「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 日弁連の「死刑制度廃止を求める要請書」に対する反論 


 死刑制度には賛否両論があり、両者が義憤を表しながら根拠を主張している。
 しかし立場は最初からほぼ固着しており、議論すると争いになりやすい難題のようだ。

 昨年末に、日本弁護士連合会が法相に提出した「死刑制度廃止 要請書」※1を読んだら反論したくなった。
 というのは、最近は「誰でもいいから殺したかった」などと身勝手な理由で人を殺して、なんとも思ってない男が目立つからだ。
 例えば、新幹線で乗客を殺して「見事に殺し切りました」「3人殺せば死刑になるので2人までにしておこうと思った」と言い、無期懲役刑が言い渡されたら「一生刑務所にいるのが夢でした」と喜んで万歳三唱をした事件もあった。


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 むろん、私の意見に拒否反応があるだろうことは承知して書いている。
 正邪の概念、信念、良心は、一人ひとり(微妙に)違うせいもある。

 ①から④の青色の太字部分が「日弁論」の主張です。

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① 日弁連:「死刑は、生命を剥奪するという刑罰であり、国家による重大かつ深刻な人権侵害である」


 死刑は国家による「人権侵害」だから重大な国家的犯罪であるという主張だが、この是非を特に《公正》の観点から切っていきたい。

 殺人罪に懲役刑が適正かどうかは、金の貸し借りで考えてみれば分かる。
 金を借りたら同額の金を返すべきなのは至極当然のことだ。1万円を借りたら1万円返すべきで、百万円借りたら百万円返すべきで、1千万円借りたら1千万円返すべきで、1億円借りたら1億円返すべきだ(普通は利子を付けて)。

 もし1億円を奪って返さない人に、裁判所が「1円返せばよい」と判決したなら、それを公正な裁判だと思う人はいない。
 ゆえに「故意に人の命を奪っても懲役刑が妥当」との主張は、被害者の命には1円も払わず、加害者には養う費用をかけ、金銭の支払いが不公正極まるのだ。

「いや、懲役刑は1円相当ではない、加害者は刑務所で長く苦しむ」と反論されるかもしれないが、殺された人は命を返してもらえず、苦しむことさえ出来なくされている。殺した者は3食付きの特別別荘入りだが、殺された人は命も人権も一切消滅し、骨粉になって墓場入り。この違いは1円と1億円の差より大きい。


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 殺された人の「命」の値段は、いくらなら適正かつ公正になるだろうか。
 交通事故の最高補償金額は5億843万円(平成23年)だそうだが、大抵の人は、そんな金額でも「自分の命」とは引き換えたくないはずだ。

 一体「自分の命」の値段はどのくらいか? イエスは、こう査定した。

 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マタイ16:26


 日弁連より尊敬されているイエスは、「人の命」とは言わず、「自分の命」は世界より価値が高いと言った。「自分の命」は値段が付けられないのだ。

 では無期懲役なら「自分の命」に見合うだろうか。
 悪漢から「お前を殺させてくれ。その代わり、オレは一生牢屋に入るから」と言われて、「はい、どうぞ」と言う人はいない。だから人の命を奪っても懲役刑が適当だとする考えは、他者の命のことなら受け入れやすいとしても、自分の命のことなら心情的に絶対受け入れられないはずだ。


「命には命を、目には目を、歯には歯を」という律法は公正を要求している。
 古代イスラエルでは、「故意にを奪った者にはで償わせよ、を傷つけた者にはで償わせよ、を損なった者にはで償わせよ」と、被害と同等の処罰をすべきことが、裁き人(モーセや祭司や長老団)に命じられていた。

 この古代の規準に照らせば、故意の殺人に懲役刑を課すのは、「命には命を」という同等の処罰ではない。だから聖書的な公正でもないのだ。


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 そもそも、死刑は人権侵害ではなく、国家的な殺人でもない。
 手品やマジックを詐欺と思う人はいない。同様に、凶器の押収は窃盗ではなく、張り込みはストーカー行為ではなく、罰金は恐喝ではなく、逮捕は拉致ではなく、懲役は監禁ではなく、死刑は殺人ではない。ゆえに「死刑は殺人だから人権侵害だ」と言うのは、そもそも言葉の定義と解釈が間違っている。

 江戸時代は十両盗んだら首が飛んだが、現代は10億盗んだら死刑に処すと判決されるとしたら、「生きる権利は人間の根源的な最も大切な権利であり、決して奪ってはならない」と抗議するのは正しい。
 しかし盗みなどではなく、人を殺す罪を犯した者は、その「根源的な権利」を故意に無視し、人の「生きる権利」を奪ったのだから、そんな人間以下の行為をした者の人権をどうして尊重すべきなのか。それは被害者にとっては全然公正ではないはずだ。故意に他者の人権を奪った者の人権が、国家によって制限されるのは当たり前のことだ。

 大体が「人権」を無視した殺人者に、人権を当てはめようとするのは、本人の意思を無視した大きなお世話になり、ある意味、人権侵害になるのではないか。
 なお、死刑囚の中には責任を感じ、「死刑は当然」と考える者もいる。※2

 日弁連は、殺人犯の人権と命は非常に高く見ているが、殺された人の人権と命は、ほとんどゼロと見ている。その判断は到底、法的な公正とは言い難い。


※続きの項目②~④も、時間を見つけてお読みいただければ幸いです。

 「汝、殺すなかれ」は死刑反対の聖書的根拠になるか。 


「もっと光を」とはゲーテ臨終の言葉として知られている。
 これをいかにもゲーテらしい霊的な深い言葉だと言えば、それは間違っている。
 実際は部屋が暗いので「もっと光が入るように寝室のよろい戸を開けてくれ」という意味だったからだ。

なんじ、殺すなかれ」と言えば、モーセの『十戒』の6番目の戒めだ。
 フランシスコ教皇は「この戒律は絶対的な価値を有し、罪のない人にも罪を犯した人にも当てはまる」と語ったことがあるが、過去、少なからぬ作家や知識人や最高裁判事も、この言葉を死刑反対の根拠の一つとしてきた。

 しかし「汝、殺すなかれ」を根拠に、「だから死刑は国家の人殺しだ」と主張するのは、聖書的には間違っている。

 今回は、死刑制度に賛成か反対かの論議というよりは、汝、殺すなかれ」の正しい意味を考えてみたい。


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 利他的な義人と利己的な義人は何が違うか。 


 面白くて放映されるたびに何度も観た映画がある。
 1994年のアメリカ映画『パルプ・フィクション/Pulp Fiction』。クエンティン・タランティーノ監督作品がその一つだ。
 そのなかでサミュエル・L・ジャクソン扮する殺し屋ジュールスが仕事の前に暗唱するのが旧約聖書エゼキエル書25章17節で、こう書かれている。※1

私(神)は、彼らを激しく処罰し、大いに復讐する。
私が彼らに復讐するとき、彼らは私がエホバであることを知らなければならなく
なる


 前半は《神は悪人を処罰し、義人に代わって復讐する》ということで、後半は《悪人はそのとき、エホバという名を持つ神に処罰されたことを知る》、すなわち、(世の神々は無為無能だが)イスラエルの神エホバは違う、生きている神だ、悪人を必ず処罰すると宣告されている。
 この聖句を引用し、殺し屋ジュールは自分を神の仕置き人だと正当化していた。




 さて、ここで生じる当然の疑問は、悪い奴ほどよく眠る、金さえあればレバノンに行ける、もし神がいるのなら、正義と公正であるはずの神が悪人を放置しているのはなぜか?ということになる。

 その精神世界的な答えは過去記事とコメント欄に何度か書いたが、今回は旧約聖書の『ヨブ記』から、義しき人が不義の試練に敗北した話を見てみたい。

 ツイッターは、悪口や不満をつぶやくためにあるのか。 


 一人の大統領がツイートすると、世界の政治家があたふたと動揺する。
 一人の中学生がツイートすると、同級生がひっそり死に追い込まれる。
 ツイッターの「つぶやき」は、いまや銃弾より強力な口撃兵器にもなっている。

 ツイッター(Twitter)の名はtweetツイート(つぶやき)から来ていて、個人の小さな声を世界中に発信できるので、いまや3億3,000万人のユーザーがいるそうだ。


 しかしツイートを「つぶやき」と言われると、私は文句をつぶやきたくなる。

 なぜなら、「つぶやき」とは小声で独りごとを言うという意味だが、「ツイート」はひとに聞こえるように(大声で)語ることなので、違和感を感じるのだ。

 それに聖書では「つぶやき」は、小声でひとの悪口を言ったり、不平不満を言うという意味で使われているのに馴染んでいるために、そんな嫌味な話を語ることがツイートなのかいと、つい心の中でつぶやいてしまうからだ。


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