「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 人生と宇宙についての考えが一変する『死んだ男と神との会話』。 


  とつぜん死んだ男が神に出会い、宇宙観がひっくり返った話です。(翻訳)

 YOUあなたが死んだのは、家に帰る途中だった。
 特に変わったところはないが、致命的な自動車事故で、YOUは妻と子供二人を残した。痛みのない即死で、救急隊員が助けようとしても無駄だった。
 YOUの体はバラバラに砕け散っていたが、そのほうが良かったかもしれない。本当だよ。


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 YOUは尋ねた。
「何が・・・何があった? ここはどこ?」
『あなたは死んだのだよ』

 私はずばり答えた。遠回しに説明しても意味がないからだ。

「トラックが・・・横滑りして・・・」
『うん』

「僕は、僕は、死んだんですか?」
『うん、でも気にしないでいい。誰でも死ぬのだから』
と私は言った。

 YOUは周りを見回したが、何もなかった。私とYOUだけだった。
「ここは何ですか? 来世ですか?」
『まあ、そんなところだ』

「あなたは神様ですか?」
『うん、私は神だよ』

「僕の子供たち・・・僕の妻・・・」
と、YOUは言った。
『彼らが、どうしたって?』

「家族は、大丈夫でしょうか?」
『それ、好きだな。死んだばかりなのに、自分の家族をいちばん心配している。いいね』


 YOUは魅了されたように私を見た。私は神のように見えなかっただろう。ただの男か、あるいは女性か、なんとなく権威のある人のように見えたかもしれない。全能の神というよりは、公立学校の先生のようだったかもしれない。


 善悪の見分け方は愛。それは与えるものか、奪うものか。 

(新テーマ:時事的スピリチュアル)

本能の生活には道徳はない。従つて努力はない。この生活は必至的に自由な生活である。必至には二つの道はない。二つの道のない所には善悪の選択はない。故にそれは道徳を超越する。
       ―――――有島武郎『惜みなく愛は奪ふ』1917(大正6年)



クマ「ご隠居、この話、『本能の生活は』と始まって、結論は『道徳を超越する』って流れが解せねえです」
隠「
熊さんや、ここの三段論法は面白いぞ。『本能の生活』は道徳も努力もないので、『自由な生活』になるのは『必至的』だ。すなわち《必ずそうなる》と前提して、必ずそうなるなら、二つの道はない。二つの道がないなら、善と悪の選択はない。善悪を選択しないなら、道徳を超越する、という理屈だ。しかし熊さんは、熊と言っても獣じゃないんだから、必ず善のほうを選択しなさいよ」
クマ「イエッサー」
隠「お、サーが付いたか」
クマ「あはは、でも動物とは違って、われらヒューマンたるゆえんは、善と悪を区別して道徳を守るところですよね」
隠「そうだ。ただ、善悪の判断は難しいがな」
クマ「ご隠居、あの大統領が最近『一度の合意で、過去の問題を終わらせることはできない』って言いましたよね。日本は、もっと過去の戦争問題と正面から向き合わないと、《悪》になるんですかね」


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 世界は人のために存在しているのか。アンスティル・ライフ。 

 ※池澤夏樹『スティル・ライフ』(第98回芥川賞受賞)の冒頭文を見たら、啓発を受けまして、
 無謀にもその続きを書きたくなりました。小説本文からの引用部分は青色字にしています。


 世界がきみのために存在すると思ってはいけない。
 世界はきみを入れる容器ではない。
 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、
それぞれまっすぐに立っている。
 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜ん
でいる。世界のほうはあまりきみのことを考えてはいないかもしれない。



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 世界はきみのことを考えていないといわれると、がっかりするかもしれない。
でも、この意味は、世界はきみの人生には干渉も仲裁もしないということで、つ
まりは、世界はきみが自由意思と自分の力により生きることを期待しているのだ。

 しかし世界はきみを愛している。このことは信じていいし、信じたほうが少な
くとも毎日を過ごすのがずっと楽になる。

 ただし世界は自分だけを特別にひいきにしてくれる、と期待してはいけない。
 期待とは、あることが実現するだろうと心待ちにすることだが、それは運任せ
とか神頼みといった、能動性と生産性のない迷信や盲信を育て、生き方の自由と
発展性を妨げる。

 地上の事象は天国の隠喩でもある。金子みすゞの『繭と墓』。 


俺はお前となあ、二人でコンビ組んで、ずっとね、漫才とかやれて、お笑い芸人になって、やれたことが本当に幸せやった、ありがとう。もういつそっちに往くか、もうわからんけども、俺がそっちに往ったら、またやろうや。いいか、お前な、待っとけ」 
     (カンニング竹山さんの弔辞:相方・中島忠幸さんへ・2006年)


天国が実際にあれば、そんな素晴らしいことがあるだろうか。
死後の世界は、あるのか、ないのか―――――
この難問を金子みすゞさんの詩を軸にして科学的な合理思考で考えた。

                

部分と全体が自己相似形になっている図形を《フラクタクル》と言う。
この三次元世界には、あらゆる所にそのフラクタクル構造が現れており、
ミクロの量子の構造は、マクロの恒星群や星団の姿と相似であり、
人間は、サイズ的には、ミクロの量子とマクロの宇宙の中間に存在するそうだ。

「下なるものは上にある如く、上なるものは下にある如く」という古言がある。
フラクタクルの原理は、目に見えない形而上の世界にも当てはまるはずで、
この地球上の事象は、霊的な真理を表す《隠喩》であると見做すことができ、
自然界をよく観察すれば、死後の世界についても推察できるということだ。
       
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ジュリアス・シーザーは「人は見たいと思うものしか見ない」と言った。
イエスは「見るには見るが、決して見えない」人がいることを述べた。
これは《心を開いて素直な目で見れば、見えないものも見える》ということだ。

二十六歳の若さで薄幸の人生に自ら終止符を打った金子みすゞさんは、
純粋な感性の目で、人は死んだら見えない世界の中に解き放たれることを見た。


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