「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 何のために人は生きているのか。中島敦の短編小説『狼疾記』 


 突然、社の広い制作室の中で、
「宗教をやる人間は馬鹿だ」という大きな声が聞こえた。

 私がまだ二十代だった昔、聖書の神に付き従う人生を歩もうと決意し、大手広
告代理店を辞めた当月の話です。

 大声を出した男は三十代の理屈っぽいコピーライターで、革新系の市議に当選
して退職することになっていたが、どうやら誰かと話をしていたときに、自分の
信条をこの私に聞かせたくなったようだ。

 しかし私は、別に、というか、全然、腹は立たなかった。
 なぜなら、ひとがそう思うのも理解でき、まあ、もっともだと思うからだ。

   rou1p.jpg ※画像は単なるイメージカットです。


 とかく宗教に関心を持つと、外から非難や憎悪、また助言や説得がやってくる。
 しかし中島敦の短編小説狼疾記ろうしつきでは、作者が内側で自問し、反問している。
 
 この書の主人公の思考と性情が、私バーソと似ているのです。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『狼疾記』の主人公は、形而上的な疑問を解きたい性情がある。
※形而上とは、形を持っていないもの。感性を介した経験では認識できない超自然的・理念的なもの。

 小4のときの三造(作者)は、何万年後かには太陽も冷えて、真暗な空間をただ
ぐるぐる回っているだけになると担任から教えられ、たまらなくなった。

 それでは自分たちは何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙は
このままに続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。それ
が、今、先生の言うようでは、自分たちの生れて来たことも、人間というものも、
宇宙というものも、何の意味もないではないか。

 私バーソも少年時、自分の存在が無くなると思うと叫び声が出そうになったが、
三造も、人間や地球や太陽や宇宙の存在意義まで考えて不安になる傾向があった。

   rou21p.jpg


 成人した三造は、人間に分からない問題は考えないのが幸せだとする現実的な
人生観は持っていた。彼の内面にいる貧弱な常識家が三造に、こう問いかける。

「いい年をして、まだそんな下らない事を考えているのか。もっと重大な、もっ
と直接な問題が沢山あるじゃないか。何という非現実的な・取るに足らぬ・贅沢
な愚かさに耽(ふけ)っているのだ。・・・少しは恥ずかしく思うがいい。」



 だが三造は、心の奥に、どうしても知りたいという「性情」を持っていた。

 何より大事なことは、俺の性情にとって、幾ら他人に嗤(わら)われようと、こう
した一種の形而上学的といっていいような不安が他のあらゆる問題に先行すると
いう事実だ。・・・この点について釈然としない限り、俺にとって、あらゆる人
間界の現象は制限付きの意味しか有(も)たないのだから。

 女や酒に身を持ち崩す男があるように、形而上的貪慾のために身を亡ぼす男も
あろうではないか。・・・前者は欣(よろこ)んで文学の素材とされるのに、何故後
者は文学に取上げられないのか。

 形而上の問題を解きたいのは、学者のような知識欲ゆえというより、自分の本
質的な「性情」であって、その疑問が解消されなければ生きていけない。だから
形而上的な探求を、肉欲追求の快楽と同等の快楽として正当化しようとしている。

   rou31p.jpg


 つまり快楽の対象が人によって違うのは、好みの他に、正邪や損得などの理屈
を越えた「性情」による場合もあるのですね。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『狼疾記』の冒頭には、孟子の言葉が引用されている。

 養其一指、而失其肩背而不知也、則為狼疾人也。
 其(そ)の一指を養い、その肩・背を失えど、而(しか)も知らざれば、則(すなわ)ち 
狼疾の人たり。

 孟子は、「一本の指」の養生に成功しても、「肩・背」などの全体が駄目が駄
目になることに気付かないなら、それは狼のごとき病の愚人であると教えている。

 つまり精神的な飢えを満たすことに懸命なあまり、自分の人生行路や家庭生活
を破綻させているのに、それに気付かないなら、「宗教や哲学や精神世界をやる
人間は馬鹿だ」と言われるかもしれないのだ。

   rou12l.jpg


 というわけで、かく言う私バーソによく当てはまる話になるのでありました。



ちなみに具体的にいえば――――――――――――――――――――――――――――――――――

 私が駄目にした「肩・背」は、厳格な教団に長年所属し、伝道活動と週3回の
集会を最重要視したがゆえの転職無職の苦労や貧乏、慢性疲労や大病に、遊ばず、
子供は作らず、教団と信者の援助のために費やした人生(気力体力時間金銭)です。
 
 普段の集会では約70人の信者に聖書の話をし、大会では約1500人の聴衆に1時
間の話をしたり、年中超多忙でしたが、ついにネットで米国本部の実態を知って
離脱したときは、ああ、自分は孟子の言う「狼疾の人」だと大いに悔やみました。

 養生できた「一本の指」は、すぐに精神世界の教えを学び、人生に失敗はない、
人はみな自分の定めた人生を歩んでいると思えたことと、神の愛とは無条件の愛
だと分かったことです。これは人生最大の知的収穫であり、おかげで目が開け、
自分は必要なことを体験でき、面白い人生を歩めたと思えるようになりました。

 現在の心情は、言うなれば肩と背は損傷したものの、大事な指だけは以前より
良くなったつもりになってるアマチュアピアニストみたいなものですかね。(笑)


補足―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※中島敦(1909-1942)は第二の芥川の再来かと大いに期待された小説家ですが、33歳の若さで病死。
※画像は米国コンデナスト社発行の雑誌『The New Yorker』(1925.2.17~)の表紙を借用しました。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

スポンサーサイト

 生きていさえすればいい。太宰治の『ヴィヨンの妻』 

人非人にんぴにん」という言葉は、前から読んでも後ろから読んでも禁止ワードらしい。
変換キーを叩いても出てこなかった。(Microsoft IME)

類義語は、人でなし、無頼漢、下劣野郎、アウトロー、人間のクズ、人間失格。

ところが、そんな「人にあらずの人」でもいいと書いている作家がいる。



 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」


        ksi7q.jpg (ホーム社漫画文庫)



1947(昭和22)年に出された『ヴィヨンの妻』の中の女主人公が語るセリフだが、
戦後2年目の時期なので、とにかく生きることが大事だという意味だったのか。

 出会うべき人と出遭って、人は幸福になる(後編)。  

 
 世界中の皆さまのご多幸を願い、《幸い》な話の後編でございます。

          ______________

「熊さんよ、よく『上みて暮らすな、下みて暮らせ』と言われるが、下と比較す
れば幸せに感じるという心理は私たち凡人にはあるなあ。
 だが、宗教心があった宮澤賢治は、さすがにいいことを言っている。


  世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。

「なるほどねえ、でも、ご隠居。あっしは、とりあえず自分が幸せになりてえで
す」
「そうだな。『とりあえず』っていうのがいいな。自分を愛せる者が他の人を愛
せるのだから、自分ファーストは必ずしも悪いことではない。とりあえず、まず
は自分が幸せになり、そうして他の人も幸せになることも考えられたらいいなあ。
 芥川龍之介がこんな皮肉なことを言っているぞ。

  ある仕合せ者 彼は誰よりも単純だった 
――――『侏儒の言葉』


      nybiuh.jpg NEW YORKER

back to TOP