「バーソは自由に」

 考え方はいろいろあるから面白い。

 ものみの塔の「預言解釈法」の分析。 


ものみの塔は、独自の聖書解釈を大胆に発表し、気軽に訂正するので有名だ。

ものみの塔協会の出版物は、信者内では数年で使われなくなることが多い。
にもかかわらず、そのような書籍は廃棄処分せず、公に配布されているが。

しかしながら、エホバの証人の信者たちは、
ものみの塔の聖書解釈は「油注がれた残りの者」だけができる
特別な解釈だと信じ、絶大な信頼をおいている。
今回は、その「ものみの塔」独特の《預言解釈法》について分析してみたい。

※「霊的成就」という独自の預言解釈については、このブログ記事が本邦初。


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ものみの塔の《聖書解釈法》は2つに分類できる。
すなわち《1.預言3段階成就》と《2.予表拡大適用》である。


1.《預言3段階成就》の解釈法。
預言者が、当時の人々に対して「いま現在、行ないを悔い改めないと、
将来こうなるぞ」と警告しているとする。


そうすると、ものみの塔は、
預言は「古代の成就」と「霊的な成就」と「現代の成就」の3段階で成就する
と言う。

たとえば、イザヤ書35章にこういう預言がある。
「砂漠は喜びに満ち・・・盲人の目は開かれ…街道が生じ・・・
エホバによって請け戻された者たちがシオンに帰ってくる」


ものみの塔は《預言3段階成就》の解釈法で、こう説明する。
1)《古代の成就》 バビロン捕囚時、残れる者たちがシオン(エルサレム)に帰還した。
2) 《霊的な成就》 1919年に、ものみの塔の役員たち(現代のシオン級)が、
キリスト教会(大いなるバビロンの主要部分)の謀略により投獄されたが解放され、
以来、正確な知識が増し、エホバの証人が霊的なパラダイスを享受している。
3)《現代の成就》 近い将来に来るハルマゲドンの後、地上は「千年統治」に入り、
盲人の目が実際に開けられ、砂漠も文字通りパラダイスになる。


                     
なぜ《霊的な成就》という特異な解釈法を、ものみの塔は得意にしているのか?
じつは得意にしているのではない。苦しまぎれにそうしているのだ。
ものみの塔は、1914年から「主の日」に入ったと主張しているが、聖書的に
全く根拠がなく、現実に「主の日」に起きるとされていることが世界に起きてない。

前述の例で言うなら、啓示18:4では「主の日」には「大いなるバビロン」が倒れると
書かれている。だが現実には世界中を見回しても、ものみの塔が「大いなるバビロン」
と呼ぶ宗教組織は衰退はしているが、全然倒れてなんかいない。

そこで、ものみの塔は、いや、1914年以来この預言は《霊的に成就》しているのだ
と言い訳したのだ。つまり《霊的な成就》という解釈は苦肉の策として
無理やり作り上げたものなのだ。

すなわち、
1)第一次大戦中、協会の役員(自称・残れる者たち)が投獄されたのは、
キリスト教会(大いなるバビロンの主要部分)の手引きがあったからだ。
2)したがって、1919年に役員何人かが獄舎(捕囚)から開放されたということは、
昔のバビロン捕囚からイスラエルの残れる者が開放されたことに匹敵する。
3)これはすなわち、「大いなるバビロン」が神の目から見て倒れた証拠だ。
と言って《霊的成就》の理屈付けをしているのだが、(3)に至る論法には、
かなりの飛躍があるのは誰にでもすぐわかるのではないか。

ダニエル書の「2300日」や「三時半」の預言についても、その起点と終点の日付けに
根拠が何もなく、それゆえ何度も変更されてきた。黙示録の「三日半」とは
文字通りではなく短期間の意だとする解釈についても非常に苦しいものがある。

※なお、ものみの塔は「大いなるバビロン」は1919年に「倒れ」、その後、
来るべき大患難で「滅びる」と、滅び方を2段階に分けている。
啓示の書の文脈を見れば分かるが、その2段階崩壊も聖書的に根拠がない。


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2.《予表拡大適用》の解釈法。
聖書に、人々の行状の悪さが、予言ではなく、単に記述されているとする。
そうすると、ものみの塔は、
その出来事は「予表」的な出来事であるので、その対型的な成就があると言う

たとえば、ダニエル書4章には、バビロンの王ネブカドネザルが「七つの時」の
夢を見たが、その夢は王が7年間正気を失うことで成就したという記録がある。
ものみの塔は、この夢に《予表拡大適用》の解釈をする。
1.《小規模な成就》ネブカドネザル王が7年間、正気を失った。
2.《大規模な成就》「七つの時」の夢は、BC607年から2520年間(7×360年)後の
1914年に、神の王国が天で誕生することを予表する予言的な夢であった。


その解釈が間違っている聖書的根拠。
●王の夢は当時「すべて」成就し、完結した。ダニエル書が4章で「至高者の定め
は我が主なる王に必ず臨む事なのです(24節)」、「このすべては王ネブカドネザル
に臨んだ
(28節)」
と述べている。「すべて」が臨んで終わったのだ。

●そもそも神が「神の王国」の支配開始という重要な時期を異邦人である
バビロン王を媒介として預言することなど聖書的にあり得ない(ローマ3:1,2参照)。
バビロンが「大いなるバビロン」の原型であるなら、なおさらそう言える。

●また16節の「獣の心を与えられた七つの時」は ルカ21章24節の「諸国民の
定められた時」と同じだと主張するが、両者は同じとする聖書的根拠はない。

●神の王国の誕生の「時」は人間には分からないはず。
「人の子の臨在は・・・どの日に来るのかを知らない」
マタイ24:37,42 
「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは、
あなた方のあずかるところではありません」
使徒1:6,7。

じつは「七つの時」の解釈は他からの借り物。JW書籍『ふれ告げる』より
●1823年、英国のジョン・A・ブラウンが「七つの時」の長さを2520年と計算。
●1844年、英国のE・B・エリオットが「七つの時」の終了年1914年に注目。
●1849年、ロンドンのロバート・シーリーが同様に扱う。
●1875年、N・H・バーバーが異邦人の終わる時として1914年を指摘。
●1876年、C.T.ラッセル会長が「七つの時は西暦1914年に終わる」と発表。


もう一つ例を挙げる。
イエスが1918年に来て油注がれた残りの者たちを清めたという教理がある。
ものみの塔は、イエスが神殿で商売をする両替人を追い出した記述を根拠と
している(ヨハネ2:13,13:1,マルコ11:15)。
その出来事は過ぎ越し祭の前で、宣教期間の最初と最後の2回(学者間にも
異説あり)で、イエスの宣教期間は3年半。

 ゆえにイエスは1914年に「注意するために来て」、3年半後の1918年に
「検閲するために来て」、神殿級である油注がれた残りの者たちを清めた。

イエスが両替人たちを追い出して神殿を清めたと言うのはいいとしても、
その出来事が本当に西暦1918年の出来事を指し示す「予表的な出来事」だ
という根拠がどこにあるのか。福音書は、そんなことを示唆さえもしていない。

何かの出来事を教訓的に受け取り、自分の生き方に当てはめるのはいいことだ。
だが、それは予言的出来事だという話とは別の話だ。
聖書が全然言ってもないことを言ってるかのように説くのは、
聖書に対する僭越な暴挙であるとしか言いようがない。


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補足:聖書自体の解釈法の例。
《預言の2段階成就》については聖書に例がある。
イザヤ7章14節の乙女が妊娠して男の子を産む。
その名をインマヌエルと呼ぶでしょう」

これはアハズ王に言われた預言なので、その時代に成就した。

ところが1世紀、マタイは処女が妊娠して男の子を産み、その名を
インマヌエルと呼ぶでしょう(1:23)」
と70人訳聖書から引用し、
処女マリアと子イエスに成就したと述べた。つまりマタイは、
「インマヌエル」預言は、アハズ王の時代とイエスの時代に
2回成就したと述べている。

※補足。
イザヤ書の「乙女」のヘブライ語は単に若い女性という意味で、
「処女」という限定された意味はない。また、イエスが実際に「インマヌエル
(神はわれらと共に)」と呼ばれたという記述は聖書にはない。
だから、マタイの解釈は厳密に言うと拡大解釈であり、
ヘブライ語(旧約)聖書だけを読むユダヤ教徒には受け入れられない。 



《予型的な解釈》については聖書に例がある。
ヘブライ人への手紙9章では 「キリストは、実体の写しである、
手で造った聖なる場所にではなく、天そのものに入られた(24節)」

そして地上の神殿や犠牲などは、天にあるものを
「模型的に表現したもの(23節)」と述べられている。

つまり聖書中のある出来事は「型」として天にある「実体」を予型的に表している、
ある出来事は予表と実体として考えることができる、とされている。


しかし、この《予型的解釈》は、霊感を受けた聖書筆者だけの特権だろう。
ものみの塔は、神の「霊感」の賜物は1世紀末でなくなったと言っている。
いま霊感をまったく受けていないのに、聖書が明確に言ってないことを、
これはこうだ、これはああだと大胆に予表的解釈をするなら、
「書かれていることを超える」ことになる。後になって、
いろいろ訂正を繰り返すなら、「思慮深い」とは言えなくなるだろう。


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ものみの塔は、間違えても、間違えたとは言わない組織だ。
ものみの塔は解釈を間違えても、光がきらめいて漸進的に理解が増し加わった
という言い方をする。そして訂正するときは、出版物の中で知らん顔して
いつのまにか修正している。だから、
信者は注意深くないと、協会が修正したことに気づかない。

大きな教理の変更は「読者からの質問」で取り上げ、信者が分からないから
教えてやろうというスタンスで訂正する。ものみの塔では、読者が協会に直接質問
するシステムはないのだが。 これは不誠実なやり方だろう。

ふつう間違いがあった場合は、「訂正とお詫び」と題して、囲み記事を特集する。
そしてテレビ報道でおなじみの、組織のトップが深々と頭を下げるシーンが続く。
しかし、ものみの塔は過去一度も謝ったことがなく、責任を取ったこともない。


★人類創造の六千年目が世の終わりで、それは「1975年」だと声を大にして
言っておきながら、何も起こらなかったとき、協会はこんな責任逃れをした。
ものみの塔誌1976年10月15日号:「失望している人がいるなら、そういう人は
みな…自分自身の理解が 間違った根拠に基づいていたためであることを悟り、
自分の見方を今調整することに注意を注がねばなりません」


ここで「自分の理解が間違った根拠に基づいていた」のはどうしてかというと、
もちろん協会がそう教えたからで、それ以外にあり得ないのだが、
なんと 協会は、間違いを信じて失望した信者が悪いと言ったのだ。


ものみの塔の「真理」は教理のことであり、教理は解釈に基づいている。
解釈というものは、本質的に《違い》と 《誤り》が生じる可能性を秘めている。
解釈の元になる《理屈》は、基本的にどのようにでも付けることができる。
だからこそキリスト教の宗派が細かく分けると何百もあるのだ。

教理や預言についてこれが正しいと決め付けた独自の解釈をし、
それ以外は一切認めないという唯我独尊の態度を取るのは、
カルト教団やカリスマを自称する指導者の共通点と思うのだが、どうだろう。


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★参考:「宇宙主権の論争」の教理の誤りを論じています(本邦初) → コチラ

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2011/12/08(木) || [edit]

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