「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 利他的な義人と利己的な義人は何が違うか。 


 面白くて放映されるたびに何度も観た映画がある。
 1994年のアメリカ映画『パルプ・フィクション/Pulp Fiction』。クエンティン・タランティーノ監督作品がその一つだ。
 そのなかでサミュエル・L・ジャクソン扮する殺し屋ジュールスが仕事の前に暗唱するのが旧約聖書エゼキエル書25章17節で、こう書かれている。※1

私(神)は、彼らを激しく処罰し、大いに復讐する。
私が彼らに復讐するとき、彼らは私がエホバであることを知らなければならなく
なる


 前半は《神は悪人を処罰し、義人に代わって復讐する》ということで、後半は《悪人はそのとき、エホバという名を持つ神に処罰されたことを知る》、すなわち、(世の神々は無為無能だが)イスラエルの神エホバは違う、生きている神だ、悪人を必ず処罰すると宣告されている。
 この聖句を引用し、殺し屋ジュールは自分を神の仕置き人だと正当化していた。




 さて、ここで生じる当然の疑問は、悪い奴ほどよく眠る、金さえあればレバノンに行ける、もし神がいるのなら、正義と公正であるはずの神が悪人を放置しているのはなぜか?ということになる。

 その精神世界的な答えは過去記事とコメント欄に何度か書いたが、今回は旧約聖書の『ヨブ記』から、義しき人が不義の試練に敗北した話を見てみたい。

 ダビデとイエスを裏切った男と、聖書の『予型』解釈法。 


「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。
そんな鋳型(いがた)に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。
少なくともみんな普通の人間なんです。
それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。」
           ――――――夏目漱石『こころ』(上・二十八)


 裏切りといえば、どんな人を思い出しますか。
「ブルータス、お前もか」を筆頭に、「なんと、光秀がか」「よし、秀秋だな」と思われたであろう武将、また『三国志』の呂布の名を思い出すかもしれません。

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クマ「おっと、ご隠居、肝心なのを一人忘れちゃいませんか、江戸っ子だってねえ」
隠「熊さん、自分の弁護士を裏切った、あのゴー・・・」
クマ「いえ、ユダです、ユダ」
隠「ああ、イスカリオテのユダか。欧米ではユダは極悪の裏切り者と思われているが、じつは十二使徒の中ではイエスから一番信頼されていたようだな」
クマ「ユダが信頼?」
隠「ダヴィンチの『最後の晩餐』ではユダは財布を握っているが、ユダは使徒たちの共同基金を管理していた。つまりイエスの信頼が厚かったのだ」
クマ「なんで、そんな人がイエスを裏切ったんで?」
隠「いろいろ説があるが、熊さん、預言的な解釈が面白いぞ」
クマ「ご隠居は、トンデモ話が好きですねえ」
隠「いや、けっこう論理的なのだよ。イエスの千年ぐらい昔の先祖にダビデという王がいた。ダビデの三男はアブサロムといって、『足の裏から頭の頂まで非の打ちどころがなかった』と言われたほどの二枚目だ。小泉進次郎を百倍男前にして、山本太郎を百倍弁舌巧みにしたような若者で、自分の支持者を増やした」
クマ「いい男には敵わねえ」
隠「そう、昔も今も大衆はひとを顔で判断する。二枚目のアブサロムは言葉巧みに人心を掌握し、父王ダビデに突然謀反を起こした」
クマ「あら、下克上だ」
隠「突然だったからダビデは急いで都落ちした」
クマ「そのアブサロムって奴は、『敵はエルサレムにあり』とか言ったんですかね」


 1thsheba.jpg
 ヤン・マサイス『ダビデとバテシバ』1510-1575(人妻だったバテシバの祖父がアヒトフェル)

 ゴーギャンの「我々は何者か」の絵と十字架刑についての夢想。 


有名なゴーギャンの絵を見ていたら、
あら、これはキリストの磔(はりつけ)のポーズだ、と気が付いた。

どこに十字架があるのか?と思うかもしれませんね。

『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
 (クリック拡大)
P8enons-nous.jpg
                                 Wikipedia 

中央の人物の立ち姿が下右の「磔」 はりつけ 男と似てないでしょうか。

右の絵は中世の杭殺刑ですが、男が一本の「杭(くい)」に架けられています。

 nzzkhfd.jpg
           
↑ 『杭殺刑』ユストゥス・リプシウス De cruce 1595

★訂正:中央の人物は女性かもしれません。次週、このゴーギャンの絵を扱う際に説明します。

 『十戒』は、人間に対する神の信頼を示している。 


 コンビニのトイレに貼ってある白い紙が、気を使っています。
トイレをきれいに使ってくださってありがとうございます
 叱責調で「トイレを汚さないで使ってください」と書くより、表現がきれいで、
人間の善意に期待しているから少しは効果的だろう、と考えているのでしょう。

 歩道橋の側面に掲げられている標語が、気になります。
ゴミのポイ捨てはカッコ悪いぞ
 問題の本質は、自分の《カッコの良し悪し》ではなく、他者に《迷惑を掛ける
か掛けないか》の気遣いのはずだ。この訴求はコンセプトを間違えている。こう
いうアピールをするのは、人がますます自己中心的になっているせいか――――
と考えていたら、旧約聖書にあるモーセの『十戒』を思い出しました。


 tenco.jpg
 (1956年セシル・B・デミル監督パラマウント映画 “The Ten Commandments“ のモーセ)


 じつは『十戒』は、原語では《十の言葉》となっていて、《十の戒律》ではな
いのですが、それでは何なのでしょう?


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