間は元は神の子であり、神といわば同心、同身だった。ところがあるとき、ふっと神から離れたらどういう気分になるかと考え、神から分離し、肉体を持つ存在となった。それ以来、人間には、神から離れてしまったという恐れや欠如感、不足感がある。
 神から離れた人間には、神は目で見えません。そうすると普通の人が神を見たり、感じるためには、「信仰」しかないのではないでしょうか。この世には神についての正しい知識というのは欠落していますし、宗教というのはその欲求を完璧には満たしてくれないからです。
 と思うと、信仰とは人間にそもそも生来的に備わっていた特質なのでしょうか。基本的、自然的に「信仰」は人間の心の中に内蔵しているので、祈りによって、学びによって、修行によって、それがうまくできる人が多少は神に近づけるようになっているのでしょうか。
 
 仏教やキリスト教には経典があり、崇拝したり帰依する対象があります。ところが神道には経典がありません。神道の神とは人格がなく、自然の事象が神のようなものです。
 面白いのは神道のほうが霊妙な神秘体験が多いようです。経典に基づくロジックによる知性ではなく、心の奥深い霊的欲求によって霊的なものを求める気持ちのあるほうが、高次元の霊的世界に近づきやすいように見えますね。
 
 おまえの信仰とは何か?と聞かれれば、私の信仰体験とは、とにかくハードだった、忙しかった、時間にいつも追われていた、あっという間に年月が過ぎ去ったということです。
 じっくり思索をするなんて、とんでもない。一年中、仕事と会衆(教会)の世話と宣教活動に追われまくられ、修道僧がするような深い瞑想と思索に浸った生活などとはまったく無縁でした。自慢に全然なりませんね。
 会衆のことを優先するために仕事を替わったり、けっこう長く無職であったり、大病をしたりをしたので経済的にも肉体的にも大変でした。二足の草鞋を履くというのは難しいものです。
 そういうわけもあり、聖書をじっくり思索的に読んだことはないのです。Xuanさんが詩編が好きだとあったので、信者として信仰生活をしたわけではないでしょうに、たいしたものだなあと思いましたよ。
 思うことに恋をしているなんて、かっこいいですね。精神的に余裕があります。

2016/07/02(土) |URL|☆バーソ☆ [edit]

どだい神を語ることジタイまちがってることはわかっているのです。

ブッダの姿は,「ない」
これが本来の佛敎であり,かつ思想としての佛敎です。
わたしはそれが本来の信仰であることは間違いないとそこは「信じて」いるのですが。未だになんというか「キリスト教」そのものにひどいトラウマと不信が在るのです。「信じ」のはなしは・・・そこまでの話はなかなかできないですw。だから神経症のように抱え込んでしまうのかもしれませんが,ここまで話をしていただいたことジタイわたしは感謝しかありません

気分がいしてなんてとんでもないです。こちらのほうこそお時間をとらせてしまってもうしわけなかったなと。心からお礼とおわびを申し上げたいです。とても大事なことをおそわってもいますし。ただwきのうですか?,バーソさんがおぞ気かんじられるのがちょっと遅かった,と,とこれもまた縁のなせる業でしょう^^
お返事,もう大丈夫です,ありがとうございました。

2016/07/02(土) |URL|Xuan [edit]

Trackback

トラックバックURL:https://barso.blog.fc2.com/tb.php/21-30007863

back to TOP