「バーソは自由に」

考え方はいろいろあるから面白い

 全能者は《自分が持ち上げられない石》を創れるか? 

(解答を一つ増やしました。最後の❼がそうです)

我々は神を罵殺する無数の理由を発見している。
が、不幸にも日本人は罵殺するのに価するほど、全能の神を信じていない。

          ―――――芥川龍之介『或阿呆の一生・侏儒の言葉』
               ※罵殺(ばさつ)とは、ひどくののしり、けなすこと。


聖書の神は、イスラムのアッラーと同じ神で、「全能の神」と呼ばれている。
英語は “Almighty God” だが、“God” を省いて “the Almighty” としても通じる。
なぜなら、神以外に全能者はいないと思われているからだ。


無神論者が「全能の神など存在しない」と言うときに持ち出す質問がある。

 全能者は《自分が持ち上げられない石》を創ることができるか?

これは「全能のパラドックス」として知られている。
すなわち、
 (1)そのような石を創れないなら、全能ではない。
 (2)創れるなら、持ち上げることができないので、やはり全能ではない。
 (3)したがって、「全能なる神など存在しない」と結論される。

この矛盾を解かないと教会や有神論者は立ち直れなくなるのと、知的遊戯として
も面白いので昔から解答がいろいろ考えられた。

   sije7.jpg
   Rene Magritte ”La chateau des Pyrenees“ 1959


❶全能者でも論理的な矛盾を犯すことはできない。

(1)全能者は本質的に全能であり、全能でない者にはなれない。(2)全能者であっ
ても論理的に不可能なことはできない
。また、そのようなことを要求されること
もない。(3)ゆえに、そのような石を創れなくても全能者でなくなることはない。
一休さんも「ならば、まず屏風の中から虎を追い出してください」と述べている。


❷全能性は、常に万能であることを要求されない。

(1)全能者は、全能性の一部を一時的に制限し、持ち上げられない不動な石を創れ
る。(2)しかし全能なので、後からいつでも、石を持ち上げられるようにすること
もできる。(3)つまり、全能者は自分の意思で、全能性の範囲を自由に制御できる
これは警察庁が、国賓の通行では赤信号を一時的に青に変更できることと同じだ。


❸全能者は、論理的に不可能なこともできる。

(1)全能者は論理的に不可能なこともできる。(2)全能だから、持ち上げられない
石を創ることができる。そして、(3)全能だから、その石を持ち上げることもでき
る。古代の中東の人ヨブは信仰により言った。「私は知った。あなた(神)はすべ
てが出来ることを、そして、どんな計画も成し遂げられることを」。ヨブ記42:2 


❹神の全能性を人間が定義するのは冒涜である。

人間が《全能者とは何々である》とか《全能者は何々できない》などと神の全能
性を定義するのは、全能者に対する冒涜であり、そんな疑問を考えることは悪だ

「全能者は、そんな不遜なことを言う人間のために地獄を創り給うた」(←冗談)


❺理論的に正解が出ても、実証的には神がどうするかは分からない。

論理的には人間があれこれ推論できても、実際に全能者がどうするかは人間の理
解と想像の範囲を超えているはずだ。全能者の意思を推論するのは意味がない
「神は地のはるか上に座し、地に住む人間をイナゴのごとく見る」イザヤ40:22


❻全能者は愛と自由意思により、そんな石は創らない。

(1)全能者は全能なので何でもできる。しかし、その前に全能者には《自由意思》
と《愛》があるはずだ。(2)創造者の意思は、常に被造物の益になるためにだけ働
く。(3)したがって、全能者は自分の全能性を証明するために、自身が持てない石
を創るような無意味なことはしない。創れないのではなく、創る意思がない
のだ。
この案は「全能のパラドックス」の問題に玄関払いを食らわせ、やや逃げている。

自由意思は人間が持つ最大の特権だが、人間の創造者は完璧な自由意思と行使権
を持っている。自由意思に大いなる智慧と力と愛を加えれば「全能者」と同義だ。


❼全能者は意識により「できること」も「できないこと」もできる。

(1)すべては《意識》から始まる。宇宙は《大いなる意識》である全能者により
創造された。全能者は、どんなことでも思うことができるので、人間が「持てな
い石」を考えられるのであれば、思えることは、なんでも現実化できる
。イエス
も「カラシの種ひと粒ほどの信仰でもあれば、山をも動かせる」(マタイ17:20)
と述べた。考えたことは現実化するのだが、人間の場合は疑うので、できない。

また、神は人間に代理体験をさせているとも考えられる。
(2)全能者には体がないので、苦しい楽しい、寒い暖かい、軽い重いなどの体験は
できない。そこで、全能者は自分の分身(或る宗教では人間を「神の子」と呼ぶ)
を創って、代理体験をさせることにした。創世の以前は神しか存在してないので、
全能者は自身(エネルギー)を材料にし、物質化(E=mc2)して、人間を創った。そ
れで神の分身である人間が体験することは、本家の神も共有できることになった。

(3)したがって、人間が重い石を持ち上げられない体験や、無念さの感情や、どの
ようにしたら持ち上がるかを考える面白さなどは、全能者も同様に味わっている。


                 


どうでしょう? 芥川龍之介が言った「神を罵殺する無数の理由」はさておいて、
全能者の存在を否定する論理的根拠は強力でしょうか。




※❶から❺はWikipediaを参照。この問題は難しいですね。もっと良い解答をお待ちしています。
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 善悪の見分け方は愛。それは与えるものか、奪うものか。 

(新テーマ:時事的スピリチュアル)

本能の生活には道徳はない。従つて努力はない。この生活は必至的に自由な生活である。必至には二つの道はない。二つの道のない所には善悪の選択はない。故にそれは道徳を超越する。
       ―――――有島武郎『惜みなく愛は奪ふ』1917(大正6年)


「ご隠居、この話、『本能の生活は』と始まって、結論は『道徳を超越する』っ
て流れが解せねえです」
熊さん、ここの三段論法は面白いぞ。『本能の生活』は道徳も努力もないので、
『自由な生活』になるのは『必至的』だ、すなわち《必ずそうなる》と前提して、
必ずそうなるなら、二つの道はない。二つの道がないなら、善と悪の選択はない。
善悪を選択しないなら、道徳を超越する、という理屈だ。しかし熊さんは、熊と
言っても獣じゃないんだから、必ず善のほうを選択しなさいよ」
「イエッサー」
「お、サーが付いたか」
「あはは、でも動物とは違って、われらヒューマンたるゆえんは、善と悪を区別
して道徳を守るところですよね」
「そうだ。ただ、善悪の判断は難しいがな」
「ご隠居、あの大統領が最近『一度の合意で、過去の問題を終わらせることはで
きない
』って言いましたよね。日本は、もっと過去の戦争問題と正面から向き合
わないと、《悪》になるんですかね」


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 世界は人のために存在しているのか。アンスティル・ライフ。 

 ※池澤夏樹『スティル・ライフ』(第98回芥川賞受賞)の冒頭文を見たら、啓発を受けまして、
 無謀にもその続きを書きたくなりました。小説本文からの引用部分は青色字にしています。


 世界がきみのために存在すると思ってはいけない。
 世界はきみを入れる容器ではない。
 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、
それぞれまっすぐに立っている。
 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜ん
でいる。世界のほうはあまりきみのことを考えてはいないかもしれない。



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 世界はきみのことを考えていないといわれると、がっかりするかもしれない。
でも、この意味は、世界はきみの人生には干渉も仲裁もしないということで、つ
まりは、世界はきみが自由意思と自分の力により生きることを期待しているのだ。

 しかし世界はきみを愛している。このことは信じていいし、信じたほうが少な
くとも毎日を過ごすのがずっと楽になる。

 ただし世界は自分だけを特別にひいきにしてくれる、と期待してはいけない。
 期待とは、あることが実現するだろうと心待ちにすることだが、それは運任せ
とか神頼みといった、能動性と生産性のない迷信や盲信を育て、生き方の自由と
発展性を妨げる。


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