死刑制度の是非を『杜子春』のメッセージから考えた。
ようやく外相が上川陽子氏に代わり、氏がオウム事件の死刑囚全員に死刑執行を命じたことを思い出しました。
EUは「死刑廃止」を定めていて、日本は欧州に遅れているとの批判があります。
そこで今回は、芥川の『杜子春』を基に「憐れみ」と「公正」という観点から、死刑制度の是非を考えてみました。
まずは、『杜子春』のストーリーを思い出してみましょう。
芥川龍之介『杜子春』あらすじ
(結末は『胡蝶の夢』に似ていますが、それよりずっと感動的な話です)

(Bing Image Creator)
金持ちの息子・杜子春が、唐の洛陽の西門の下にたたずんでいた。放蕩三昧をしたために無一文になったのだ。
老人が現われ、杜子春が言われた通りにしたら大量の黄金を掘り当て、天下一の大金持ちになったが、贅沢三昧をしたら三年後に無一文になった。
また同じ老人が現われ、また杜子春が同じことをしたら、また三年後に無一文になった。
三度目に現れた老人を仙人と見抜いた杜子春は、仙人になりたいと願った。
老人は、弟子になりたければ、たとえ何があろうと「決して声を出すのではないぞ。天地が裂けても黙っているのだぞ」と言って去った。
杜子春は、恐ろしい虎や巨大な白蛇、爆雨、落雷に襲われ、神将の戟(ほこ)で突き殺された。杜子春の魂は、地獄に落とされて閻魔大王の前に引きずり出され、鬼たちに舌を抜かれるやら、皮を剥はがれるやら、油の鍋に煮られるやら、熊鷹に眼を食われるやら、ありとあらゆる責め苦に遭わされた。
しかし杜子春はそれでも歯を食いしばり、ひと言も声を出さなかった。
ついに閻魔大王は、杜子春の両親を馬の姿に変え、鬼たちに激しく鞭打たせる・・・
と、母親のかすかな声が聞こえてきた。
「心配をおしでない。わたしたちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何とおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」
杜子春は涙を流しながら、思わず、「お母さん」と叫んだ。
気が付いたら、杜子春はまた洛陽の西門の下にたたずんでいた。
あの老人が言った。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」
この話の要点は何でしょうか。
金銭を追い求める空しさや思いやりの大切さでしょうか。
上の話の続きでは、老人が「お前はこれから後、何になったらいいと思うか」と訊ねると、杜子春は「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」と答えます。その答えは老人を喜ばせ、杜子春はご褒美に快適な住まいをもらいました。
「正直な暮し」とは、欲はなく、決して怒らず、静かに笑って暮らすということでしょう。
「人間らしい」とは、東に病気の人あれば行って看病し、涙を流し、オロオロ歩くといった、そんな人間本来の憐れみの感情を素直に表すということでしょう。
●
では、死刑廃止は「人間らしい」考えでしょうか。
ここから本論に入りますが、死刑反対の理由は、"死刑は殺人者の人権を無視している" というもので、一応もっともなような意見です。
これは『杜子春』の教訓と合致していますか。
いいえ、合致していません。
老人つまり仙人の命令は、杜子春にとっては、自分の最重要な人生目標であり、命を懸けて守るべき信念や大義のようなものでした。
しかし両親の甚だしい苦痛を見てもなお、自分の意思を貫こうとするのは憐れみの感情が欠けており、即座に命を絶ちたいほどの "人間失格者" である と老人は断言しました。作者の芥川は、「人間らしさ」に欠けると補足しています。

『楽園追放』 コルネリス・ファン・ポーレンブルク(オランダ)1594-1667
死刑反対論者は、人を殺した加害者をむしろ被害者のように考えています。
そもそも、ひとの人権を無視して故意に命を奪った殺人犯の人権を「大事だ重要だ!」と(殺人犯の代わりに)主張するのは、それこそ「おまいう。どの口が言うのか」と言われてブーメランが帰ってくるような不公正でしょう。
いわゆる人権弁護士らは、人を故意に殺した邪悪な加害者の人権と福祉を考える意識は非常に強いのですが、無惨に殺された憐れな被害者の二度と戻らない命と人権を考える意識はまるでないようです。
彼らがそんな自分の不公正感に気付かないのは、殺された人を自分や自分の肉親のように思ってないからでしょう。つまり感情移入ができず、「人間らしい」感覚に欠けているからです。
私は、杜子春の母親の言葉「お前さえ仕合せに」と、老人の最後の言葉「もしお前が黙っていたら」のところで胸がぐっとなります。このたびも推敲するたびに涙が出ました。無惨に殺された人を見て流す涙とはちょっと涙の意味合いが違いますが、自分に言われたように感じたからだと思います。

『ソクラテスの死』ジャック=ルイ・ダヴィッド(フランス)1748-1825
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借りたものや奪ったものは最低、同じものを返す責務があり、それが公正です。
もし、無くなったら生きていけない必要不可欠なお金1千万円を勝手に奪った者に対して、わずか1円返せばよろしいと判決されたら、そんな不公正な裁判があるか、裁判官はクビだ!と怒るはずです。
イエスは「人が全世界を勝ち得ても自分の命を失ったら何の益があるか」と言いました(マタイ16:26)。この意味は、人間の命は、全世界の富や財産を集めても得られないほど貴重で掛け替えのないものだということです。
命の価値は1千万円より1千億円より地球より重いのに、そんな巨額の負債を返す代わりに、精々十何年か死ぬまでの間、衣食住付きの狭小部屋に居ればいいとするのは不公正の極致でしょう。
「お前を殺させてくれ。その代わり俺は終身刑になってもいいから」と言われて、「はいはい、その取り引きは公正だからいいですよ」と言う人は世界に一人もいません。本当は殺人犯が死刑になっても、人の命を勝手に奪った負債は返しきれてないのです。
"負債は同じものを返さねばらない"という公正の原則に基づき、私は、死刑は当然の報いだと思います。
それで、「死刑廃止」は、無惨に殺された被害者の "命に対する敬意"と"人間らしい憐れみの感情" に欠けた不公正な極致であると思わず、ただただ故意に人を殺した悪辣な加害者の「人権人権」と唱える人は、「自分は博愛と公正の擁護者だ」と自己満足して得意になっているように思えるのですが、ちょっと言い過ぎでしょうかね。
《備考》――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
●77人殺害者が、3部屋、TV、プレステ完備の刑務所生活を「非人道的な扱い」と待遇改善を要求。
禁固刑21年満了後の2032年には社会に出てきて、また同様の殺人をする可能性がある凶悪な思想犯です。産経新聞 https://www.sankei.com/article/20160411-YBDHLG66ZFPGJOZZ3KIG2N24CY/
年に800通以上の女性ファンレターが届くそうで、大量殺人を他人事のように考えているのでしょう。
●スピリチュアルでは、死刑は野蛮とされ、霊的に進んだ星では考えもされない、と言われています。究極の理想論を言えば「死刑」は「軍隊」と同じく人殺しですから、廃止したほうがいいでしょう。
しかし悪い人間が常にいる現在の地球で、「無条件の愛」とか「赦し」を実践するのは危険です。コンビニやスーパーをすべて無人販売店にするようなもので、かえって悪をのさばらせます。
●冤罪による死刑執行があり得るのが問題になりますが、証拠を捏造したり偽証したりして、罪なき者が死刑になるように画策した悪質な人間や検事や関係者は即「死刑に処す」ことと、そしてまた、いくら怪しくても状況証拠だけなら死刑にしないと決めれば、かなり冤罪を防げるように思います。
それでも一人か二人は冤罪死刑があり得るので死刑は廃止すべきだと思うかもしれないですが、そうなら自動車や飛行機やバイク、またナイフやバールのようなものも交通事故や故殺・暗殺の可能性が必ずあるのですから、一切禁止すべきです。飲酒や冬山登山、F1レースなどもすべて禁止です。
●「死にたいから射殺してくれ、死刑にしてくれ」と言って殺人をする馬鹿者がいるのが困りますが、こういうヤカラは人格を云々する立場にない完璧な人間失格者です。「殺してくれ」と言う者は命と死についての認識が弱いのですから、当人の意向を汲み、それこそ舌を抜くやら、皮を剥ぐやら、油の鍋で煮るやら、熊鷹に眼を食わすやら、ありとあらゆる責め苦に遭わせ、、縛り首にし、市中引き廻しの上、晒し首にする(ああ、書いているだけで、おぞましや)のは・・・駄目ですね。(冗)
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ムンクの『叫び』は、誰が何を叫んでいるのか。
ムンクと言えば『叫び』。これは誰もが文句なしに認めている。

『叫び』油彩(1893年)オスロ国立美術館
男の顔は、眼や鼻、口の孔が空虚で、しゃれこうべのようだ。身体はデフォルメされ、精神の異常を示している。どんよりと重たそうな雲は血のように真っ赤。フィヨルド(氷河によって形成された狭湾)は青黒く、不気味さを漂わせている。

ムンクの研究家ロバート・ローゼンブラム氏によると、1889年にパリ国際万博で展示されたペルーのミイラからヒントを得た可能性が高いとのことで、確かに手の広げ方や顔つきがよく似ている。