「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 善悪の見分け方は愛。それは与えるものか、奪うものか。 

(新テーマ:時事的スピリチュアル)

本能の生活には道徳はない。従つて努力はない。この生活は必至的に自由な生活である。必至には二つの道はない。二つの道のない所には善悪の選択はない。故にそれは道徳を超越する。
       ―――――有島武郎『惜みなく愛は奪ふ』1917(大正6年)


「ご隠居、この話、『本能の生活は』と始まって、結論は『道徳を超越する』っ
て流れが解せねえです」
熊さん、ここの三段論法は面白いぞ。『本能の生活』は道徳も努力もないので、
『自由な生活』になるのは『必至的』だ、すなわち《必ずそうなる》と前提して、
必ずそうなるなら、二つの道はない。二つの道がないなら、善と悪の選択はない。
善悪を選択しないなら、道徳を超越する、という理屈だ。しかし熊さんは、熊と
言っても獣じゃないんだから、必ず善のほうを選択しなさいよ」
「イエッサー」
「お、サーが付いたか」
「あはは、でも動物とは違って、われらヒューマンたるゆえんは、善と悪を区別
して道徳を守るところですよね」
「そうだ。ただ、善悪の判断は難しいがな」
「ご隠居、あの大統領が最近『一度の合意で、過去の問題を終わらせることはで
きない
』って言いましたよね。日本は、もっと過去の戦争問題と正面から向き合
わないと、《悪》になるんですかね」


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 世界は人のために存在しているのか。アンスティル・ライフ。 

 ※池澤夏樹『スティル・ライフ』(第98回芥川賞受賞)の冒頭文を見たら、啓発を受けまして、
 無謀にもその続きを書きたくなりました。小説本文からの引用部分は青色字にしています。


 世界がきみのために存在すると思ってはいけない。
 世界はきみを入れる容器ではない。
 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、
それぞれまっすぐに立っている。
 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜ん
でいる。世界のほうはあまりきみのことを考えてはいないかもしれない。



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 世界はきみのことを考えていないといわれると、がっかりするかもしれない。
でも、この意味は、世界はきみの人生には干渉も仲裁もしないということで、つ
まりは、世界はきみが自由意思と自分の力により生きることを期待しているのだ。

 しかし世界はきみを愛している。このことは信じていいし、信じたほうが少な
くとも毎日を過ごすのがずっと楽になる。

 ただし世界は自分だけを特別にひいきにしてくれる、と期待してはいけない。
 期待とは、あることが実現するだろうと心待ちにすることだが、それは運任せ
とか神頼みといった、能動性と生産性のない迷信や盲信を育て、生き方の自由と
発展性を妨げる。

 地上の事象は天国の隠喩でもある。金子みすゞの『繭と墓』。 


俺はお前となあ、二人でコンビ組んで、ずっとね、漫才とかやれて、お笑い芸人になって、やれたことが本当に幸せやった、ありがとう。もういつそっちに往くか、もうわからんけども、俺がそっちに往ったら、またやろうや。いいか、お前な、待っとけ」 
     (カンニング竹山さんの弔辞:相方・中島忠幸さんへ・2006年)


天国が実際にあれば、そんな素晴らしいことがあるだろうか。
死後の世界は、あるのか、ないのか―――――
この難問を金子みすゞさんの詩を軸にして科学的な合理思考で考えた。

                

部分と全体が自己相似形になっている図形を《フラクタクル》と言う。
この三次元世界には、あらゆる所にそのフラクタクル構造が現れており、
ミクロの量子の構造は、マクロの恒星群や星団の姿と相似であり、
人間は、サイズ的には、ミクロの量子とマクロの宇宙の中間に存在するそうだ。

「下なるものは上にある如く、上なるものは下にある如く」という古言がある。
フラクタクルの原理は、目に見えない形而上の世界にも当てはまるはずで、
この地球上の事象は、霊的な真理を表す《隠喩》であると見做すことができ、
自然界をよく観察すれば、死後の世界についても推察できるということだ。
       
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ジュリアス・シーザーは「人は見たいと思うものしか見ない」と言った。
イエスは「見るには見るが、決して見えない」人がいることを述べた。
これは《心を開いて素直な目で見れば、見えないものも見える》ということだ。

二十六歳の若さで薄幸の人生に自ら終止符を打った金子みすゞさんは、
純粋な感性の目で、人は死んだら見えない世界の中に解き放たれることを見た。

 じつはリルケの『秋』は、枯葉が落ちてはいない。 

 え~、またまた、落ちるはなしにお付き合いを願います。

 落語は結末に「落ち」や「下げ」が来るのは先刻ご承知の通りでございますが、
これは話し手が「下げる」と客が「落ちる」という因果関係になっておりますな。
            _________
 
「ご隠居、たまには、くだらねえ話じゃあなくて、げる話が聞きてえもんだ」
「げっ」
「いや、落ちる話じゃなくって」
「おや、下げるの漢字 “下” を “げ” と音読みしただけだがな」
「ったく、おちおち聞いてられねえ」
「じゃあ、こうしょう。高尚な話だ。八っつあんは、リルケというオーストリア
の詩人を知らないだろうな」
「おうおう、こちとら、自慢じゃねえが、知るけ」
「やはりな。このリルケがドイツ語で『秋』という題の詩を書いている。英語で
秋をオータム(autumn)とかフォール(fall)と言うが、フォールとは落ちることで、
つまり秋とは葉が落ちる季節という意味だ」

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