「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 田中一村の日本画は、緻密な構図の中に峻厳な情熱が見えている。 


日本人は、西欧人にはちょっと真似できない、大胆かつ緻密な感性を持っている。
その一つの根拠が、20世紀の奄美で孤高の生涯を終えた田中一村たなかいっそんの日本画だ。
私はNHKの『日曜美術館』で知り、こんな凄い画家がいたのかと非常に驚いた。

一村は、タヒチのゴーギャンに似て、南の島でトロピカルな原色の自然を描いた。
緊張感は対極のように違うが、題材と色調はアンリ・ルソーの絵を思い出させる。
ゴッホのような強い情熱を、ゴッホとは違って清澄また華麗に表現している。

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この田中一村の絵が、それらの画家たちと比べても大きく優っている点がある。
それは緻密な《構図》である。
一村は《構図》を完璧に計算して、並外れた感性と技術で描いている。


 幸せの秘訣を歌うシャーリーンの大ヒット曲『愛はかげろうのように』。 


《自分探し》をする人がいる。
 そうするのは、現状に満足できず、本来の自分の性格や人生の目的など、
 自分が納得できる新しい生き方を探し求めているからだ。

そんな人にぴったりなのが、この歌。
『愛はかげろうのように(I've Never Been to Me)』
 ちょっと古いが、シャーリーンの唯一で最大のヒット曲だ。(※1)

メロディは軽やかで美しいが、歌詞はなかなか重く、
人が幸せに成れないワケと、幸せに成れる秘訣が書かれている。


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“I've Never Been to Me”は、“Me”に意味がある。

若い頃、高級コールガールのように快楽と贅沢の限りを尽くした女性が、
結婚と子育てがうまくいってない若い女性に自分の経験から教え諭している。


(ほんの4分弱ほど時間を取って聴けば、人生観が少し以上変わるかもしれない名曲です)

(この対訳付き動画が再生できない場合は、→ クリック )

 地上の事象は天国の隠喩でもある。金子みすゞの『繭と墓』。 


俺はお前となあ、二人でコンビ組んで、ずっとね、漫才とかやれて、お笑い芸人になって、やれたことが本当に幸せやった、ありがとう。もういつそっちに往くか、もうわからんけども、俺がそっちに往ったら、またやろうや。いいか、お前な、待っとけ」 
     (カンニング竹山さんの弔辞:相方・中島忠幸さんへ・2006年)


天国が実際にあれば、そんな素晴らしいことがあるだろうか。
死後の世界は、あるのか、ないのか―――――
この難問を金子みすゞさんの詩を軸にして科学的な合理思考で考えた。

                

部分と全体が自己相似形になっている図形を《フラクタクル》と言う。
この三次元世界には、あらゆる所にそのフラクタクル構造が現れており、
ミクロの量子の構造は、マクロの恒星群や星団の姿と相似であり、
人間は、サイズ的には、ミクロの量子とマクロの宇宙の中間に存在するそうだ。

「下なるものは上にある如く、上なるものは下にある如く」という古言がある。
フラクタクルの原理は、目に見えない形而上の世界にも当てはまるはずで、
この地球上の事象は、霊的な真理を表す《隠喩》であると見做すことができ、
自然界をよく観察すれば、死後の世界についても推察できるということだ。
       
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ジュリアス・シーザーは「人は見たいと思うものしか見ない」と言った。
イエスは「見るには見るが、決して見えない」人がいることを述べた。
これは《心を開いて素直な目で見れば、見えないものも見える》ということだ。

二十六歳の若さで薄幸の人生に自ら終止符を打った金子みすゞさんは、
純粋な感性の目で、人は死んだら見えない世界の中に解き放たれることを見た。

 「嬲る」とは、男女が三人でなさる悪さである。 


スポーツの世界は「」で成っている(ことにさせといてください)
いま世間では、権限を持つ者らの破廉恥が次々に明るみに出されているが、
 なぐるは、拳で顔や頭を強く打つ身体的な暴力であり、
 なぶるは、虐めたり困らせて面白がるパワハラであり、
 ナバルは、ヘブライ語で“ろくでなし”という意味だが、
 なじることをして下の者をなめる権威者は、自ら要職をなげる結末になる。

この問題には、思考と構造の古さに加え、人間性と常識の欠如が関係しており、
なける事情に世間は心配なさるが、言い訳がひどいと応援の気持ちがなえる

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愚かな人ほど威張る傾向があり、ひとをなぐらないでも、なぶることはしている。
で、この「なぶる」という言葉は、男と女のことに関係しているという話です。


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